分類・文
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
団地を出る時よりも雨脚が強くなってきたのは、舗装道路に跳ね返った雨粒が大きな水玉を作っているのでも容易に分かる。
「ただいまー」
トキ子はいつも外出先から帰ると独り言のようにそう言って玄関に入るが、丁度その時に泰治は居間から自分の部屋に戻るところだった。
「お帰りなさい」擦れ違いざまに泰治が無表情で言った。普段、天気が良い日でも滅多に外へは出ないから、今日のような悪天候の時に外出する筈はない。
きっとトキ子がいなくなったのを幸いに、居間で解放された気分になって寛ぎながら冷蔵庫の中でも覗いていたのだろう。
親子関係は家の中でもこのような擦れ違いが日常的に行われているのが、紺野家の生活パターンだった。
高台に住んでいると風向きによって強弱はあるが、大概の音が下から舞い上がってくるように聞こえてくる。特に雨雲が低く垂れ下がっている日は、音が逃げ場を失って遠くのものが雲と地面の間を擦り抜けて伝わってくる。
港で入出港する船の霧笛や、直線的に8キロ前後は離れているであろう常磐線の列車が走行している音さえもリズミカルな響きとなってこだまする。
今日は珍しく救急車のサイレン音が鳴っている。あの音からして小名浜の本町通りあたりなのだろうか。
治男がいつ帰宅しても温かい食事が摂れるように、台所で晩御飯の仕度をしながら救急車の位置関係を推測していた。
壁掛け時計に目をやると午後7時30分を少し過ぎたところだ。
急病人でも出たのだろうか、それとも喧嘩による怪我人なのだろうかと思いながらも、あのサイレンと火の見櫓の半鐘には子供の頃から敏感で、いつも胸の高鳴りを覚える。
小名浜は漁港町だから、夜ともなると羽振りのいい船方相手の赤提灯やバーが賑わうが、たまに飲んだ勢いで客同士の喧嘩騒ぎが起きるのも珍しくはない。
1日中雨が降り続いて、いまだに止む気配はなく今夜半から明日朝方にかけて大雨注意報が出ているくらいだ。
泰治が居間に新聞を置きに来たその時だった。部屋の隅に置かれている電話機が家族の者を急かすように呼んだ。
「あっ、はい……。ちょっと待ってください、変わります。お母さーん電話」
要領の得ない応対にトキ子が台所から前掛けで手をぬぐって「誰から?」と聞くと「警察署だって」と泰治は言い、持っていた受話器を渡した。
「えっ、嘘でしょう。確かに主人はまだ帰ってきてはいませんが、そんなことがある筈がありません」
トキ子は咄嗟にそうは否定したものの、あとは絶句して顔面蒼白になり全身の力が一気に抜けて、両膝が崩れるように屈折した。 (続)
小説 辿り着いた道 箱 崎 昭
団地を出る時よりも雨脚が強くなってきたのは、舗装道路に跳ね返った雨粒が大きな水玉を作っているのでも容易に分かる。
「ただいまー」
トキ子はいつも外出先から帰ると独り言のようにそう言って玄関に入るが、丁度その時に泰治は居間から自分の部屋に戻るところだった。
「お帰りなさい」擦れ違いざまに泰治が無表情で言った。普段、天気が良い日でも滅多に外へは出ないから、今日のような悪天候の時に外出する筈はない。
きっとトキ子がいなくなったのを幸いに、居間で解放された気分になって寛ぎながら冷蔵庫の中でも覗いていたのだろう。
親子関係は家の中でもこのような擦れ違いが日常的に行われているのが、紺野家の生活パターンだった。
高台に住んでいると風向きによって強弱はあるが、大概の音が下から舞い上がってくるように聞こえてくる。特に雨雲が低く垂れ下がっている日は、音が逃げ場を失って遠くのものが雲と地面の間を擦り抜けて伝わってくる。
港で入出港する船の霧笛や、直線的に8キロ前後は離れているであろう常磐線の列車が走行している音さえもリズミカルな響きとなってこだまする。
今日は珍しく救急車のサイレン音が鳴っている。あの音からして小名浜の本町通りあたりなのだろうか。
治男がいつ帰宅しても温かい食事が摂れるように、台所で晩御飯の仕度をしながら救急車の位置関係を推測していた。
壁掛け時計に目をやると午後7時30分を少し過ぎたところだ。
急病人でも出たのだろうか、それとも喧嘩による怪我人なのだろうかと思いながらも、あのサイレンと火の見櫓の半鐘には子供の頃から敏感で、いつも胸の高鳴りを覚える。
小名浜は漁港町だから、夜ともなると羽振りのいい船方相手の赤提灯やバーが賑わうが、たまに飲んだ勢いで客同士の喧嘩騒ぎが起きるのも珍しくはない。
1日中雨が降り続いて、いまだに止む気配はなく今夜半から明日朝方にかけて大雨注意報が出ているくらいだ。
泰治が居間に新聞を置きに来たその時だった。部屋の隅に置かれている電話機が家族の者を急かすように呼んだ。
「あっ、はい……。ちょっと待ってください、変わります。お母さーん電話」
要領の得ない応対にトキ子が台所から前掛けで手をぬぐって「誰から?」と聞くと「警察署だって」と泰治は言い、持っていた受話器を渡した。
「えっ、嘘でしょう。確かに主人はまだ帰ってきてはいませんが、そんなことがある筈がありません」
トキ子は咄嗟にそうは否定したものの、あとは絶句して顔面蒼白になり全身の力が一気に抜けて、両膝が崩れるように屈折した。 (続)
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