goo blog サービス終了のお知らせ 

OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

昭和47年10月からのストーンズ

2020-10-03 17:46:37 | 日本のロック

ローリング・ストーンズは来なかった / 西郷輝彦 (クラウン)

すっかり齢を重ね、今や介護保険料を徴収される身分となったサイケおやじの思い出の中で、ちょうど今頃の時期になると蘇ってくるのが昭和48(1973)年の正月明けに勃発したローリング・ストーンズ来日中止事件です。

えぇ~~っ! まだ今は10月でしょう~~? なんで今頃にっ!?

という皆様の声がはっきりと聞こえてまいりますが、サイケおやじとしては、その事件の一切合切が昭和47(1972)年10月3日から始まっているのです。

それはストーンズが来日するらしいぞっ!

という大ニュースを最初に耳にしたのが、ちょうど48年前の今日であったというだけの事なんですが、しかし未だ純情だったサイケおやじにしてみれば、途轍もない朗報でありました。

もちろん、皆様ご存知のとおり、その初来日となるはずだったストーンズの武道館公演は中止に追い込まれたわけですが、やはり……、あらためて当時残していた「日記もどき」のメモを確認しながら、その状況を書き記しておこうと思います。

で、前売りチケットが発売される期日が12月1日と発表され、ただし思い出してみると、これは正式チケットじゃ~なくて、「特別予約券」という扱いで、本物のチケット販売は12月3日からと定められていたんですが、そんなのカンケーねぇ~~!

とばかりに、とにかく発売場所とされた渋谷の東急本店へ行ったのが、11月30日の朝で、つまりは学校なんかサボっていたんですねぇ~~。

そして当然ながら、その場には既に長い行列が出来ていて、一応連番の整理券が配布され、定期的に点呼する云々という規則はあったんですが、誰もそんなものは信用していないという雰囲気が蔓延し、列を離れて帰宅するなんて者は極少数だったみたいですし、さらに夕方近くになると、雨が降り出すという最悪の事態でした。

なんたって、季節は晩秋というか、ほとんど冬でしたからねぇ~~、その場の異様な熱気は確かにありましたが、寒いのが本音で、そのうちにデパートそのものが閉店するし、野郎どもの中には、そのあたりで立ちションしたり、酒飲んでゲロ吐いた末に倒れる様に寝込んでしまう奴も……!?

ですから、店側も事故を恐れたんでしょう。

地下駐車場へ列を誘導し、そこからはもう、ある種のどんちゃん騒ぎです。

ストーンズの曲を合唱したり、麻雀やトランプをやるグループがいたり、毛布やダンボールに包まっている擬似ホームレスとか、未成年の飲酒さえも堂々と罷りとおるというか、そんな状況ですから、婦人警官が補導に来て、制服姿の女子高生なんかは無慈悲に引っ張り出されたり、逆ギレしてポリ公を殴ったり、もはや犯罪と現実がゴッタ煮だった様な記憶が残っております。

そして、ついに夜が明けて、おそらくは午前10時頃からだったと思うんですが、ようやく表のチケット発売所へ向けて列が動き出し、それをサイケおやじがゲットしたのは既に昼前になっていたんですが、既に述べたとおり、渡されたのは、あくまでも「予約券」で、申し込み書に住所氏名等々を書かされたカーボーンコピーみたいな紙切れが、その実態でした。

ちなみに入手出来たのは、1月30日の公演です。

ところが、本当に浮かれていたのは、この日までで、帰宅すると学校をサボっていた事は既にバレていたもんですから、たっぷりと母親から叱られ、それでも行き先は言わずにダンマリとおしたのが、サイケおやじの意気地とお笑いくださいませ。

何故ならば、その日は学校帰りに友人の家へ泊まり込んで、勉強(?)なぁ~んていう、歯の浮く様な嘘を重ねていたんですから……。

しかし、それはそれとして、チケット販売騒動の熱気も冷めやらぬ時期の12月中頃、ど~にもストーンズの来日に暗雲が!?

みたいな不穏な噂がジワジワと広がって来て、とうとう……、翌年正月明けには、ストーンズには来日のビザが下りない!?!

理由は悪いクスリ云々という、それは当時のサイケおやじの感覚すれば、あまりにも無慈悲で理不尽な現実で、そ~した報道が各社からあったと記憶していますが、同時に何人かの政治家や外交官も、それに関連した動きを表面化させる等々、呼び屋の「ウドー音楽事務所」も必死だった事は確かに認められました。

しかし、それでも結果は皆様ご存知のとおり……。

せっかく入手したアリーナ席、二千ハ百円のチケットを空しく払い戻したのは、今となっては後悔の極みではありますが、でもねぇ……、当時は小遣いも乏しく、そのお金が忽ちレコード代に化けたのは皆様ご推察のとおりです。

そして、今にしても拭いきれないのは、あの東急本店前の行列騒ぎって、なんだったのかなぁ~~?

という気持ちでありまして、青春の思い出の様でもあり、現実の厳しさを痛感させられた社会勉強という側面もございましょうが、あの日を境に自分はっ! なぁ~んて事は、サイケおやじには言えるはずもありません。

それでも、ひとつだけ確かに残ったのは、件の騒動によって、あらためてストーンズが日本中で有名になった事だと思いますねぇ~~~!

もちろん、洋楽ファンにとっては当時のストーンズは全盛期の輝けるバンドであり、ビートルズが活動を停止していた事もあり、正に世界一のロックグループという認識に間違いは無かったのですが、一般的な日本人にとってのストーンズは、常に何でも一番のビートルズからは大きく水をあけられた存在に過ぎなかったという感があり、それが突如としてマスコミのトップニュースに登場するなんてこたぁ~~、全く青天のなんとやらっ!?

