Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「パリ、恋人たちの2日間」ジュリー・デルピー

2009-08-31 00:30:36 | cinema
パリ、恋人たちの2日間 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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パリ、恋人たちの2日間 2 DAYS IN PARIS
2007フランス/ドイツ
監督:ジュリー・デルピー
製作:クリストフ・マゾディエ、ジュリー・デルピー、ティエリー・ポトク
脚本:ジュリー・デルピー
編集:ジュリー・デルピー
音楽:ジュリー・デルピー
出演:ジュリー・デルピー、アダム・ゴールドバーグ、ダニエル・ブリュール、マリー・ピレ、アルベール・デルピー 他


才媛ジュリーの製作監督脚本音楽主演作(笑)まるでチャップリンだ。

アメリカに住むフランス人♀+アメリカ人♂カップルが、彼女の故郷パリに2日間滞在する間に、いろんなことが起き、関係がぎくしゃくするってハナシ。

全編こなれたセリフ回しによる会話の妙技、というか技を全然感じさせない自然さが魅力なんだけど、特に冒頭と終盤は映像やナレーションも非常にリズミカルに編集されていて、よくできた音楽のアンサンブルを聴くよう。
映像もときおり早送りとか白線描画とか小技をくりだして面白い。初期ゴダールの人を食ったような編集を思わせるノリで、好きでした。

ゴダールといえば、ジュリー演じるマリオンの飼い猫の名が・・・だし(ネタバレ回避)、アダム・ゴールドバーグ演じるジャックもサングラスをとっかえひっかえ、どれがゴダールっぽい?とかやっているし、笑える。父親のような(祖父のような?)ゴダールへのジュリーの茶目っ気あふれた眼差しがなにやらほほえましいのよ。

ジュリーもいいんですけど、、というかジュリーが情けなく泣き笑う時の眉毛のかたちがものすごく印象的なんですけど、それと同じくらいにアダムの鳩が豆鉄砲食らった的表情が気に入りました。あの顔は・・『What's Michael?』小林まことの顔だな(笑)マンガから抜け出てきたようだ。

英語しかしゃべれないジャックはパリでファストフード店での注文にも難儀しながら、一方で回りにはわからんだろうという英語でにこにこしながら実は悪態をついてみせるとか、言葉の壁をうまくつかった落差で笑いを取るところなんかは上手い、というか実はこの映画の大元のネタはそういうエトランジェのもたらす落差、落差を生きることの可笑しさということなんじゃないだろうか?
マリオンの両親に片言のフランス語で必死に誠実な人間を演じながら、すぐその場でマリオンには英語で「おい、いったいどういうことだよ?」とか苦言を呈したりするところは涙ぐましくも可笑しくもある。



マリオンの両親もなかなかの人物で、とくに父親のしたたかぶりというか変態ぶりは大笑い。ひとあたりよさそうにみえて強烈にシニカルで容赦ない。どうやらアーティストらしく「個展」会場に娘カップルを招待するのだが、その展示ときたら(笑)(エロオヤジ系)
歩道に乗り上げ駐車している車に対する彼の仕打ちはこれまた冷や汗もので^^;

お母さんもおせっかいやきのプライバシー侵害型おばさん。マリオンたちの濡れ場にここぞと乱入するところなんか好きですね~。しかも終わり近く、ジム・モリソンの謎が明らかになってビックリ!

