Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ヒトラー、あるいはドイツ映画」第3部・第4部 ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク

2012-08-25 23:41:01 | cinema
「ヒトラー、あるいはドイツ映画」
第3部 冬物語の終わり
第4部 われわれ、地獄の子供たち
監督・脚本:ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク

ジーバーベルクのヒトラー、後半戦は
迫力のあるものでした。

第3部はおもにヒトラー周辺にいた人たちの言葉を採録するような形で進む。
ヒムラーに扮して怪しげなマッサージを受けつつ、バガヴァッドギーターなど引用しつつ心境を語る人物が冒頭。
側近でもヒトラー顔負けに広く大きな世界観のなかに自分を位置づけようとしていたことがわかる。

それは誇大妄想を共有していたというよりも、思いがけずゲルマン民族による完全世界の確立という大きな大きな物語に現実に取り込まれたものが、その過程において様々な悲惨な状況や決断を乗り越えて行かざるを得ないことに対して、自分自身が大きな物語の一部として運命づけられているのだとなんとか納得しなければ生き抜いて行けない、そういう追い込まれた状況であるということに思える。

それはなにも側近だけのことではない。市井のドイツ人も。彼らもユダヤ人の虐殺を目の当たりにしておぞましさを覚えつつも、それがゲルマン民族全体を考えることで犠牲は必要なものだと思い込む。思い込まないと生き延びられない。

そういう状況にまで大きな物語は大きかったのだ。

将校(に扮する役者)が語る。
悲惨で苦しい光景や判断を乗り越えて強さを学ぶことが必要だと。
あるいはユダヤ人虐殺に異を唱えた女性に対してヒトラーは言う。
愛ではなく憎しみを学ぶのだと。

そこでは個人の自然な善悪の感情に基づく行動は乗り越えられるべきものであり
全体の目的のために犠牲は必要であることを学ぶことが重要なのだ。
ここまでに人間の精神を追い込むのが大きな物語の世界なのだ。

その恐るべき磁場をこの映画はまた
説話という方法によらず言葉と映像のコラージュによって伝えようとする。
物語の否定。



第4部はヒトラーが残したもの、その遺産相続人は誰か、という刺激的な内容である。

例えばスターリン後のソ連や東欧の管理社会。
大きな物語に基づく徹底した社会管理と情報操作はヒトラーのそれを前例とするだろう。

情報操作と管理を徹底的にやることで社会を高度に統御するのはもちろん「東」のことだけではなく、資本主義社会においても形は違えど同様のことである。

ヒトラーが与しなかった共産主義も資本主義は、皮肉にもヒトラーの遺産によって強大な力を得たのである。

別の視点で、映画や観光で後年に渡ってネタを利用し続けるという資本主義的な遺産相続もあるよ、と本作ではコミカルに映画がどのようにあの惨劇を扱うかを並べてみせる。

********

20世紀の後半はヒトラーが演出した映画である、とも。
そのことは作品のタイトルにすでに表れているのだが。


帝国的な映画または映画監督についての言及も少しあったが、
ここでも『ユダヤ人ジュース』が挙っていた。
もちろん未見である有名な反ユダヤ映画。観る機会はあるだろうか。

********

ここでもあの印象的な風体のペーター・カーンが活躍するのだけれど
どうもあの人が真面目に演説をしているとつい吹いてしまうw
同じように感じている人もいるらしく、同じタイミングで吹いている人も客席にいたが。。。
なんなんでしょうねえ

それとエンドクレジットでジーバーベルク姓の女性名が出ていたのだが(なんて名か忘れた)
あれはあれかなあ、これだけ饒舌な映画の最後の10分くらいは完全にセリフがなくなり冥府巡りみたいになるんだけど、
そこで我々を連れ回すあの絶世の美少女、彼女かなあ??ジーバーベルク監督の娘さんとか??