実際、ラジオや盛り場の有線からは以前にも増してストーンズの歌や演奏が流れ出しましたし、来日中止騒動の後に発売された新曲「悲しみのアンジー / Angie」は、世界に伍して我が国でも大ヒット! 当時はアイドル歌手でさえも、テレビやライブステージでカバーバージョンを披露していたんですよっ!

また、これも説明不要とは思いますが、昭和54(1979)年にはストーンズ来日を政府に脅迫する傑作映画「太陽を盗んだ男(長谷川和彦監督)」が沢田研二を主演に迎えて制作公開される等々、関連事象が数多く残されたのも、印象深いというところでしょう。

そこで本日掲載したのは、そのひとつである怪作にして大名(迷)作「ローリング・ストーンズは来なかった」をA面に入れたシングル盤でして、それを演じているのが既にして大スタアであった西郷輝彦なんですから、たまりませんっ!

発売されたのは昭和48(1973)年6月で、その頃にサイケおやじはラジオの深夜放送で最初に聴いた瞬間、悶絶して呆れた記憶が今も鮮明に残っています。

オルガンメインのラテンロック調のイントロから、定番とも言える歪み系のギターとは対照的に落ち着いた節回しこそが、日本歌謡界御三家のひとりとして大活躍した西郷輝彦の個性全開の証でありましょうし、歌詞の中にはジャニス、キャロル、ディラン、ボラン、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノン、サンタナ、シカゴ

まさにロック界スーパースタアの名前が飛び出して来るんですが、歌の世界観が、ど~にもイジケているというか、売れない芸能人が、何時かは彼等の様な大物になってやるっ! という決意表明にしては、湿っぽいんですねぇ……。

もちろん、サウンド的にはサンタナウォーからの「いただき」が存分に楽しめますし、蠢くベースに鬱陶しさ寸前のコーラスも含めて、決して嫌いな企画ではないんですが、なんだかなあ……。

ちなみに作詞作曲&編曲は、我が国歌謡界ではマニアックな領域においての天才と認定される藤本卓也ですから、大袈裟も暑苦しさも、それなりに極まってはいるんでしょうが、それを西郷輝彦に歌わせてしまうというプロデュースは当時、不可解と言えば、そのとおりであり、しかし冷静に考察してみれば、ちょうど同じ頃から俳優として、いよいよ大ブレイクしつつあった事は今や歴史!

それはテレビドラマ「どてらい男」の大ヒットから、さらに時代劇のスタア俳優として、今日まで数えきれない名演を残しているわけですから、そんな芸能活動の端境期(?)の仇花として、この「ローリング・ストーンズは来なかった」を聴くのも、現代の楽しみなのかもしれません。

ということで、ストーンズ初来日中止騒動について、あれやこれやと思い出してしまったのも、実は掲載したシングル盤が片付けをやっていた自室で発見(?)されたからでして、シミジミ聴けば、これはこれで日本のロックの名曲にして名唱と思うばかりなのでした。

さあ、これからちょいと、本家ストーンズでも聴こうかなぁ~~~♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌謡メタルのめぐみちゃん

2020-05-21 19:56:07 | 日本のロック

横須賀 17 エレジー / 早川めぐみ (EASTWORLD / 東芝)

すっかり今では忘れらている「女にロックはできねぇ~」という間違えた常識に挑戦し、果敢に打ち破った女傑は大勢登場していますが、だからこそ、それを堂々のアイドル路線でやらかしたって、批判される筋合いは絶対にありません。

例えば昭和60(1985)年新春に本日掲載のシングル盤A面曲「横須賀 17 エレジー」で颯爽と芸能界にデビューした早川めぐみは、いきなりのウリが「歌謡メタル・エンジェル」でしたからねぇ~~~!?!

しかもファンは彼女の事を「めぐみちゃん」と呼んでいたというよりも、制作側や事務所サイドから、それを強要(?)されていたんじゃ~なかろうか!?!

と、まあ……、そんな勢いで発売されたのが作詞:売野雅勇&作曲:芹澤廣明という、その頃のローティーンに爆発的な人気があったチェッカーズに諸作を提供しているヒットメーカーコンビが書いた「横須賀 17 エレジー」でしたから、本来ならば普通のアイドル歌謡ポップスであるはずが、それに中島正雄が強引で痛快なアレンジを施してみれば、狙いがドンズバっ!

当然ながら、早川めぐみはルックスもキュートで可愛いもんですから、我が国のヘビメタ好きの青少年や野郎どもからは忽ちの熱視線でありました。

ちなみに、ここまでの日本ロック界においては、本城未沙子や浜田麻里がヘビメタ女王のトップ争いを繰り広げており、幾分マイナーではありますが、杉本誘里や早瀬ルミナ等々もレコードデビューしていたんですが、彼女達はアイドル性よりは本格派のボーカリストを標榜していたわけで、もちろんアイドル人気も当て込んでいた事はミエミエながら、レコードでもライブの現場でも、バックバンドの演奏は所謂「ジャパメタ」そのものでしたし、ボーカルスタイルはハイトーン主体でキンキン声の節回しばっかり……。

それゆえに好き嫌いが確かにあり、だからこそ無個性に思えたのがサイケおやじの偽りのない気持ちでした。

尤も、そのあたりは基本的にヘビメタがNGな体質もあるんですが、そんな中で登場した早川めぐみは、土台がモロに歌謡曲である事を隠そうともしない雰囲気が、サイケおやじには好ましかったんですねぇ~~♪

実際、件の「横須賀 17 エレジー」は聴けば一発!

