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サイケおやじの生活と音楽

追悼:中村吉右衛門

2021-12-01 16:56:21 | 追悼

人間国宝の歌舞伎役者、そして映画演劇の世界でも大活躍した名優・中村吉右衛門の訃報は、残念でなりません。

大きくて繊細な立ち振る舞い、緩急自在の声質による独特の台詞回し、そして眼光だけで芝居を成立させてしまう演技力の確かさは、歌舞伎の舞台のみならず。例えば広く一般で人気を集めていたテレビ時代劇「鬼平犯科帳」の主役・長谷川平蔵としての存在感で、抜群の力量を発揮していたのですから、享年七十七は、あまりにも早すぎるとしか……。

あぁ……、今夜は「鬼平犯科帳」のエンディングテーマに使われていたジプシー・キングスの「インスピレーション」を聴きたいですねぇ……。

衷心より、ご冥福をお祈りいたします。

合掌。

 

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追悼・すぎやまこういち:朝比奈マリアを聴きながら

2021-10-09 17:46:49 | 追悼

ディスコ・ギャル / 朝比奈マリア (alfa)

故・すぎやまこういちの才能のひとつとして、サイケおやじが常々感じていたのは、流行最先端を大衆に馴染ませてしまう、その度量の大きさというか、ある意味じゃ~融通が利き過ぎるので、それをダサイと決めつけられる場合すらあるほどなんですが、市井の一般人にとっての「流行」は、決して「最先端」よりは、本当に巷に流行ってから意識させられるものという実状に鑑み、「ちょい遅れ」ぐらいを意図的に狙っていたのが、故人ならではの職人技(?)だったんじゃ~ないでしょうか。

初っ端から、そんな屁理屈を書き連ねてしまったのは、昭和54(1979)年に発売された、これが待望されていた朝比奈マリアの本格的な歌手デビュー作となるシングル盤でして、そのA面曲「ディスコ・ギャル」こそが作詞:山上路夫&作曲:すぎやまこういち!

というヒットメーカーのクレジットも眩しい、本格的なディスコ歌謡だったんですが、しかし……、その曲タイトルが「ディスコ」と「ギャル」という、リアルタイムじゃ~、聊か時代遅れ気味の単語であり、サウンド作りそのものも、アレンジがすぎやまこういち&ハービー・メイソンという共同作業と記されていますから、そりゃ~~、期待を裏切るものではありませんが……。

それでもアップテンポのリズム&ビートの感覚が、繰り返しますが、ちょいと当時の洋楽最先端からすれば、古さに傾いている気がしたものですし、朝比奈マリアの歌いっぷりもイマイチ、サイケおやじの感性に訴えるものがありませんでした……。

もちろん、彼女は雪村いづみの愛娘ですから、基本的な素質には問題がありませんので、普通に聞けば、なかなかイケているのは確かですし、良く知られているとおり、バックコーラスには山下達郎と吉田美奈子の参加が絶大な魅力として、今に伝えられる「お宝」になっているとはいえ、結局は期待し過ぎたサイケおやじの独断と偏見でありました (^^;

ちなみに同時期には、当然ながら、アルバムも制作されており、そのLP「MARIA」はピクチャーディスクだったという豪華盤♪♪~♪

おまけにというには、あまりにも失礼千万な演奏メンバーには坂本龍一(key)、細野晴臣(b)、高橋幸宏(ds) というYMO勢の参加もありますし、この「ディスコ・ギャル」のアレンジに参画しているハービー・メイソンは説明不要、アメリカではソウル~フュージョン界の達人ドラマーとして活躍するばかりか、自己名義のセッションではAORなボーカルまでも披露する人気者でしたから、このレコーディングセッションにおいても、なかなかの仕事をやっていたと思います。

そして、個人的には聊かの肩透かしを引かれたと感じた仕上がりにしても、実はラジオ等々から流れてくれば、瞬時に耳を奪われてしまう大衆性オシャレ感度の高さに感服させられるほどだったんですねぇ~、これが (^^♪

いゃ~~、自分の思いあがった浅はかさには自己嫌悪という有様でした <(_ _)>

そして、これこそが、つまりは故・すぎやまこういちのストレートなマジックだったんだなぁ~~~、と今般の訃報に接して、サイケおやじは痛烈に再認識させられた次第です。

ということで、朝比奈マリアには厳しい事も書いてしまいましたが、やっぱり昭和の芸能界に咲いた華であったという真実はひとつ!

