70年代中頃の夏だったか、暑さにうだりながら狭い部屋でボクは汗をかいて眠っていた。目の前には、やはり汗で濡れたおんなの裸の背中があった。狭い部屋で壊れかけた1台の扇風機が、うなりをあげて回っていた。
貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。
そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。
玉川上水沿いに 歩くと
君の 小さなアパートがあった
夏には 窓に 竹の葉がゆれて
太宰の 好きな君は 睡眠薬 飲んだ
暑い 陽だまりの中 君はいつまでも
汗をかいて 眠った
(「まぶしい夏」)
その歌い手は性別不明の名前を名乗っていた。「童子」ドウジそれともワラベあるいはドウコと読ませるのか不明だった。そのファースト・アルバムを手に入れて見ると、真っ暗なジャケット写真の中で、丸い黒のサングラスをかけたまま端正な顔だちは隠せず、口元は軽くあいていた。モジャモジャの髪型(のちにカーリーヘアとなる)は、いまにも顔を覆い隠しそうだったし、その歌手が傷つきやすいナイーブなこころと感性をもったシャイで照れ屋の性格をもつ人物のように思えた。さらに、そのファースト・アルバムの歌詞カードは黒のラシャ紙に、銀色のインクで9ポイントくらいの小さな活字で印字されたものだった。それも、今となってはなつかしい邦文タイプを使って印字したものだ。
抜けの悪い、ところどころ活字が潰れたそのタイプ文字の書体は、画数の多い活字は判読できないほどだった(たとえば、タイトルのB面4曲めの「驟雨」は、「にわかあめ」とその1ケ所だけ同じポイントのルビが振ってあり、それでかろうじて読めるのだった)。
さらに、奇妙なことにジャケットの裏面もまた「第五福竜丸」だと思われる写真パネルを似たような草原で掲げ持つ歌い手の写真で埋められている(カメラマンは高梨豊。高梨は以後ずっとこの歌手を追い掛ける。ちなみに高梨もまた新宿「風月堂」に出入りしていたカメラマンである)。
歌い手はその名を森田童子(もりたどうじ)といった。ボクらの世代には子どもの頃に見た東映映画の『笛吹き童子』や『白馬童子』が忘れられない。それらは、勧善懲悪のヒーロー時代劇だったが、どのような「童子」が登場してももはや70年代の大衆は、笛吹けど踊らずの状況であったのは目に見えていた。そのうえ、そのファーストつまりデビュー・アルバムは太宰治のセリフのように「それでは どなたさまも グッド・バイ!」と告げるかのように『グッドバイ』と名付けられていた。森田童子は「別離」を告げながらボクらの前に鮮烈に登場した。その引き際がどんなものになるかは、ボクらには最初から予想ができたはずだ。
(つづく)
貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。
そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。
玉川上水沿いに 歩くと
君の 小さなアパートがあった
夏には 窓に 竹の葉がゆれて
太宰の 好きな君は 睡眠薬 飲んだ
暑い 陽だまりの中 君はいつまでも
汗をかいて 眠った
(「まぶしい夏」)
その歌い手は性別不明の名前を名乗っていた。「童子」ドウジそれともワラベあるいはドウコと読ませるのか不明だった。そのファースト・アルバムを手に入れて見ると、真っ暗なジャケット写真の中で、丸い黒のサングラスをかけたまま端正な顔だちは隠せず、口元は軽くあいていた。モジャモジャの髪型(のちにカーリーヘアとなる)は、いまにも顔を覆い隠しそうだったし、その歌手が傷つきやすいナイーブなこころと感性をもったシャイで照れ屋の性格をもつ人物のように思えた。さらに、そのファースト・アルバムの歌詞カードは黒のラシャ紙に、銀色のインクで9ポイントくらいの小さな活字で印字されたものだった。それも、今となってはなつかしい邦文タイプを使って印字したものだ。
抜けの悪い、ところどころ活字が潰れたそのタイプ文字の書体は、画数の多い活字は判読できないほどだった(たとえば、タイトルのB面4曲めの「驟雨」は、「にわかあめ」とその1ケ所だけ同じポイントのルビが振ってあり、それでかろうじて読めるのだった)。
さらに、奇妙なことにジャケットの裏面もまた「第五福竜丸」だと思われる写真パネルを似たような草原で掲げ持つ歌い手の写真で埋められている(カメラマンは高梨豊。高梨は以後ずっとこの歌手を追い掛ける。ちなみに高梨もまた新宿「風月堂」に出入りしていたカメラマンである)。
歌い手はその名を森田童子(もりたどうじ)といった。ボクらの世代には子どもの頃に見た東映映画の『笛吹き童子』や『白馬童子』が忘れられない。それらは、勧善懲悪のヒーロー時代劇だったが、どのような「童子」が登場してももはや70年代の大衆は、笛吹けど踊らずの状況であったのは目に見えていた。そのうえ、そのファーストつまりデビュー・アルバムは太宰治のセリフのように「それでは どなたさまも グッド・バイ!」と告げるかのように『グッドバイ』と名付けられていた。森田童子は「別離」を告げながらボクらの前に鮮烈に登場した。その引き際がどんなものになるかは、ボクらには最初から予想ができたはずだ。
(つづく)
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