歌謡ロックのヘビメタ的展開であり、バックの演奏メンバーにしても、 山本恭司(g), 北島健二(g)、難波弘之(key)、鳴瀬喜博(b)、青山 純(ds) 等々が参加しているもんですから、一瞬の緩みも無く、イントロのギターがブリティッシュロック王道の泣きメロを弾きまくれば、それに導かれて熱唱する早川めぐみの節回しが歌謡曲にどっぷりなんですねぇ~~~♪

あぁ~~、思わずカラオケやっちまいそうな、キャッチーな曲メロにせつない歌詞のバランスの良さは素晴らし過ぎますよっ!

ですから、局地的ではありましたが、それなりにヒットしたのは言わずもがな、続けて発売されたアルバムも好セールスを記録したのは、当時の状況を鑑みれば、ひとつのミラクルに近いものがあったと感じていましたですねぇ~~♪

ちなみに、ここでアレンジを担当した中島正雄は本職がギタリストで、確か関西の大御所ブルースバンドだったウエストロードにも在籍していたと記憶しているんですが、実はここまで述べた和製ヘビメタ界の女性ボーカリストの売り出しやプロデュースにも関わっており、後には B'z の売り出しにも大きな役割を果たしていますので、要注意です。

閑話休題。

しかし、肝心の早川めぐみは、この勢いに乗って次々にレコードを発売しながら、ヘビメタ歌謡路線が徐々に薄れ、シンセポップっぽい方向へとシフトしてしまい、なんとっ!?!

翌年にはフェードアウトしたというか、何時の間にか芸能界から消えてしまったんですよ……。

う~ん、僅か……、1年ちょっとしか活動していなかったんですよねぇ~~~!?!

これには、それなりに期待していたサイケおやじも、がっくりというか、この現実は、なんとも勿体無いと思うばかりです。

ということで、こ~ゆ~和製ヘビメタ界の女性ボーカリストの活躍は決してメジャーではありませんでしたが、一方ではアン・ルイス本田美奈子という歌謡ロック保守本流の大ブレイクと微妙にリンクしていたんじゃ~ないでしょうか?

その意味で、早川めぐみの登場と短い大活躍(?)は、我が国の芸能史に刻まれる必要があるはずです。

昭和も末期の仇花とは思いたくありませんねぇ~~。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邦楽ロックは我らの誇り

2020-04-15 19:48:33 | 日本のロック

越後獅子 c/w 草津節 / 寺内タケシとブルー・ジーンズ (キングレコード)

エレキギターについての諸々、やっぱり今日は寺内タケシを書かねばなりません。

で、掲載したのは昭和41(1966)年に発売された寺内タケシとブルー・ジーンズのシングル盤で、もちろん収められているのは、「津軽じょんがら節」のエレキインストバージョンで世界中をシビレさせた伝統邦楽ロック化路線の第二弾で、今回は特に長唄としてお馴染みの「越後獅子」がA面に収められています。

いゃ~~、これが最初は原曲のメロディも認識出来るんですが、寺内タケシのアレンジによる全篇がアップテンポでエグイほどのドライヴ感に満ちているんですから、たまりません。

特に寺内タケシのリードギターは火を噴きまくったが如き熱風と申しましょうか、前述した「津軽じょんがら節」で聴かせてくれた早弾き三味線スタイルのフレーズをロックのビートにきっちりと乗せ、さらにイケイケのグルーヴをバンド全体でタイトに作り上げたのは、正に世界中を圧倒するニッポンロック魂の発露でありましょう。

そして当然ながら、これをコピーするなんてのは至難の業!?

サイケおやじにとってはアンタッチャブルな領域であり、当時も今も、ど~やって弾いているのか判別不可なスタイルとリックばっかりです。

あぁ……、恐ろしやぁ~~~。

一方、B面に収められた「草津節」は説明不要、これまたお馴染みの群馬県民謡ですから、ソリッドなビート感を活かしたアップテンポの楽しい演奏になっているのは、A面の「越後獅子」で快い疲労感を覚えた後には絶好のリラックスタイム ♪♪~♪

それもまたエレキインストを楽しむ醍醐味の様な気がしますねぇ~~♪

ということで、掲載のジャケ写だけ見ると、丸っきりボーカル物みたいではありますが、中身は威風堂々のエレキインスト日本代表!

当時のロックの世界では、地球上でも最高のレベルに達していたのが我が国であったという、見事な証拠物件であり、もちろん、その真実は我々が誇りにするべきものと思っています。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エレキ弾くにも初心を忘れず

2020-04-14 20:50:13 | 日本のロック

ゴールデン・ギター / シャープ・ファイヴ (キングレコード)

日本のロック史に登場したギタリストの中で昭和40年代、寺内タケシと双璧の存在だったのが井上宗孝とシャープ・ファイヴの三根信宏でした。

もちろん、寺内タケシの凄さは言わずもがな、誰もが瞠目させられるドライヴ感満点の豪快なフレーズと味わい深いスローな泣きメロの上手さは、聴けば瞬時に虜にさせられる魅力がストレートに伝わってくるスタイルだと思いますが、一方の三根信宏はスピード感溢れる早弾きを披露しても、それが所謂スペーシーな広がりを感じさせてくれるという、その奥行きの深さは粒立ちの良いギターの音色と相まって、最高に個性的でありました。

で、本日のご紹介は、そ~した三根信宏の天才性が存分に堪能出来るインスト曲「ゴーデン・ギター」をA面に収録した、これが昭和41(1966)年9月に発売のシングル盤で、もちろんシャープ・ファイヴの看板スタアである三根信宏が作編曲したアップテンポの名曲に偽り無し!

ちなみに当時の井上宗孝とシャープ・ファイヴはボーカルグループのシャープ・ホークスのバックバンドながら、同グループの公式レコードデビューとなった「ついておいで」の発売に合わせたかのように、シャープ・ファイヴも独立デビューとなり、それが掲載のシングル盤かと思います。

で、その「ゴールデン・ギター」は既に述べたとおり、アップテンポのギターインストなんですが、特徴的なのは三根信宏が寺内タケシと張り合うが如き所謂「じょんがらフレーズ」を乱れ打ちに弾いているんですねぇ~~~!?!