美しいものに惹かれる素直さも、まだまだサイケおやじには残っている!

と、自分に言い聞かせているのでした (^^;

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追悼・すぎやまこういち

2021-10-08 17:32:38 | 追悼

いつか誰か c/w フェニックス / ザ・ジャガーズ (フィリップス)

いゃ~~、昨夜の地震には仰天させられましたですねぇ~~!?!

ご無事でありましたでしょうか、皆様は?

その時刻、サイケおやじは所用で横浜の妹の家に居たんですが、かなりの被害が各所で予想され、帰宅事情も悪そうだったんで、そのまんま、妹の家に泊まって朝を迎えた次第です。

そして昨日は、もうひとつ、大きな激震がありました。

それは……、ソングライター&プロデューサーとしての仕事ばかりか、各方面での多才な活動により、我が国の文化・芸能界に絶大な功績を残した、すぎやまこういちの訃報でした。

しかも、他界されたのは先月末だったそうですが、昨日の公表というのが、弟子だった故・筒美京平の命日の1年後という、その運命の悪戯というには、あまりにも現世の運否天賦さえ感じてしまったほどです。

で、故・すぎやまこういちの偉大な業績については、とても語り尽くせるものではありませんが、個人的には芸能界の裏方としての活動の中で、スタア予備軍の温床とも云える、今や伝説の「野獣会」を立ち上げた事は、決して無視されるべきでは無いでしょう。

もちろん、その実態・実状について、サイケおやじの知っているところは限られてはいるんですが、とにかく「野獣会」は六本木周辺に集う遊び仲間のグループだったらしく、そこからは田辺靖雄、小川知子、大原麗子、井上順、中尾彬、等々が芸能界へスカウトされ、スタアになっていったんですが、元々は故・すぎやまこういちが当時、フジテレビで担当していたバラエティ番組への出演者を選抜するために集めたグループだったという真相があるらしく、それが昭和36(1961)年だったと云われています。

さて、そこで本日掲載したのは、昭和45(1970)年に発売された、これがジャガーズのラストシングルとされる1枚なんですが、そのジャガーズこそが、件の「野獣会」が音楽活動を始めた流れから結成されたバンドであり、もちろん当時は「野獣会オールスターズ」と名乗っていたそうですが、とにかくGS関連の楽曲にも多く関わってきた故人が、このシングル盤両面2曲で作編曲を担当したというのも、妙な因縁(?)を感じてしまいますねぇ……。

ちなみに作詞は、両面ともに阿久悠で、まずはA面「いつか誰か」はミディアムテンポのソフトロック歌謡に仕上がっているという事は、オーケストラも堂々と導入した、なんともアソシエイションがモロ出しの面映ゆさ (^^;

どうやら、例の万博の中のイベント用に作られた楽曲という説もありますから、これはこれで当時の流行を意識したものだったんでしょうが、肝心のジャガーズはGSブーム衰退の中で、メンバーも流動的となっていた時期で、岡本信(vo)、宮崎こういち(g)、佐藤安治(key)、森田巳木夫(b)、浜野たけし(ds) という面々がラインナップされてはいますが、サイケおやじは実際に当時のジャガーズのステージに接した事がありませんし、テレビ出演していたという記憶も薄いもんですから、その真の姿は知る由もありません……。

しかし、このレコードに収録された楽曲トラックは、既に述べたとおり、ソフトロック歌謡としては、如何にも「EXPO '70」な前向きなムードを今に伝えてくれる裏名作で、それはB面収録「フェニックス」でも、同じ味わいが全開 (^^)

このあたりの感覚こそが、ジャガーズというよりも、完全に故・すぎやまこういち!

