![Airdoll_comic Airdoll_comic](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/24/7b82c2db0f6d0d98df8511dac298698a.jpg)
「私は、持ってはいけない「心」を持ってしまったのだ」。
こころを持ってしまったラブドール――それは古くて新しいテーマだ。こころを持ってしまった操り人形の話は誰でも知っている。「ピノキオ」だ。そう、ラブドール「空気人形」は、現代の都会の片隅に人目を避けて存在する「ピノキオ」なのだ。いや都会とは限らない。その日本製の開発秘話には南極越冬隊の愛玩物、代用妻(ダッチワイフ)として開発されたらしいというものがある。つまり、「昭和基地」にまで、彼女は派遣されているのだ。「南極1号」「南極2号」というのが、その身もふたもない命名だったようだ。
映画の中で、ボクが神話的なシーンと名付けたあのビデオショップの店員が、空気の抜けた「空気人形」のヘソに直接口をつけて膨らませる場面は、原作からもっとも「映画的だ」とインスパイアーされたと監督自身がパンフレットの中で語っている。
自分が好感を持つ店員の「息」に満たされて「空気人形」は、「心を持つことはせつないこと」だと知る。
意思を持った古木から彫り出されたピノキオは、おじいさんの真の息子になるために数々の試練を乗り越える。試練と教育がピノキオを人間的にするのだが、こころを持った「空気人形」は、映画では疎まれ、原作では破れた肌のためにハリを失って持ち主に「燃えないゴミ」として捨てられる。代用品の代用である、もうひとつのラブドールが、その「空気人形」の役割を奪い取る。
ゴミの集積場でゴミ袋の中から、「空気人形」は青空を美しいと感じる。それは「私が心を持っているから」。
たかだか20ページの小品は、映画化されることによってインターナショナルなものになった。だからと言って『ゴーダ哲学堂』が翻訳出版されたという話は聞かない。「ピノキオ」が世界中に流布したようには(カルロ・コッローディ作『ピノッキオの冒険』1883年。それはイタリアでおおよそ百年前に生まれた児童文学だが、翻訳された絵本やディズニーのアニメで世界中に知られるものとなった)「ゴーダ哲学」は世界のものにはなっていないのだ。
(次回完結)
(図版)コミック版「空気人形」より。
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