もちろん、寺内タケシとブルー・ジーンズがシャープ・ファイヴと同じキングレコードから「津軽じょんがら節」のシングル盤を出したのが、やはり同じ昭和41(1966)年というのも意味深でしょう。

このあたりは、正に聴き比べの楽しみと思いますねぇ~~♪

実は寺内タケシは翌年、つまり昭和42(1967)年に津軽三味線の名手でもあった三橋美智也と共演のシングル盤「津軽じょんがら節」を出しているんですが、そ~ゆ~歴史があるのですから、寺内タケシと三根信宏の「じょんがらバトル」も作って欲しかったですねぇ~~、禁断の領域かもしれませんが (^^;

そして、もうひとつ、書いておきたいのが、三根信宏が弾いていたギター「LG-350T」の事で、これは三根信宏のアドバイスを入れて作られたグヤトーンの銘器で、通称はズバリっ「Sharp 5」♪♪~♪

実は以前にも書きましたが、高校生になったサイケおやじが最初に手にしたエレキギターが、これだったんですよ。当然、最初は分からなかったんですが、3ピックアップでスライドスイッチの調整で様々な音が出せるという優れもので、ベンチャーズ等々のエレキインストや我が国のエレキ歌謡、そして洋楽ロックもきっちり出来る、なかなか弾き易いギターだったんですよ。

ただし、個人的にはスタイルにクセがあるというか、如何にもエレキインスト専門みたいなと申しましょうか、所謂ニューロックが流行っていた1960年代後半からはレスポールとストラトキャスターあたりのモデルが、そ~したイメージを増幅させていましたからねぇ~~、サイケおやじとしても、グレコから出ていた成毛茂モデルを入手して以降は、すっかり押し入れの中に鎮座(?)させて幾年月……。

それが先日来のエレキ熱再燃を自覚してみれば、初心を忘れずの格言どおり、押し入れから引っ張り出しての最敬礼!?

そして、その勢いで聴いてしまったのが、本日のお題「ゴールデン・ギター」というわけなんですが、あらためて考えてみると、件の「LG-350T」が初めて発売されたのは昭和42(1967)年と云われていますから、この「ゴールデン・ギター」で三根信宏が弾いているのは、???

皆様ご存知のとおり、井上宗孝とシャープ・ファイヴは昭和40(1965)年6月からテレビ放送された「勝ち抜きエレキ合戦」にレギュラー出演し、模範演奏を披露していたんですが、その時の三根信宏が弾いていたギターが何なのか?

おそらくはフェンダーかと思いますが、ちょいと明確な記憶がありません。

しかし、昭和42(1967)年になると、グヤトーン主催のキャンペーンショウが様々な場所で開催され、サイケおやじも2回ほど生演奏に接する幸せな時間を過ごさせていただきましたが、その時は当たり前に「Sharp 5」を弾いていましたですねぇ~♪

ということで、そんなこんなの謎々も、音楽を愛でる面白みと思うばかりです。

そして現在なればこその風格を滲ませる銘器「LG-350T」を整備(?)しようと目論めば、フレットの打ち直しは必須かなぁ~~。うむ、ペグも直したいし……。

とにかく、今はエレキを弾きたいです ♪♪~♪

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロックシンガー豊川誕

2020-03-23 20:34:02 | 日本のロック

愛したら最後 c/w 野良犬 / 豊川誕 (Trio)

ジャニーズ事務所から登場した数多のアイドルの中でも、特に鮮烈な印象を残しているのが豊川誕かもしれません。

と、聊か曖昧な書き出しになってしまったのは、豊川誕は売り出された最初っから「孤児」とか「施設育ち」等々、決して恵まれてはいなかった出自が強調され、しかし、それでいて不思議に自然体な明るさを見せてしまう振る舞い、そして説明不要という、如何にもジャニーズ仕様のルックスが、なんともサイケおやじには奇異な印象だったからです。

まあ、今となっては、それも芸能界のスタンダードな方法論のひとつであり、正にジャニーズ帝国の異端と正統を併せ持ったスタアの証だったと理解も出来るのですが、それにしてデビューした昭和50(1975)年春からの大ブレイクとその後の波乱万丈(?)は、今日までの日本芸能史の裏表を考察するは絶好!?

なにしろ豊川誕には、失礼ながらジャニーズらしからぬ歌唱力がありましたし、ルックスは皆様ご存知のとおり、甘さの中に翳りが滲むという、そのあたりが自らの履歴と完全にリンクしていたんですから、女の子を夢中にさせる魅力があった事はサイケおやじも認めるところです。

ところが、そんなパワーが強烈過ぎたのか、全盛時代だった昭和52(1977)年夏頃だったでしょうか、突如としてジャニーズ事務所から姿を消し、テレビのバラエティ番組等々でも、その行方を捜索する様な企画さえあったと記憶しているんですが、その原因の真相は様々にあろうとも、流石のジャニーズ事務所も焦りが見え隠れしていた事が確かに知れ渡るという事件でありました。

そして皆様ご存知のとおり、独立しての芸能活動を目論んでいた豊川誕に様々な圧力が及んだ事は言うまでもなく、一時的にジャニーズ事務所に復帰するも、再び飛び出した後は昔っからのスキャンダルが表沙汰になったり、悪いクスリ云々、暴走族とのあれやこれや等々が、これでもかとマスコミを騒がせたのは、いやはやなんとも……。

しかし、豊川誕は芸名の使用に制限を受けたものの、ロックバンドを結成したり、新たな方向性を模索し、ついに昭和55(1980)年に出したのが本日掲載のシングル盤でして、それがなんとっ!