とおもったら彼らは本当にジュリーの親なんですねえ。彼らも俳優だったんですね。強力な両親ですよ。

ジュリーとお母さんと猫、見よこのジュリー眉。


ジュリーもなかなかによいけど(というか、あの美人ぎりぎりなのにちょっと残念側という微妙さがすごくいい(笑))、でもこの映画アダムのなりきりエトランジェぶりがすごくいいと思う。マリオンの男関係がずるずると判明していくなかでどんどん目ん玉が丸くなっていく彼。そういう長尺な変化を演じていて、考えてみるとこれはすごいことだよなと思う。
目ん玉はとうとうラストにいたって前回になり4時間の議論に至るようだけど、そこんとこのナレーションのうらで熱演するアダムもよかったなあ。
アダムあってのこの映画でした。

ジュリーとアダム



****

パリ観光的なところにほとんど行かないのもいいですね。唯一行ったのがペールラシェーズ墓地のジム・モリソンの墓。カタコンベも行ったけど閉まっていた。墓ばっかしだ(笑)

バスを待つ行列とか不機嫌なタクシーとかメトロでの怪しい密着オヤジとかすごくパリらしいのか、笑える。両親の家というかアパルトマンでの水漏れとかね。

下品な下ネタ系会話も炸裂するのでご家族向けではないですね(笑)

子供時代のジュリーもよかったですね。
黙って地面を見つめているだけだけど。


特典映像のジュリーのインタビューでは、監督と主演をやるのは平気だけど、製作をヤルのはものすごく大変だったと言ってました。ただ来てやるだけの監督や俳優は楽だと(笑)日々発生する事件を解決していく製作のほうがよっぽどドラマだと(笑)そうだよね~



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「ドリーマーズ」ベルナルド・ベルトルッチ再観

2009-08-30 01:48:09 | cinema
ドリーマーズ 特別版 ~R-18ヴァージョン~ [DVD]

アミューズソフトエンタテインメント

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ドリーマーズTHE DREAMERS
2003イギリス/フランス/イタリア
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
製作:ジェレミー・トーマス
原作:ギルバート・アデア
脚本:ギルバート・アデア
撮影:ファビオ・チャンチェッティ
出演:マイケル・ピット、エヴァ・グリーン、ルイ・ガレル、ロバン・ルヌーチ、アンナ・チャンセラー、ジャン=ピエール・カルフォン、ジャン=ピエール・レオ 他

再観。前回レオの存在を見逃していたのでリベンジ。
得た教訓、人間レオですら老ける。いわんや凡人をや。

やっぱりワタシ、ベルトルッチは好みなんでしょうかね~すごく好きですねこのタッチ。原作があったんですねこの映画には。

あからさまにコクトーを思わせる主題、一卵性双生児+エトランジェ in Paris、というモチーフを、うまい具合に68年革命のなかに落とし込んでいる。あのアンガジュマンの時代にあってのこの3人の孤絶はまさに現代的なエリザベートとポールにダルジュロス。

もっともこちらの映画ではダルジュロズならぬマシューは姉弟の理想郷に亀裂をいれるほどに毒をもった存在ではない。マシューは二人の蜜月に終止符を打つべきだと思うが、それはうまく果たせない。むしろ二人に自分たちの結びつきの強さを自覚させることになる。その自覚とともに3人の関係は終わるが、その終わりがはっきりしたのが、二人がユートピアを一歩踏み出しデモ隊に加わり火炎瓶を手にしたときであるというのが皮肉っぽい。

イザベルとテオの社会性の目覚めは、その結びつきを強めていくことで進展していくだろう。そしてそれは一層歪んだ精神のもとに行われることになるだろう。そんな先行きのない切ない予感とともにこの映画が終わるのがよい。それは68年の闘争がたどった道筋を知っている21世紀の観客にはなおさらはかなく思える予感である。

そのはかなさは、急速に歴史的記憶に姿を変えていく30年代から60年代の映画たちへのまなざしでもあるだろう。3人が結びつくのは、ラングロワの傘の下映画をリアルタイムに「発見」しつつある前線にいる者としての連帯感だ。3人は映画世界の幸福に酔うのと同じ感覚で3人だけの孤絶世界を生きることを我知らず選んでいたのだが、一方で68年闘争の発端のひとつであるラングロワ解雇反対闘争が彼らの社会参加への意識を直接に形作るものでもある。映画によって桃源郷を生き、しかし映画によってそこから呼び戻される。一貫した映画へのまなざしがあるところがとても興味深いと思う。

