Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「デスペア」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2016-09-22 21:31:23 | cinema
若干のネタバレを含みます



滅多に上映されないファスビンダー「デスペア」観てきました。

ファスビンダー映画祭2016は他にも日本初公開の「シアター・イン・トランス」やファスビンダーについてのドキュメンタリーもあり、すごい展開です。

「デスペア」はダーク・ボガードやゴットフリート・ヨーンなどの有名な人たちが出ている意欲作だけれど、やっていることは実にファスビンダー臭いいつものノリ。

そこにダーク・ボガードが見事にすっぽりはまっているのがお見事。長年のファスビンダー組みたいなギラギラした演技を見せるダークは素晴らしい。

しかしナボコフの原作もこんなに関節外し的なものなのかしら??犯罪を仕組んだもののあっさり肝心の部分がアレでアレするとは。。思わず客席も失笑する唖然。。な展開をお楽しみに。

脚本は珍しくファスビンダーではなくトム・ストッパードという人。ファスビンダーのインタビューによれば、共同作業的に出来上がった脚本ということだけど。
他の作品にあるような、ヒリヒリしたいたたまれないような人物描写は比較的(比較的ね)引っ込んで、プロットの面白さに重点が置かれている感じ。

時系列的に不思議なところとか(警察が訪ねてくる一連の繰り返しとかね)、ふっとサブリミナル的に差し挟まれるカットとかその辺が完成の域にある。
予算もスターも脚本も揃えて英語で撮った「デスペア」でカンヌに乗り込んだということなので、力を入れて整えたのだろう。
(カンヌで盛り上がったのは、プライベート上映した「マリア・ブラウンの結婚」の方だったけど)

とはいえ、その端正な要素を思わず突き破ってしまうのが、なんだかんだ言って存在感ありすぎる「いつもの」面々なのは、やはりすごい。
紫色のスーツで登場し、ナチス服にお色直しをするペーター・カーン、いかにも邪魔くさいウザい従兄弟のフォルカー・シュペングラー。彼らの印象はいつものことながら主役級に残る。
ペーターなんかは、ダニエル・シュミット作品などでもあれだけ場をさらっておきながら、「別に役者やりたいわけじゃないんだよ」みたいな人だったというから、すごいよな。

ああそれと、ペーア・ラーベンの音楽。冒頭タイトルが出た瞬間に音楽で場を異様な空気に変える恐るべき曲者。ファスビンダー世界の、生理的にいたたまれなくなる要因の多くはペーアが作り出していると思う。あれはすごい。

@アテネ・フランセ

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「ブロの道」ウラジーミル・ソローキン

2016-09-13 01:44:09 | book
ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)
クリエーター情報なし
河出書房新社


ソローキン「氷三部作」の一つ目を読みました。
執筆順では2番目、作品の時系列では1番目ということなので、
悩んだけど『ブロの道』から読み始めることにしました。

一貫して主人公であるアレクサンドル(=ブロ)の視点で語られていて、
語り口も起伏はあるものの重く沈着した感じ。

内容は奇想を孕むものの、小説らしい小説となっていて、
ロシア文壇で批判、論争が起きたというのもよくわかる、
ソローキンらしからぬ作風。

『氷三部作』が「心」への回帰を匂わせる点に対して、ポストモダン的批判が寄せられたのだが、
ソローキンは批判に対して「いつもと異なる方面から自分たちを見るという直感的な試みの一つに過ぎない」と反論し、
また汎テキスト的な視点にある批評家や学者を批判している。

この批判は2つのベクトルを持っているように思う。
ひとつは「作者の死」を前提とするポストモダン的、コンセプチュアル的な方法や観点の閉塞感への挑戦。
もうひとつは、「作者の心」、形而上学的なスタイルへの「回帰」を、あたかも魂を売り渡したかのように捉え
批判を向ける考え方の不自由さの指摘。

ソローキンは実践者として、19世紀的な主観的な方法もまた、
それを否定するコンセプチュアル的な方法と配置できるものとして、
可能性を広げるツールとして用いることで、ポストモダンが新たに提示してきた
「枠」をさらに乗り越えようとしているのだろう。
そのある意味相対主義的な態度が、作品が提示している「心」の文学の「真剣さ」を
疑わしいものにしている、というさらなる批判を生んだとのことだが、
その批判こそがまさに近代的な発想に止まっているということになるだろう。

****

「ブロの道」の中身だが、つい最近たまたま某所で某氏とツングース隕石について
与太話を交わしたところだったので、その偶然に驚いたりしているわけです。
読むべき時に本書を開いちゃった感あり。

某氏とは、ツングースカ川に行ってみたいもんであるとか話したんだが、
ロシア通の彼も現地に行くのは熾烈を極めるだろうと言っていた。
本書前半でもその熾烈な探検の様子が描かれている。
観光地化してくれないかなロシア政府。

中盤からは、宇宙の起源に源を持つ光の一族が同族を探す物語になっていくのだが、
現実的な熾烈さは引っこみ、世界から23000人を探し出すという途方もない企ての割に、
ご都合主義的にとんとん拍子に事が進む感じ。

それも、一族の超越的な視点から、ツングース事件以降のヨーロッパ史を冷徹に俯瞰するという
意図からもたらされたものだろう。
特に途中主人公たちが「心の眼」で世界を見るようになってからは、文体から若干の変化をして、
徹底的に世界を突き放して見るようになる。

普通の人間たちはもはや「肉機械」呼ばわりだし、ドイツ語を話す肉機械の国で、
強烈な思考を持ち人前で大きな声で話すのが好きでたまらない1つの肉機械が権力を握り、
先祖がその国に住んでなかったというだけで他と変わらない肉機械を迫害し始めたみたいな書き方になってくる。
徹底的な俯瞰。

一族にしても、仲間に対する愛は宇宙規模で深いのに、人間たちに対する愛情は欠片もない。
無常で無情の人間の歴史の上に、無情な一族のネットワークレイヤーがかぶさっている。
この先一族は、人間は、どうなっていくのか。次は『氷』を読むよ〜。


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