収録両面共に歌謡ロックの演歌的展開だったんですから、吃驚仰天させられたのはサイケおやじだけでは無いと思いますねぇ~~。

それは、作詞:なかにし礼&作曲:長沢ローが提供のA面「愛したら最後」で大爆発!? ヘヴィな質感を打ち出している馬飼野俊一のアレンジがあればこそ、豊川誕の歌いっぷりのロック性感度の高さは素晴らしく、同時に演歌本来の泥臭さを滲ませた節回しは、所謂「コブシ」とは似て非なる味わいなんですねぇ~~。

また、B面に収録された「野良犬」は、実はこっちが本命とも言うべきファンクな色彩の歌謡ロックに仕上がっていて、正に我々が知らされていた豊川誕の出自を強く伝える阿里あさみの綴った歌詞も、さらに作曲:長沢ロー&編曲:馬飼野俊一の企図したサウンド作りも素晴らしいですよっ!

グッと「漢」を感じさせるジャケ写にも、女心が惹きつけられるのは必定だったでしょう。

ということで、結果的には大ヒットには結びつかず、豊川城の波乱万丈は続いていくのですが、個人的には本格的に歌謡ロック~ハードロック歌謡の路線を追求して欲しかったなぁ~~、と本気で思っております。

うむ、ロッカーには紆余曲折を良いベクトルに変換する資質が求められるんでしょうかねぇ~~。豊川誕には、それが確かにあったとすれば、本日掲載のシングル盤は傑作!

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細野晴臣は鬼か? 福か?

2020-02-03 20:31:26 | 日本のロック

恋は桃色 c/w 福は内 鬼は外 / 細野晴臣 (ベルウッド / キングレコード)

今日は節分、ということは、豆まきに恵方巻なぁ~んていう浮かれた世間に背を向けたくなるのが、例によって天邪鬼なサイケおやじの性分ではありますが、とりあえず音楽だけでも、それらしい歌や演奏を聴いてみるかっ!?

そんな気分で取り出したのが、元はっぴいえんどの細野晴臣が昭和48(1973)年に出した本日掲載のシングル盤で、もちろん狙いはB面収録の「福は内鬼は外」であります。

ご存知のとおり、ここで「元」と記したのは既に前年末、はっぴいえんど正式解散が表明されていたからで、そして細野晴臣は同じ頃、はっぴいえんどの同僚だった鈴木茂(g)、加えて松任谷正隆(key) と林立夫(ds) を入れた新バンドのキャラメル・ママを結成し、その最も初期のレコーディングセッションとなったのが、このシングル盤収録の2曲を含むLP「HOSONO HOUSE」の制作でした。

しかも、これがアルバムタイトルどおり、当時の細野晴臣が住んでいた狭山市の米軍住宅を借りた自宅で行われ、つまりはポール・マッカトーやジェームス・テイラー、そしてザ・バンド等々が既にやっていた所謂「ホームレコーディング」を実践したという、ある意味では流行の先端という歴史的な意味づけが今ではあるらしいんですが……。

現実的には決して一般的に売れたレコードでは無かったと思いますし、歌謡フォークが全盛だった日本の歌謡界においては、こ~ゆ~フォークでもロックでも明確な分類が自意識的に難しい音楽は、それが相当だったんじゃ~ないでしょうか?

少なくともサイケおやじにとっては、知り合いから件のLPを借りて聴いただけではありますが、どこかしら中途半端な仕上がりとしか思えませんでした……。

ところが、そんなある日、偶然にもラジオから流れて来たのが、このシングル盤収録のA面曲「恋は桃色」で、細野晴臣が作詞作曲&編曲した曲調は、ポコザ・バンドして、さらにリンディスファーンしたような、ふんわりふわふわのカントリーロックなんですが、耳を惹きつけられるのは、なんとも不思議な快感を導いてくれるコード&コード進行なんですねぇ~~♪

う~ん、前にアルバムを借りて聴いていた時には全く感じる事の出来なかった気持ち良さって、なんでせう?

そう思い込んでしまえば、後は自ずと掲載したシングル盤をゲットする他はありませんでした。

そしてB面に入れられていたのが、同じくアルバム「HOSONO HOUSE」からカットされた「福は内 鬼は外」というわけなんですが、こちらは異国情緒がたっぷりのラテンビートをメインにダジャレっぽい語呂を用いたと思われるコミックソング?!?

それは例によってサイケおやじの勘違いかもしれませんが、陽気でありながら、せつない気分も滲み出る歌と演奏は、何時の世にも安定と不安定がゴッタ煮となった世相にジャストミートしている気がしますねぇ~~♪

ということで、このシングル盤に魅せられなかったら、サイケおやじにとっての細野晴臣は、はっぴいえんどの「風をあつめて」だけの歌手であり、歌謡曲の世界の優れたスタジオミュージシャンというだけの認識だったと思っています。

全く……、福は内 ♪ 鬼は外 ♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悔しさと観念のサラダガール

2020-01-07 19:20:51 | 日本のロック

僕のサラダガール / GODIEGO (日本コロムビア)

最初に唯一度だけ聴いた瞬間に衝撃を受ける歌や演奏ってのは、音楽好きならば誰にでもある経験と思いますが、サイケおやじにとってのそのひとつが、本日掲載のシングル盤A面曲「僕のサラダガール」でありました。

ご存知のとおり、これは日本のロックバンドとしては驚異的な成功を収めたゴダイゴのデビュー曲として昭和51(1976)年4月に発売され、某化粧品メーカーのCMソングに使われていたもんですから、英語の歌詞でありながら、覚えやすいメロディの「サラ~グゥァ~ル」というリフレインは忽ち耳に馴染んでしまったわけですが、サイケおやじにとっては、うわぁ~~、やられたぁ~~~!?!

