9月27日(木) 天気:晴れ 室温:29.7℃
きょうは 波賀町まで ドライブし ついでに 波賀城跡・城山(じょうやま)に登りました。 車で・・。
麓にある戦争遺跡の忠魂碑を 見るためです。 帰りに 一宮町の神戸小学校に寄り 忠魂碑を
見て さらに 伊和神社に お参りしてきました。 これで 「播磨の戦争遺跡」 は 終了?
兵庫県西播磨県民局 発行の ”先進のACT回廊 武士のこころ息づく 西播磨” のパンフレット
にある 「名刀のふるさとタタラを巡る道」(伊和神社) も 終わりにしたいと思います。
波賀城・城山458mは 「宍粟50名山」の48番の山ですが この山は 名山?
9:35 出発。 太子町、たつの、新宮を走り 10:16 山崎で 国道29号線に合流。 国道を
北上します。 波賀町有賀で 右折すると 市民局。 ここで 文化創造センターを 訪ねると 少し
先らしい。 カーブを 右に上がると 文化創造センターのある波賀公園。
11:01 到着。 家から 48.5kmでした。 駐車場の隅に 大きな忠魂碑があります。 後
方が開け 後ろに見える山は 大甲山でしょう。 きょうは 天気も良く 空気も澄み 空も青い。
忠魂碑の正面にある星印は 陸軍の印か。 側面に 陸軍大臣 板垣征四郎書とあり 表に
も裏にも 昭和16年に 西谷村と溝谷村の忠魂碑を 合祀したと 彫られた碑があります。
盛り土のような丘の上には 力石があり 土俵のように丸く並べられています。 昔から 各部
落のお宮とか 集会所の前の広場に 力石が たくさん置かれていました。 若い人たちは 力石
を持ち上げたり 抱いて歩いたりしながら 力自慢を競っていました。 力石には 集めた名
が刻んであります。 波賀公園から 山の上の波賀城跡を 望むことができます。
波賀公園の駐車場入口には 昭和3年に建設された 上野発電所のフランシス水車の羽根車
が 展示してあります。 文化創造センターを 後にして 波賀城へ登ります。 「←波賀城」の道
標を見ながら 集落を抜け 細い林道を登ります。 真正面から 眩しい日差しを受け 急に暗い
日陰に入ると 一瞬 何も見えなくなり・・。 ヘアピンカーブを 何度か曲がり 市民局から 2.8km
登ると 駐車場。 11:21 駐車。 林道を200mほど歩くと 波賀城入口です。
11世紀の初めころまで この地域は 伯可荘として 石清水八幡宮の荘園になっていました。
有力者であった芳賀氏は ここに 初めて城を築いたと 推測されています。
13世紀中頃 秩父から 中村氏や大河原氏が この地に移ってきました。 中村氏は 初代
光時から 戦国時代末期の吉宗まで 20代にわたって 波賀城主であったといわれ 波賀城を
修理、拡張し これを拠点に 赤松氏などの支配下で 勢力を維持したものと思われます。
羽柴秀吉が 播磨を制圧したとき 北の守りの拠点とした・・・。
この城は 山陽道と日本海側を結ぶ 因幡街道や それと 千種を結ぶ美作道と 三方に通じ
る街道を眼下にする 戦略的な要衝の地にあります。
冠木門を潜り 波賀城へ。 丸太階段を下り 登り返すと 東屋があり 左に道がありますが
ロープが張られ 通行禁止。 木製の階段を上がると 復原された天守閣(櫓?)へ出ます。
ここからは 南から西、北へかけて 雄大な眺めです。
ここの石垣は 天正年間(~1572)以前のもので 石材は レンガ状の節理にそって割れた
横長石が多い。 コーナー部を 角石、角脇石といった用途の意識は まだ なく 算木積みは
未発達である。 現在の石垣は 当時の積み方を 復元したものです。
白い土塀の裏を上がると 山頂です。 ここに 宝殿神社奥の宮が あります。 麓の市民局
の東に 宝殿神社がありました。 宍粟市史跡や 宍粟50山48番や 波賀町文化財の標柱が
あります。 この城山は 麓から 三層の植生に分かれているとか・・。
11:52 車に戻り 林道を下ります。 波賀市民局の方へは戻らず 直接 国道へ降りまし
た。 国道29号線を南へ下ります。 来るとき 神戸(かんべ)小学校の入口を確認しておいた
のに 手前で 曲がってしまって・・。 一宮市民局で 道を確認。 小学校に停められるそうです。
