風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

私生児ヴィオレット——不幸な文学

2016-02-09 23:36:04 | シネマに溺れる
作者の名はヴィオレット・ルデュック。そうか、それが翻訳刊行されたのは1966年だと言う。
同じ頃、『エマニエル』(そう、ソフトポルノ映画と言うふれこみで女性も見に行った『エマニエル夫人』の原作)とともに二見書房から翻訳出版された。当時、その激しい告白体の文章からポルノグラフィと同じような扱いをされていたのではなかったか?
AMAZONにも古書として存在しない。古書店検索にもひっかからない。読みたくとも読み様がない。図書館にあるだろうか?

だが、ボクは書庫を探せばあるはずだ。つまり、かって半分ほどは読んだのだ。そう、ポルノを読むつもりで!
しかし、その小説はある意味、痛い物語だったのだ。ボクは途中で放り出してしまった。

いま(今週金曜日2月12日まで)、岩波ホールでそのルデュックの半生を描いた映画が公開されている。
『ヴィオレット』(マルタン・プロヴォ監督2013年フランス)である。痛さは、映像的には醜悪と言う表現になるのかも知れない。主人公もそれをとりまく登場人物も、嘔吐したいほど醜悪だ。それが、映像表現として成功したのかどうかは分からない。だが、登場人物たちが醜悪であればあるほど、ヴィオレットが歩くプロヴァンスの森や、山は美しい。

登場人物はほぼ実名である(と思われる)。ジャン・ジュネやサルトルが出てくる。ヴィオレットはその才能をボーヴォワールに見出され、サルトルやジュネの賞賛を受ける。
作家たちは自分の人生よりも、醜悪で悲劇的な人生を見出しては賞賛する!もっと書け!もっとさらけ出せ!あらいざらい吐き出せと!
そして、それらの「作品」は、ガリマール書店から出版され、ヴィオレットはなにがしかの金を手にする。
ヴィオレットは、すべてをさらけ出したあと1972年に「作家」として65歳で死んだ。
さて、ボクは『ヴィオレット』とは誰のことをいっているのかと言う興味で、なんでも見る映画ファンのひとりとして劇場に足を運んだ。そして、映画がすすむにつれなにもかも思い出したのだ。
ボクの頭の中に「ルデュック」として刻まれていた。ひとりの告白体の醜悪な、そしてその存在が「私生児」だった、ひとりの女性作家を…。
そして、その頃、そう翻訳出版されてなにがしかの話題になっていた頃、ボクらも「私生児」だったことを…。
映画の中で、ボーヴォワールはこう賛辞した。
「文学が、もっとも美しく救済したひとつの例示なのよ!」
それは本当だったのか?それは不幸の別名ではなかったのか?
『私生児』に、実際ボーヴォワールは序文を寄せている。
「他者との関係に失敗したものは、この特権的な形式を持つ伝達形式——すなわち、ひとつの文学作品に到達したのである」
そう、それは「不幸」の別名だったのだ。(文責:JUN)
http://www.moviola.jp/violette/
私生児 (1966年)


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