3月26日(火):
433ページ(本文372ページ)の内現在346ページ 所要時間 9:05(現在進行中) 図書館
→4月1日(水):本文372ページ 所要時間10:10(解説抜き) 図書館
著者38歳(1894~1963;69歳)。
イギリスの作家。祖父、長兄、異母弟が著名な生物学者、父は編集者で作家、母は文人の家系という名家に生まれる。医者をめざしてイートン校に入るが、角膜炎から失明同然となり退学。視力回復後はオックスフォード大学で英文学と言語学を専攻し、D・H・ロレンスなどと親交を深める。文芸誌編集などを経て、詩集で作家デビュー。膨大な数のエッセイ、旅行記、伝記などもある。
裏表紙紹介:
西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め…驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版!
「4 048 立花隆「脳を鍛える 東大講義「人間の現在」」(新潮文庫:2000(1996)) 感想5」で「オルダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』(1932)は、オーウェルの『一九八四年』よりもずっとすごい!」と書いてあったのがきっかけである。同じ未来のディストピアを描いた小説で、オーウェルの『一九八四年』(1949)よりすごいってどんなんだろう。その後、幸運にも図書館で本書を発見することになって読み始めた。
あと少しだけページが残っているが、とりあえず書いておく。とにかく苦戦させられた。読みにくかった。坊主憎けりゃお袈裟まで、で翻訳者にも「下手なんとちゃうか?」と八つ当たりしてしまった。速読が全くできない。苦しい読書である。楽しくない。実は、1ページ5秒読みで終わりまで0:25で眺めてみたが、複雑で騒々しい世界が書かれてるとしか感じず、全く理解不能だった、次いで1ページ30秒読みで2:00かけて、220ページくらいまで読んだが、やはり物語りの構造がわかりにくい。それから読み直して6:40ってところだろうか。現時点で、どちらがすごいかは言えないが、どちらもすごい。
強いて言えば、『一九八四年』が非常に政治的で“抑圧”志向の強い内容(まだ世界が統一されていない)なのに対して、『すばらしい新世界』はよりSF的、文芸的で“安定”志向の強い内容(もう世界は統一され切っている)だといえる。しかし、一見ソフトな“安定”の陰に大いなる“抑圧”が存在しているという意味では、むき出しの恐怖の『一九八四年』よりも『すばらしい新世界』の方が恐ろしいと言えるかもしれない。また、ハクスリーは、医学を勉強しているだけに科学的内容は、なかなか迫真性があった。まあ、どっちもすごい作品だ。比較の問題じゃないが…。
原作の著された西暦1932年の608年後である西暦2540年、「社会の安定性」という価値が絶対化された未来では、家族制度が解体され、科学の発展すら制限されている。あらゆる価値観が倒錯した世界が作りだされ、宗教も否定され、なぜか神に代わってT型フォード車の大量生産により自動車王と呼ばれたヘンリー=フォードが崇拝されている。そのため、原作のゴッドにあたる部分は、皆フォードという言葉が入る。たとえば、オーマイゴッド!は、オーフォード!となる。
物語は、フォード紀元(AF)632年(西暦2540年)のロンドン「孵化・条件づけセンター」の見学から始まる。「共同性、同一性、安定性」という究極の社会目標を実現するために、人間は母親の妊娠・出産によって生まれることを止めていた。その代わりに工場で、受精させた卵に一定のストレスを与えることで卵割を行わせ同じ遺伝子をもつ受精卵を増やす(ボカノフスキー法)、それを繰り返して最大で96人一卵性他胎児を生産可能となる。
