風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

「空気人形」はゴーダ版のピノキオだ(3)

2009-12-24 00:29:38 | アート・文化
Airdoll_comic 置き換え可能性は、性欲処理の代用品であるラブドール(ダッチワイフ)においては、より顕著なものとなる。「空気人形」は、この『ゴーダ哲学堂』シリーズの中でも飛び抜けて美しいシーンから始まる。アパートの部屋の中で「空気人形」が、自分でエアポンプを操作しながら「毎日、自分をふくらませている」シーンだ。是枝裕和監督の映画でも中盤に、ペ・ドゥナがその美しい裸身をみせて踏襲した横座りのヌード・シーンだ。「少しずつ空気が抜けていくから、」「毎日、自分をふくらませている」。「空気人形」は外を歩くたびに、野辺の花や、青空、犬の親子にいちいち感動する。
 「私は、持ってはいけない「心」を持ってしまったのだ」。

 こころを持ってしまったラブドール――それは古くて新しいテーマだ。こころを持ってしまった操り人形の話は誰でも知っている。「ピノキオ」だ。そう、ラブドール「空気人形」は、現代の都会の片隅に人目を避けて存在する「ピノキオ」なのだ。いや都会とは限らない。その日本製の開発秘話には南極越冬隊の愛玩物、代用妻(ダッチワイフ)として開発されたらしいというものがある。つまり、「昭和基地」にまで、彼女は派遣されているのだ。「南極1号」「南極2号」というのが、その身もふたもない命名だったようだ。

 映画の中で、ボクが神話的なシーンと名付けたあのビデオショップの店員が、空気の抜けた「空気人形」のヘソに直接口をつけて膨らませる場面は、原作からもっとも「映画的だ」とインスパイアーされたと監督自身がパンフレットの中で語っている。
 自分が好感を持つ店員の「息」に満たされて「空気人形」は、「心を持つことはせつないこと」だと知る。
 意思を持った古木から彫り出されたピノキオは、おじいさんの真の息子になるために数々の試練を乗り越える。試練と教育がピノキオを人間的にするのだが、こころを持った「空気人形」は、映画では疎まれ、原作では破れた肌のためにハリを失って持ち主に「燃えないゴミ」として捨てられる。代用品の代用である、もうひとつのラブドールが、その「空気人形」の役割を奪い取る。
 ゴミの集積場でゴミ袋の中から、「空気人形」は青空を美しいと感じる。それは「私が心を持っているから」。

 たかだか20ページの小品は、映画化されることによってインターナショナルなものになった。だからと言って『ゴーダ哲学堂』が翻訳出版されたという話は聞かない。「ピノキオ」が世界中に流布したようには(カルロ・コッローディ作『ピノッキオの冒険』1883年。それはイタリアでおおよそ百年前に生まれた児童文学だが、翻訳された絵本やディズニーのアニメで世界中に知られるものとなった)「ゴーダ哲学」は世界のものにはなっていないのだ。
(次回完結)

(図版)コミック版「空気人形」より。



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