****

このトリオは『はなればなれに』の3人だ!というアイディアはとても秀逸ですね~コクトーとゴダールがかぶさった瞬間。あのダンスではなくてルーブルを走ることを選ぶのもいいですね。9分か~~。

最近のフランスの雰囲気に浸りたくていくつか選んでDVD鑑賞の予定~だけど、『ドリーマーズ』、マシューがアメリカ人という設定なのでほぼ全編実は英語で進行するんですね~忘れてた。

ジミヘンかクラプトンかとかチャップリンかキートンかという論争も面白く、これもアメリカ人とフランス人が論争するのがまたよし。

映画といえば冒頭エッフェル塔を執拗に降りていくところやその視線をシャイヨー宮へつなげていくところなども、ヌーヴェルヴァーグへの目配りのようですね。

エヴァ・グリーン。『007カジノロワイヤル』も観たのですが、どちらもなかなかよいですね。『ライラの冒険』にも出ていたんですね。観なきゃ。ケイト・ブッシュの件もあるし。


前回観た時の記事
あら?前回はなんかいまいちっぽい書きぶり(笑)
今回はよかったです~



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「大いなる幻影」ジャン・ルノワール

2009-08-27 00:42:52 | cinema
大いなる幻影 [DVD] FRT-172

ファーストトレーディング

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大いなる幻影LA GRANDE ILLUSION
1937フランス
監督:ジャン・ルノワール
脚本:ジャン・ルノワール、シャルル・スパーク
撮影:クリスチャン・マトラ、クロード・ルノワール
音楽:ジョセフ・コズマ
出演:ジャン・ギャバン、ピエール・フレネー、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ディタ・パルロ


一言で言うならば、生命力に満ちた映画でした。抑えてもほとばしる人間のエネルギーが画面に満ち溢れている。そうかあこれがフランスの生命力なのか~と感じ入る。人々は自分の周りにおこることにとても関心があり敏感で、大きな声で語り合い、歌を歌い、抱き合い、酒を飲み、笛を吹き鍋を叩き大騒ぎ。さすが民衆革命の国だよ。
これが、第一次大戦中、ドイツ軍に捕虜となったフランス兵たちの物語だというのもまた驚きだ。捕虜のくせに全然めげていない。願わくば人間こうでありたいもんだ。

タイトルが重い。映画中でも例えば戦争終結への思いを幻想だといってみたり、貴族階級の崩壊というようなやはり「幻想」と社会のことを考えるような場面があり、人間社会における幻想とそのなかの人間をテーマにしていることがわかる。そしておそらくはそのうえに、この映画自体も幻影であるという思いもあるだろう。それは映画で示される人間の力や尊厳、愛情、敵味方の範疇を超えた人間愛のようなもの、これもまたひとつの幻想絵巻であるという自覚である。幻想は迷いとは違う。幻想を描くことで、人間かくありたしという心の中にあるメッセージを伝えることができるのだ。革命フランスだって人間は常にこんなにたくましく潔く気高くはないのだ。
人間の弱さや醜さを見つめるリアルな視線も必要だと思うが、一方でこういうまっすぐなメッセージをつくっていくことも重要だと思う。人間その両方ないとダメなんだと思う。

ジャン・ギャバンが前半特権的に黒い(モノクロなのですがきっと黒だろう)ジャケットなど着ていたりして主役をアピールするが、出てくる人物すべてがそれぞれ魅力的ですよ。ジャン・ギャバンが入れられる独房の、ドイツ軍老看守兵などもほんのちょっとしか出ないけれどかっこいい。仲間に「なんでこいつにそんなものを与える?」と訊かれ「この戦争が長すぎるからだ」と返す。戦争で苦しむ心にドイツもフランスもない。

脱走した二人のフランス人がドイツ人農婦の家にかくまわれる。これもまたまっすぐなメッセージだ。次の戦禍の足音が聞こえる時代、ヨーロッパでユダヤ人差別が蔓延して、ドイツでナチが台頭した時代にこういうまっすぐなメッセージを映画は発信していたのだと思うと胸が熱くなる。