受精卵は、まず雌豚の腹膜を内張りされたビンに着床され、1日8メートルの速度で267日、都合2136メートルのラインを移動する過程で、将来の階級ごとに、支配側のα(アルファ)、β(ベータ)、被支配側のγ(ガンマ)、δ(デルタ)、ε(エプシロン)で能力に差が出るように加工も行なわれる。
赤ん坊になってからも、被支配階級の子には本を見ると騒音、花を触ると電気ショックという根源的不快感をしつけ、さらに睡眠学習により各階級で自分以外の階級を嫌がり、自分の階級で良かったという意識を徹底的に植え付ける。
家族という概念は徹底的に破壊・否定される。たとえば、母・父・親、恋愛、一夫一婦制、出産など家族制度に関わる言葉はすべて卑語であり猥褻な言葉で目にしても口にしても耳にしてもいけない非常識な言葉となる。出産を否定された人間は皆、自分を生産してくれた工場の“ビン”を恋しがる。
すべての苦痛・苦労の除去と快楽を与えることによる社会の安定を実現をめざす世界では、女子は生まれる前に不妊化されており、その上でフリーセックスが常識とする教育が徹底されている。多少の違和感は残るが「男女ともに特定の相手としか性交渉しないことは極めて恥ずべきこと」とされた。
支配階級のαは、交通手段としてヘリコプターを常用し、被支配階級のγ、δ、εは製造過程で様々なストレス・刺激を与えて成長を抑制され、知能も低く抑えられていて自分たちのおかれている状況に一切の不満を持たない。
キリスト教をはじめ、宗教が否定され、ゴッドの代わりになぜかフォードを唱え、十字架の代わりにT字架を切るという疑似宗教が成立していた。
さまざまに施された医療措置・栄養補給・ストレスの無い生活の中で人間は衰えることの無い若々しい肉体のまま60歳までを生きて、死ぬ。死の定年制である。子供のころから、ホスピス病棟見学が行われ、死を恐れない意識が植え付けらている。
社会や自身を不安定化するストレスや混乱に対処するためには、リアルに性的感覚を味わえる触感映画や特効薬として多用し過ぎれば命を縮めるが、適量であれば安全なソーマという快楽薬(まあ一種の麻薬・覚せい剤)などが十分に配給・保障されている。精神的に疲労したり、危機に陥れば、それに耐えるのではなく、さっさとソーマを飲んで永遠の快楽の時間を味わう。これを「ソーマの休日」という。
フリーセックスやオージーポージー(乱交最高)の際にもソーマの服用は欠かせないものだ。
とにかく読み難い小説だったが、その理由は明らかで、以上のように我々の常識をことごとくひっくり返した世界が描かれているために頭にストーリーが納まるのにすごくつっかえてしまい、読みがなかなか進まないのだ。ただ、この世界の構造、発想自体をのみ込むことができれば、物語自体は単純である。
人間製造工場(「孵化・条件づけセンター」)を中心にαの人々が起こす問題である。工場で働くレーニナは美貌の女性だが、多少の違和感をソーマで誤魔化して、フリーセックス(奨励されている)の日々を送っている。
製造過程で障害があったと噂され、γ並みの背丈しかないできそこないαのバーナードは、多少の劣等感と他の人間たちとの共同・協力に違和感を覚える生活をしている。レーニナに恋心を抱くが、レーニナのフリーセックスが許せず、この世界のあり方にも疑問を抱いている。
そんな中、レーニナと一緒に休暇を過ごせることになったバーナードは、二人で野蛮人居留地のマルパイス(旧世界の風習が残っているが、文字を知らず退行している)にいく。そして、リンダ(44歳)とジョン(16歳)母子に出会う。実はリンダは、同じ人間製造工場で生まれたβで、工場長トマキンとの性交渉によって居留地でジョンを生むが、取り残されてしまい、フリーセックスの習慣をもつため、野蛮人居留地の男たちと性交渉をしながら、ジョンを育てるが、旧世界の男の妻たちから売女として虐待を受ける。
危険分子としてアイスランドにとばされかけていたバーナードは二人を居留地(旧世界)から連れ帰り、工場長のトマキンに逆襲する。ジョンから「お父さん」という卑語で呼ばれた工場長は罷免され二度と復帰できない。
