Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

猫沢エミさん関係過去ログ!

2006-01-31 13:46:09 | 猫沢エミ
mixiで猫沢エミさんとマイミクになりました~^^ニコニコ
ので、それを記念して?、過去の猫沢エミさん関係のエントリを並べてみました。
「猫沢エミ」カテゴリを作ってもいいかもね。

猫沢エミLIVEat渋谷SPUMA20060127
猫沢エミLIVE at 下北沢mona records20051223
猫沢エミMY MOLESKINE EXHIBITION
番外編・猫沢エミの夢を見た
猫沢エミお気楽レビュー
猫沢エミ春さきLIVEat中目黒マンゴスチンカフェ
猫沢エミ「BROKEN SEWING MACHINE」
猫沢エミ「SHELL」

ついでに公式サイトOu est mon chat?

皆さん猫沢エミ聴いてみてください。いいですよぉ
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猫沢エミライブat渋谷SPUMA

2006-01-28 12:07:07 | 猫沢エミ
行ってきました。1月27日(金)
雑誌「天然生活」で連載していたエッセイをまとめた「パリ季記」という本の発売記念イベントライブです。

渋谷SUPUMAは割と広く、テーブル席がしっかりあって、ライブを聴きながらゆったりご飯も食べられるリラックス空間でした。
とはいえ、当日は結構混雑。立ち見の方も多数。猫沢さんも始まる前は客席とステージの中間当たりで所在なさげにたたずんでいらっしゃいました。

イベントは、お菓子研究家のいがらしろみさんとのトークショーで始まりました。二人ともパリでの生活が長く、最近パリの古い建物が急に金ぴかに造り替えられていて、しかもそういうお店がそこそこ繁盛している話とか、フランス人は人間的な押しの強さとかがあって、日本人にはそういう人間力がないね、昔はあったと思うんです、という話や、パリでは、前に出ようという気持ちさえあれば状況がまわっていく。人の見方がフラットだ。東京では経歴や肩書きや名声などがからんでしか動いていかないので動きにくい・・等々のお話が。
トークショーの間、若鶏のグリルと温野菜のサラダを食べながら聞いていたんだけど、おいしい食事+日常ではあまり考えないような内容の会話で、なにげに体と心のリフレッシュができました。

続いて期待のライブ。
今回はバンド編成でした。PAもナチュラルな感じで、とても臨場感のあるサウンドだったと思います。もっと小編成のときにはグルーヴマスターとなるギターの円山さんは、今回はリズムセクションのノリに身をゆだねて違ったアプローチをしていたのが印象的でした。
ベースの岩見さんはジャズ畑の方だそうで、楽器が壊れるんじゃないかしらっていうくらいノリノリでよかったです。
田ノ岡さんのアコーディオンも生音だけで十分っていうくらい迫力ありました。
ドラムも地味にしっかりとキープしてました。かっこいい。

オープニング、猫沢さんはホースを振り回して音を出し、フリーなセッション風にはじまり驚かせました。だんだんグルーヴが出来てくると、それが「アラスカの恋」に繋がっていきました。
ああやっぱりライブは面白いな。なにがでてくるかワクワクする。
あとは、ウッドベースらしさを生かして「c'est vous sur le pont」や「Les Cafes」などがいい味出してました。
バンドがノリがまとまっているので、「Zobi la mouche」のような激しい曲もバッチリです。へんな比較だけれどsaigenjiにも負けてないかも。

ギターだけで歌う2曲があったり、アレンジもかなり凝っていて飽きさせない展開でした。

「ミルクの冠」と「赤い星」をやったのが大ヒット♪
「レントゲン」もよかったです。
この編成で「赤い星」ができれば、あとはなんでも出来ますね。

あと最近レギュラーでやっている「T'en va pas」という曲、最高にいいです。
昔ジーンズのCMで使われていた曲だそうです。
お父さんに恋人ができて自分の元を去ってしまう・・いかないで、と娘?が歌う
と言う曲だそうです。切ない。

そうそう、MCで最近の「男性ひとりに女性が10人共同生活事件」について話してました。
最近あんなにフェロモンむき出しの男性は日本にはいないという話になり、一緒にいたい人とは一緒にいればいいんじゃないか、じつはすごくハッピーなんじゃないかみたいなことを元気に話されていました。
確かにそういう健全な欲望に基づく現象だったら、そういう直情型な生活ってもうちょっと日本人には必要なんじゃないかな、そうすればすこし日本の暮らしもハッピーな方へ底上げされるんじゃないかなと思いました。
催眠とか暴力とかそういう事件でないことを祈ります。

