私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く その3 青山

2016-02-08 15:22:40 | 歴史探索

 2月 8日(月)  天気:快晴   室温:15.2℃

 きょうは 天気が 良かったので 西国街道を 自転車で 歩いてきました。 が 天気はいいものの
風は 冷たかった・・。 FM Genkiのフリーマガジンの冬号にある ”気まぐれ途中下車 姫路
の旧街道を歩く 西国街道篇③ 青山(夢前橋西詰~山田峠)” です。 それと パンフレット ”太子町
 ぶらりまち歩き” で 残っていた 山田峠近くの山田遺跡と 原の大歳神社へも 寄りました。
この冬号は ”姫路の旧街道を歩く” で この先は 太子町になるので 今回で 終わりでしょうか?
 9:50に出発し 帰ってきたら 14:10で 4時間20分の行程でした。

 9:50 家を出て スタート地点の夢前橋へ行きます。 大津茂川から 福井大池へ行き バイパス
の太子東IC近くにある 山田遺跡へ行きます。 が マップに 描かれているだけで 現地には 何の表
示もないので 探すのに 苦労しました。 やっと これ だろうというものを 見つけましたが これだ とい
う確信はありません。 枯れ草に覆われた 石室のような岩を 積み上げたものがあるだけです。
 パンフには 山田周辺には 数多くの弥生遺跡が 存在しますと 記されています。

 スタート地点の夢前橋へ行きますが 道の都合上 山田峠を通らなければ なりません。 峠へと
自転車を押していると 山陽道山田峠の道標があり 横には 細い山道が・・。  これが 西国街道
だったのでしょうか。 資料には 明治天皇の行幸に合わせて 新しい道路が 掘削されたとあります。
 この道を 覗いてみると 山道は 上へ続いているように見えますが ほどなく道は消えると・・。
姫路市文化財課は 元の街道の可能性もあるとか・・。 太子町のパンフに 峠には 明治天皇 山田
御小休所とあり 標柱の写真もありますが 峠には 何も見当たりません。

 峠を越えると 夢前橋までは ほぼ下りなので 自転車で すいすい行けます。 帰りが怖いが・・。
夢前橋に 10:55に とうちゃこ。 ここが スタート地点です。 橋の上から 東の土器山と 西の稲岡
山を眺め 川の西岸へ降ります。 ここには 渡し場があったそうで 徒渡り、船渡し、駕籠渡しの三
通りの方法がありました。 明治22年の大洪水を きっかけに 木造の橋が 架けられました。

 国道29号線を 西へ渡ると 角に道標があります。 この青山の道標は 姫路の道標界の最高
傑作と言われているそうです。 建立は 1855年。 ここ青山は 山陰や 美作への分岐点です。
 道標は 旅人の苦労を 思いやり 道中の安全を 祈る心遣いが 感じられる・・。  この道標は
姫路市の重要文化財に 指定されています。

 西国街道に入ると 真言宗の教専寺があります。 青山西山麓にあったが 1726年に ここへ
移された。 みかえりの松が あったそうですが 枯れてしまい 今は 二代目。 本堂は 修理中。
 山門の脇に 播磨仙人 藤田了空翁 生誕地の碑があります。   了空は 嘉永元年 この地に
生まれ 当寺の八世住職となり・・・。

 先に 和泉式部の腰掛け石を 見に行くベきでしたが うっかり通り過ぎ 稲岡神社へ行きました。
『播磨国風土記』 十四丘の一つ 「稲牟礼の丘」 に比定されている 稲岡山の南に 鎮座する。
 御祭神は 豊受姫大神と 射目崎明神。 豊受姫大神は 731年に 古代丹波国の元伊勢から
勧請され 射目崎明神は 元は 別の場所 (北の矢落の森) にあったが 洪水で流されてきたの
で 合祀したそうです。 射目崎は 夢前の語源と言われています。
   あひ見ては 千とせやいぬる いな岡も 我やじかとふ 君まつ程に (万葉集 人麻呂)
 境内の絵馬殿には 17世紀後半以降の絵馬が  奉納されており その中でも  「お陰参り図
(1830)」 は 県指定文化財で 本物は 歴史博物館に展示され 絵馬殿には その写真が 掛け
てあります。   この絵馬が 伊勢志摩サミットに 貸し出される という ”うわさ” がある?

 腰掛け岩へ戻りますが 道を間違え 工事中の道を 迂回して 国道29号線まで戻り 大回り
しました。 腰掛け石は 稲岡山の東裾にあります。 かって 夢前川は 稲岡山の東麓を流れて
いたそうで ここは 歌書が渕と 言われていた。 平安中期の歌人・和泉式部が 円教寺の性空
上人を 訪ねる道中 川の縁にあった 石に 腰掛けて 歌を詠んだ・・という伝承があり それが こ
の歌碑の石だと言われています。  すぐ東の田んぼの畦には 史蹟 「米洗いの石」 と呼ばれ
る石が 埋まっています。
 山裾に 青山八景 「歌書秋月」 の石碑・歌碑があり 説明板もあります。 青山八景は 姫路
藩主・榊原政邦が 宝永二年(1705)に 青山の風光明媚な 八か所を選び 漢詩と 和歌を 詠
んだとされる。    秋の夜 月にちきりし ふかけれは 歌そつもりて 淵となりけり
 資料には 民家のブロック塀の脇の地面に埋まっている石が 「腰掛け石」 となっていますが
隣の民家の人に 尋ねても 知らん・・・。 18m東の田んぼの畔に 平らな石が 埋もれていま
すが 和泉式部の 「米洗い石」 か どうかは 定かではありません・・・。 和泉式部は 円教寺の
性空上人に 会うため 姫路に 来たのなら なぜ 遠回りして ここへ寄り道をしたのでしょう。