****

絵も非常によく考えられていて感心する。
いろいろあるが、特に後半の農家のシーンは美しい。男手を戦争に取られた家を象徴するのに、広すぎるテーブルに少女がひとり食事をするカットを置いてみる。フランス兵がつかのま住み着いているあいだはテーブルにもふたたび椅子が並べられ、テーブルがほのかに明るく見える。しかしフランス兵もまたこの家を去るとき、ふたたび少女が一人座るテーブルを映してみせる。う~む、、感動的じゃないですか。。

英語字幕での上映でしたが、これは?日本では日本語字幕の「フィルム」はなかなか入手できない?ということでしょうか?DVDとかは普通に出ているので意外でした。
フランス語・ドイツ語・英語が入り乱れての濃密な会話も多く、正直まったく着いていけませんでした^^;、が、なんか映画の楽しみという点ではまったく支障なかった。映画は不思議だな。

怪人フォン・シュトロハイムの姿を拝めるのもよい。


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「トップ・ハット」マーク・サンドリッチ

2009-08-25 23:32:07 | cinema
トップ・ハット [DVD]

アイ・ヴィー・シー

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トップ・ハットTOP HAT
1935アメリカ
監督:マーク・サンドリッチ
原作:ドワイト・テイラー
脚本:ドワイト・テイラー、アラン・スコット
音楽:アーヴィング・バーリン、マックス・スタイナー
出演:フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース、エドワード・エヴェレット・ホートン 他

劇場で16mmフィルム上映にて鑑賞。
めちゃめちゃ面白かった。幸せだった。
『サウンド・オブ・ミュージック』の庭のコテージ?のシーンは、『トップ・ハット』の公園のシーンのエコーだったんだなあ・・と最初は観察する余裕もあったのだが、中盤からストーリーのばかばかしいまでのたたみこみにすっかりのめりこんでしまい、手をたたいて笑いながら観てしまった。

興行主ホレースのジェントルマンとひょうきん者の境界にいるようなバランス感が妙に可笑しいのだが、その穂レースを手玉に取る冷静な人生の観察者であるホレース夫人マッジがまた小気味いい存在。そしてまた冷静なくせに笑いを取れる使用人ベイツの百変化の可笑しいこと可笑しいこと。ファッションモデルと思しきデイル(ジンジャー演じる)のビジネスパートナーで超ナルシストのベディーニ氏もすばらしくおっちょこちょいでよい。

このステキな脇役陣にとりかこまれて繰り広げられるのは、デイルとジュリー(フレッド)の勘違いがこじれにこじれるロマンスコメディ。デイルに一目ぼれしてひたすら求愛するジュリーだが、デイルはジュリーを友人マッジの夫と勘違い~。なんて不誠実でいい加減なヤツ!でもそんなジュリーに惹かれてしまうデイル。一方マッジはデイルに求婚したのが夫ホレースだと思い、強烈パンチ!(笑)。ホレースはホレースで、ファイマスダンサーであるジュリーに接近する妙な女デイルを、スキャンダルに陥れて金を巻き上げようとする怪しいやつと思い、ベイツに尾行を命じる。ベイツはそれを受け神出鬼没にデイルの後を追う(これがすごい可笑しい!)。ベディーニ氏はひそかに愛するデイルを悲しませるけしからん奴はホレースだと思い、決闘沙汰まで引き起こすが、等のホレースはなにがなんだかさっぱりわかっていない。
ああ、どうなっちゃうのこれ?