と話がそれたところで、当日のメンバーと、セットリスト。
いつもはあまりセットリストをメモらないんですけど、ちょっと気が向いたので・・・

*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*

 歌とパーカッション:猫沢エミさん
 ギター:円山天使さん
 ウッドベース:岩見継吾さん
 キーボード・アコーディオン:田ノ岡三郎さん
 ドラムス:末藤健二さん

1 アラスカの恋
2 The return of Alan Bean(stinaのカヴァー)
3 c'est vous sur le pont
4 Les Cafes
5 Lete de la vie ~夏の模様~
6 Le monde(私の世界)
7 ミルクの冠
8 赤い星
9 TABACの森
10 Zobi la mouche(Les Negresses Vertesのカヴァー)
11 ?
12 ?(ゲンズブールのカヴァー)
13 Rontgen
14 Mandarin World
15 Mon petit chat
16 ノワイエ~溺死者~(ゲンズブールのカヴァー)
17 T'en va pas(エルザのカヴァー)

昨年12月のライブとあわせると、なかなか充実した選曲ではないでしょうか。
?のところはどなたかご存じでしたらご教示ください。

*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*:.:*

ライブ後は「パリ季記」の即売+サイン会となりました。
しっかり本を購入し、サインをいただきました

あと、円山天使さんと二人で録音したアルバムも販売していたのでゲット。
内容はセルフカヴァーといった趣で、ギターだけでおなじみの曲を録音したということでしょう。また「夏の模様」が入っている~^^;これで3枚目ですが、ご愛敬ですね(ファン心理)

しかし猫沢音源は今後このようなCD-R会場売りが主体となっていくんだろうか?ちょっともったいない気もします。
まあ市場でCDを売るのはまた大変なことですけどね。

というわけで長々と失礼しました~

【追記】本はコレです↓
パリ季記―フランスでひとり+1匹暮らし

地球丸


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WHEN THE SUN GOES DOWN

2006-01-27 16:33:09 | diary
カラマーゾフを読み終わって、アリョーシャたちの世界を離れてしまって寂しいmanimaniです。

今週から週二日出勤です。今日は月曜日に続いて二日目の出勤でした。
職場では席の関係であまり職場内を見渡せる位置にはないので、新しくいっしょになった人たちの顔と名前が全然わかりません。
逆に前から一緒だった人たちは声だけで誰だかわかりますが・・・

新しい人については、本能的に女性の名前から覚え始めているような気がします(笑)
まあ徐々にやっていきましょう(>私)

今日は共有フォルダ内の文書の整理をして午前中をほぼ費やしました。
離れた席で偉い人が
「L3スイッチのLってなんだっけ?」
「レベルですよ」
なんて会話をしているのでよっぽど突っ込みにいこうかと思ってしまったが、とりあえずは復帰訓練の身、大人しく大人しく・・・・
我慢してたらちゃんと他の人が突っ込んでくれていました。
気をつけよう。偉そうにするのは本復帰できてからにしよう・・・

来週も週2日、その次の週からは週3日の出勤になります。
だんだんキツくなってきそうな感じ・・・・

そもそも完全復帰したとして、そのさき明るい展望があるのか?
・・・という疑問はどんな人でも共通したものなんだろうけれど・・
やはりポジティヴなヴィジョンが広がっていないと人間つらいよなあ・・

最後は信仰かしら(カラマーゾフかぶれ)


なんていいながら、今日はこれから猫沢エミさんのライブに行って来ます^^
またサインもらっちゃおうかな^^

(レベルじゃなくてレイヤーですよっ)
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ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

2006-01-26 10:43:07 | book
カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫 ト 1-9

新潮社


カラマーゾフの兄弟〈中〉

新潮社


カラマーゾフの兄弟 下  新潮文庫 ト 1-11

新潮社



無事読了。
でも長いので(600ページ×3巻)読んでるうちにどんどん最初の方を忘れてゆくのでありました・・・・

農奴制廃止後、社会主義革命前夜のロシア。
ある小さな町のカラマーゾフ一家(父と3兄弟)を巡る様々なエピソードと、
父フョードル殺害事件。
嫌疑は長兄ドミートリィにかけられるが、その真相は?

予想外に読みやすく、ところどころにずっしりと主題展開部が設けてあるという感じの構成。

**

たとえば末の弟アリョーシャがいた修道院のゾシマ長老の講話。ここには信仰と愛、自由についての濃厚な思いが語られていて印象深い。

欲求の拡大と充足のなかに自由を見いだすのが俗世の教えだが、その自由のなかで人間は、富める者は孤独と自殺に、貧しき者は嫉みと殺人に導かれる。
それに対し、修道僧の道は真の自由への道である。

「贖罪のための勤労とか精進とか祈祷などは、笑いものにさえされているが、実際はそれらのうちにのみ、本当の、真の自由への道が存するのである。余分な欲求を切り捨て、うぬぼれた傲慢な自己の意志を贖罪の労役によって鞭打ち鎮め、その結果神の助けをかりて精神の自由を、さらにそれとともに精神的法悦を獲ちとるのだ」

このような言葉が100ページに渡り展開され、圧倒的な愛と祈りの法悦がくりひろげられる。

しかし一方でまさにその直後に、ゾシマ長老の葬儀のシーンで、衆人の期待に反して腐臭が急速に発せられるエピソードが置かれているのも、迫力がある。聖人すら死後は自然の摂理に従う。この現実に、ゾシマ長老の聖性に疑問を持つ民衆すら現れる。

こうした両義的な構成がこの小説全体の魅力なのである。

**

兄イワンの語る叙事詩「大審問官」もすごい話だ。
15世紀に再び地上に姿を現し奇跡を起こすキリストを審問する大審問官の独白という設定で、荒野で悪魔からあたえられた3つの提案を退けたという福音書の逸話を元に、キリストが守った人間の自由について、こう語る。

「人間は良心の自由などという重荷に堪えられる存在ではない。彼らは絶えず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ。今や人々は自己の自由を放棄することによって自由になり、奇跡と神秘と権威という三つの力の上に地上の王国を築いたのだ。」

なので、いまさらキリストが出現して良心の自由を解き放つことなど不要なのだ、あのときときはなった自由の後始末をしたのは他ならぬ我々なのだ、と。

これはキリスト出現後の15世紀のあいだ、教会と国家が築きあげてきた世の権威と民衆との関係についての考察であり、権威の側が引き受けてきた「必要悪」について述べたものだ。

これもさんざん展開される後に、イワンの弟であるアレクセイによって「それはローマです。カトリックの一番悪いところです」と反論されてしまうが、ここに展開される自由と信仰のとらえ方は、先のゾシマ長老の講話と大きく対立する部分であり、対をなして小説全体の思想を形作っている。

**

肝心の本筋、長兄ドミートリイが犯したとされる父親殺しを巡っては、りっぱな法廷ミステリーになっている。あらかじめ読者には真相が示され、裁判における検事と弁護士の論述が、それぞれの論理で真相を再構築しようと試みる。この構造が面白い。
読者にとっては、事実の複雑な因果律に対する、人間の思考の恣意性を感じさせて空恐ろしい。
と同時に、弁論によって左右される傍聴人の狂騒や、個々の証拠は必ずしも完全でないにも関わらず下される誤審によって、人が人を裁くことのむなしさ、滑稽さをも表現しているんだろう。

**

エピローグのイリューシェチカの葬送は、子を持つ親として涙を禁じ得なかった。と同時に、人を弔うときにはたぶん一瞬でも心が清らかになるものだろう。そのときをとらえて、集まった少年たちに、このときを覚えておこう、何十年たっても覚えておこうと語りかけるアリョーシャの心の豊かさには胸をうたれた。
少年の清らかな心に精神が根ざし立ち上がること、そこに未来への希望があると言うことなのだろう。
アリョーシャの言葉から、タルコフスキーが好きそうな箇所を引用。

「これからの人生にとっては、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころにつくられたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。・・・・少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」

**

もともと続編が構想されていたがドストエフスキーが没したため叶わなかった。
・ミーチャは結局脱走したのか?(したと思う)
・アリョーシャは暖かい心のまま成長するのか?(してほしい)
・イワンは快癒して殺人事件の真相について世に問うのか?(微妙)
などいろいろ完結しないエピソードが気になるけれど、それでも十分に読みでのある小説でした。
もう120年前に書かれたとは思えない。

あと、作中に「一本の葱」の寓話が出てくるが、この内容は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」そっくりなのが驚いた。まあとっくにどこかで指摘されていることでしょうが。


・・長い割には内容のないエントリになってしまったな・・・・・
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買ってしまった

2006-01-25 16:55:58 | diary
といっても写真のマンションではなく・・・(きれいな空でしょ)

