私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室11月 南北朝の動乱と赤松則祐

2023-11-21 14:03:06 | 歴史探索

 11月21日(火)   天気:晴れ    窒温:22.3℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、先月の赤松円心に続き 「南北朝の動乱と赤松

則祐」 で、12月は 赤松満祐?の予定です。 講師は 元城郭研究室長の中川秀昭先生です。 最近、歴史に

興味のある人が 増えたのか、出席者が増え、きょうの出席者は 25名でした。 南北朝の動乱は 非常に複雑

で、資料も A4 5ページに びっしり書かれているので、総てを 紹介することはできません。 ごく一部を。

     。。。。。 南北朝の動乱と赤松則祐 。。。。。

◆赤松則祐~赤松氏隆盛の基~

 ・生誕に二説:元応元年説と 文保2年説  ・父:赤松円心  ・母:不詳

 ・三男だが 赤松総領家を 家督相続し、播磨守護職(一時摂津守護職)、のち 備前守護職

 ・信仰心厚く 禅に造詣。 和歌の素養あり、文武兼ね備え、 ”知略の人物”

 ・赤松総領家当主になった後も、還俗せず 僧侶のままで通した

 ・南北朝の対立や 観応の擾乱など 複雑で 困難な時代を鮮やかに乗り切った

 ・和歌にたけ、二条為忠が 則裕に 「古今和歌集」を 贈り、「古今伝授」を行った

 ※相生市矢野町の標高300mにある 史跡・感状山城跡は、建武3年(1336年) 赤松円心の三男 赤松則祐が

  築いたとする説があります。 建武年間、足利尊氏の追討をしていた新田義貞の率いる軍勢を 赤松円心の

  三男則祐が 奮戦し、50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与えることとなった

  ことは、歴史上有名です。 この功績により足利尊氏が,赤松則祐に 感状を与えたことから 感状山と 呼ば

  れるようになった といわれています。

  

 

1.南北朝の動乱序章

 1)二つの朝廷  ・北朝:光厳天皇ー光明ー   ・南朝:醍醐天皇ー後村上ー

  ・建武3年8月 足利尊氏が 光明天皇を擁立し、後醍醐天皇が 建武3年12 吉野へ逃れたのが 南北朝の始まり

   とするが、元弘の乱で、後醍醐天皇の隠岐配流と並行して 鎌倉幕府が擁立した光厳天皇が北朝初代

 2)南朝方の抵抗(楠木正行) 

  ・貞和3年夏:楠木正行、父楠木正成の志を受け継ぎ、河内・摂津に出兵

2.観応の擾乱と赤松氏

 1)二頭政治のきしみ

  ・室町幕府・二頭政治 足利尊氏:軍事指揮権・恩賞権

             足利直義:所領裁判権・統治指揮権

 2)観応の擾乱の始まり(観応元年(1350).10)

  ・観応元年(1350).10,28~文和元年(1352).2.26

 3)赤松氏の動向 ・円心、貞和6年.1.11 京都七条邸で 没、赤松範資、跡を継ぐ

          ・赤松範資急死:観応2年.4.8 京都七条邸で没

          ・三男・則祐、赤松総領家の家督相続(観応2年(1351)、播磨守護職継承

 4)高師直・師泰の死

  ・光明寺合戦(観応2年) 尊氏、滝野城を攻撃、直義勢が 援軍派遣し、戦いは膠着状態に

 5)則祐、南朝へ:則祐の「南朝転属」

  ・観応2年.7上旬 播磨赤松村に下国していた則祐、義父・幕府実力者 佐々木導誉と呼応し

     南朝方に転属、南朝方に帰順し、幕府に反乱、護良親王の遺児・陸良親王を吉野から播磨に迎えた

 6)足利直義の死と観応の擾乱の終焉(文和元年(1352).2)

  ・尊氏・義詮、南朝に講和申し入れ・・則祐、幕府と南朝との講和を仲介(仲介役:則祐に白羽の矢)

  ・尊氏、弟・直義討伐のため 関東へ。 そして、直義の死(毒殺?)

3.観応の擾乱後の南北朝抗争と則祐

 1)「正平一統」の破綻と北朝回復ー則祐、北朝方へ

 2)南北朝の騒乱続く ー南朝の入京・京都陥落と撃退ー

  ・第2回 南朝方の入京・京都陥落と撃退 (文和2年(1353).6~7)

  ・第3回 南朝方の入京・京占拠と撤退(文和4年(1355).1) ・神内山合戦(幕府軍と南朝軍)

  ・赤松則祐、備前国宝林寺を播磨国赤松に移す 文和4年(1,355)

 

4.足利尊氏の死と義詮の将軍就任

 1)足利義詮の将軍就任:足利尊氏没 54歳、延文3年、足利義詮 将軍宣下を受け 室町幕府二代将軍に就任

 2)春王丸(のちの義満)と「赤松ばやし」

  ・康安の政変(康安元年.10)と赤松氏の大きな幸運ー義詮の嫡男・春王丸(4歳)、播磨へ

  ・則祐、備前国守護に就任(貞治4年(1365).2)

5.義詮、則祐の死と3代将軍・義満、義則の時代へ

 1)2代将軍・義詮の死と義満の将軍職継承

  ・足利義詮 没  38歳、貞治6年(1367).12.8、 足利義満 10歳で 室町幕府 3代将軍就任

 2)則祐の死と 嫡男・義則への家督継承

  ・則祐、幕府の禅律方頭人に就任(応安3年(1370).11.29)、於:京都・二条西洞院邸

  ・赤松義則、家督継承、はりま・備前守護

  ・関白・近衛道嗣の日記「愚管記」:随分の大名の上、武家の為の忠功 他に異なるものか、惜しむべし、

 ※松雲寺は、南北朝時代、赤松円心が 築城以来の赤松氏の居城である白旗城の麓に、円心の二男貞範が

  創建した『栖雲寺』に始まる。 栖雲寺は いまは 廃寺となっていますが、松雲寺に合祀されています。

  このお寺では カヤ(榧)が 町文化財で 有名で、樹齢は 約700年、樹高約25mの巨木。



 ※東に五社八幡神社があります。 天永2年(1111)に 赤松氏始祖となる源季房が 播磨守護職として

  赤松庄に移って以来、赤松氏代々の崇敬を受け、鎌倉時代末期に 赤松円心が 京の六波羅を攻めるに

  際して 戦勝祈願をし、無事勝利を治めたことを 円心は 喜び、その御礼として 社殿を再建したという。

   赤松家ゆかりの神社ですが 五社とは? 五社とは 熊野、八幡、住吉、神功皇后、天神 の五柱が

  祀ってあるそうです。

 ※城山城(きのやまじょう)は、播磨国(現たつの市新宮町)の城山にあるる城跡です。 城山の上に 7世紀末

  の古代山城跡と、西暦1352年(正平7年/文和元年)に 赤松則祐が築城した中世(南北朝時代)の山城です。

 

<出典・参考文献:『赤松氏五代」 渡邊大門著、『赤松一族盛衰記』 神栄赳郷著、『播磨赤松一族』 濱田浩一郎著、

 『足利尊氏のすべて』 『戦争の日本史8 南北朝の動乱』 森茂暁著、兵庫県立歴史博物館特別展 図録『円心 則祐』

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