――でありましょう (^^♪

穿ち過ぎかもしれませんが、後年の代表作「ドラクエ」あたりにも繋がる、壮大でありながら、個人主義をも大切にした音楽が提供されているんじゃ~ないでしょうか。

しかし、結果的に……、このレコードは売れず、ジャガーズもフェードアウトしてしまい、それでいて何故か中古屋の店頭にはゴロゴロ並んでいた時期がありましたから、デッドストックが相当にあったんでしょうかねぇ~~(^^;

このサイケおやじの私有盤にしても、それなんですよ (^^;

ということで、現在の日本で生活している我々にとって、「すぎやまこういち」という名前を全く知らない人は、ほとんど皆無でありましょう。

例え故人の業績の全てを把握していなくとも、我々の精神構造の中に自然と刷り込まれているのが「すぎやまこういち」の素晴らしい才能だと思うばかりです。

そして、衷心より、ご冥福をお祈りいたします。

合掌。

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追悼・さいとうたかを

2021-09-29 18:04:44 | 追悼

「漫画」から「劇画」への流れを確立させた巨匠・さいとうたかを先生が鬼籍に入られました。

故人の代表作としては、やはり孤高のスナイパーを描いた「ゴルゴ13」である事に異論は無いでしょう。

それは架空の人物でありながら、物語展開が現実の時事とリンクしているところが面白く、しかも「ゴルゴ13」という通称が社会の裏側で堂々と知られていながら、実際に仕事を依頼する場合の不明確な連絡方法が逆にリアルという、なんともミステリアスな存在の殺し屋が十八番にしているのが、遠方からの神業的な射撃であり、またハードボイルドな佇まいと行動がニクイばかりにキマっているのですから、殊更男性読者からの支持は絶大であり、学生からサラリーマン、経営者から政治家までもが、大いに勉強させられたのが、故人の描いていた「ゴルゴ13」の物語だったのですが、いかがなものでしょう。

不肖サイケおやじにしても、既に高校生の頃から掲載雑誌の「ビックコミック」毎号を楽しみにしていたことは言うまでもありませんし、そのエピソードが積み重なっていくほどに気になるのが、「ゴルゴ13」の正体!?

実は当初から明らかになっていたのは、どうやら東洋系の人物で、「デューク東郷」と名乗っているのが普段の姿?

―― みたいなプロフィールがあったんですが、そんなこんなの疑問に対する最初の回答的なエピソードが、昭和47(1972)年6月に発表された第61話「日本人・東研作」でありました。

あぁ……、これには当時、本当にワクワクさせられましたですねぇ~~ (^^♪

もちろん、既に述べたとおり、「ゴルゴ13」はシリーズ全篇を通して、基本的に現実社会の時事とリンクしている物語展開が多いので、この「日本人・東研作」にしても、やはり昭和47(1972)年という時代背景を抜きにしては、面白さも満喫出来ないかもしれませんが、しかしっ!

今となっては素晴らしい歴史物語として、堪能出来るんじゃ~ないでしょうか (^^)

ちなみに物語中には、この闇の中のスナイパーを執拗に取材し続けるジャーナリストのマンディ・ワシントンが登場するんですが、この人物は以降のエピソードにも度々顔を出すので、シリーズ全篇のキーパーソンとして要注意かと思います。

また、これは後になって分かった事なんですが、おそらくは「ゴルゴ13」が我が国で本格的な仕事をやったのは、このエピソードが最初かもしれません。

で、肝心の「ゴルゴ13」の正体に関して、ここでは「東研作」という人物が推測されるという展開ながら、その結末は……?

