OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

ジェームス・ウィリアム・ガルシオとバッキンガムズ

2011-06-14 16:22:48 | Rock

Mercy Mercy Mercy / The Buckinghums (Columbia / 日本コロムピア)

サイケおやじが音楽プロデューサーという職種に興味を抱いたのは、フィル・スペクターやジョージ・マーティン、あるいはクインシー・ジョーンズ等々の偉人達にでは決して無く、あのブラスロックの王者としてデビューから忽ちブレイクしたシカゴを成功に導いたジェームス・ウィリアム・ガルシオが、その最初でした。

何故ならば、業界におけるブロデューサーという立場は、あくまでも裏方であったのが当時までの常識であり、現代のように、その存在に着目して音楽を聴くなんていうのは、本当のマニアがやることだったのです。

ところがちょうどシカゴが人気を集める過程において、どういうわけか前述のジェームス・ウィリアム・ガルシオという名前がバンドメンバーと同じ比重で洋楽マスコミに登場するようになったのは、シカゴという7人組の中に決定的な個人としてのスタアが不在だった所為なのでしょうか。

まあ、それはそれとして、とにかくジェームス・ウィリアム・ガルシオはシカゴというグループと共に絶大な存在感を示していたことに違いはなく、ついには自分のスタジオとプロダクションを持ち、さらに積極的な活動を繰り広げたのが1970年代の洋楽界でありました。

そして必然的に語られ始めたのが、この実力者の過去であり、そこに興味を覚えたサイケおやじもあれこれ調べてみると、なんとっ!? 既に自分が好きだったミュージシャンや楽曲に大きく関わっていたことが明らかになったのですから、これこそまさに温故知新!

例えば本日ご紹介のバッキンガムズは1960年代中頃にパッと活躍し、すぐに消えてしまったバンドなんですが、その「パッとした時期」を導いていたのがジェームス・ウィリアム・ガルシオでした。

しかも今日良く知られているように、バッキンガムズはブラスロックの先駆的グループとしての扱いになっているのも、実はシカゴを大ブレイクさせたジェームス・ウィリアム・ガルシオが狙っていた目論見のひとつという定説があるんですから、これは侮れません。

ただしバッキンガムズは最初からブラスロックをやっていたわけではなく、1965年の公式デビュー当時はイギリスのビートグループから影響を受けながら、如何にもアメリカ的な白人R&Bを演じるガレージバンドのひとつだったと言っても間違いではないでしょう。

それが何時しかジェームス・ウィリアム・ガルシオとの繋がりから、次第に洗練されたソフトロック的なアプローチも魅力のグループに進化し、全盛期のメンバーはデニス・テュファノ(vo,g)、カール・ギャマレス(g)、ニッキー・フォーチュン(b)、ジョン・パウロス(ds)、マーティン・グレッブ(key,sax,vo,etc.) という5人組になったところで放たれのが、全米チャートのトップに輝く名曲「Kind Of A Drag」でした。

う~ん、これは何度聴いても素敵なポップスの極みつきで、サイケおやじもリアルタイムのラジオで聴いた瞬間、一発で虜にさせられた記憶は今も鮮明なんですが、このソフトで洗練されたホーンアレンジがジェームス・ウィリアム・ガルシオによるものとされながら、何故かプロデュースは本人名義ではありません。

このあたりの経緯については諸説あるんですが、問題のジェームス・ウィリアム・ガルシオという人物は既に十代中頃にはギターやベースでスタジオセッションをやっていた天才プレイヤーであり、また大学では作曲や管弦楽を学び、さらにモータウン系の黒人R&Bスタアの巡業バンドにも参加していたという履歴が、ここまであったようです。

そして同時期に、イギリスのフォークロックデュオとしてアメリカでの人気も高かったチャド&ジェレミーのマネージメントや楽曲プロデュースをやっていた実績は、これまたなかなか凄いものです。

なにしろその頃のジェームス・ウィリアム・ガルシオは20歳そこそこだったんですからねぇ~~~!