という気持ちに大きく心を支配されましたですねぇ~~~!?!

それは、これまでも度々書きましたが、その頃に入れてもらっていたバンドの活動において、サイケおやじも一丁前にオリジナル曲を作ろうと身の程知らずの悪戦苦闘を続けており、当然ながら自分が好きなビーチボーイズやウエストコーストロック等々の爽やか系コーラスを念頭に置いての作業だったんですが、結果は遅々して進まず……。

ですから、そんな煮詰まりの最中にラジオから流れてきた「Salad Girl」という、これぞっ!

当時のサイケおやじが作り出そうとしていたサウンドにジャストミートの歌と演奏だったんですねぇ~~♪

そして衝撃を受けつつも、諸々を探っていくと、演じているのはゴダイゴというグループとまでは直ぐに知れたんですが、まさか……、ゴダイゴが日本のバンドだったとはっ!?!

なにしろ、それは皆様ご推察のとおり、この「Salad Girl」は全篇が英語の歌詞で歌われ、しかもボーカル&コーラスの発音&発声が極めてホンモノに聞こえていたんですよ、サイケおやじにとっては!?!

そして速攻で問題(?)のレコードをゲットした現物が掲載のシングル盤だったわけですが、そこには曲タイトルが邦題で「僕のサラダガール」と記され、クレジットを確認してみると、作詞:奈良橋陽子&作曲:タケカワユキヒデとあり、もちろん当時のサイケおやじには馴染みの無い名前でありました。

しかし、ジャケ写に登場しているGODIEGO=ゴダイゴの面々の中に、元ゴールデン・カップスのミッキー吉野(key) の姿を認めては、流石と納得するばかり! もちろんゴダイゴのリーターでもあり、その頃のメンバーは他にタケカワユキヒデ(vo)、元チャコとヘルスエンジェルの浅野 孝已(g,vo)、その実弟の浅野良治(ds)、そして日米ハーフのスティーブ・フォックス(b,vo) という顔ぶれでした。

で、ゴダイゴ結成の経緯は、まずミッキー吉野がゴールデン・カップスを辞めた後に渡米して学んだバークリー音楽院でスティーブ・フォックスと知り合い、帰国後にミッキー吉野グルーブを組んで様々な活動をしている中でのタケカワユキヒデとのレコーディングが、そのスタートと云われています。

それでもサイケおやじは、今でもタケカワユキヒデの素性や履歴をほとんど知りません。

しかし、ゴダイゴの楽曲の主要なところを作曲していますし、そのメロディセンスの親しみ易い個性には感服するばかりですし、ボーカリストとしてもナチュラルな歌心が感じられて、決して嫌いではありません。

そこでこの「僕のサラダガール」は、穏やかな曲調で、演奏もシンプルなんですが、コーラスにビーチボーイズ風味があって、ニクイばかりです ♪♪~♪

繰り返しますが、メロディラインや演奏の雰囲気共々、サイケおやじが企図して果たせなかった歌と演奏が、「僕のサラダガール」の世界だったというわけです。

ということで、サイケおやじが作ろうとした楽曲なんて、何ひとつ……、完成させることが出来ずに、今日に至っているという次第です。

もちろん、自分の才能では、それが当然と自覚しつつも、悔しい思い出が「僕のサラダガール」です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い鳥がロックバンドだった頃

2019-12-30 19:18:10 | 日本のロック

紙風船 / 赤い鳥 (東芝)

日本のフォークグループの中でも赤い鳥は素晴らしいコーラスワークをウリにしていた事から、今となっては、所謂アンプラグドな音楽性ばかりと思われがちですが、きっちりバンド形態としてのエレクトリックな歌と演奏にも魅力がありました。

もちろん、赤い鳥のフォークグループとしての存在感は否定出来るものではありません。

それは後藤悦治郎(vo,g)、山本俊彦(vo,g)、平山泰代(vo.p)、新居潤子(vo)、大川茂(vo,b) という編成だったデビュー期においては、古い日本民謡を素材にした「竹田の子守歌」をヒットさせるという瞠目すべき偉業は永遠に記憶されるべきと思いますが、同時にメンバー全員の優れた歌唱力を活かしたコーラス&ハーモニーの力量は業界の注目を集め、メジャーデビュー期のアルバムにはバート・バカラックが書いた有名ヒット曲やサイモン&ガーファンクル、ビートルズ等々の良く知られた売れセンのカバーバージョンが収録されていたのですから、やはり当初はソフトロックのレールが敷かれていたのでしょう。

実際、シングルヒットした「誰のために」「翼をください」「忘れていた朝」等々はハリウッド制作の洋楽ポップスにも負けない魅力が確かにあり、決してアンプラグドではないのです。

高校生だったサイケおやじは、ラジオで聴くだけでしたが、そ~ゆ~赤い鳥が好きでしたねぇ~~♪

ところが当時、つまり昭和45~47(1970-72)年頃の我が国は狂熱的な歌謡フォークのブームが最高潮でしたから、例えば校内同好会のフォーク組の連中はアコギを弾きながら男子も女子も一緒になって赤い鳥のヒット曲を歌っていたという、エレクトリックなバンドに拘泥していたサイケおやじにしてみれば、本音で羨ましい状況を斜めに見ていたという……。

いやはや、なんとも僻み根性が全開の青春時代はお恥ずかしいかぎりなんですが、その溜飲が下がったのが昭和47(1972)年のゴールデンウイークのある日に接した赤い鳥のライブステージで、そこには前述5人のやオリジナルメンバーに加え、大村憲司(g) と村上秀一(ds) という、今やレジェンドの天才プレイヤーが顔を連ね、各々の演奏楽器もエレクトリックに持ち替えられていたのですから、最初の音が出た瞬間、思わず歓声の記憶は今も鮮明です。

しかも演じられていたのは、サイケおやじにとっては馴染みの無い曲が多く、持ち前のコーラスのバックでは唸るエレクトリックなギターソロ、そしてベースとドラムスが強いビートを出し続けるという、ちょいとジェファーソン・エアプレイン風のスタイルさえも披露していたんですねぇ~~♪

もう、完全に日本のロックでしたよっ!

