■恋のダイアモンド・リング / Gary Lewis & The Playboys (Liberty / 東芝)
「親の七光り」と言えば、1960年代のハリウッドポップスを代表するひとりだったゲイリー・ルイスも避けて通れないでしょう。
もちろん本人の音楽への意欲を一概には否定出来ませんが、しかしやっぱりアメリカの人気喜劇役者だったジェリー・ルイスの息子という恵まれた環境無くしては、デビューからの爆発的なブレイクは望めなかったと思います。
つまりゲイリー・ルイスが仲間を集めてバンド活動をやっていたことは広く一般的な楽しみのひとつだったとしても、本格的にメジャーなレコード会社から売れて当然の素敵な楽曲でデビュー出来るということは、余程の幸運がなければ不可能ですし、そこに父親のコネがあった事は隠し様もありません。
まあ、そのあたりは本人も周囲も充分にわかっていたことですから、あえてツッコミを入れるのは無粋でしょうし、そういうものを活かせたのはゲイリー・ルイスには芸能人としての才能が確かにあったということです。
で、本日ご紹介のシングル曲「恋のダイアモンド・リング / This Diamond Ring」は、1965年初頭から春にかけて、アメリカのヒットチャートではトップに輝くデビュー大ヒット♪♪~♪ しかも作者のひとりとして名前を連ねているのが、なんとっ! アル・クーパーなんですねぇ~~♪
実はゲイリー・ルイスのリアルタイムでのヒット曲は、当然ながら我国のラジオを中心とした洋楽番組でも流れていたんですが、その頃のサイケおやじにはベンチャーズやビートルズ、アニマルズやザ・バーズ等々、とにかく聴きたい演奏や歌が山の様にありましたから、この「恋のダイアモンド・リング」には、それほど夢中になった記憶がありません。
というか、ゲイリー・ルイスがその頃に残した数々のヒット曲の本当の素晴らしさにハッとさせられたのは完全な後追いで、ご推察のように、それはアメリカの音楽産業の仕組み、さらにはその面白さや奥深さに興味を抱いたからに他なりません。
あらためて述べるまでもなく、特にアメリカの音楽芸能には媒介となるレコード制作において、職業作家とスタジオ作業に確固としたシステムが存在しており、その裏方から楽しむというマニアックな方法論も、凝り性なサイケおやじには合っていたのです。
そして十代の後半には既に信者(?)になっていたアル・クーパーという人の履歴の中に、ゲイリー・ルイスの「恋のダイアモンド・リング」を書いていた過去を知った時、またジワジワとブームになっていたスワンプロックの中心人物たるレオン・ラッセルが、そのブレーンとして暗躍していた事が披歴されこともあって、まさに意気込んで中古盤ながらゲットしたのが、本日の1枚というわけですが、いゃ~、流石に良く仕上がった名作だと思います。
特に重低音を活かしたカラオケパートの音作りとキャッチーなアレンジの妙は絶品で、流石はレオン・ラッセル(g,key,arr,per)、ジョー・オズボーン(b)、ハル・ブレイン(ds) 等々の一流セッションミュージシャンが関わった事実が納得されますよ♪♪~♪
ちなみに楽曲そのものは最初、同じレコード会社に所属していたボビー・ヴィーが歌うはずだったそうですが、プロデューサーのスナッフ・ギャレットの意向でゲイリー・ルイスに回されたという経緯も!?
と言うよりも、既に述べたように子役としては知られていたゲイリー・ルイスが、新たに音楽の道へと進むにあたっては、当然ながら父親のジェリー・ルイスが相当な援助をしていたわけですから、第一線のスタッフが良い仕事をやったのも当たり前かもしれません。
またゲイリー・ルイスはドラムスを担当しながらリードボーカルも演じていた事になっていますが、一応はバンド形態として存在するプレイボーイズのメンバーは必ずしも固定していなかったと言われています。
ですからレコードジャケットや洋楽雑誌等々で見る彼等の写真には、エレクトリックアコーディオンを担当するジョン・ウェストがバンド創設期からのレギュラーだった以外にデイヴ・ウォーカー(g)、トム・トリプルホーン(g)、カール・レイドル(b)、ジム・ケルトナー(ds) 等々の優れたミュージシャンが去来していた現実も残っているようです。
このあたりは完璧なプロジェクトとして成立するスタジオで作られたヒットレコードが巡業ステージの現場でも、ある程度は再現される必要があったからでしょう。ただし残念ながらサイケおやじは全盛期のゲイリー・ルイスのライプには接したことがありませんから、あくまでも妄想の範疇なのが悔しいところ……。
う~ん、タイムマシーンがあったらねぇ~~~♪
ということで、本日もまた「親の七光り」は侮れないというのが結論です。
しかしゲイリー・ルイス本人は人気絶頂だった1966年末、徴兵されて芸能活動は休止せざるを得なくなり……。
後のインタビューによると、どうやら韓国や日本にも駐留していたそうですが、それはそれとして、デビュー当時のアメリカはビートルズを筆頭にした英国のビートポップスバンドやモータウン系の黒人R&B勢、そしてビーチボーイズやバーズ等々の西海岸派が日替わりでヒット曲を放っていた華々しい時期でしたから、どんなに素晴らしいレコードを出し続けていても、絶対にそれで良しとする風潮ではなかったでしょう。
つまりマンネリと進化のバランスに秀でたものだけが、後々まで生き残れた事は明白であり、その意味でゲイリー・ルイスがデビューから実質2年間ほどに歌っていた楽曲には永遠の輝きがあると思います。
それこそ、まさに「親」ならぬ「ダイアモンド」の光ってやつかもしれませんね。