@アテネフランセ
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「ヒトラーあるいはドイツ映画」第1部・第2部 ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク

2012-08-18 01:59:25 | cinema
「ヒトラーあるいはドイツ映画」第1部・第2部 ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク
Hitler- ein Film aus Deutschland
1977ドイツ
監督・脚本/ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク
撮影/ディートリヒ・ローマン


鑑賞の機会を虎視眈々と窺っていたジーバーベルク『ヒトラーあるいはドイツ映画』。まずは第1部「盃」第2部「ドイツの夢」に参戦。
想像を超えるハードコア度にのけぞる。映像や音響のリアリズム的な意味での過激さとは程遠いにもかかわらず、そこにみなぎる執拗な意志の力に圧倒される。

冒頭、謎の原始の密林のような絵(写真でなく絵!)にぎっしりと字幕が詰め込まれるところからすでに強い意志は始まっている。覚悟しなければならない。これは言葉の映画なのだ。

画面が変わり、妙に閉塞感のある人工的なセットのなかに少女が人形をまさぐっているのだが、そこからは言葉は音声に移る。ほぼ全編にサウンドコラージュが施されていることは見終わって確認できることだが、このサウンドは、ヒトラー本人の演説録音を筆頭に、誰のものかは判別できないがさまざまな人物による演説・朗読、そしてそれに答えるような群集の喧騒。つまりほぼ言葉によるサウンドコラージュなのである。その上にさらに画面上の人物や画面外のナレーションによる語りが重なり、さらにワーグナーやマーラーの音楽も聴こえる。
必死に字幕を追いながらふと絶望的になる。これはドイツ映画だ。ドイツ人でないとこの意味の奔流を知ることは出来ないのだ、と。

いや、と気を取り直す。
第1部ではナチスが台頭する時期に弄されたであろう言葉が手を変え品を変え披露される。印象的なのはうす寒い墓場の棺桶のようなところでくもの巣を払いながら亡者の人形が雄弁に語り合う場面。アーリア人の優勢、社会主義・共産主義の敵視、第三帝国の誇大意識。字幕を読んでいるせいか頭がくらくらしてくるのだが、このような言説の海に当時のドイツは浸っていたのではないか、まさに言葉の海を映画は現前してみせる。

さらに(これは第2部であったと記憶しているが記憶違いかもしれない)「もしミサイルと原爆が我らの手にあったら・・」という禁断の空想のなかで、「ハイデガーらが使った言語が世界を席巻しただろう」とドイツ語の夢を語るのだが、それは言説の奔流が継続した未来を想像させてぞっとするものがある。

第2部では後半主にヒトラーの従者を務めた男性が、ヒトラーの人となりを延々述懐する。画面はおそらくは総統公邸や集会場などのナチスを色濃く印象付ける場所を背景に、語る人物を合成していく。第1部で聞いた誇大な言説に代わり、人間ヒトラーを浮き彫りにしてみせる。一方でここでも言語と音楽によるコラージュ。
深夜の無断外出や下着のエピソードなどを過剰なほど連ねてみせるこの部分の意図は図りかねる。一方で写真では有名なシーン、「RW」と書かれた墓碑の下からヒトラーその人と思しき人物がおどろおどろしくよみがえり心境を雄弁に語る姿が描かれ、後半の人間ヒトラーとの対比が印象付けられる。
(RWはリヒャルト・ワーグナーだろうことがここまで観た者には容易に理解できるのだが)

第1部で盃になみなみと注がれた誇大な夢を第2部では飲み干してゆくのだが、この液体が第3部以降どうなってしまうのか、にわかに想像はつかない。

***

映画的というよりは演劇的なつくりになっている。前述の人形による劇をはじめ、狂言回しが太鼓をたたきながらヒトラー側近や市井のドイツ人らを召喚しては語らせるところや、これもある方面では有名なペーター・カーンが巨体をよじってナチス将校らしき人物を熱演独白するなど、どこまでも演劇的である。
サウンドコラージュや画像のオーバーラップなどを含め、もしかしたら大掛かりな演劇でも可能かもしれない作品かな。

人形の造形やセットの徹底した薄暗さと閉塞感は後のクエイ兄弟の作風を強く思い出させる。調べた限りではよくわからないが、70年代終わりに作品を発表し始めた彼らがこれを観ていることは考えられるし、そういう想像で勝手に盛り上がる。