でも状況の複雑さに魅力があるのではなく、むしろあっけらかんとした単純さに魅力がある。いいよどむ、つい本音を吐く、つっこむ、真剣にぼける、ホレースがデイルに会いに行けばデイルはホレースに会うつもりでジュリーに会いに行ってしまう、そういう話術やテンポの展開でぐんぐん軽く突き進んでいく。無駄がなく邪気がなく深みもなく気負いがない。すばらしくステキな映画だった。

ジンジャーとフレッドのダンスにはほんとうに驚いた。フレッドがひとりで踊るのもすごいが、ふたりになるとさらに強力だった。なんというか、呼吸が完全にぴったりなのだ。動きやタップのリズムがまったく狂わないし、動きが違うところもそのうらに流れるリズムはぴったりあっている。しかもその完璧なダンスを余裕を持って楽しんでいる風なのだ。もはや奇跡。これだけ有名なのもうなづける。大団円、群舞をバックに踊るときのジンジャーの自然にこぼれでる笑顔。ああ、ほんとにダンスが好きなんだろうなと思った。

よいものを観た。

********

全然気がつかなかったしクレジットもなかったと思うのだが、どうやら若きルシル・ボールが出ていたらしい。花屋さんだということなので、ああ、あの人だったのかな?ルシルの年齢をあまり考えていなかったが、『I Love Lucy』のイメージからもうちょっと最近の人だと思っていた。なんとなく。35年の映画に出ていたんですね~

画面はスタンダードサイズだけれど、なんだかそれ以上に横が短いような気がした。1.33:1。トーキー初期にはサウンドトラックを作るためにさらに横サイズを削ったという話があるようですが、もしかしたら?いや、トーキー「初期」ではないですねえ。
その狭い画面も途中から全然狭くなくなり。ダンスも不足なく映し出して全然問題なし。

ウディ・アレンの映画で一部が使われているのが有名なようですね。ワタシ的にはベルトルッチ『ドリーマーズ』で姉弟がルーブルの記録破りをするためのトリオにふさわしい「もうひとり」を見いだすことになった映画、と指摘しておきましょう。覚えていたわけではなくて、『トップ・ハット』の次の日に『ドリーマーズ』再観したら偶然引用されていたんですけどね。

あとはフェリーニ『ジンジャーとフレッド』ですかね。
あれはけっこう好きな映画ですが、かなり忘れています。



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猫沢エミLIVE CHATS ESTIVAUX‐シャゼスティヴォー 夏の猫たち 2009

2009-08-23 04:04:38 | 猫沢エミ
猫沢エミLIVE
CHATS ESTIVAUX‐シャゼスティヴォー 夏の猫たち2009
@下北沢440
open 12:00 start 12:30

猫沢エミ(vo.per)
円山天使(g)坂和也(key)岩見継吾(w.b)末藤健二(d)



行ってきました。
2年ぶりのバンドライブということで
楽しみでした。

今回は意外な選曲も含め、新旧たくさんの曲をやってくれました。
ひさしぶりに新曲もありましたし、バンドの皆さんも慣れたうえにも生命力を失わない演奏で、充実LIVEでした。

下北に(半島ぢゃないよ)こんなお店があったんだ~という感じの、
見た目普通のカフェっぽいのに奥はしっかりしたライブハウスで、いいかんじ。
音もとてもよかったし。
特にベースの音がよかったです。低音がしっかりでているのに輪郭もはっきりしている。でも高域がうるさくない。ウッドベースらしさはちょっとなかったかもしれないですが、バンドとのとけ込み具合がよかったです。

あら?いきなり細かいハナシしている・・・ww

これは猫沢さんのお車ではないかしら??



お店でのスペシャルメニューの一品「きのこのクロックムッシュ」

どのような特徴を以てクロックムッシュと定義づけられるのかワタシはしらない・・

****

今回は趣向を変えて、セットリストを兼ねて一曲ずつちょびっとずつ書いてみようかなと思ふ・・・

Bath Room
アルバム「Chelsea girl」に入っている曲で、ジャズ風味のバックに猫沢さんの女子語りが乗る異色曲なんですが、これを1曲目にやるのは最近ときどきありますね。考えてみるとライブのお客さんへの挨拶代わりになっていいですねえ。会場がバスルーム。ボディタオルと不感症のくだりが好きです。
オリジナルのピアノを弾いている鶴来さんとはちょっとだけ話をしたことがあるなあ。と急に思い出す。