さて、そこで本日掲載したのは昭和48(1973)年春に発売された、これが和製サイケデリック~アシッドフォークと申しましょうか、殊更作詞:黒田三郎&作曲:後藤悦治郎、そして編曲:瀬尾一三&赤い鳥とクレジットされたA面曲「紙風船」は抑揚の緩いメロディラインに起承転結が曖昧な、それこそ呪文とも誤解されそうな歌詞の奇妙な同居を描くいた如き、なかなか摩訶不思議な歌と演奏が展開され、当然ながら蠢くエレキベースと淡々としたドラムスのビート、モード系のギターソロがボーカル&コーラスのバックや合間で流れているという仕上がりですから、これがライブステージで演じられ時には、なかなか熱いエネルギーが噴出されていたんですよっ!

その頃の赤い鳥のステージの雰囲気を伝えるジャケ写にも嬉しくなりますし、今では貴重な記録と思いますが、いかがなものでしょう。

しかし、当然の如くと書けば失礼千万、この頃から赤い鳥はシングルヒットには無縁となり、それでもアルバムはプログレっぽい方向性も感じられる秀作を出しているのですが……。

皆様ご存知のとおり、赤い鳥は昭和49(1974)年に分裂解散し、後藤悦治郎と平山泰代は赤い鳥の正統を継ぐフォーク系の夫婦デュオ「紙風船」、一方の山本俊彦も新居潤子と結婚し、大川茂を加えた「ハイ・ファイ・セット」を結成し、それぞれにヒット曲を放っていったのは現在、ニューミュージックと称されている新しい雰囲気の歌謡曲が創成されていく歴史でもあろうかと思います。

もちろん、その現場には大村憲司(g) と村上秀一(ds) の両名がスタジオセッションや有名スタアのバックバンドで目覚ましい活躍を繰り広げた事実も、決して忘れられないところです。

ということで、赤い鳥が我が国の大衆音楽の世界で果たした役割は計り知れないものがあるのですが、その前期のスタイルはアマチュアのグループでも模倣されながら、後期のエレクトリック&プログレ風味に傾いていた頃の歌や演奏は、それほど親しまれていないんじゃ~なかろうか……。

そりゃ~、とっつきにくい要素があるのは確かですし、サイケおやじも大昔の若かった頃に入れてもらっていたバンドで、そんな事を画策した事もあったんですが、結果は周囲の理解を得られず、頓挫しています。

しかし、今ならねぇ~~~。

あっ、でも最初にコーラス&ハーモニーが素晴らしく出来上がっていなけりゃ~、冗談にも笑い話にもなりませんねっ!

やっぱり、赤い鳥は凄いグループでありました。

最後になりましたが、既に述べたとおり、赤い鳥分裂解散を経て後藤悦治郎と平山泰代が結成したのが「紙風船」と名乗ったのは、この曲との関連が何かしらあるんでしょうか?

それも美しき謎と思うばかりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すっきりと咲いてこその花

2019-12-18 17:43:52 | 日本のロック

すべての人の心に花を / 喜納昌吉&チャンプルーズ (タイム)

いよいよ東京オリンピックも聖火ランナーが発表されたりして、本来ならば盛り上がらなけばならないんでしょうが、サイケおやじとしては、その聖火ランナーの「有名人枠」ってのが、ど~にも納得していません。

極言すれば、何でこんな奴にっ!?

という気持ちがあって、それも選出基準が明確に公表もされず、また、何処の誰が人選したのかも曖昧なのでは、単純に業界の人間だけが喜んでいるんじゃ~ねぇ~のかっ!?

もしかしたら最初っから「ジャニーズ枠」とか「吉本枠」、さらには「バラエティ枠」「歌謡界枠」「プロスポーツ枠」等々が決められていて、その人間関係によって割り振られたんじゃ~なかろうか……?

とまで思ってしまうんですよ。

そりゃ~~、祝祭気分を盛り上げるためには、そ~ゆ~人選も必要でしょう。

しかし、聖火ランナーを一般公募しているんですから、一人でも多くの一般人に走らせるのが本来の姿じゃ~ないんでしょうかねぇ~~~。選ばれた有名人は、その応募とか、してたんでしょうか?

なぁ~んて、天邪鬼なサイケおやじは思っているわけですが、そこで本日は昭和39(1964)年の前回東京オリンピックにインスパイアされて作られたと云われる、喜納昌吉&チャンプルーズの「すべての人の心に花を」を朝イチに聴いてしまいました。

皆様ご存知のとおり、この歌は後に「花」という曲タイトルで有象無象のカバーバージョンが世界中で制作され、大きなヒットになったわけですが、オリジナルバージョンは昭和55(1980)年に発売された掲載のシングル盤、あるいは同年に世に出たLP「ボーダーライン」に収録の曲タイトル「すべての人の心に花を」というわけです。

そして作詞作曲はもちろん喜納昌吉なんですが、歌っているのは確か当時の妻だった喜納友子で、しかもバックを務めているのがライ・クーダー(g,Mandolin)、久保田真琴(key)、チト河内(ds,per) 等々という夢の様な顔ぶれですからねぇ~~♪

とにかく一度でも聴けば、あの哀愁たっぷりの美メロが喜納友子の綺麗なボーカルで歌われ、特有のアコースティックギターと魔法のスライドギターで演奏パートを組み立てているライ・クーダーのナチュラルな感性に感動させられることは必至 ♪♪~♪