新世界で生まれたのに、旧世界で出産・子育て、フリーセックスを繰り返し、女たちから虐待を受け、加齢により醜く太ったリンダは、新世界では嘲笑・忌避されるが、ジョンの存在は珍重され、ミスター野蛮人(サヴェッジ)として人気の的になる。政敵を追い落とし、ジョンの保護者となったバーナードは劣等感から解放され、自らの優位さに自信を深めるとともに新世界への違和感を失って俗物化するが、上層部からは警戒される。
やがてジョン自身が自らの意志をもって新世界を批判を始めると風向きは変わる。ジョンに同調するヘルムホルツ(バーナードの友人)は、ジョンと共に世界統制官評議会のムスタファ・モンド閣下(西ヨーロッパ駐在統制官)と論を戦わせることになる。オーウェルの『一九八四年』で言えば、黒幕主役のオブライエン的存在だろうか。
キリスト教の廃棄、シェークスピア・文化の廃棄、職字の制限が行われた新世界に対するジョンの唯一の武器は、旧世界の地下聖所に残されていて、リンダから受け取ったシェークスピア全集から獲得した「ことば」であり、「どうして差別のもとになる人間製造を行うのか、みんなαにすれば良いはずだ!」と抗議する。
しかし、ムスタファ・モンドは、「(シェークスピアの)他にもある」と言って旧約・新約聖書他を示しつつ、「これらの言葉はもう古い」と否定し、さらにαだけのキプロス島実験の失敗、九年戦争の経験をもちだして、社会の安定性維持こそが至高の重大事であり、そのためには能力差と差別意識を社会に組み込むことは欠くことができないと説く。
さて、ラスト26ページで物語りはどう展開するのか。
4月1日(水): 残る本文26ページを、1:05で読んだ。解説は、読まず。
文明生活を拒否したジョンは、共同生活を離れ、ロンドン郊外の人の来ない灯台に住み、孤独な禁欲的生活を送ろうと努力する。しかし、美しいレーニナのイメージがジョンを苦しめる。情欲と闘うために、叫びとともに自らの体に何度も鞭を打つ。しかし、その一部始終を触感映画の巨匠に撮影され、上映され大変な人気を博し、黒雲の様に群がり寄ってくるヘリコプターの見物人の群れ。繰り返される中で、レーニナが現れ、彼女を鞭打つジョン自身、見物人たちのフリーセックスの波がオージーポージー(乱交最高)となる中で我を忘れてフリーセックスをしてしまう。
前に
「実は、1ページ5秒読みで終わりまで0:25で眺めてみたが、複雑で騒々しい世界が書かれてるとしか感じず、全く理解不能だった」と書いていたが、<騒々しい世界>というのは当たっていた。ある程度、それなりに読みとれていたということかな?
ソーマの眠りから目覚めて、自らの犯した情欲に身を任せた罪を思い出して、ジョンは絶望する。それでも押し寄せる見物の人々の群れ。灯台のドアを開けて中を覗き込み、「ミスター野蛮人(サヴェッジ)!」と呼びかけるが、中には宙に浮いて右へ左へと揺れる日本の足が見える。
※なんともしょぼい終わり方だった。ジョンの抵抗は、単なる見せ物、道化に終わった。 まあ、とりあえず読了である。
※本書では、シェークスピアや聖書を本歌取りする知識のひけらかし表現、レーニンやダーウィン他当時の有名人をもじった名前など天才がレベルの低いスノッブを気取ってるような読み難さがあった。また、作品全体のベースに、当時(1932年)の著者の人種差別意識が大きく反映されているのも気になった。今書けば、人種差別作品として糾弾を受けるような内容が多かったのは事実だ。オーウェルの「1984」と並んでディストピア作品の双璧ともいうべきこの作品が知名度において圧倒的に劣っている最大の理由の一つは、この人種差別的表現の多さと、当時の人々にはよく受けたかもしれない内向きのスノッブな表現の多用によるものと思われる。「1984」にはそういう部分が少なかった。立花隆は本作を強く推奨しているが、俺自身の感覚としては「1984」の方が好きだ。ただ、本作も映画『マトリックス』のモデルの一つのような気がする。何にせよ1932年の作品としては破格の早熟な作品だと言える。