いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき鹿島の昔ばなし 3

2013-04-18 06:57:28 | Weblog
                                           分類・歴

   追い剥ぎが出た 「 くうじ山 」
                                 場所 : 上矢田(現・常磐上矢田町)

 鹿島村は、昭和29年に小名浜町に編入合併したが、この時に12部落あった内の上矢田、松久須根、三沢が分離して湯本町に編入したために区分けされて、鹿島地域からは外れた。
 これにより上矢田の地名変遷は、鹿島村上矢田から湯本町上矢田に変わり、更に常磐市上矢田になって、昭和41年いわき市制が誕生したのと同時に、いわき市常磐上矢田町というように何度も変わった。
 「鹿島の昔ばなし」の中には前述の3地域も、かつては鹿島村12部落として長い間共存してきた関係で、多々関連性があるので鹿島全体と見做(みな)して、以降も地名と所縁(ゆかり)が出てくる。
 写真は鹿島街道の獺沢(おそざわ)バス停付近から平方面を見たもので、右側が新道、左が旧道でその先にあるのが「くうじ山(軍事山)」。
 新道部分の方が宅地造成で削り取られ、道路と郷ケ丘ニュータウンになった=写真。     

      《坂上の前方左が 「 くうじ山 」 の1部だが、右側部分は開発によって跡形もない》

 昔は、あの頂上辺りに約50メートルの洞門(トンネル)があって、明治の中頃には “ 追い剥ぎ ” が巣食っていて、暗闇が訪れると数人の男たちが洞門の中に寄り集まり、男根丸出しで焚き火に手あぶりしながら、通行人を脅して金品を巻き上げたという。
 くうじ山の洞門に追い剥ぎが出没したという伝聞は多く、難所であるばかりではなく人里離れた場所だけに、そういう悪さをして人々を苦しめる悪党がいたことは事実のようである。
 くうじ山は、戊辰戦争が勃発した慶応4年(1868)に、列藩側が軍事上の作戦拠点としたために「軍事(軍次)山」と呼ばれるようになった。
 後に官選知事、三島通庸(みちやす)が在任した時に、平~小名浜間の道路(旧・鹿島街道)が県道に指定されたが、当時のことだから県道指定による道路改良といっても荷馬車が通行できる程度だった。

◇くうじ山の洞門があった場所は、郷ケ丘の信号がある辺り(位置的には、もっと高い所)で、近くには
 NTT東日本福島いわき支店がある。




 
コメント
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