Les Cafes
クアトロレーベル?から出たアルバム「CAFE TU RONRONNES」の1曲目にはいっています。ライブでは猫沢さんがサイレンの音?が出る笛を吹き、岩見さんがベースでリフをべしべし弾く定番ですね。バンドだとまたチープなオルガンの音が加わって雰囲気出ます~
歌詞がフランス語なのでなんていっているのかさっぱり??なんですが、CDの歌詞カードをみると・・けっこうぶっ飛んだ歌詞なんですよね~スゴい好きかも。
  ハサミ通りのカフェの前に
  シトロエン2CVを駐車しようとしてたら
  2匹のラクダにぶつけちゃった
  あちゃ!でも私のせいじゃない
(笑)てな調子でカフェの近辺での出来事がつづってあるんですね~(無断転載乞許)

しかし何年ぶりかで歌詞カードを見てみると・・・老眼が進行したのがよくわかる;;

c'est vous sur le pont
大好き。大好き。大好きな曲ですよ。ライブではすっかり定番だし、なんかやる度によくなっていくような気がする。成長する曲。
Sunaga tExperienceのアルバム「クローカ」に入っているのです。このアルバムもかなり好きなんですわ。
ライブ、やる度に猫沢さんの歌い方が変わっていく・・言葉を聞き取りにくい方向にいっている。業界では言葉が伝わりにくいとNG出されることが多いけど、ワタシは必ずしもそれが悪いとは思わないのです。言葉もまた音楽の一部であって、言葉の意味だけ切り出したように伝えることにはあまり魅力を感じない。ほら、グレゴリオ聖歌とかお経とか、言葉を崩壊寸前まで引き回すじゃないですか。あれは言葉を意味でなく「音」として現前させることなわけですよね。そういうところに音楽の原点があるように思うなあ。
で、猫沢さんのこの歌は、お経とは全然違うんですけど(笑)独特のなまりというか音便のような感じで言葉を崩しているのが、ワタシにはステキに聴こえるのです。

といいつつ、
  片目をつぶって、見える果てまで~
というところがスゴくすきなのですけれども

ステージはこんなかんじ


私の世界
え~と、これは、アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水」(で合ってるんでしたかね?ちがったら誰か教えてください)に猫沢さんが歌詞を着けたものですね。これも定番曲ですね。そうかあ猫沢さんの世界ってこうなんだ~~ふう~~ん と興味津々で聞き始めるんだけれど、いつもいつのまにか円山さんの弾くギターのコードを必死にチェックしているmanimaniでした^^;
これは・・会場売りしているCD-Rの「ALASKA」とかに入っていますね。

Air FRANCHESCA
これをやるのはちょっと久しぶり?きっと2年ぶりなんでしょう。
これも会場売りしているCD-R「Bois de TABAC」に入っています。あれはまだ売っているのかな?
実は読み方をわかっていない。フランチェスカ?というとイタリアな感じがする。なので勝手に頭の中でイタリアの空を鳥が羽ばたく姿を想像している。なかなか歌詞が深いのです。
  今咲くのは赤く錆びついたデイジー
  さあ目を閉じて
このあとは
  Before 生まれる前に見てた
  Before 夢の中
  Before ひなぎくの花と
となるのです。

イタリアの次は「ひなぎく」となり頭はチェコにいってしまうのですが、デイジーと聞くとHAL9000が出てきてしまう^^;

The End of the World
「Chelsea girl」1曲目ですね。曲は渡辺善太郎さんなんですよね。これでぐぐっと心つかまれちゃった人も多いでしょうね~というくらい良い曲。
この曲を円山さんはエレキではなくガットギターのストロークで弾くというのが意外なのです。エレキのカッティングも似合いそうだけど、似合いすぎるのかも。
フランチェスカもそうだけど、ライブでもときどきコーラスが欲しくなる。出来れば猫沢さんの声で(笑)
おお、オリジナルのベースはMECKENさんだ。。

新曲(「TAO」という曲です、とワタシには聴こえた)
イントロにかぶさって「新曲ですよ~~っ」と宣言して歌われた(笑)久々の新曲は・・・猫沢版山下達郎だそうですwwww
なるほど~アップテンポでサビのメロディが印象的。ああ、山下達郎が歌うとそれっぽくなっちゃうねえきっとww
この調子で新しいアルバムを作ってほしいです~~

グルもとい岩見さんと猫沢さん


Mon petit chat
  もんぷてぃ しゃ
  とぅおれどぅまんたん
とうたっているようにきこえる。
パリ風味満載のほんわかした曲です。猫沢さんの愛猫ピキさんの姿がうかんでいるのでしょうか。これを歌う猫沢さんの目は遠いです。。ああどこを見ているんでしょう??

羊飼いの少年へ
きたーー!という感じですが、ワタクシが初めて買ったアルバム「BROKEN SEWING MACHINE」収録の名曲です。というかあのアルバムは名曲でない曲はないんですけど!と考えると、今回あのアルバムからはこれ1曲だけですね~恐るべき隠し球をまだいっぱい持っているのですあの人は(笑)
この曲はライブだとなんか内省的というか求道的な感じがしてきましたね~
イントロとエンディングのちょっと暗めな感じ(ホースぶんまわすの)と、猫沢さんがたたく太鼓(アレはなんていうタイコ?)、それからサビのコードがマイナー始まりに変わっているからではないでしょうかねえ??これも成長する曲。

TABACの森
これもセンスいい曲ですよ~歌詞がカッコいいですよ。
彼の骨を拾うとそれが白いタバコになって、火をつけるとワタシの胸の中に広がる、、って、それ、なかなか書けないでしょ。スゴすぎる。
ライブではまた埃っぽいエレピの音が渋いんですよ。それから
  鳥がないいてえいいるう
ってとこの下降音が好きですね~~

Zo-wa-zo Oiseaux
さて、この曲は、知っているしタイトルも知っているのに、音源は持っていないという不思議なことになっているのです。これはどこかに収録されているのでしょうか?
前のワタシのライブ記事を読返してみたらこの件について「次回猫沢さんに聞いてみよう」とか書いているのですが、いざというときはそんなことすっかり忘れている自分が情けない^^;
めずらしく早い3拍子の曲ですが、3拍子にときおりパーカッションが2つ割でたたくのがかっちょえーですの。

たたく!


夏の模様
これはですねえ・・2004年だったと思うんですよね。吉祥寺と渋谷でライブをやったときに両方とも行った人にご褒美で配られたCD-Rに収録されてました。のちに「ALASKA」にも入っていますが。あ、「Bois de TABAC」にも入っている^^;
終わりの波の音が違うんですよね。2バージョンある。
で、ボサノバ世界のコードをフレンチに料理したような感じで、南フランスの海岸!て感じがしてます。勝手に。

青い虫
一瞬、ん?なんだっけこの曲?とか思ってしまったが、ああ、青い虫だよ!これも「Chelsea girl」。これも歌詞が強力すぎる。過ぎる。岩見さんのベースがサビでランニングするのがいいです。しびれました。コード的にはランニングはムズカシイのに容易くやってました。くそお。

レントゲン(もとい!)
「もとい」というのはタイトルではありません。歌いだしで猫沢さんがコケてやり直したんですよ~(笑)
前にもどこかで書いたけど、ミスったときサイショからやり直すというのはすごく良いことだと思うんですよね。余裕がないとできない。余裕がないとミスってもそのまま続けちゃうもんです。やり直すってことは、リラックスして楽しんでいるということ。それを見られることの喜び。
タイトルは本当はドイツ語?なのかな?オーウムラウトを含むのです。
で、この曲、ただごとでなくかっこいいんですよね。どうやったらこういう曲が書けるのか。(曲は朝本浩文さん)

