私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

地域再発見 『ふるさと故事巡礼』ー第1回ー

2021-10-13 10:47:41 | 歴史探索
 10月13日(水)   天気:曇り   室温:27.1℃

 きょうは 先日入手した FMゲンキのフリーマガジン ”秋号” の気まぐれ途中下車 新連
載 地域再発見 『ふるさと故事巡礼』 -第1回ー 白鷺小中学校区 の一部を紹介します。
 平成27年から 令和2年まで連載した 『姫路の旧街道を歩く』 の後継企画として、今
回から 市内の中学校区を巡り、各地域の歴史を掘り下げてみたいと思います。
 

1.国衙(本町遺跡)
  国衙 (こくが)は、日本の 律令制 において 国司 が地方政治を遂行した役所が置かれていた
 区画です。
  律令国の播磨国は、現在の行政区分で言えば、東は 神戸市垂水区、西は 赤穂市、北は
 宍粟市に跨る領域を有していましたが、その国衙(国司の役所)は 姫路に置かれていました。
  古くは 伊和勢力の最前線であり、畿内大和や 吉備国、さらには 出雲国との中間地点と
 して 諸勢力との交流が行われたであろう この地域は、のちに 山陽道(西国街道)や 但馬
 街道(生野道)、因幡街道などの結節点となったように、畿内と西国・山陰を結ぶ 陸上交
 通の拠点であり、さらには 瀬戸内海水運の拠点の一つであった 飾磨津も包摂する要地でした。

2.国衙庄
  6歳以上の男女に 口分田を貸与して 租税を納入させる班田収受は、戸籍の偽造や 農民の
 逃亡が 相次いだ一方、天皇や皇族が 財産確保のために 独自の田を所有したり、有力貴族や
 寺社が開墾により 荘園(免税地)を所有する動きが 加速、公地公民もろとも なし崩しにな
 ります。
  播磨国内でも 佐用庄や 福井庄などの広大な荘園が成立して 国衙の支配から分離する一方、
 公領(国衙領)では、国司(受領)が 公田の耕作を田堵に請け負わせ 租税を徴収するように
 なり、さらには 在地有力者に権限を委譲し 農園開発を行わせ、年貢の納入を請け負わせる・・

3.総社
  8世紀以前から 飾磨郡因達山(現 八丈岩山)に祀られていた射楯神と、8世紀後半に 飾
 磨郡伊和里 水尾山(現 山野井町 水尾神社)から国衙小野江=椰本(現 姫路東高校付近)に
 遷座された兵主神が 9世紀後半に 合座され 射楯兵主神社となり、その後 播磨国16郡の1
 74の大小明神を合祀し、播磨国総社に任じられました。(合祀したのは 国司が 国内の神社
 を回るのが大変だったからだそうです・・・)。
  総社は 播磨国の総氏神であると同時に、国内の寺社を管理し 宗教行政を行う部署でもあり
 ました。 しかし 国衙の支配力の変化に伴い 総社の影響力も 播磨国全体から 国衙庄エリアに・・

4.秀吉以前の姫山(最初の城)
  増井山随願寺17世 長吏(住職)の道邃(正覚)が 康治元年(1142~1144)に
 姫山に建立した称名寺(現 正明寺・姫路市五軒邸)の伝記には 「赤松円心より 8代後裔の
 政則により 姫山に初めて小城が築かれたが、すぐに山林・竹木・田畠に至るまで 称名寺に
 返して 置塩に移った」 と記されている。 姫山最初の城に関しては、元弘3年播磨守護・
 赤松則村が 称名寺の周りに 城柵を設け 砦とし、貞和2年(1346)に 息子の貞範が・・・

5.城下建設と国府の村
  正応5年(1292)の正明寺文書(沙弥光智別当職等譲状)に 「播磨国□(府)中姫路
 道村称明寺」という記述があり、鎌倉時代までに 府中(国府)に 村が 形成されており、その
 周辺の国衙庄エリアにも村が形成されていたと考えられます。 姫道村(姫路村)は・・・

6.堅町
  慶応13年(1608)の町割りで 誕生。 立町とも書かれたそうで、「播磨鑑」には
 姫路の七不思議の一つ「横に竪町」として取り上げられています。 姫路は いわゆる 「ヨコ
 町型」城下町に属し、城郭に対して ヨコ(水平)方向に町通りが 設けられています。

7.西国街道
  市川を渡河し、外京口門から 外曲輪に入った西国街道(山陽道)は、中曲輪を避けるように
 大黒町で 南下し、元塩町で 右折、坂元町まで西進し、備前門から船場川を渡ると 北上し、龍
 野町から西進します。 この不自然な南下と北上は、輝政の城下建設によって 西国街道が 付替
 えられたことを示唆しており、それまでの西国街道は 京口門と龍野町を直線的に結んでいた・・

8.二階町通り
  城下が建設されたころの西国街道は、本町通りを通過していたと考えられています。 江戸
 末期の姫路藩士 福本勇治が著した 播磨の郷土史「村翁夜話集」には、築城から20年余りの
 寛永の頃、中堀に堆積した泥土をさらい、その泥土で 坂元町の往還(西国街道)の道を補修・・

9.みゆき通り
  明治36年11月、日露開戦に備えて行われた陸軍大演習の城北練兵場閲兵式に 明治天皇の
 行幸が決まり、姫路駅から城への直線道路が急造され 御幸通りと呼ばれました。

10.姫路市役所
  明治22年4月に 市政が施工され、8月に 下白銀町の洋風建築の生田医院を借り上げ 開庁
 した市役所。 明治30年 当地に移転、その後 戦災により焼失し 昭和20年 公会堂を庁舎とし、
 さらに 昭和22年に 陸軍第十師団の兵器庫に移転。 現在の安田に移転したのは 昭和55年です。

11.近世以前の町割り
  姫路城下には 堅町ラインとは異なる基準線でつくられた町割りが いくつかあり、その一つが
 総社周辺の一帯です。 先述のように 総社門筋は、四辺800mに及ぶと言われる国府(官庁街)
 の西辺にあったと推定されており、輝政の町割りとは 異なる傾きの町割りに 国府の推定位置が・・・

12.姫路偕行社
  明治9年結成の陸軍将校サークルが 前身。 明治15年 姫路偕行社と改称。洋館風の建築は
 明治17年の建築で、明治天皇の宿泊等に使用されたりもしたそうです。 姫路城の中堀は 大正
 初期から徐々に埋め立てが進められましたが、昭和7年、国道2号線の敷設のために 城南部の中
 堀が 埋め立てられたことになります。 偕行社付近の中堀(土塁)少し南に張り出す形状になっ
 ており、道路を真っすぐにするため この土塁を取り壊すことになりました。

 。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イーグレひめじで 辰美会作品展 | トップ | イーグレひめじで 詩風会絵画... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事