分類・歴
唄で覚えた鹿島の地名
鹿島村(現・いわき市鹿島町)は、明治22年4月1日に近隣12村が合併して誕生したものだが、それ以前に遡ること時代は元禄(1688~1704)頃に、大津絵(追分絵ともいう)が売り出されて人気を得、江戸末期には全国各地でその地の名所名物を読み込んで替え歌が作られ、大津絵節と共に広がった。
特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていった。
《大津の追分辺りで売り出されたのが始まりとされる大津絵》
鹿島村でも明治の頃に、地名や名所旧跡を織り込んだもので大津絵の旋律(メロデー)に合わせた唄が作られている。
軍次山(くうじやま)から 熊が出て
矢田らに走る 走熊
名所七本松 後にして
久保見てと通れば 金光寺
船も着かぬに 船戸という
それより御代の 大仏様拝みつつ
御代坂越えれば 岡小名で
向こうに見ゆる 遍照院
大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院
夕暮れに 小名浜を立ち退いて
水押し上(うわ)って 後にして
東の法華寺 拝みつつ
西の山田湯場 横に見て
御代坂登って大仏様遥拝し
それより船戸 岩薬師拝みつつ
久保の里屋橋 通り抜け
名所七本松 後にして
走熊へと さしかかる
次は 下矢田 上矢田で
郷社鹿島神社に参拝し
それより進めば 軍次山
越せば 上荒川と谷川瀬で
平町 日光町に着きますよ
三沢の里へも 一度はおいで
名所古跡もありますよ
磐城七門一の向かいに
三沢の館あとあり
その上に 八幡公の陣とりし跡に
八幡神社の祭りあり
それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
この作を 霊墓(おきはか)作という
その上に 母の小屋掛けせし山を
小屋の山という
その下に 母の祈願所 薬師堂
それより奥を 花見平という
昔 平の城主 安藤信正の
花見せし所とか
越して小名浜海上眼下に見え
眺望すこぶる絶景なり
それより西に下れば
小野谷村に 程近し
◇作者は当地の漢学者・吉田正義といわれている。
(※人物詳細に関しては当ブログの2009・2・25付を参照)
唄で覚えた鹿島の地名
鹿島村(現・いわき市鹿島町)は、明治22年4月1日に近隣12村が合併して誕生したものだが、それ以前に遡ること時代は元禄(1688~1704)頃に、大津絵(追分絵ともいう)が売り出されて人気を得、江戸末期には全国各地でその地の名所名物を読み込んで替え歌が作られ、大津絵節と共に広がった。
特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていった。
《大津の追分辺りで売り出されたのが始まりとされる大津絵》
鹿島村でも明治の頃に、地名や名所旧跡を織り込んだもので大津絵の旋律(メロデー)に合わせた唄が作られている。
軍次山(くうじやま)から 熊が出て
矢田らに走る 走熊
名所七本松 後にして
久保見てと通れば 金光寺
船も着かぬに 船戸という
それより御代の 大仏様拝みつつ
御代坂越えれば 岡小名で
向こうに見ゆる 遍照院
大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院
夕暮れに 小名浜を立ち退いて
水押し上(うわ)って 後にして
東の法華寺 拝みつつ
西の山田湯場 横に見て
御代坂登って大仏様遥拝し
それより船戸 岩薬師拝みつつ
久保の里屋橋 通り抜け
名所七本松 後にして
走熊へと さしかかる
次は 下矢田 上矢田で
郷社鹿島神社に参拝し
それより進めば 軍次山
越せば 上荒川と谷川瀬で
平町 日光町に着きますよ
三沢の里へも 一度はおいで
名所古跡もありますよ
磐城七門一の向かいに
三沢の館あとあり
その上に 八幡公の陣とりし跡に
八幡神社の祭りあり
それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
この作を 霊墓(おきはか)作という
その上に 母の小屋掛けせし山を
小屋の山という
その下に 母の祈願所 薬師堂
それより奥を 花見平という
昔 平の城主 安藤信正の
花見せし所とか
越して小名浜海上眼下に見え
眺望すこぶる絶景なり
それより西に下れば
小野谷村に 程近し
◇作者は当地の漢学者・吉田正義といわれている。
(※人物詳細に関しては当ブログの2009・2・25付を参照)