風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

チェルノブイリ20年目の夜に(2)

2006-04-30 23:55:31 | 今日はナンの日?
4_26_night_4渋谷はNHKホールの目の前に、「アースディ・カフェ」として設けられた特設テントで開かれた。メインは、知識人、平和運動家の座談である。ボブ内田のソロ「チェルノブイリ」と、ナナオの2編の詩「ええじゃないか、ええじゃないか」と「星を食べようよ」だけが、表現だった(写真_2)。
渋谷の会場は仮設テントで、夜ともなればさすがに寒かった。

ひとりそのひととなりをポツポツと語ってボクの印象に残ったのは写真家でもあり映画監督(「ナージャの村」「アレクセイと泉」など)でもある本橋成一さんだった。黒澤明のことばを引いて「人間なんてたいしたことはない」と語り出したのである。もうはるか昔のことで、一時は流行語にもなった羽田沖に墜落した航空機の機長の「逆噴射」なんて、懐かしいことばまで飛び出して笑わせてくれる。
ボクもそう思う。人間は間違いも起こす、ミスも犯す。そんなたいしたことのない私たち人間に「神の火」とも言うべき原子力や、「地獄の業火」とも言うべきプルトニウムを自在に扱えると考え、さらには「絶対安全です!」と言い放つ、そのことでさえ傲慢で不遜なことなのではないか? と、思うのである。

「人間大」の「等身大」の技術??それだけが、「たいしたことのない」わたしたち人間もしくは人類が扱うことが許されているテクノロジーなのではないだろうか?
この日の、トークのスピーカーのひとりが、その著書で臆面もなくパクったことばを、もとに戻すなら「スモール・イズ・ビューティフル」(シューマッハー)なのだ。小さいことは美しい! つまり巨大テクノロジーに対抗する人間大のテクノロジーこそが、ひとにも環境にも優しいものなのだ。
この意味でも、原子力でお釜のお湯を沸かしてタービンをまわすだけの、エネルギー効率の低い原発による発電方式や、核燃料処理によるプルサーマルなんてツケを未来や子どもたちに残すだけのとんでもない超巨大技術である。

原宿を経由して、もうひとつの「NoNukes_4.26」の開かれている「LOFT PLUS ONE」へ向かう(主催はともにアースガーデン)。

空腹で駆けつけた会場は、渋谷とは全く違っていた。おりしも天空オーケストラの岡野さんが歌っており、会場がそのネイティブ・アメリカン的な掛け声とともにひとつになっている。続いてボブが歌う。渋谷ではソロで歌った同じ「チェルノブイリ」をチナキャッツやケンゴや岡野さんをまじえたスーパーセッションバンドである。バックでハモるおハルのコーラスが心地よい。
なんだか、優しさに包まれたみたいでホッとした。こごえた気持ちも会場の熱で溶解するかのようだ。うん、少なくとも渋谷からのパネラーたちがそこに駆けつけてくるまでは……(笑)。

なんだか、うむを言わさぬ勢いで広瀬隆氏のレクチャーがはじまった。皆が飽きたらその場で止めますということだったが、さすが講演なれしていてその話はきっちり1時間かかった。終わったのは深夜零時だった!
話の概要は、ほぼ「危険な話」の第2章からの展開に見合ってものである。
御本人も言っていたが、いわば入門編が話された訳だ。

そのあとキャンドルに浮かび上がって眼鏡をはずしたナナオが登場した。ナナオは渋谷よりは、はるかにリラックスしていたが(「LOFT PLUS ONE」には幾度も出演して場慣れもあったのだろう)読まれた詩は渋谷と同じものだった。

おおえさんやクマさんなどの懐かしい顔を確認してボクはそこまでで会場をあとにした。朝までの展開は(こちらはオールナイトだったのだ)、残念なことに目撃する訳にはいかなかった。チナキャツや花&フェノミナンなどのバンドがあとにひかえていたというのに……。

最後に、このことばを書き留めておきたい。チェルノブイリの意味をこれほど語ってくれることばを他には知らない。最悪のチェルノブイリ原発事故から20年めの夜に、静かに噛みしめながらおののきながらこぶしを握る。
ボクらは「核の時代」の第何章を生きているというのだろうか?
ヒロシマ・ナガサキの以前にもう戻れないように、ボクらはポスト・チェルノブイリの子どもたちなのだ!

「とどのつまり、現状では私たちはみな、これからもチェルノブイリのすぐ「隣り」に住んでゆくということだ。」(R・P・ゲイル+T・ハウザー「チェルノブイリ」岩波新書1988)

(写真_4)新宿「LOFT PLUS ONE」で、キャンドルに照らされ朗読するナナオ。




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