 稲岡山の西にある 人丸神社へ行きます。 ご祭神・柿本人麻呂朝臣は 42代文武天皇に仕え
播磨守たりし時 居住されていた。 人麻呂公 大和への旅先にて 石見の国より 妻の来る夢を
見て 引返し この岡にて 妻を見たとの言い伝えに  この岡を 妻見が岡と称し この地に 社を
建立す。

 人丸神社を降りたところに {浅陰沼」 の説明板があります。 この辺りは 昔は 沼だった。
    青山や あさかけ沼の みかくれに あはんとすれと 逢うよしもなし (人麻呂)
 北へ行くと 公民館の前に 地蔵堂がありました。 遠山の地蔵尊です。 天保四年の青山村
明細帳に 地蔵堂と記されている。 地蔵堂は 本来 当地から 約400m北の堂山にあった法灯
寺に 由来するとされる。 ここは 青山八景の「錦戸春雪」 に 数えられていた。

 さらに 北へ行き 稲岡山から 約1kmのところに 姫新線・余部駅があります。 余部駅には
用はありませんが 駅の脇に 「矢落の森」 の石碑があります。 これを見なくては・・・。
 矢落の森の由来は ”神宮皇后 市川の東 麻生山よりの試みに 一矢 この地に 落つ 故に
矢落の森といふ 応神天皇 この所に 射目を建て 狩りをし給い 郷民 茲に 社を祀り崇めし
が 洪水のため流れて 稲岡山に止る 青山の宮に 合祀せり 夢前の名の起こりである”
 稲岡神社の祭神・射目崎明神は もとは ここに 祀られていたのです。

 引返し 西国街道に戻ります。 ^西へ進むと 民家の裏手に 史蹟・宗全寺跡の石碑と 小さな
お堂と 石仏(五輪塔) がひっそりと佇んでいます。 ここは 守護大名・山名宗全が 嘉吉の乱で
亡くなった一族や家臣の菩提を弔うため 建てたお寺の跡で かっては 五重塔もあったとか・・・。
 土器山(瓦山)は このお寺の瓦を 焼いたのが その名の由来です。

 街道を さらに 西へ行くと 青山製紙組合の碑があります。 青山では 明治から大正にかけて
製紙業(和紙)が 盛んだったそうです。  青山の製紙の祖・米田勝松の顕彰碑が残っていて
「いたつきを 積める功は 此の紙の 雪の表に 顕れにけり」  という和歌が 刻まれている。

 西国街道は この先で 国道2号線に 合流します。 ここからは 昔の街道の感じは なくなり・・・。
明治になって 国道2号線になり 昭和の初め 付け替えが始まり 1958年 全線が整備されました。
 ここまで来たら 青山古戦場跡に寄らないと・・・。 資料には 現在 住宅地になっている小丸山は
かっては 山名宗全の屋敷があり その後 青山の合戦で 赤松政秀が 陣を構えた場所と 言われて
います。 赤松軍と黒田軍は この周辺で 血みどろの闘いを 繰りひろげ 首を洗った千石池は 血
で 染まったと 言われています。 千石池は 戦国池とも・・・。

 青山ゴルフクラブのクラブハウスへ上がると 千石池や 山が よく見えますが 正面の山が
小丸山でしょうか?  ゴルフ場から降りて 国道を上がります。 ゴールは 山田峠ですが
峠は 来るとき通ったし 引返すのも大変です。 一応 今回のルートは 完了したことにして
国道の太子東ICの信号から 山田集落へ降りて 太子町の原へ行きます。 

 太子町原の奥には 大歳神社があります。 太子町のパンフに 載っているのです。
原村は 昔 福井大池をめぐって 他の村々との 水争いに 苦労していました。
 ある年も 手に 鋤きや 棒を持ち 大喧嘩に行こうとしていると 真っ白の髭の老人が 現れ
「やめとけ!」 と・・・・大歳神社の氏神さんが 止めたのでは・・と言い伝えられています。
また 入口にある観音さんは 川の中から 発見され 祀られたと 伝えられています。
 原の火まつりについても 書かれていますが 省略します。 入口にある観音さんも 探
しました。  入口とあるのは 当然 大歳神社の入口と思ったので・・・。 


 大歳神社の前を 西へ行き 県道?に出ると ここに 鳥居があり 道路の向こうに お地蔵さんが
立っています。 脇に 小さな祠があり この中に 観音様がおられるようです。 暗いので 見えませ
ん。 県道を帰ると 近道なのですが 狭くて 危険なので 福井大池の北を廻って 帰ります。

 福井大池の水面に 陽光が当たって キラキラ輝いて 眩しい・・。 下太田、丁の集落を
抜け 大津茂川を渡り 向かい風の中 ひいひい言いながら 自転車を漕ぎました。
 朝日谷の民家の白い梅の花は 満開近し・・・。 今年の梅の開花は 早い?

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