ちなみに書き遅れましたが、ジェームス・ウィリアム・ガルシオもバッキンガムズも、またシカゴも当然ながら、イリノイ州シカゴの出身でありますが、ここにもうひとつ、同地出身のバンドにザ・モブというローカルのハコバン系ポップスグループがあって、そのメンバーだったジム・ホルヴェイの書いた「Kind Of A Drag」をバッキンガムズに手配したのはジェームス・ウィリアム・ガルシオだったという説もあるようです。

まあ、このあたりの錯綜する人脈と業界絵図は別の機会に再び書きたいと思いますが、とにかく「Kind Of A Drag」で人気を得たバッキンガムズが勢いに乗って出したアルバム「タイム&チャージス」は、ジェームス・ウィリアム・ガルシオの全面的なプロデュースと作編曲が冴えまくりの名盤で、特に斬新で肉厚なホーンセクションの使い方は後のシカゴの音楽性と共通する部分が相当に感じられますよ。

で、本日掲載のシングル「Mercy Mercy Mercy」も、そのアルバムに収録された中の1曲なんですが、これは説明不要、キャノンボール・アダレイの代表的演目のひとつとして、誰もが一度は聴いたはずのゴスペル系ロックジャズの大名曲♪♪~♪

それを作者のジョー・ザビヌルが演出したアレンジやエレピの使い方を大切にしつつ、強引に歌詞を付けてカパーしたのが、このバッキンガムズのバージョンというわけです。

しかし実は告白すると、サイケおやじはこのシングル盤を中古でゲットした昭和45(1970)年当時、決してバッキンガムズとジェームス・ウィリアム・ガルシオ、そしてシカゴの関係を知っていたわけでは無く、ただ叔父さんから聴かせてもらったキャノンボール・アダレイの演奏が好きだったんで、そのボーカルバージョンも気に入ったというノリにすぎません。

そしてさらに驚かされたのが、リアルタイムでシカゴ以前に人気が出たブラスロックのブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&Tが、アル・クーパーの身勝手から再編成された後に作るセカンドアルバムのプロデュースをジェームス・ウィリアム・ガルシオが担当したという事実!

それが1968年の事で、実はこの時、ジェームス・ウィリアム・ガルシオはバッキンガムズと喧嘩同然に別れ、後にシカゴとなるバンドメンバー達と新しい方向性を模索していた頃だったんですが、同じブラスロックというジャンルでライバル関係を築くふたつの人気バンドを両方とも成功させてしまった才能は恐るべし!

このあたりも何時かは、しっかりと書いてみたいと思いますが、その基礎となったのがバッキンガムズでのブラスアレンジと作編曲だったことは明白でしょう。

ただし、それにはバッキンガムズのメンバーがスタジオレコーディングで演奏することはほとんど無かったという真相(?)や、そうしたスタジオセッションプレイヤーの多用によるレコード制作のあれこれから、ジェームス・ウィリアム・ガルシオとバッキンガムズは前述したように袂を分かったのが定説とされています。

もちろんバッキンガムズには失礼ながら、ジェームス・ウィリアム・ガルシオが要求するほどの演奏能力も無かったのでしょう。

ですからレコード会社の要請でシカゴ以前にBS&Tのプロデュースを担当した時には、素晴らしい実力者揃いのメンバーに思うがままのアイディアを実証させた結果として完成された再出発のアルバムが大ベストセラーとなり、続けてシカゴのデビューが成功した事は、悲喜こもごもだったように思います。

その意味で、この「Mercy Mercy Mercy」をやっていた時期のバッキンガムズの音源が、それらと同等の素晴らしさで楽しめるのは、後追いであればあるほどに有難い事です。

機会があれば、このシングルと共にアルバム「タイム&チャージス」もお楽しみ下さいませ。

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2 コメント

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Unknown (あばちゃん)
2011-06-16 14:58:27
Mercy,Mercy,Mercy/I'll Be Back/Don't You Care/You Are Gone の4曲入りレコード1967年に買いました。Don't You Care もホルベイが
書いたんですね?今気がつきました。
このグループはお気に入りでした。
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バッキンガムズ周辺 (サイケおやじ)
2011-06-17 14:58:12
☆あばちゃん様
コメント、ありがとうございます。

ジム・ホルヴェイって、本当に良い曲を書きますよねぇ~~♪ 纏まったソングブック的なCDがあればなぁ、と願っています。

バッキンガムズは最初、バンド名やファッションからイギリスのグループかと思っていました。
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