5日の新聞だったと思うが、ある詩人にして評論家のささやかな訃報記事が掲載されていた。
松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。
30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。
とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。
松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。
さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。
御冥福をお祈りします。合掌。
松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。
30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。
とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。
松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。
さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。
御冥福をお祈りします。合掌。
>そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
>あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
離れて初めて見える目というものも、確かにありますね。
著書もきちんと読んでみたいです。
どこでだったか、松永伍一の仕事は「失われたものへのレクイエム」という評を読んだことがありますが、そうとも言えるかも知れませんが、ボクは底辺のひとびとへ注ぐその優しい視線が、けっして知識人の高みからでなく共感にもとづいた農民的な詩人だったと思うのです。
「子守唄」は「守子の唄」というのが、たしか「五木の子守唄」などの共感から導きだした松永伍一の発見だったのではないでしょうか?
日本人が近代化の中で、捨てさってきたもの、忘れてきたものを、「故郷」もしくは「原郷」として再評価する??そこには、農民詩人としての伍一さんの優しい眼差し(視点)が躍如しています。
私も何だか温かい気持ちになりました。
JUNさん ありがとう。
3月は私にとって気持ちが
激しく動く月。
うれしくも悲しくもなったり。
私の心の持ちようのことなので
ぶれない心になる修行をしているところでございますw^^
そうですね。母の思い出にも触れる記事を書くのは初めてかも知れません。
3月下旬あたりには、天徳寺の母の樹木ヒメコブシも咲き出すでしょう。
ボクにとっても、老いを意識し出す月でございました。
cureaさんも、こころを強く持って下さいね。