風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

レオノール・フィニと猫とスフィンクスと(3)

2005-08-03 00:37:11 | アート・文化
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今回の「レオノール・フィニ展」は1996年に亡くなったフィニの没後はじめて日本でおこなわれる展覧会である(日本では通算三回目になる)。で、会場に二ケ所もうけられた映像資料のコーナーでの上映は「ポートレート・ポエム」というものと「レオノール・フィニの家」であった。

「ポートレート・ポエム」はコルシカ島の古い修道院跡をフィニが買い取り、夏の別荘としていたところだ。そこで毎夜のごとく繰り広げられた仮装晩餐会をうつしたフィルムである。そこには、思い思いの扮装をした友人たちにかこまれて女王のようにふるまうフィニの姿が記録されてある(もちろん、コクトーの映像を彷佛とさせる構成作品であります)。

もう一本は晩年のパリのフィニのアトリエ兼住宅を入り口から映した作品「レオノール・フィニの家」である。晩年、フィニはこの家で猫に囲まれて生活していた。フィルムには、フィニは登場しないからおそらくフィニの没後、撮影されたものかもしれない。なめるように、三階のベランダまで移動撮影していくその先には、歓迎するように待ち伏せするかのように、ときには置き物と化したたくさんの猫たちが写されている。一様に毛足の長い猫たちで、まるでその家の主のようにカメラを待ち構えている。本当の主のいないその家で、カメラはレオノール・フィニを撮影するように17匹の猫たちを映し出す(数えてみたのだ)。

おそらく、晩年のフィニはその孤独を慰めるために(その数年前に26年もともに暮らしてきたひとをフィニは亡くして失意の中にあったらしい)17匹の猫と同居したのだろうが、この猫たちはフィニにとっての永遠の「謎」を投げかけるもの、そしてそこに充足したあのスフィンクスだったのではないだろうか?

そう思って見返してみると、猫はレオノール・フィニに終始まつわりついている。というより、フィニの描く女性たちのことごとくが、まるで猫が変身したもののように見えてくる。フィニの世界はいわば、レオノール・フィニ的な「猫街」なのかもしれない。

とりわけ不思議なのが、初期作品「移り行く日々2」(1938)というタブローの中に描かれた奇妙な生物だ。それは、画面の右端の壇上で「猫」か、獅子の着ぐるみのようなものをすっぽりとかぶってじっとしている。すべての人物が不在で、「2」でおんなたちがいる場所に鳥の羽が散乱している「移り行く日々1」から考察すると、この真ん中にいるアラビア風の扮装をしたハーレムのおんなたちは鳥の化身で、この右端の壇上にいる着ぐるみの猫もしくは獅子に襲われて羽もぎられ、食べられたのかもしれない。時間軸が「2」から「1」へフィードバックすることになるから確信はないが、それにしてもこの着ぐるみをすっぽりとかぶったような奇妙な生き物は何なのだろう?

おそらく、この不思議な生き物は女性画家レオノール・フィニそのものであり、そしてこれは「猫」そして「スフィンクス」であるものなのであろう。
フィニは、スフィンクスを女性原理を保持した自分自身そのものとして描いたのかも知れない。

未読だが、フィニが書いた幻想小説『夢先案内猫』(1978)は、猫が謎かけをするどころか、夢への導き人となって登場するものであるらしい。それは、まるで、レオノール・フィニが絵画というフィニ自身の「猫街」、夢の世界に案内するものかのように思えてしまう。(完)

(「レオノール・フィニ展」は、このあと8/31~9/11大阪梅田大丸ミュージアム、9/23~11/3群馬県立美術館、11/11~12/25名古屋市美術館に巡回するそうです)

(写真は「移り行く日々2」1938)


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