風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

『赤色エレジー』はなぜ赤色なのか?(1)

2005-07-23 01:43:44 | まぼろしの街/ゆめの街
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『赤色エレジー』を『ガロ』に連載した林静一は1967年11月号掲載の『アグマと息子と食えない魂』でマンガ家としてデビューした(林静一22歳)。林はアニメ界の中でもエリートだった東映動画に席をおき、アニメーション・フェスティバルにも意欲的な作品を出品する実験的なアニメーターとして知られていた。林のイラストレーターとしての原点も、マンガ家としてのルーツもこの実験的なアニメ作品にあるだろう。
草月ホールで久里洋二や、ノーマン・マクラレー(カナダ出身のフロッタージュ映像作品を得意とした)のフラッシュするような実験アニメにまじって林のアニメ作品を見たような記憶がある。

とはいえ、林静一は60年代後半の『ガロ』誌を、つげ義春、佐々木マキとともに支えた三人だった。もちろん、勝又進のナンセンスマンガも、楠木勝平も『ガロ』には欠かせなかったが、既成のマンガの概念をひっくり返すようなマンガ作品をみせてくれる訳ではなかった。
この三人の作家に池上僚一を加えて、毎月の月刊『ガロ』の発行をこころ待ちにしていた。なにしろ自分自身がマンガ家志望だったから、マンガの仲間たちと喧々諤々の「マンガ論」を戦わせていた。同時に、ボクらは「革命」をも語っていた。それらの、討論は深夜ジャズ喫茶に持ち込まれたりもしたものだった。そう、そこではこれらの話題にセロニアス・モンクやドルフィや、オーネットや、コルトレーンが加わるのだ。

ちなみに70年代になると『ガロ』ではあらたな三人組が活躍するのだが、それはいまは名前をあげるだけにとどまろう。安部慎一、鈴木翁二、古川益三である。

ところで、アニメーターの一郎とセルのトレスをしている幸子が主人公の『赤色エレジー』の「赤色」とは一体なんなのだろう(『赤色エレジー』は小学館文庫で、現在も読むことが出来ます)。この作品が描かれてから、35年の時が流れているのだが(!)、『赤色エレジー』はなぜ赤色なのかと言う疑問が提出されたことはあったのだろうか?
もし、この設問が初めての事だとしてもボクの出した結論は驚くべきほどのものではない。

実は、林静一には「赤」がからむ作品が8つもある。
1968年6月号の『赤とんぼ』にはじまって、『まっかっかロック』(69.07)『赤地点』(69.08)『赤い鳥小鳥』(69.09)『赤いハンカチ』(69.11)『赤色エレジー』(1970.01~71.01)これに『桜色の心』(71.08)まで含めると7作品。そしてイラスト画集の『紅犯花』(1970年北冬書房)である。赤は血の色、初潮の色ということもあるだろう。それに、墨汁のスミの色はモノクロ印刷であろうとも、赤い色を感じることが出来る。たいがい血潮の色はマンガでは、スミで表わされてきた。
だが、こと『赤色エレジー』に関しては、『赤とんぼ』からはじまった日本的情念とか少女の生理といった表現とは無縁の作品である。
では、この「赤色」とは何なのか?
(つづく)


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