サイケおやじとしては、間奏でふわぁ~~んと弾かれてしまうスライドギターに殊更の夢見心地にさせられるんですよ♪~♪

で、既に述べたとおり、この「すべての人の心に花を」という曲タイトルや歌詞の一節が、前回東京オリンピックの実況放送でのアナウンサーの言葉から引用されたというのは有名な逸話であり、喜納昌吉は閉会式で国も民族も越えて一緒になって交流する参加選手の姿に感銘して曲を作った云々と語った事がありますから、オリンピックには、やはりそ~ゆ~パワーがあるのでしょう。

そして来年の東京オリンピックでは、果たしてどのようなエネルギーが発散されるのか、楽しみでもあり、疑念も同時に感じるのは、サイケおやじがそれだけ齢を重ねた証拠でありましょう。

なにしろロゴマークや国立競技場の設計を巡ってのゴタゴタやイザコザ、マラソンの開催地変更のドタバタ、そして国策ドラマ「いだてん」の完全なる肩透かし……等々に加えて、今度は聖火ランナーに関しての不平不満は、決してサイケおやじだけのものじゃ~ないと思うんですが、いかがなものでしょう。

もちろん、昭和39(1964)年の時だって、夥しい問題はあったはずが、幸いにも(?)小学生だったサイケおやじは知らずに済んでいたというわけですねぇ。

という事で、今となっては何を言っても後祭りではありますが、せめてすっきりとした運営方針だけは示して欲しいと思うばかりです。

とにかくオリンピックは一部の業界や団体のものじゃ~なく、あくまでも世界人類の祭典ですから!

お金や名誉なんてものは、その後についてくれば、それでOKじゃ~ないでしょうかねぇ~~。

最後になりましたが、掲載のシングル盤は「タイムレコード」からの発売なんですが、アルバム「ボーダーライン」は「ポリドール」から発売されているという二重構造って、ど~なってんのぉ~?

余談ではありますが、そんなこんなも気になっているのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友…

2019-12-01 19:43:19 | 日本のロック
SEE SAW c/w 友 / 萩原健一 (Alfa Moon)

だいたい真夜中の電話ってのは不吉な知らせが多いんですが、案の定、本日未明にサイケおやじのスマホに入って来たのは旧友の訃報でした。

故人とは社会人になってからの親交ではありましたが、若い頃の仕事では一緒に辛酸をなめた仲でもあり、ある事情から別な業界へ移って以降も、それなり微妙ではありましたが、お互いの協力関係が続いていました。

しかし近年は年賀状での挨拶程度で、ほとんど疎遠になってはいたものの、あまりにも急な最期には愕然とさせられましたですねぇ……。

ご遺族からの話では、昨夜の入浴中の異変で救急搬送となったものの、既に心肺停止状態だったとかで、その呆気無さには茫然自失とするばかりだったとか、それは全くサイケおやじも同じ気持ちです。

なにしろ故人は気概に満ちた人柄で、内に秘めた芯の強さは誰にも負けず、それゆえに融通性を欠くという周囲からの評価は確かにそのとおりだったかもしれませんが、サイケおやじは、その何事も手抜きをしない姿勢は大いに尊敬しておりましたし、実際に助けられた事も度々でありました。

前述した「ある事情」というのも仕事上、理不尽で悪辣な関係先の執行役員と対立し、こちらが全て正しいはずと決まってはいても、サイケおやじは完全に腰が引けていましたから、故人の任侠と申しましょうか、極言すれば弱い者イジメで利益を貪らんと企んだ相手を潰し、その責任から自ら身を引いたという捨て身の行動は、それこそ周囲からは愚か者扱いだったんですから、サイケおやじは身も縮む思いをしたものです。

で、その後はあまり良い話も耳にすることなく、ほとんど別世界の業種に携わりながら、きっちり成功を収めたところでの急逝には、もはや言葉もありません。

そこで本日は昭和62(1987)年早春に発売された萩原健一のシングル盤「SEE SAW」のB面に収録されたアーバンソウルな名曲名唱「友」を捧げたいと思います。

このシングル盤に収録の両面2曲は、萩原健一が井上堯之(g) 以下、速水清司(g)、ミッキー吉野(key)、渡辺建(b)、樋口晶之(ds)、菅原裕紀(per)、鈴木明男(sax) 等々が顔を揃えたアンドレ・マルロー・バンドと共にスタジオレコーディングしたアルバム「Straight Light」からのカットで、ギターをぶら下げた萩原健一=ショーケンのジャケ写もキマッている人気作でしょう。

で、B面収録の「友」は作詞作曲:速水清司が提供の都会派ソウル歌謡で、自堕落ながら魂の入った泣き節で歌うショーケンのバックでは絶妙のオカズを入れるギター、胸に染み入るオルガン、もちろんリズム隊はタイトで粘っこく、それでいて全篇からはスマートなアーバンフィーリングが滲み出て来ますから、刹那の友情が綴られた歌詞がヒリヒリとして泣けてきますよ。

あぁ……、これも男の友情ってやつですよねぇ~~~。

一方、A面収録の「SEE SAW」はオシャレなシャンソン系歌謡ロックと申しましょうか、ありがちな男と女の下世話な愛の行動こそが、不滅の人間味じゃ~なかろうか……、なぁ~んていう哲学的な思考よりは、むしろショーケンのジタジタに緩んだ節回しこそが満点の説得力という感じです。

う~ん、言い切ってしまえば、この時期のショーケンは決して上手いボーカリストではありませんが、「味」とか「フィーリング」という点においては、間違いなく素晴らしいロッカーだと思うばかりです。

ということで、齢を重ね、一番悲しい事は自分の周囲から親しい人や好きな人が先に他界してしまう事かもしれません。

少なくとも、サイケおやじにとっては、そうです。

衷心より、合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする