Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてII

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

八幡山観音寺(2017年2月18日参拝)

2017年02月25日 | 玉川八十八ヶ所霊場
篠原八幡神社から徒歩数分の場所にあるのが、
八幡山観音寺というお寺。

こちらはあの川崎大師の御本尊が戦前に避難したお寺です。


所在地:神奈川県横浜市港北区篠原町2777
宗派:真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
創建:不明
開山:不明
札所:玉川八十八ヶ所霊場、新四国東国八十八ヶ所霊場


【縁起】
当山は開山から現在に至るまでこの篠原の地で仏法の灯明を絶やすこと無く、
数多の善男善女の信仰を集め続ける真言宗の寺です。

創建年代については諸説あり、正確な年代は定まっていません。
当山には天正年間(1573~1591)祐覺和上によって、
開基されたとの一伝がありますが、これは新編武蔵風土記に紹介されるものです。

しかしながら当山鎮守の八幡宮(現・篠原八幡神社)における
別当寺としての性格も考慮する必要があります。
八幡宮の創建時期は鎌倉期と推察されますから、
観音寺の歴史も天正を遡ることは十分に予見できます。

明治時代の廃仏稀釈により、観音寺もまた鎮守である八幡社から切り離され、
上地令によって寺領を失いました。

明治15年には観音寺全山焼失。
大正期に晋山された隆超和上は寺の再興に尽力されて、
仮本堂と庫裏の建立を成し遂げました。

昭和20年4月に川崎大師平間寺の御本尊厄除け弘法大師像が当山に避難。
時の住職隆悦和上は秘密裡に境内の一画に専用の横穴を掘り、
そこに御本尊ご宝物を丁重に安置し、川崎大空襲の難を逃れました。

昭和29年に晋山された隆侃和上は、この隆超、隆悦両和上の遺志を継いで、
観音寺再興の任にあたり、苦節20数年して遂に現今の本堂を建立、
境内墓地等の整備を進めて明治以降衰退した観音寺の寺運を復興されました。

よって当山では隆侃和上を中興第1世と称してその高徳を顕彰しております。

その後平成12年に晋山しました現住職は不動堂の再建、六地蔵堂の建立、
遍照光明墓の新設を進め、本来あるべき観音寺の寺観整備に微力を尽くしております。


【参道】


ゴロゴロを持っていたので、
この坂はちょっとしんどかった。(^^;


【遍照光明墓】



【寺号標】



【本堂】


本堂裏手に無料駐車場がありました。


【二宮金次郎像】


石像や銅像ではよく見るけど、
こういうタイプは初めて見たな。


【幸福観音】



【十三石塔】



【彫り物】



【内陣】


外からでも内陣は見れます。

どこのお寺も最低限これぐらいしてほしいね。

御朱印をお願いすると、本堂にあげさせていただいた。(^^

ありがとう奥様。




小さ目の御本尊様でした。


【天蓋】


天女がいました。


【弘法大師】


ありがたや ありがたや。


【天井】


こういうのも初めて見ました。


【不動堂】


外から見たら分かりませんでしたが、
本堂横に不動堂がありました。


【般若心経】







【御朱印】


御対応いただいた奥様にお茶とお菓子をいただきながら、
しばし談笑。

御住職は観音寺の前には大阪府富田林の瀧谷不動明王寺に
いらっしゃったそうです。

奥様は京都の大本山智積院で修行されていたとか。
智積院の話やお遍路の話で盛り上がりました。(^^

話の中で驚いたのは新横浜は昔はド田舎と教えていただいたこと。

何故、川崎大師の御本尊がこちらに疎開されたのですか?という私の質問に、
川崎大師の二代前の管主が観音寺の御住職であった御縁ということと、
新横浜辺りは戦前は本当に何も無いド田舎だったからとか。

現在の墓地の所に防空壕を掘って御本尊を守ったとか。

マジっすか?

現在の新横浜って凄く繁栄してるから全く想像出来ない。(^^;

何でも昭和40年代でも新横浜駅とプリンスホテルしか無かったらしい。

昭和50年代ぐらいまでは田舎だったとか信じられんよ。(苦笑)

お寺のある篠原町も今では沢山の住宅がありますが、
平成の初めになってようやく開発されたとのこと。

奥様が関西に行く時は家がぽつぽつとある程度だったのに、
何年かして帰って来たら住宅がいっぱいあって驚いたそうです。(笑)

後で参拝した總持寺のボランティアのおば様にも聞いてみたら、
鶴見に比べると本当に何も無いド田舎でしたよ、と言われました。(笑)


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