というのが、これは本篇を読んでのお楽しみ (^^)

本日掲載したのは、その「日本人・東研作」が収録されたコミック単行本であります。

ということで、故人の業績は決して「ゴルゴ13」ばかりではなく、それなりに子供向けの作品や時代劇等々も描いておりましたので、機会があれば、ぜひとも皆様にもお楽しみいただきたいところです。

また、ご存じのとおり、「ゴルゴ13」は実写映画版として高倉健と千葉真一が主演した2作品が東映で作られているんですが、もちろん賛否両論は確かにありました。

しかし、やはり実写の映画作品となれば、「ゴルゴ13」を演じるのは日本人俳優であって欲しいと願うのが、サイケおやじの偽りのない気持ちです。

そのあたりの強い思いも含めまして、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌。

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追悼・チャーリー・ワッツ

2021-08-25 15:47:27 | 追悼

ローリング・ストーンズのドラマーとして、この偉大なるバンドのリズムとビートを司ってきたチャーリー・ワッツが彼岸へ旅立ちました。

故人は俗にサイレント・ストーンと呼ばれていたとおり、寡黙な大人のイメージも強かったんですが、ストーンズならではのグルーヴとノリを表現出来ていたのは、初期においてはリーダーのブライアン・ジョーンズ(g) とグル(?)になった突進力を最大の武器にした演奏の要であり、1960年代中頃からのズレた様なリズムパターンによる楽曲の成り立ちには、殊更ライブの現場においてはビル・ワイマ(b) との共同作業によるポリリズムとタイトなビートの融合という、独自の芸風を確立させ、例えば1969年の大ヒット曲「Honky Tonk Women」で聴かせてくれた、あの麻薬的なビート感は以降、ストーンズをストーンズとして認知させる、完全なチャーリー・ワッツだけの芸当でありましょう。

それはミック・テイラー(g) 参加後の所謂ライブ最強時代になると、ほとんどリズムギターが弾けていないミック・テイラーと危なっかしいキース・リチャーズ(g) を上手くリードして、もっさり型グルーヴのビル・ワイマンのベースに繋ぎ込むという働きが冴えまくりだったと思うんですが、いかがなものでしょう。

逆に言えば、全く合っていないノリのリズム隊をバックに歌うミック・ジャガーが頼りにしていたのは、チャーリー・ワッツのドラミングだったのかもしれません。

そのあたりは、1975年以降にロン・ウッド(g) やビリー・プレストン(key) が参加した安定期のステージライブで尚更に顕著に感じられ、いよいよ16ビートの本格的な導入に踏み切ったストーンズが古い体質を改善していく中で、チャーリー・ワッツがやってしまったのが、寸止めドラミング!?

このあたりは、サイケおやじの稚拙な筆では説明が難しいわけですが、当時のライブ映像を鑑賞すれば、途中でリズムを端折り、ビートに隙間を作りながらも、全体としてのポリリズムを敲き出す故人のアクションに釘付けにされるのが、サイケおやじの本性です (^^♪

巷では普通に云われるチャーリー・ワッツのドラミングのスタイルはシンプルなリズム云々という、ロックの基本に根差したところばかりなんですが、それはそれで正解でありながら、もうひとつ、ジャズにもルーツを持つ個性が、ついには自己名義のビックバンドまで結成し、レコーディングや巡業ライブまでやっていた事で証明されたんじゃ~ないでしょうか。

個人的には、そのあたりを最初に意識させられたのが例のブライアン・ジョーンズ追悼ライブとなったハイドパークでの演目中、「悪魔を憐れむ歌」でアフリカのバンドであるオシビサの面々とやらかしたアフロラテン(?)なポリリズムドラミング!