陸橋の下で 左折して 神部小学校へ。 12:18 駐車。 波賀城から 11.7km。
この辺りは のどかなものです。 小学校に 不審者が 侵入しても なんの御咎めもなし・・。
さっき 校庭の東にあると聞いたので 校庭を歩いて 忠魂碑へ。 大きな木の陰にあります。
石垣の上に 玉垣に囲まれた 立派な碑ですが 木陰のため 少し暗い。 陸軍少将 伊豆心
夫と彫られていると 思うのですが 見え難い・・。 裏には 大正十年六月 閏賀川原に建設。
昭和五年 小学校校庭に移転・・・神戸村 とあります。 玉垣は 何かの形を表わしている?
神戸小学校を後にし 国道を 0.8km下ると 道の駅播磨いちのみや。 ここは 伊和
神社の傍なので ちょうど いい! ここに 停めて お昼を食べ 神社に お参りしましょう。
昼食は 素麺800円を いただきました。 たこ焼きと おにぎり付き。
表参道から 境内に入ります。 大鳥居の下で 深く一礼して 随身門へ。 門の内部は
真っ暗ですが 中には 随身さんが いらっしゃいます。 門に向って 右が 左大臣?
手水舎も立派で 龍の口から 水が流れています。 写真を見て 気付いたのですが 手水
鉢を支えているのは なんでしょう。 子ども?
御由緒あらまし
当神社は 第13代 成務天皇甲申歳(144) の創祀と伝えられ 延喜の制では 名神大社
に列し 播磨国一の宮で 旧国幣中社の御社格であります。
御祭神は 大己貴神(おなむちのかみ)と申し(又の御名を大名持御魂神・大国主神とも申し
又 伊和大神とも申し上げる) 国土を開発、産業を勧めて 生活の道を開き 或いは
医薬の法を定めて 治病の術を教えるなどして 専ら 人々の幸福と世の平和を図り給うた
神であります。
大神が 播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い 播磨国中を御巡歴になって 国造りの事業を
されたことは 播磨国風土記に 記載の通りであります。
その御神徳を仰いで 播磨国開発の祖神 総氏神様と崇め 古来 農業、工業、商業等の
産業の神、福の神、病気平癒の神として 又 御社地が 因幡街道(現在の国道29号線)の
ほぼ中央にあたる交通の要衝にあるため 旅行者の守護神、交通安全の神として
播磨国はもとより 遠近の人々の崇敬篤き神様であります。
約55000平方メートル(約17000坪)に及ぶ境内には 杉・桧等の大樹が 繁茂し
自ら襟を正す神神しさを 保っております。
御社殿は 一の宮の名にふさわしい入母屋造りの豪壮・雄偉な建築であります。
播磨一宮 伊和神社
写真を撮ったのは 最後なのですが 説明上 この辺りに載せないと・・・。 拝殿の御由緒書に
境内の図があり それに 大きく赤矢印で 本殿の裏に 「鶴石」 が 示してあるのです。 行かない
わけには いかない・・。 本殿の裏に 玉垣に囲まれ 「鶴石」 が祀られています。
「鶴石」 は 昔 伊和大神から 豪族・伊和恒郷に 託宣あり。 驚き見るに 一夜のうちに 杉桧
生い茂りて 聖地を成し 空に鶴群れ舞い その中 大き二羽 北向きで眠り その跡に 神殿を
造り奉斎せり。 これ 当社の起源なりと伝う。
鶴の居た石を 鶴石 または 降臨石 という・・・とあります。
伊和神社の本殿が 全国でも珍しい 北向きである 由来だそうです。
宍粟には ”おっさん顔” の狛犬が 多いようですが ここの狛犬も やや間の抜けた おっ
さん顔で 面白い。
拝殿正面の唐破風屋根に 16弁の菊の御神紋があり 提灯にも 菊花紋があります。
菊の御紋は 天皇家の紋かと 思いますが 御由緒には 書いてありません・・・。
拝殿の天井には 古い絵馬が 多く奉納されています。 安政とか 嘉永二年の年号が見え
ます。 武将が馬で戦っているのは 分かりますが 誰が 何の戦いなのか さっぱり分からず。
広い神社の境内を ぐるっと一周 廻りました。 西の参道にも 随身門があり 随身さんが
おられます。 市杵島姫神社がありましたが 寄れば良かった・・。 市杵島姫は 天照大神
の子で 水の神。 通称 弁天さん。 広島の厳島神社の祭神でもあり イツクシマは イチ
キシマ から 転じたもの?