今日は休職期間延長手続きのための診察日。
病院は午前中に終わり、担当者と渋谷で別れる。
その場所が悪かった。足が勝手に禁断の某CDショップに向いてしまい、見事にお買い物の神、ご降臨。

****
アンドレイ・ルブリョフ

アイ・ヴィー・シー



これはアンドレイ・タルコフスキー監督作品で、RUSCICO(Russian Cinema Council)という団体によるデジタル完全復元版DVD。
このシリーズによる復元はそれなりにいろいろな問題をはらんでいるようであるが、現時点では最新の版である。
というか、出てたのを知らなかったので、思わず衝動購入。

****

バッハ:カンタータ全集(22)
バッハ・コレギウム・ジャパン, 鈴木雅明, 野々下由香里, ブレイズ(ロビン), コボウ(ヤン), コーイ(ペーター), バッハ
キングインターナショナル



バッハ:カンタータ全集(24)
バッハ・コレギウム・ジャパン, 若松夏美, 野々下由香里, ブレイズ(ロビン), テュルク(ゲルト), コーイ(ペーター), 鈴木雅明, バッハ
キングインターナショナル



BCJによるバッハカンタータ全集で買い漏らしていたもの。
これで日本盤発売分はすべて買った。
バッハのカンタータをほぼ作曲年順に録音しているシリーズであり、いまはライプツィヒ時代のカンタータを録音中である。
しかし24巻の惹句「まさに神業、円熟のBCJの魔術的演奏」ってのは??
なんだか異教的なモノを想像しちゃってやりすぎでは??

****

Palestrinia Masses: Missa Assumpta est Maria & Missa Sicut lilum
Anonymous, Gregorian Chant, Josef Bohuslav Foerster, Giovanni Pierluigi da Palestrina
Gimell

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パレストリーナのミサをタリス・スコラーズの演奏で。
対位法の大家。ルネサンスとバロックの橋渡し。
以前から欲しかったのをようやく購入。

****

ユキライブ YUKI TOUR “joy” 2005年5月20日 日本武道館

ERJ

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で最後はこれ。3rdソロアルバム「joy」でポップの高みに登ったYUKIのjoyツアーDVD。
ツアーファイナル公演を丸ごとノーカット版!だそうです。
萌え買い~。

****

このくらいフツーに働いていれば買えるんだけど、
いまの私にはちょっと無謀~
ちなみに全部クレジットカード購入。後は野となれ~~
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寒い日

2006-01-24 10:36:11 | diary
昨日は出勤日。家をでるまでは重苦しい気分だったが、なんとか出勤。
今週はあとは金曜日に出勤でクリア。がんばろう。

以下、昨日の話。

**

職場では相変わらずメールの整理に明け暮れる。
整理してもまた次の出勤日までには同じくらいのメールが溜まっている。
整理しては溜まる。
これを延々繰り返して給料もらっちゃだめですか?などと冗談を飛ばしてすごす。

退社後、残った雪がガチガチに固まっているところをヨチヨチと歩いて、駅に近い書店に。
そこで、遂に出た!イーガンの「順列都市」重版!!発見
アドレナリンが一気に吹き出し、寒い懐からなけなしの千円札を出して上巻を買う。
(下巻はブックオフで発見済み)

順列都市〈上〉

早川書房

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順列都市〈下〉

早川書房

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**

その後スタバにしけ込む。スタバと言えば、先日「無脂肪ラテ」宣言をしたが、そうそうに挫折。また通常ラテに戻ってしまった。だってまずいんだもんノンファットラテ。やっぱりラテの本質はあのファット部分にあるんだな。

チェンバロレッスンまではまだ5時間ある~ということで、「カラマーゾフの兄弟」続きを読む。
この小説は「私」という特権的な筆者が、すべてを見通してカラマーゾフ家の些事や事件を見てきたかのように語る形式を持っているので、読む側も神のような視点で物語を俯瞰できる。まあ普通の小説形式ってことだけど。
でも描かれる内容は人生のテーマパーク状態といいますか、宗教から科学まで、信仰から背徳までって感じですごい幅を持っている。面白い。

などと思っていたら、スタバでは派手にお客さんにコーヒーをぶっこぼす事件が発生していた。床にひろがるコーヒー、平謝りする店員さん。(ああ、あなたの気持ち、お察しします;;)お客さんはそう被害も大きくなかったようで、「大丈夫ですよ」と穏やかに言っていた。ここで「クリーニング代よこせぇえぇぇ!」などという騒ぎになっていたら、さぞいたたまれなかっただろう。まあそうなっても仕方がない状況だけど。