これは公式映像化されていますので、皆様にはお楽しみいただきたい、チャーリー・ワッツの至芸であります (^^♪

ということで、人間としてのチャーリー・ワッツは、1980年代からドラッグの魔の手に溺れた時期もありましたが、全員が強烈な曲者揃いのストーンズの面々の中にあっては、最も冷静にバンド活動を全うしたんじゃ~ないでしょうか。

故人は決して聖人君子ではなく、むしろ一般人からすれば、桁外れの人生を過ごした奇特な人でありましょう。

告白すれば、本日は朝から、ずうぅ~~っとストーンズばかりを鳴らしております、音量ボリュームは絞ってますけどね (^^ゞ

チャーリー・ワッツ!

永遠なれっ!

PS:ストーンズ関連の音源諸々に関しては、拙ブログ内カテゴリー「Rolling Stones」を御一読願えれば、幸いでございます <(_ _)>

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寺内タケシの魂に感服感涙

2021-06-20 20:02:28 | 追悼

同期の桜 / 寺内タケシとブルー・ジーンズ (キングレコード)

昨日接した寺内タケシの訃報には、心底動揺させられました……。

もちろん、故人の偉大なる業績については語りつくせるはずもなく、何か……、寺内タケシのレコードに針を落とそうとはしたものの、それを選ぶ過程でジャケ写を見ているうちに、気持が猶更に揺れながら沈んでしまい……。

久々に悲しみの中で目を閉じて、朝を迎えた次第です。

そして取り出したのが本日掲載のシングル盤というわけですが、寺内タケシが生涯の演奏方針のひとつであった「日本の歌」のエレキインスト化の中にあって、民謡・俗謡、歌謡曲、フォークソングや流行歌等々と共に忘れてはならないのが「軍歌」という、昭和元禄の世にあっては、些か疎まれる事も吝かではなかったジャンルでした。

しかも、このシングル盤を出したのが昭和45(1970)年という、反戦とか自由主義とかが若者文化を越えて世の中に広まっていた時期なんですから、それをエレキでっ!?

云々、確かに露骨に顔を顰める向きもあったと思われます。

もちろん、演奏そのものは既に述べたとおり、エレキインストですから、つまりは歌っているレコードではないんですが、裏ジャケには堂々と歌詞が印刷されているあたりも、様々な憶測と思惑を感じさせていた事は確かだったんでしょうが……。

それでも演奏は流石! 寺内タケシの本領が存分に発揮され、勇壮と哀愁が絶妙に入り組んだ原曲メロディをストレートに演じつつ、サビではチョーキングとビブラートを巧みに用いた刹那の変奏は絶対的な無常観と哀切を感じさせてくれるんですねぇ~~~。

ちなみに当時のブルー・ジーンズは、もちろん「第2次」のメンバーで、それは寺内タケシ(g) 以下、相田幹夫(g)、志村幸夫(g)、山根裕(key)、石橋志朗(b)、ジョー水木(ds)、ルイ高橋(per) という顔ぶれである事が、やはり裏ジャケに記載してあるんですが、皆様ご存知のとおり、寺内タケシが健康問題諸々で昭和41(1966)年に最初のブルー・ジーンズを辞め、その後にバニーズを結成しての大活躍はエレキの世界史に刻まれた偉業に他なりませんが、そのバニーズからも脱退したのは、偏に故人の矜持であったはずです。

それは前述のブルー・ジーンズも、またバニーズも、寺内タケシが去った後は歌謡系GS~ムード歌謡系のバンドになってしまった事でも……。

そして、いよいよ寺内タケシがブルー・ジーンズを「再興」させたのが昭和44(1969)年であり、つまりは、あれほどの大ブームになっていたエレキ~GSのグループが次々に解散~消滅していた時期に、あえてエレキインストをメインにしたバンドを組んだという、その意気地と心意気には感服するばかりです。

それは当時、所謂ベンチャーズ歌謡で新たなる黄金期に突入していたベンチャーズと共にエレキは不滅という看板を堂々と掲げた活躍は、説明不要でありましょう。

ちなみに以前、拙ブログで書いたとおり、サイケおやじが学生時代に入れてもらっていたバンドで夏場にビアガーデン等々でバイト演奏をやった時、店側やお客さんから軍歌のリクエストがあるもんですから、この寺内タケシが演じるところの「同期の桜」をコピーしていた思い出も重なり、またまた……、寂寥感がこみあげてまいりました……。

ということで、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

寺内タケシ、永遠なれ!