13:39 車に戻り 帰路につきます。 山崎まで 国道29号線で戻り 中国道を潜った
下広瀬で 右折して 県道26号線に入り 新宮で 国道179号線に合流して たつの、太子
を通り 14:43 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:波賀城まで 51.3km、神戸小学校まで 11.7km、道の駅まで
0.8km、復路:37.4kmで 計:101.2kmでした。
この前 ガソリンを入れ 高砂・加古川へ行き きょう 波賀町へ行きましたが 現在 走行距離
188kmで 平均燃費は 26.4km を表示しています。 さーて 実燃費は?
車に乗ると バッテリーの充電量が少ないため エンジンが 騒音とともに廻り 100m走ると
燃費は 0.1km低下・・・。 実際は 走る前に エンジンがかかり 落ちるのですが・・。
やまあそさんの新車の燃料計は 12目盛のようですが やっぱり 10目盛の方が・・・。
。。。。。。。。。。。。。。 。。。 。。。 。。。 。。。 。。。 。。。 。。。。。 。。。。。。。。。。。
きょうは 波賀町まで ドライブし ついでに 波賀城跡・城山(じょうやま)に登りました。 車で・・。
麓にある戦争遺跡の忠魂碑を 見るためです。 帰りに 一宮町の神戸小学校に寄り 忠魂碑を
見て さらに 伊和神社に お参りしてきました。 これで 「播磨の戦争遺跡」 は 終了?
兵庫県西播磨県民局 発行の ”先進のACT回廊 武士のこころ息づく 西播磨” のパンフレット
にある 「名刀のふるさとタタラを巡る道」(伊和神社) も 終わりにしたいと思います。
波賀城・城山458mは 「宍粟50名山」の48番の山ですが この山は 名山?
9:35 出発。 太子町、たつの、新宮を走り 10:16 山崎で 国道29号線に合流。 国道を
北上します。 波賀町有賀で 右折すると 市民局。 ここで 文化創造センターを 訪ねると 少し
先らしい。 カーブを 右に上がると 文化創造センターのある波賀公園。
11:01 到着。 家から 48.5kmでした。 駐車場の隅に 大きな忠魂碑があります。 後
方が開け 後ろに見える山は 大甲山でしょう。 きょうは 天気も良く 空気も澄み 空も青い。
忠魂碑の正面にある星印は 陸軍の印か。 側面に 陸軍大臣 板垣征四郎書とあり 表に
も裏にも 昭和16年に 西谷村と溝谷村の忠魂碑を 合祀したと 彫られた碑があります。
盛り土のような丘の上には 力石があり 土俵のように丸く並べられています。 昔から 各部
落のお宮とか 集会所の前の広場に 力石が たくさん置かれていました。 若い人たちは 力石
を持ち上げたり 抱いて歩いたりしながら 力自慢を競っていました。 力石には 集めた名
が刻んであります。 波賀公園から 山の上の波賀城跡を 望むことができます。
波賀公園の駐車場入口には 昭和3年に建設された 上野発電所のフランシス水車の羽根車
が 展示してあります。 文化創造センターを 後にして 波賀城へ登ります。 「←波賀城」の道
標を見ながら 集落を抜け 細い林道を登ります。 真正面から 眩しい日差しを受け 急に暗い
日陰に入ると 一瞬 何も見えなくなり・・。 ヘアピンカーブを 何度か曲がり 市民局から 2.8km