**

さすがにおしりが痛くなってきたので、早めにチェンバロレッスンに。
・・・と、待合室のいつも座るベンチが、見慣れぬおばさんに占拠されている。仕方なく他のベンチに。
するとしばらくしてそのおばさんが沈黙を破る。
おたく、うた?
いきなり「おたく、うた?」という質問ってありかなあ?5文字しかないよ。答える義理が私にあるかしら?
なんだか微妙な気持ちになってきたので、なるべく仏頂面で「ちがいます」とやはり5文字で答えた。
5文字には5文字で。これが私の流儀かもしれないなとこのとき気づいた。受け取っただけ与える、という・・・・器が小さいこと^^;

おかげでなんとなく勢いをそがれたままレッスンに。
全般的にリスキーな演奏になり、疲れ果てる。
先生はリスキーで聞いていて面白いと仰ってましたが・・・

**

なにやら疲れ果てて家に帰る。
Mちゃんが頭痛でダウンしていて、ホリエモンさんが逮捕されていた。
なのに私はドミートリィ・カラマーゾフの裁判のことで頭がいっぱい。
ああ・なんて人生なのかしら・・・・

**

今日はMちゃんは復活。私は休み。ゆっくり休もう。
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雪ですね

2006-01-21 15:37:51 | diary
東京は雪。5年ぶりの積雪だそうです。
なので簡単に近況を(何故?)

**

ちょっとしたツテで、弦楽アンサンブルのレッスンクラスに参加することになり、
先日その第1回目が横浜山手ゲーテ座でありました。
その日は最近では珍しい大雨。山手の坂をずぶぬれになりながら登りました。
(写真は雨にけむる外人墓地)

基本的にはバイオリンの人が対象で、受講者はおじさま・おばさまばかり。
「かわいがって」もらえそうです。
テクニック的にも自分にちょうど良い水準なので一安心。

6月まで月1回のレッスンです♪

**

で、職場復帰訓練を1月10日から開始してます。
いまのところ2日出勤しただけですが、まあなにをするわけでもなく、1年間積もりに積もったメールを全部見たりして時間をつぶしました。

といってもやっぱり疲れました。う~ん出勤というのはやはり疲れるものなのだ。これで日数が増えていったら、またはちゃんと仕事をやるようになったらどうなるのか、ちょっと心配です。

とカウンセラーに話したら、そうですね。との答え。
う~む・・・他にいうことはないのか??

**

いま読んでいる本。
カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫 ト 1-9

新潮社



カラマーゾフの兄弟〈中〉

新潮社



カラマーゾフの兄弟 下  新潮文庫 ト 1-11

新潮社




つい買ってしまった本
孔子暗黒伝

集英社

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暗黒神話

集英社

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楽しみな本

○グレッグ・イーガン「順列都市」重版(^^)
・・・1月という話なんだけどまだかな・・

○あと河出書房の奇想コレクションシリーズからイーガン短編集が出るらしい。これはいつ出るのかな?

**

という調子で、すこしお気楽に生きてみようというのが今年の腹づもりなのでございまふ。
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ジャン=リュック・ゴダール「ヌーヴェルヴァーグ」

2006-01-20 13:21:18 | cinema
ヌーヴェルヴァーグ

紀伊國屋書店

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1990フランス/スイス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
出演: アラン・ドロン、ドミツィアーナ・ジョルダーノ

Amazon評では「ゴダールのなかではわかりやすい」とあったけれど、全然そんなことはない(笑)外面的なプロットが見えやすい、ということだろう。

アランドロンはゴダール映画初出演。後に映画史でも姿を見せる。なかなかかっこいいな。

印象としてはアウトドア・ゴダール。インドアはビジネスに奔走する人々が描かれてあわただしいのに対比するように、緑豊かな随所に風景が現れる。で、その両者をなんとか和解させようとするかのように執拗に現れる自動車。

そして繰り返されるシーン。たとえば湖で溺れるシーン。最初は男がおぼれ、最後に女が溺れる。それを助け上げたのかどうか、手と手を握りあうカットが一瞬差し挟まれる。「不死であるための死」という字幕を間に挟んでの、二度の死のイメージがこの映画の大きなプロットだろう。

あとは例によって、愛とは、労働とは、経済とは、生とは、死とは、尽きない永遠のモノローグで満たされる。
ゴダールの映画は常に「問い」であり同時に「答え」でもある。この映画でもひたすら問いは発せられ、それ自体が答えであろうとする。この緊張。

80年代以降のゴダールには、初期の「アンナ・カリーナの愛らしさ」みたいな見所はない(というかキャスティングからして明らかにそうした快楽を避けている)ので、気楽に見るのは難しい。見る側に感受と参加をひたすら強いる。

ああ疲れた。

最後に庭師のことば
「私と草との関係は何か?」
「名前があってこそ草である」
「草がなければ私はあるのか?」



**

ドミツィアーナ・ジョルダーノはタルコフスキーの「ノスタルジア」に出演している。
佇まいも振る舞いも全く別人だけど。
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貫通

2006-01-19 15:54:19 | ひこうき雲
どこまでも長く
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落下系

2006-01-19 12:22:49 | ひこうき雲
寒くて空が青い日はひこうき雲日和。

モスクワは-30度だそうです。
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アンドレイ・タルコフスキー「ストーカー」

2006-01-18 15:49:55 | cinema
ストーカー

アイ・ヴィー・シー

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1979ソ連
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作・脚本:アルカージー・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:アレクサンドル・カイダノフスキー、アナトリー・ソロニーツィン、ニコライ・グリニコ

隕石の墜落にともなってできた「ゾーン」
軍隊が調査に入ったが戻らなかった。現在は非常線が張られ、進入禁止となっている。
しかし「ゾーン」に行けば、あらゆる望みが叶うという。
「作家」と「教授」は「ゾーン」の案内人「ストーカー」に依頼し、ゾーンへの侵入を試みる。

「ゾーン」内部は外界の法則、合理主義や経験則の通用しない世界として描かれているが、映画では、ゾーン内部でなにか外的な現象が起こるわけではない。あるのは、廃墟とそこに流れ横溢する水、そしてそこをさまよい歩く3人の織りなす果てしない会話だ。

特に「作家」の言葉が印象に残った。表向きは新たなインスピレーションを得るためにゾーンに赴くが、内実は、作家としての自己のありように悩み、すっかり目的や信念を見失っている。何のためにゾーンにいくのかわからない、とひとりごちる。
最初に酒と銃を持ってゾーンに入るが、途中ストーカーとのやりとりで酒を捨て、銃を捨てる。
そしていよいよ望みが叶うというゾーンのなかの「部屋」の直前にきて、こう悟る。「ゾーンで叶うのは無意識の願望なのだ。自分の本性に出会うくらいなら家で飲んだくれていた方がましだ」

ストーカーの先輩「ヤマアラシ」の逸話もそこへ繋がる重要だ。彼は弟を連れてゾーンに入るが、弟を死なせてしまう。その後自らゾーンの部屋に入るが、帰還後に自殺してしまう。弟を帰して欲しいという望みを抱きながら部屋に入ったが、叶ったのは大金持ちになることだったという。後悔も憐れみもすべて見せかけにすぎなかったことに苦しみヤマアラシは自殺したのではないか?

しかし、大切なことはすべてをさらけ出し、その先にあるものを信じることだとストーカーは本能的に理解している。結局「作家」と「教授」は部屋を前にして無私の信仰へ踏み出すことを怖れ、苦悩と不安に満ちた俗界へと帰還してしまう。
この勇気のなさにストーカーは絶望する。
この絶望をわれわれ観るものへの問いとして、この映画は終わるのだ。

ただ最後にストーカーの娘が見せる不思議な能力。知らず知らず神秘の力が息づいていることに希望と畏敬を見ると考えるべきなのだろうか。
よくわからない。
(ベートーヴェンの歓喜の歌が流れるし・・・)



**

経験則の支配する外界のシーンは、重苦しいダークセピアで撮られ、ゾーンの内部は緑溢れるカラーで撮られているのが象徴的だ。
(でも「オズの魔法使」を思い出したりして・・・)

ラストシーン遠景に見える原子力発電所(だと思う)が文明の行き着く先の象徴だと思うのはちょっと「偏った」見方?