 

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あぁ…寺内タケシ…

2021-06-19 19:27:44 | 追悼

エレキの神様ゆえに、帰天と言うべきなのでしょう……。

サイケおやじは……、絶句です。

合掌。

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追悼・小林亜星

2021-06-14 19:45:59 | 追悼

リンゴがひとつ / いけだももこ& 小林亜星 (日本コロムビア)

偉大なるソングライターにして、マルチタレントとしても活躍した小林亜星の訃報に接しました。

作曲家としては夥しいメロディを書き、数多のヒット曲を量産し、それは日本で暮らす我々にとっては曲名は知らずとも、必ずや耳に馴染んだ旋律に他ならないわけですが、それというのも故人が最初に認められたのが所謂CMソングの世界であり、次いでテレビ関連のアニメやドラマの主題歌&挿入歌を提供し続けていたからでしょう。

ところが、もうひとつ、我々が小林亜星を印象づけられているのは、本人の風貌そのものが強いイメージとして残ってしまうからで、だからこそ、いきなりテレビドラマの主役に抜擢され、トンデモ演技寸前の爆発量を見せつけたのが、TBS系列で昭和49(1974)年から放送されていた「寺内貫太郎一家」の主役である石屋の熱血親父だったと思うんですが、いかがなものでしょう。

その劇中では頑固と暴力、人情と任侠の生き様を貫きとおす役柄を持ち前の巨体を存分に活かして演じ、忽ちにして、これが有名作曲家の本性だったのかっ!?!

なぁ~んていう誤解とも曲解とも、あるいは正論とも云える問題提起(?)をやらかしたのは、今にしても流石という他はありません。

なにしろ件の「寺内貫太郎一家」が放送されていた間にも本業(?)の作曲活動は途切れる事無く継続され、一端放送が衆力した昭和51(1976)年には都はるみにレコード大賞を取らせた「北の宿から」を提供しているほどです。

さて、そこで本日掲載したのは、件の「寺内貫太郎一家」の劇中挿入歌として、阿久悠が綴った歌詞に故人がバブルガム調のメロディを附した、これが和みのソフトロック童謡♪♪~♪

渋谷毅のアレンジも、そのあたりを大切にしたイイ仕事だと思います。

デュエット相手のいけだももこは、もちろん「寺内貫太郎一家」にも出演し、確か西城秀樹のガールフレンド役だった様な記憶もあるんですが、それはそれとして、ここでは可愛らしい節回しを披露しているのは高得点 (^^♪

ただし、ドラマ本篇の中では必ずしも小林亜星&いけだももこが歌っていたわけではなく、エピソード毎に登場人物が数人で合掌したり、鼻歌っぽく独唱したりする場面がありましたから、昭和49(1974)年夏にレコード発売が決定した時に、いけだももこの起用があらためて決まったのは、それだけ彼女が歌手としても期待されていたからかもしれません。

ということで、小林亜星の偉業は語りつくせぬのが当然ではありますが、故人の外見的キャラクターが明らかにされているのは、個人的には良かった様な気がしています。

合掌。

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追悼・菊池俊輔

2021-04-29 19:46:15 | 追悼

行け! タイガーマスク c/w みなし児のバラード /  新田洋 (キングレコード)

日本の映画やテレビドラマの劇伴を担当し、偉大な功績を残した菊池俊輔の訃報に接しました。

おそらくは日本で暮らしている我々にとって、故人の書いたメロディは必ずや耳にしているはずで、例えばテレビドラマやアニメ、そして特撮のジャンルだけでも「キイハンター」「タイガーマスク」「仮面ライダー」等々、夥しく心に染み込んでいる歌や演奏は忘れられるものではありません。