登ると 駐車場。 11:21 駐車。 林道を200mほど歩くと 波賀城入口です。
11世紀の初めころまで この地域は 伯可荘として 石清水八幡宮の荘園になっていました。
有力者であった芳賀氏は ここに 初めて城を築いたと 推測されています。
13世紀中頃 秩父から 中村氏や大河原氏が この地に移ってきました。 中村氏は 初代
光時から 戦国時代末期の吉宗まで 20代にわたって 波賀城主であったといわれ 波賀城を
修理、拡張し これを拠点に 赤松氏などの支配下で 勢力を維持したものと思われます。
羽柴秀吉が 播磨を制圧したとき 北の守りの拠点とした・・・。
この城は 山陽道と日本海側を結ぶ 因幡街道や それと 千種を結ぶ美作道と 三方に通じ
る街道を眼下にする 戦略的な要衝の地にあります。
冠木門を潜り 波賀城へ。 丸太階段を下り 登り返すと 東屋があり 左に道がありますが
ロープが張られ 通行禁止。 木製の階段を上がると 復原された天守閣(櫓?)へ出ます。
ここからは 南から西、北へかけて 雄大な眺めです。
ここの石垣は 天正年間(~1572)以前のもので 石材は レンガ状の節理にそって割れた
横長石が多い。 コーナー部を 角石、角脇石といった用途の意識は まだ なく 算木積みは
未発達である。 現在の石垣は 当時の積み方を 復元したものです。
白い土塀の裏を上がると 山頂です。 ここに 宝殿神社奥の宮が あります。 麓の市民局
の東に 宝殿神社がありました。 宍粟市史跡や 宍粟50山48番や 波賀町文化財の標柱が
あります。 この城山は 麓から 三層の植生に分かれているとか・・。
11:52 車に戻り 林道を下ります。 波賀市民局の方へは戻らず 直接 国道へ降りまし
た。 国道29号線を南へ下ります。 来るとき 神戸(かんべ)小学校の入口を確認しておいた
のに 手前で 曲がってしまって・・。 一宮市民局で 道を確認。 小学校に停められるそうです。
陸橋の下で 左折して 神部小学校へ。 12:18 駐車。 波賀城から 11.7km。
この辺りは のどかなものです。 小学校に 不審者が 侵入しても なんの御咎めもなし・・。
さっき 校庭の東にあると聞いたので 校庭を歩いて 忠魂碑へ。 大きな木の陰にあります。
石垣の上に 玉垣に囲まれた 立派な碑ですが 木陰のため 少し暗い。 陸軍少将 伊豆心
夫と彫られていると 思うのですが 見え難い・・。 裏には 大正十年六月 閏賀川原に建設。
昭和五年 小学校校庭に移転・・・神戸村 とあります。 玉垣は 何かの形を表わしている?
神戸小学校を後にし 国道を 0.8km下ると 道の駅播磨いちのみや。 ここは 伊和
神社の傍なので ちょうど いい! ここに 停めて お昼を食べ 神社に お参りしましょう。
昼食は 素麺800円を いただきました。 たこ焼きと おにぎり付き。
表参道から 境内に入ります。 大鳥居の下で 深く一礼して 随身門へ。 門の内部は
真っ暗ですが 中には 随身さんが いらっしゃいます。 門に向って 右が 左大臣?
手水舎も立派で 龍の口から 水が流れています。 写真を見て 気付いたのですが 手水
鉢を支えているのは なんでしょう。 子ども?