ラスト近く、ストーカーの妻がいきなりカメラ目線で観客に語りかけるのも非常にビックリする。

ストルガツキイの「路傍のピクニック」が原作だけれど、この作品をSFとして期待するととんでもない肩すかしをくうだろう。
脚本もストルガツキイとなっているけれど、これは間違いなくタルコフスキーが「書かせた」内容だと思う。(笑)

しかし映像の様式美という点ではかなり徹底していると思う。あのトロッコで延々ゾーンに入っていくシーンなど、タルコ好きにはたまらないシーン多数。



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シュヴァンクマイエル「GAUDIA」

2006-01-17 12:55:31 | art
GAUDIA 造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル―幻想の古都プラハから

求龍堂

このアイテムの詳細を見る


チェコの映像・絵画・オブジェ作家シュヴァンクマイエル夫妻の作品図録を購入。
昨年9月~11月に神奈川県立近代美術館葉山で開催された「GAUDIA展」の図録が書籍になって上梓されたもの。

「GAUDIA」はラテン語で「悦び、楽しみ、慰み」の意。
「GAUDIA展」は「マニエリスム的な蒐集物の陳列室」として構想されたもので、現代の、理性的で実用的、功利的な文明に対立する、グロテスク、遊戯、魔術の三位一体を柱とする世界の窓となることを目的としている。

確かに、ここにあつめられた絵画・オブジェ・コラージュ・スケッチの奇想たるや、異界への窓といって間違いない。

「シュヴァンク=マイヤー百科事典」シリーズにおける図版での異形の生物たち。それらを具現化したような驚愕のオブジェたち。
触覚にこだわった絵画やオブジェ。
グロテスクなエロティシズムに溢れた絵画やオブジェ。

おそらくそれらであふれかえる展示室はまさに現代が抑圧した魔術的世界での蒐集物陳列室の様相を呈したに違いない。
展覧会に行けなかったのがますます残念。

それにしても、1950年代から続く創作は精力的で、この間のチェコの変動を思うとまったく頭が下がる。


「博物誌のキャビネット4」(クリックで拡大)


「生と死をめぐる対話」(クリックで拡大)
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なぜか鎌倉

2006-01-15 17:48:50 | movelog

水仙の季節だというので、家族で鎌倉へ。
でも水仙まったく咲いてないです。
なにか間違えたかな~?

夕暮れ時に大仏見たのは初めてだ。
ライトアップしております~

今は長谷から鎌倉駅へ向かうバスで渋滞中。

明日は出勤+チェンバロレッスンの日だ〓
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アンドレイ・タルコフスキー「惑星ソラリス」

2006-01-13 13:41:37 | cinema
惑星ソラリス

アイ・ヴィー・シー

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この映画、もう20年近く前のことだと思うのだが、TVで深夜放送されたのを観たのが出会い。
その後再度TVで放送したものを録画し、繰り返し観た。

ところでそのTV放送版は、大幅にカットされた版だったので、私は不完全な「ソラリス」を繰り返し観ていたことになる。なのでどうも私のソラリスの原型はその「カット版」なのだ。

その後通常尺で何度か観る機会があり、(そのなかにはオールナイトで「ソラリス」だけを反復上映するという、贅沢な苦行?もあったが)観るたびに思うが、どうもこの映画、詰め込みすぎなんじゃないか?

タルコフスキーは、ソラリスステーション上で起こる出来事を、精神の根元的なものの具現化、良心との対峙の物語として読むわけだが、作品の方は、そうした精神性への希求を表現する映像に溢れる一方で、なぜか原作にあるSF的ガジェットを映像化してみたり、未知の現象にであったときの恐れと行動などを部分的に再現してみせる。どうもこの両面がしっくり組み合わさっておらず、冗長な気がしてしまうのだ。これなら、精神性への畏敬の念に純化して作った「鏡」の方が作品としては整理されている。

おそらく監督自身もこの状態を不首尾だったと思っていただろう。後に著作でソラリスでの作り込みへの後悔を述回している。

同時に、というか逆に、原作者であるスタニスワフ・レムは、この映画化について、主人公の故郷の家や父親を登場させ、ノスタルジックなエピソードにしたことに不満を持っていると漏れ聞く。
つまり映画の核となっている人間の根元的なものへの畏敬の念は、本来小説の目指したものとは違うということだ。

でここで話を冒頭に戻すと、TVで放映したカット版、これは、難解な長回しシーンやSF的本筋に関係ないと思われるシーンを中心にカットしてある。ということは、つまりレムから観てよけいだと思われたシーンがすっかりカットされた「SFバージョン」なのだ。
カットした側にそうした意図が会ったとはもちろん思えないけれど、期せずしてこれならレムも少しは態度を軟化させるのではないか?というバージョンが出来上がっていたのではないか?(笑)
もちろんタルコフスキーからするとこんな顴骨堕胎は噴飯モノ・・・涙を流して抗議するにちがいない。