ですから、代表作を選ぶなんて事は愚行に等しく、しかし、それでも本日は昭和44(1969)年10月から約2年間、日本テレビ系列で放送されていた本格的プロレスアニメ「タイガーマスク」の主題歌とエンディングテーマをカップリングしたシングル盤を取り出しました。

ご存知のとおり、件のアニメは梶原一騎の原作を辻なおきが描いた漫画作品として、最初は昭和43(1968)年から講談社の月間漫画雑誌「ぼくら」に連載され、それは現実のプロレスラーが実名で登場するというリアルなスポ根物という面白さに加えて、如何にもプロレスらしい荒唐無稽な描写や物語展開がありながら、同時にタイガーマスクは孤児だったという生い立ちから、過去に世話になっていた施設の子供達との関わりも描かれた素晴らしいドキュメンタリー&フィクションでしたから、忽ち人気は沸騰!

ですから、前述のテレビアニメ版も高視聴率番組となり、ついには新日本プロレスに現実世界のタイガーマスクが登場し、爆発的なブームを巻き起こした事は皆様ご存知のとおりです。

で、そんなわけですから、件のテレビアニメ版の主題歌が多くの日本人に刷り込まれているのは言わずもがな、そのオープニングテーマが、このシングル盤に収録されているA面曲「行け! タイガーマスク」であり、今に至るも名フレーズ満載の作詞は木谷梨男、そしてスリル&サスペンスが真正面から飛び出して来る作編曲が菊池俊輔でありましたっ!

う~ん、本日久々に針を落とし、じっくり鑑賞しても、我知らず腰が浮くと申しましょうか、この主題歌には本当に血が騒いでしまいますねぇ~~ (^^♪

ちなみに歌っている新田洋は様々な芸名を使い分けて活躍している有名(?)シンガーで、一番に知られているのは森本英世として、昭和48(1973)年頃から、敏いとうとハッピー&ブルーのリードボーカルを務め、その独特の泣き節歌唱は大ヒット曲「星降る街角」等々で存分に聴けますが、その意味で決して忘れてはならないのがA面と同じ制作スタッフが提供したB面収録曲「みなし児のバラード」でしょう。

それは、とにかくミディアムスローで節回される捨鉢な歌の世界を至高のものとする仕上がりで、これぞっ!

日本のアニメから生れ出た傑作歌謡ソウルバラードであり、作編曲における菊池俊輔の抜群の手腕が堪能できると思いますねぇ~~ (^^♪

実は告白すると、学生時代にサイケおやじが入れてもらっていたバンドでウケ狙いではありますが、この「みなし児のバラード」をやろうっ!

という話が纏まり、その時に中古ゲットしたのが、この掲載盤であり、以来……、永久貸与になっているというわけでして (^^;

閑話休題。

ところで、劇伴の仕事では、それなりに使い回しが普通の様で、この「タイガーマスク」のアニメ本篇では「キイハンター」で使われていたメロディやリフが度々流れている事も要注意かもしれません。

もちろん、それがあってこそ、瞬時に「菊池俊輔の世界」が物語を染め上げ、正にドラマチックな展開と構成が伝わって来るのですから、流石と思うばかりです。

ということで、故人の業績については、とてもとても、サイケおやじの稚拙な筆では書き表せるはずもありません。

謹んで、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

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船木誠勝が語る「3.11」のリアルな実相

2021-03-11 19:50:13 | 追悼

3.11から10年…宮城県内で被災した体験談と今思うこと(船木誠勝)

冒頭に共有掲載させていただいたのは昨日の続篇として、件の「CHONO Network」に登場した現役レスラーの船木誠勝が語る「3.11」のリアルな体験談であります。

