風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

『フラガール』とエイト・ピーチェス(2)

2010-02-23 01:56:43 | アート・文化
8_peachs1963 かって『エイト・ピーチェス・ショウ』という深夜番組があって、お色気たっぷりのダンスを披露していた。『11PM』などの深夜お色気番組のはしりだったんじゃないかと思われる番組だ。衣装はアラビア風あり、リオのカーニバル風あり、レビュー風ありでまだビキニなんて水着を誰も着ていない頃だったからそれはそれは刺激的だった。それも、実は下には肉襦袢のような肌色のうすものをまとっているから決して裸ではないのだが、大人の男が鼻の下をのばして鑑賞するようなエロチックな踊りだった。
 それは、現在から見たら可愛いものだ。フィギアスケートの安藤美姫選手の「クレオパトラ」の衣装に萌えるようなものだからだ。しかし、それは「60年代の『性革命』」そしてそれに引き続くポルノグラフィの半ば解禁状態を積み重ねて来たから言えることであって、当時(昭和30年代の半ば)から見れば、充分に刺激的で、「良識ある団体」から攻撃されかねないような番組だったかもしれない。
 「悪書追放」といった「教育上」の配慮にもとづいた女性を中心にした市民運動や、消費者運動の萌芽が生まれた頃で(その背景として60年安保も何ほどかの力をおよぼしたのかどうかは分かりかねる)、「歌声運動」と言うものもあった。悪書追放の槍玉に「貸本漫画(劇画)」や、モデルガン屋がターゲットになったこともあった。
 さて、そのような深夜番組をコタツの中で腹這いになって見ていたボクの下半身はいつのまにか勃起し、きつく畳に腰を押し付けていたボクは下着を汚してしまったのである。

 断っておくが、エイト・ピーチェスのダンスはストリップティーズではないし、ミュージックホールのような大人向けのものではない。女子供が見ても美しく感じるだろうレビュー系のダンスだ。しかし、小学校高学年か中学生くらいだったボクには、エイト・ピーチェスは大人の女性の身体がどのようなものなのかと言うその入り口を開いてくれたのだ。ボクはおそらく思春期前期にいたのだろう。それに、当時のテレビジョン受像機はモノクロ(白黒)で走査線も荒く、解像度は悪い。肌色のシャツを下に着ていたとしても、裸体に見えたものだ。

(つづく)

(写真)1963年当時のエイト・ピーチェス(『漫画読本』グラビアより)



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4 コメント

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貴兄! (Bryan)
2010-02-23 02:22:16
貴兄!

このJPG「オトナ遊び勉強会」
で使わせて頂きます。

難ありの場合はコメント下さい。

Bryan
返信する
Bryanさん!この写真を貼る「オトナ遊び勉強会」の... (フーゲツのJUN)
2010-02-23 14:18:26
Bryanさん!この写真を貼る「オトナ遊び勉強会」のリンク先URLを書いておいてください。よろしく。
返信する
なるほど。 (カイジロー)
2010-02-23 20:28:38
なるほど。
私がまだおしゃぶりをくわえていたころの話ですね。

それを考えると、ジュンさんは都会っ子なんだ。
常磐炭坑にはじめてテレビがやってきたのは私が杉の子幼稚園の演劇で浦島太郎をやってた頃です。
田舎だから街頭テレビなどあるはずもなく、いわゆる山師、一山あてて鯱付きのお城に住んでいた成金の家に、じーさんに手を引かれて相撲を見にいった記憶があります。

昭和39年の東京オリンピックの時でさえ、裕福だったハズの我が家でさえまだテレビはありませんでした。オリンピックは小学校でテレビの前に正座して見ました。

エイトピーチェスには関係ありませんが、ジョーバンに関してひとつ情報を提供しましょう。
常磐炭坑は関東平野の北の分水嶺、阿武隈山脈の東斜面に位置するのですが、その山塊の先端が海にぶつかっているんです。
そこの地名を勿来(なこそ)と言います。
意味は来(こ)す勿(な)かれ。

つまり古くは東国と蝦夷の国境だったわけです。
五浦(いつうら)と言って岡倉天心が黒鯛を釣っていたのがその場所です。
からす~何故鳴くの~♪
「七つの子」の野口雨情が生まれたのもこの場所です。

辺境の地です。
しかも筆舌に尽くし難い没落の時代でした。

嗚呼!
思い出したくもない記憶も含めて、いろいろ思い出してしまいましたよ。

もうひとつ。
あの辺りでは、紫色の菊の花を酢漬けにして食らいます。
なんと言うかご存知ですか?

「もってのほか」

です。
菊のご紋はとある家系の紋章ですからね。
もってのほか!
そう言いながら飢えを凌ぐために菊の花まで食らったのです。米を食いつぶし米で出来てる動く米・いなごなんぞはもちろんのこと。

高度経済成長という美名の下、ゴミクズのように打ち捨てられた炭坑町で私は育ちました。
ご無礼の程、お許しください。

鶴嘴を肩に担いだトヨエツがピラピラしたベベ着た東京もんを橋の袂で待ち構えるシーン。ワケもなく号泣しましたね(笑)
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そう九州にいて引っ越しを繰り返していた頃も、い... (フーゲツのJUN)
2010-02-24 10:34:58
そう九州にいて引っ越しを繰り返していた頃も、いつもボクは都会から来たお坊ちゃん扱いされていた。実際、着ている服もしゃれていて熊本の田舎の子たちには、「風の又三郎」のように見えたらしい。東京に流れ着いても、グラフィックデザイナーの叔父の所とか、モダンな雰囲気を知っていてなおかつ絵のうまかったボクは同級生に全然まけていなかった。どころか、まさっていたかもしれない。負けていたのは、勉学と片親だったことだろうか。東京に来たばかりの頃、ある家庭の母親に同情されて、よくご飯を食べに行っていた。また、その娘は同級生だったのだが、深窓のお嬢様でクラス一可愛い子だった。
この子と結婚したらどうなるんだろう?と。もう小学校3年生の頃から夢想ばかりする男の子でした。

だから、ボクの知っている炭坑は50年代のそれ。それも、生活ではなく風景としての炭坑です(長崎にもご存知の軍艦島をはじめ島に炭坑がありました)。
常磐炭坑や夕張炭坑のように、高度成長期に入って斜陽化する以前の風景ですね。
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