![Air_doll_inbed Air_doll_inbed](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/65/bce376032ccafbc0eec6a244214826a3.jpg)
その点、ギャグマンガというジャンルは編集者自身がシュールな、それこそ訳の分からないものも認知するという希有な幸運を持ったジャンルだ。このような不条理な条件の中で、生まれでた傑作のひとつが、『ゴーダ哲学堂』だといえるだろう。それも、数ある漫画出版社の中で原稿料も破格に高い小学館で描かれた作品なのだ。
その短編の中には、ロボトミーや、ロボットそのものも描かれる。「悲劇排除システム」という同題で、三編の作品があるが、「金」「老い」「怒り」と言ったものがテーマになり、皮相な表面的な笑いがTVから垂れ流されることによって隠され、果てはロボトミーで抑圧されるといった痛烈な批判精神で描かれた作品である。他に家族そのものが、そして会社へ行く人間がロボットによって代用されてゆく近未来を描いた「役割ロボ」、自らの存在までコストをはじき出して買い替えることを勧める家事ロボットモーリーを描いた「損得ロボ」など皮相で、背筋が凍るようなストーリーもある。
全体的には多様なテーマとシチュエーションがあるにせよ「代用品」は可能か? というのが、ゴーダ哲学の精髄なのではないだろうか?
それこそ、人間の代用品、究極には原子そしてその中の素粒子で出来上がったすべての「存在」の代用品は、それぞれ置き換えは可能か? それとも不可能なのか? それはまた、何故?
(つづく)
(写真)「私は空気人形。性欲処理の代用品。」(映画『空気人形』より)
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