ヒトラーの執務室かとおぼしき映像に大きな地球儀があるのを確認し、なんだかぞっとする。
チャップリンの『独裁者』で楽しく蹴り上げてみせるあの風船である。



@アテネフランセ
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マルク・ミンコフスキ/モーツァルト:交響曲第40番、第41番

2012-08-15 04:39:26 | music
モーツァルト:交響曲第40番、第41番
ミンコフスキ(マルク)
ユニバーサル ミュージック クラシック


『マルク・ミンコフスキ/モーツァルト:交響曲第40番、第41番《ジュピター》、他』

ミンコフスキという指揮者については名前しか知らなかったのだが、ワタシのCD購買欲を満たすためにこれまであまり開拓してこなかったモーツァルトという領域に攻め入ろうとしたときに、このCDが目に付いたので購入。

いかにも古楽勢らしい、テンポの速いきびきびした演奏でそこは予想通り。
結構細かくデュナーミクを弾き分けているし、アンサンブルがかなりかっちりしているので、全体的には非常にスリリングな演奏である。
優雅なモーツァルトという趣とはちょっと違う。
既知の曲でありながら、和声と旋律の移り変わりを次はどうなるのか??と手に汗握る気分で味わえる。聴く者に集中力を沸きたてるような演奏で、とても楽しい。

特に交響曲第41番では、スケールの大きい曲想をそのスリリングな緊張感を持って突っ走るので、巨大なワンダーランドを高速で探検しているような気分を味わえる。低弦が早いパッセージを刻んで走り抜けるところなんかはわくわくする。

一方で、ゆったりした優雅な響きが決してないわけではないし演奏は全然荒くならないのだが、やはり逆に、もうちょっとヨーロッパのいにしえのゆったりした空気もあっていいように思わなくもない。モーツァルトの後期の音楽にはそういう幅広さがあると思うのでそこが残念なところ。

まあ音楽のアンサンブルの喜びみたいなものを味わうにはいい盤なので、しばらく愛聴すると思う。弦もいいけど特に管楽器のアンサンブルがきれい。

**

収録曲の構成がよいね。演奏会みたいだ。
中プロの歌劇「イドメネオ」からのフィナーレはバレエ音楽ということで、いかにも百花繚乱なつくり。「バレエは禁止だ!」という映画『アマデウス』でのシーンが印象的だが、バレエも好きだったんだろうなーうぉるふぃ。

交響曲第40番はクラリネットの入った第2版てことです。

この演奏陣でベートーヴェンをやったらどうなるかと思うと楽しいのだが、なんとなくインマゼールそっくりになりそうでもある・・

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「ヘルタースケルター」蜷川実花

2012-08-06 00:54:09 | cinema
ヘルタースケルター
2012日本
監督:蜷川実花
脚本:金子ありさ
原作:岡崎京子
出演:沢尻エリカ、水原希子ほか


一緒に観たひとはボロクソに言っていたのだが
ワタシは結構楽しめた。

それなりに岡崎京子の作り出したりりこの崖っぷちを表現しようと努力した感じはあったし、
ある程度成功しているようにも思えるし
派手派手なりりこの部屋とかの蜷川的テイストも細かく作り込まれていたし
りりこ錯乱のシーンではユーモラスな演出をしてみせるなど変化にも富んでいたし
なかなか良かったのではないかと。

ただ、原作超えというか
映画にしかない輝きのようなものはなかったかもしれない。
りりこが追いつめられてビルの屋上らしきところで絶叫するところは
それなりにハイライトなのだがロケーションからアングルから
まるで突出することなく凡々とすぎてしまったし
最後の記者会見のところはまあまあよいとして
その後こずえがりりこを再発見するところなどは
もちょっと退廃的且つ辺境的で末期的であって欲しかったし
原作から長い月日が経っているのだから
ええっ?と声を上げてしまうような未踏の領域にりりこは達して行ってもよいはずなのだ

渋谷の映像を好んで使い
道行くJKたちをりりこの潜在的分身として関連づけることで
現代性を追求しようとしたと思うのだが
肝心のりりこが原作の枠の中で与えられた人物像をはみ出すことがないので
まあ安心と言えば安心なのだが
安心がこの映画のテーマでは決してないはずだしね。

