5月27日(日):
424ページ 所要時間4:15 ブックオフ105円
著者38歳(1867慶応3-1916大正5:49歳)。
子供の時から幾度となく挫折してきた作品である。手元に492ページの新潮文庫があり、387ページのページの耳を折っている。ひょっとしたら終わりまで読み通したことがあるのかもしれないが、記憶にはない。「坊ちゃん」や「こころ」「三四郎」他「草枕」「夢十夜」などは読めている。
「吾輩は猫である」は漱石の代表作として、常にトップに紹介されて、「「坊っちゃん」とともに小学生でもこれぐらいは読めてもいいだろう」とされている。しかし、俺は挑戦するたびに高い壁を感じてきた。まず日本語が変である。漢字の当て字も、これまたひどい。
迷亭、水島寒月(寺田虎彦)、越智東風、虚子といった連中が、偏屈な苦沙弥先生宅に訪ねてきて、まさに国内外の現代過去および歴史、神羅万象あらゆる話題をとりとめもなく、ただただだべり続けて、そこに系統だったつながりがまったくない。しかもその話題のレベルたるや当時の時代背景を踏まえずとも、現代人から見てもただ事でなく高尚な内容から世間話の地口まで理解しがたい話題が延々と羅列、垂れ流しされ続けるのだ。
子供の時から、今に至るまで本書を読んで「面白い」とか「楽しい」と思ったことは一度もない。何が面白いのか!?内容のレベルの高さ、および結構膨大な量といい、これを漱石の代表作として子供向けとして紹介してきた連中に対して俺は悪意を覚えてきた。俺は、「今日の小説の自然な日本語を生み出した親は夏目漱石だ」と思っている。しかし、本書の日本語は、漱石の作品の中でも最も奇異な日本語であり、内容の話題性でも連続性に難があり読み難い作品である。
どうしてこの作品が<子供向け>の面白い作品とされてきたのか、俺が長年持ち続けてきた謎である。日露戦争後半の展開と同時並行的に雑誌に連載されていた事情もあるのだとは思う。当時の日本人にとっては、短編連載という形式で読むのに面白い書き方だったのかもしれないが、現代の日本人が一度に読む作品としては、むしろ現代人にとって一番読み難い漱石作品といえるのではないかと俺は思う。
正直、今回読んでいて、筋を追うことはできても、高等遊民の登場人物たちが展開する当時も今もレベルの高い教養に裏打ちされた数々の話題の面白さを味わうことはほとんどできていない。自分で言うのもなんだが、俺の歴史・文学・地理他の一般教養は、世間的にはそれなりに高いグループにいると自負しているが、本書中の話題の意味や意義は分かっても、限られた時間の中でそれを面白いと味わえることはほとんどなかった。
これを漱石のユーモア小説として、子供や若者に薦める大人たちに対して、俺は強い欺瞞を覚える。「お前ら、本当にこの作品を面白いと思ってるのか!?この嘘つき野郎たちめ!」と言ってしまいそうになるのである。ガラの悪い言葉を使ってすみませんm(_ _)m。
でも、まだ下巻341ページが残ってるんですよね・・・。
以下、ウィキペディアを部分的に修正掲載
【構成】第1話:「吾輩」は薄暗いところで出生したが、まもなく書生に遺棄され、教師の家に住み込む。人間について車屋の黒から、わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。
第2話:家に、寒月、迷亭、東風などが訪問し、好き放題のでたらめを言う。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。
第3話:金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。
第4話:鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。
第5話:苦沙弥宅に泥棒が入る。吾輩はネズミ取りに失敗する。
第6話:寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。
第7話:吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。
第8話:落雲館中学校生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。
第9話:痘痕面の苦沙弥、八木独仙の東洋流消極哲学に感心。逮捕された泥棒を刑事と間違い頭を下げる。
第10話:古井が金田の娘に恋文を送り、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。
第11話:寒月は珠磨をやめ、故郷で結婚した。独仙、苦沙弥、寒月、東風らによる夫婦論、女性論。来客が帰ったあと、吾輩は飲み残しのビールに酩酊し、水甕のなかに転落して水死する。
※上巻は第1話から第7話までであった。