御由緒あらまし
当神社は 第13代 成務天皇甲申歳(144) の創祀と伝えられ 延喜の制では 名神大社
に列し 播磨国一の宮で 旧国幣中社の御社格であります。
御祭神は 大己貴神(おなむちのかみ)と申し(又の御名を大名持御魂神・大国主神とも申し
又 伊和大神とも申し上げる) 国土を開発、産業を勧めて 生活の道を開き 或いは
医薬の法を定めて 治病の術を教えるなどして 専ら 人々の幸福と世の平和を図り給うた
神であります。
大神が 播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い 播磨国中を御巡歴になって 国造りの事業を
されたことは 播磨国風土記に 記載の通りであります。
その御神徳を仰いで 播磨国開発の祖神 総氏神様と崇め 古来 農業、工業、商業等の
産業の神、福の神、病気平癒の神として 又 御社地が 因幡街道(現在の国道29号線)の
ほぼ中央にあたる交通の要衝にあるため 旅行者の守護神、交通安全の神として
播磨国はもとより 遠近の人々の崇敬篤き神様であります。
約55000平方メートル(約17000坪)に及ぶ境内には 杉・桧等の大樹が 繁茂し
自ら襟を正す神神しさを 保っております。
御社殿は 一の宮の名にふさわしい入母屋造りの豪壮・雄偉な建築であります。
播磨一宮 伊和神社
写真を撮ったのは 最後なのですが 説明上 この辺りに載せないと・・・。 拝殿の御由緒書に
境内の図があり それに 大きく赤矢印で 本殿の裏に 「鶴石」 が 示してあるのです。 行かない
わけには いかない・・。 本殿の裏に 玉垣に囲まれ 「鶴石」 が祀られています。
「鶴石」 は 昔 伊和大神から 豪族・伊和恒郷に 託宣あり。 驚き見るに 一夜のうちに 杉桧
生い茂りて 聖地を成し 空に鶴群れ舞い その中 大き二羽 北向きで眠り その跡に 神殿を
造り奉斎せり。 これ 当社の起源なりと伝う。
鶴の居た石を 鶴石 または 降臨石 という・・・とあります。
伊和神社の本殿が 全国でも珍しい 北向きである 由来だそうです。
宍粟には ”おっさん顔” の狛犬が 多いようですが ここの狛犬も やや間の抜けた おっ
さん顔で 面白い。
拝殿正面の唐破風屋根に 16弁の菊の御神紋があり 提灯にも 菊花紋があります。
菊の御紋は 天皇家の紋かと 思いますが 御由緒には 書いてありません・・・。
拝殿の天井には 古い絵馬が 多く奉納されています。 安政とか 嘉永二年の年号が見え
ます。 武将が馬で戦っているのは 分かりますが 誰が 何の戦いなのか さっぱり分からず。
広い神社の境内を ぐるっと一周 廻りました。 西の参道にも 随身門があり 随身さんが
おられます。 市杵島姫神社がありましたが 寄れば良かった・・。 市杵島姫は 天照大神
の子で 水の神。 通称 弁天さん。 広島の厳島神社の祭神でもあり イツクシマは イチ
キシマ から 転じたもの?
13:39 車に戻り 帰路につきます。 山崎まで 国道29号線で戻り 中国道を潜った
下広瀬で 右折して 県道26号線に入り 新宮で 国道179号線に合流して たつの、太子
を通り 14:43 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路:波賀城まで 51.3km、神戸小学校まで 11.7km、道の駅まで
0.8km、復路:37.4kmで 計:101.2kmでした。
この前 ガソリンを入れ 高砂・加古川へ行き きょう 波賀町へ行きましたが 現在 走行距離
188kmで 平均燃費は 26.4km を表示しています。 さーて 実燃費は?
車に乗ると バッテリーの充電量が少ないため エンジンが 騒音とともに廻り 100m走ると
燃費は 0.1km低下・・・。 実際は 走る前に エンジンがかかり 落ちるのですが・・。
やまあそさんの新車の燃料計は 12目盛のようですが やっぱり 10目盛の方が・・・。
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