説明不要かもしれませんが、船木誠勝は初代タイガーマスクに憧れ、中学卒業直後の昭和59(1984)年春に新日本プロレスに入門! ちなみに同期の新弟子には天才・武藤敬司、黒のカリスマ・蝶野正洋、破壊王・橋本真也という闘魂三銃士の他に個性派・野上彰、また1年先輩には後に獣神サンダーライガーに変身して大ブレイクする山田恵一という俊英が揃っていた中にあって、船木誠勝は常にピュアな気持ちでプロレスに取り組み、過酷なトレーニングに耐え、新弟子としての修業を重ねた結果、翌年に若干15歳でプロレスラーとしてデビューしたほどの逸材でしたから、会社側も将来を嘱望し、プロレスマスコミからのウケも相当に高かったのですが、それに本人は決して満足していたわけでは無さそうで、常に「自分自身のプロレス」について考えていたと後に語っています。

そして、そのひとつの答えが、その頃ブームになりつつあった関節技と打撃をメインした戦いを見せる「UWF」スタイルで、新日本プロレス育ちながら、古巣から独立する形で設立されたプロレス団体「UWF」に所属の前田日明、高田延彦、山崎一夫、そして前述した初代タイガーマスクの佐山聡! 等々がやっていたシュートスタイルのプロレスだったもんですから、船木誠勝も自ら率先して「骨法」と称される打撃系日本武術の習得修業に夜の出稽古で勤しんでいた事は有名な逸話でしょう。

実際、新日本プロレスの若手前座時代から、トリッキーなプロレスのムーブと実践的な「骨法」をミックスさせたファイトスタイルは今も新鮮! それはネットでも接する事が出来ますので、ぜひともご覧くださいませ。

こ~して船木誠勝は若手プロレスラーの育成定番コースでもある海外武者修行を終えた平成元(1989)年春、帰国するとUWFへ移籍加入したのですが、本人は前述したとおり、「シュートスタイルのプロレス」をやるつもりが、既に団体の方向性は「格闘技」だと、リーダー格の前田日明から説明され、それならばと「格闘技」スタイルで本気の「骨法」を使った打撃も交えたファイトを見せれば、それも前田日明から疎まれるという……。

結局、「UWF」も「プロレス」も、所謂ショウスポーツ的な要素が高いプロのエンタメという、新日本プロレス入門当時から船木誠勝が気に病んでいた「八百長」という世間の目から逃れられないものならばっ!?

そんなこんなの紆余曲折を経て、ついに立ち上げたのが自らの団体「パンクラス」であり、基本姿勢は「相手の技を受けないプロレス」でしたから、「完全実力主義」を標榜する緊張感の高い試合は「秒殺」という流行語まで世に広めたほどのインパクトがありましたですねぇ~~。

ちなみに船木誠勝はUWF入団後のリングネームであり、新日本プロレス時代は本名の船木優治(ふなきまさはる)と名乗っていましたですねぇ。

閑話休題。

こ~してリアルな格闘技を実践した船木誠勝は、あのヒクソン・グレイシーと一騎打ち!

敗れはしたものの、常勝の強者をギリギリまで追い込んだ試合は正に名勝負であり、結果として負けた船木誠勝は格闘技者として引退するほど、つまりはリアルファイトの極みを実践披露したのですから、流石です。

以降、リングから降りた船木誠勝は俳優業に転身したのですが、後にプロレスに復帰し、10年前の大震災当時は全日本プロレスに所属し、東北地方へ巡業に旅立った日が「3.11」だったのですから、語られる内容には迫真以上!

ということで、共有掲載させていただいた動画の元ネタは船木誠勝が運営する公式チャンネルからものですから、他にも興味津々のネタが満載されているのはいわずもがな、皆様にはチャンネル登録を強くオススメする次第です。

あぁ……、あれから……、10年の時が流れ、当時を体験していない子供達も大勢生活している現在、何を伝えるべきは様々ありますが、ネットの活用が最も有効なのかもしれません。

被災された皆様には、あらためてお見舞い申し上げます。

そして亡くなられた方々……、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌。

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