ということで、蜷川ワールド全開にもかかわらず
岡崎対蜷川と言う点ではいまだ岡崎勝利に終わっちゃったのかなと。


もちろん岡崎勝利の映画として十分に楽しんだし
ある面岡崎未体験の人にはそれなりの肉迫性もあるだろうし
映画としてはみんなどんどん観て
自分のことについてじっくり感じて考える機会とするのが良いと思う。
蜷川実花さんもどんどん新しいことにチャレンジして
映画をたくさん撮ってもらいたい。

てなことを思いました。


****

鈴木杏ちゃんが出ているのだが
ワタシは誰だかわからなかった(だめだめ

上野耕路が音楽ということですが
一部のくせのあるスコアが彼のものであろう。
あとはいろいろな既成曲をふんだんに使っていてまあそんなかんじ。



@丸の内ピカデリー
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「モスクワ・エレジー」アレクサンドル・ソクーロフ

2012-08-05 02:42:56 | cinema
モスクワ・エレジーMOSCOW ELEGY
1986~1987ソ連
監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ


ソクーロフの卒業制作であった『孤独な声』は
はやくもソクーロフ印の深く刻まれた
内省的でどこか夢幻的なフィルムだったが
表向きにはいっさい政治的な臭いのしないその作品にひそむ
個人の内面に手を伸ばすまがまがしさのようなものを
当局も敏感に察知したのだろう、
そのフィルムは当局の批判にあう。

そしてやはり敏感にこの作品の本質を感じ取った一人が
『モスクワ・エレジー』の主題となる人物アンドレイ・タルコフスキーである。
タルコフスキーはソクーロフ『孤独な声』を擁護する。
タルコフスキーの作品を知るものならその擁護は至極当然と思えるだろう。
タルコフスキーの芸術を貫く姿勢は
過酷な体制下でも同じく芸術を求める後続の監督に大きな勇気を与えたに違いないし、
そのことは21世紀の今さらに活躍の場を広げるソクーロフを観ることの出来る我々もまた
感謝してしすぎることは無い。

ソクーロフがタルコフスキーを追悼すべくドキュメンタリーを1本撮っている。
ならばそれを観ないわけにはいかないと思っていたのだが、
とうとうその機会が訪れた。


内容としては、タルコフスキーが写っているフィルム、
インタビューや撮影風景の記録フィルムや
脚本家を訪問した時のフィルムなどからの引用に
ナレーションを加えたもの。
タルコフスキーの動く姿を解説したりするのだが、
その視点が、映画の登場人物を解説するようなものであることが
なんだか面白い。
タルコフスキーは、というより、この男は~~している、という解説。
自分を擁護した映画監督というよりは
監督を中心にまたもソクーロフ臭い映画をつくり
それにオーディオコメンタリーを入れているような作りである。

タルコフスキーの業績や人となりを知りたいと思ってこのフィルムを観ると
やはりかなり物足りないであろう。
それでも主にタルコフスキー『ノスタルジア』から引用される部分と
その他のタルコフスキーの写る映像からなる
一種のリミックスとしてみるならば
そこには他のドキュメンタリー作品と共通する作品性のようなものを感じて
そこにあるソクーロフ印にまたもや心を侵されてしまうのだ。



ソクーロフの作品というのは
思い出すたびにその不思議さが深まっていくと最近思う。
観た中ではとくに『ファーザー、サン』や『日陽はしづかに発酵し』
あるいは最新作の『ファウスト』
もちろん前述の『孤独な声』
それらの持つ独特の間合いが
実に不思議。
他に類のない映画という印象がどんどん深まっていく。

この不思議テイストが心に浸食してくるかどうかで
ソクーロフの好き嫌いはひどく別れるのだろうと思う。


****

関係ないけれど、タルコフスキーに関する優れたドキュメンタリーに
『タルコフスキー・ファイルin「サクリファイス」』
『タルコフスキー・ファイルin「ノスタルジア」』
があるのだが、
これは両作で助監督をしていたレシチロフスキーによるもので、
とても面白かったし
タルコフスキーの持っていたこだわりにかなり迫っていたと記憶しているのだが
これはDVDになってないのかな
知るかぎりではないように思うけど
もう一回観たいな~これ



@ユーロスペース
コメント (2)
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