いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

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八代義定さんのこと

2013-11-30 12:23:36 | Weblog
                             分類・PV
 
 いわき市では「吉野せい」の文学業績を記念して、市内に在住する者、又はそれに関連する新人の優れた文学作品を顕彰し、いわき市の文化振興に資するために 『吉野せい賞』 を設けている。
 第1回目が昭和53年(1978)だから今年で36回目を迎え、去る11月4日には草野心平記念文学館で、正賞1名、選考委員特別賞1名、奨励賞2名、青少年特別賞1名が晴れの表彰台に登壇した。
 ●受賞者の作品は、いわきの総合文化誌 「うえいぶ」 と、いわきの総合文藝誌 「風舎」 に掲載される。=来年の3月発行
  吉野せい(明治32年~昭和52年)は76歳の時に、「洟をたらした神」で第6回大宅壮一ノンフィクショ
   ン賞と、第15回田村俊子賞の2つの文学賞を受賞し、せい独特の筆致で多数の作品を遺した。

 タイトルとの関連性について首を傾げられても困るので本題に入るが、「八代義定(明治33年~昭和31年)」を語る前に、最低でもこれ位の前書きが必要だったのです。
             (写真=鹿島郷土誌)
               《鹿島村初の公選村長・考古学者

 八代義定は、考古学の権威であり、鹿島村(現・いわき市鹿島町)の村長も務めた。
 生前の義定は人脈も広く、吉野せいとは早くから関わりがあったという。義定は自ら「残丘舎」と呼んでいた書斎を開放していたが、多数の人々が通う中の1人に吉野せいがいたという訳である。
 20歳になって間もない「せい」は、毎週日曜日になると小名浜から御代坂を越えて残丘舎へ通い、むさぼるようにして片っ端から本を読んだ。
 この頃から文学の思想的方面を固めていったようで、作品の 「」 に出てくる原さんという人物は義定だと云われている。

 時を同じくして、残丘舎へ好間から足を運ぶ、農民詩人の三野混沌がいた。
 義定は利発なせいに混沌を紹介し、2人は交際するようになり文学論を交わし合う中へと発展していった。その後、義定は仲人を引き受けて、混沌が26歳、せい22歳の時に結婚をし、やがて2人は好間の菊竹山へ入り荒地を開墾するようになる。
 若かりし頃の若松(旧姓)せいが、本を読みたい一心で小名浜から鹿島街道の御代坂を越えて残丘舎へ行ったのかと思うと、鹿島の住人としての小生に文学に対する興味と親しみ、そして大きな力を与えてくれているのは確かだ。

《余談》①小学5年の時に、義定の息子(小生より3つ違いの先輩)と懇意になり、家に遊びに行く度に残丘舎を案内してもらったが、部屋いっぱいに本が積まれていたことだけが深く記憶に残っている。
 義定とは役場や学校の行事などで何度も目にした事はあるが、吉野せいとは残念ながら会ったことがない。この頃は既に残丘舎を卒業していたのかも知れない。
    ②隣家の小母さんから「義定は農業を営んでいたが私用で忙しく、家の仕事は妻に任せっ放しのところが多かった。ある日、出掛ける時に道沿いの田んぼで農作業に専念している妻の前をどうしても通らなければ行けないので、良心を咎めてのことか義定は着ている和服を端折って、ほんの体裁程度に作業の真似ごとをしてから行った」というエピソードを聞いたことがある。

 
 
  
 
 
 
 
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