という笑い話でしめくくるのもなんですが・・・・

**

そうそうこのSFバージョン、だからラストシーンがものすごく唐突なんですよ。
SFサスペンスチックに進んできたのに最後にいきなり、良心だの後悔だのについての主人公がモノローグで入り、なぜか場面は父のいる家になり、俯瞰して有名なラストシーンに・・・・
なんだかいかにもとってつけたようになってビックリして、これはこれで面白かったですが、正式版をみてやっと納得(笑)

というわけで、私はこの作品、開き直ってタルコフスキーを離れ、特異な肌触りのダウナーなコアSFとして観る、っていう見方もありなんじゃないかなと思うのです。そう思うと結構好きな作品なのです。

**

ところでソラリス、最近ではソダーバーグにより映画化されていますね。
ニュース・ソースがどこだったかわからなくなっちゃったんだけれど、ソダーバーグは「ソラリスを映画化するにあたって、これはタルコフスキーのリメイクとしてはとらえていない」とどこかで語っていたと思う。
それは多分非常に正しい態度なので感心した覚えあり。

タルコ版はあくまでタルコフスキー固有のテーマを追求したものだと思うから。

原作本↓ ポーランド語からの完訳版。
ソラリス

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ソダーバーグ版↓
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大森立嗣「ゲルマニウムの夜」

2006-01-13 11:23:26 | cinema
ゲルマニウムの夜HP
2005日本
監督:大森立嗣
製作総指揮:荒戸 源次郎
原作:花村 萬月
音楽:千野 秀一
出演:新井浩文、広田レオナ、早良めぐみ
   石橋蓮司、佐藤慶、麿 赤兒

国立博物館構内に特設された「一角座」で上映されている。

特になにが過剰というわけではない。いわれのない暴力、理由のないセックス、充実しない眠り、許されない愛情、汚れた肉欲。どれか一つでも突出していればそれはセンセーショナルな衣を纏い、しかるべき位置に落ち着くだろう。けれどこの映画ではそのどれもが頼りなく、日常の隅っこに引っかかっているだけだ。

主人公の名前が「朧」という。朦朧の朧。

ここに登場する男たちはみな深い劣情をかかえているが、劣情は彼らを飲み込み、日常のつとめと一体化し朦朧としている。そうした朦朧のなかでなおも生きてゆくことの摩耗感が、教会と宿舎と酪農場という閉鎖空間で描かれる。ひたすら摩耗のなかで続いてゆく生の姿こそこの映画の存在感なのだ。

心に残るのは、戸川神父との懺悔のシーン。懺悔のなかで朧は、未来に犯す罪を告白する。それと知らず、許しを与える戸川神父。これで心おきなく罪を犯せますね、と最後に打ち明ける朧。告白も許しも結局二人の間でしか成立しない刹那的なものとなる。どうしようもなく無効だ。とつとつと語れば語るほど、そのむなしさが伝わってくる。そのむなしさの前に、朧も神父も諦念に近い脱力感を見せる。

その脱力感には、観る者の、堅く閉まった蓋をじわじわとこじあけるようないやらしさがある。そのなかには、自分が日頃押さえ込んでいる欲望や愛憎のキモの部分が入っている。日々何とか納得し作り上げている見せかけの外面をこじ開けるような粘り強さがある。うう~頼む、開けないでくれ~~・・と日頃まっとうな善人を演じている自分が悲鳴を上げた。

**

しかし・・女性たちの姿は、まるで曇りガラスの向こうにいるようだ。すこしも実体が見えない。彼女たちも同じように汚れた日常に飲み込まれた存在なのだろうか?どうもこの映画では、朧の疲弊を彩る小道具のようにしか見えない。シスターテレジアの懐妊の意味も今ひとつわからない。残念。

動物さんタチが迫真の演技をみせる。自ら望んだことではないだろうけれど、一番体を張ったのは、ブタと犬である。特にブタさんのこの映画への貢献は特筆に値する。
もちろん犬も捨てたモンではない。小宮院長の淫蕩に制裁を加えるのは彼なのだから。

石橋蓮司は、なにをやっても「石橋蓮司」に見えてしまうのが難点。(単に私の問題かも)
その一方、麿 赤兒はまったく自分を消していた。いや、どちらがすごいってわけではないけれど。

千野秀一の、ジャズにも劇伴にも寄らない音楽が秀逸。

特設といいながら、一角座はなかなか小綺麗な小屋だった。コーヒーのサービスもあった。けど、もうちょっと狭くて汚い小屋でみたほうがずっと面白かったと思う。(無責任な発言)

荒戸製作映画といえば、「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」。でも80年代にそれらを観たときのような高揚感はなかったな・・・・
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