とっても とっても とっても・・・
これは不覚にも、あ、知らん曲だ?と思ってしまった。サビでわかった。サイショのメジャーアルバム「GOLDFISH PIE」の曲ですが、これをライブで聞けるとは!?歌詞はとってもガーリーな世界で、えーと、若い!
こうしてみると猫沢ワールドも結構変遷しているんだなあ。
円山さんのロケンロールなギターがよかったなあ。


睡蓮
と思ったら、さらにビッグなサプライズが!睡蓮をヤルとは!これまた「GOLDFISH PIE」から。睡蓮ですよ!これはねえ良い曲なんだ。後の 「Mandarin World」にも通じるパラダイス感。こちらはちょっと東洋風味。
  ここはぱらだあいす ぱらだあいす
ついこのあいだ某mixiで睡蓮が好きって書いたばかりなので、予言しちゃったかな(笑)

サンフラワーの歌
などと思っていたらですね~、アンコールに超弩級サプライズが!!アルバム「Gyan-Gyan」のハイライト「サンフラワーの歌」が!!!!!!!
歌詞がですね、泣けるんですよ。なんかこう、いろいろなことがあるけれども芯のところはしっかり強く生きていこうという決意表明のようなところがあって、ああ、そうだよなあと。よくある前向きソングとかじゃ全然なくて、根元からちょん切られても落ちた種が芽を出して新しくまた始めるよみたいな。
うっかりすると本当に泣いてしまうので、間奏のボトルネックギターをどう処理するかなあと見ていましたら、円山さんがすこし慌て気味にボトルネックを準備したので、だいじょうびかな??とおもったけれど、ちゃんと間に合ってました。さすがプロ。円山さんのスライドギターはカッコいいので好きなのです。(ご本人もスライド得意だと仰ってました(笑))
この曲はあのスライドギターがすごく効果的なので、ライブでもちゃんとやってくれてうれしいです。

この曲をライブで聞くのはまだ20世紀だったクアトロワンマン以来です。
この曲のせいで、ライブが終わってからもしばらくはトリハダしてました。
ぶつぶつ(トリハダ音)

ブレる円山さん


**********

なんかライブレポでなくて曲の紹介みたいになってしまったなあ。

恒例質問コーナーもありましたが、ライブ終盤のサプライズ攻撃で興奮してしまい、Q&A内容をよく覚えていない^^;
「その若さと美貌を保つ秘訣は?(ストレッチ以外で)」という質問を覚えていますが、答えは・・どうだったかな??^^;
なんか欲望のまま生きるとよいのでは?みたいな結論になったような気が(笑)いいのか?ほんとうに?(笑)

あと、11月頃にもう一発ライブをやりたいと仰ってました。今年は日本でじっくり活動しようと思っていて、昔の曲にもかっこよいかたちで挑戦してみたいという趣旨のことも。なので、今年のライブは期待できますよ~~うれしいな。

*****

猫沢ライブ友達のKさんと一緒だったので、終わってから軽くお茶しました。
アップルパイを頼んだら、注文してから焼くのでお時間をいただきます、とのこと。
スゴく期待したら、期待通りおいしいパイがでてきて大満足。

Kさんも若いのにしっかりしていて自分をみがくことを心がけている人という風で、ステキな人なんです。ステキな人とおいしいパイを食べながらお茶、ってこれは最高でしょう。

パイ!!美味!!!


最高ついでに帰り道渋谷でシネマヴェーラに寄り、「トップハット」「大いなる幻影」を見る。ともに30年代の映画だけれど、それはもうおもしろかった。これについては別記事にしますが、そう、最後まで幸せな日でした。こういう日があるんだねえ人生。

家に帰ったのは結構遅かったんだけれど、家には下の子が作った夕ご飯が待っていた。これもうれしいですね^^幸せのしめくくり。



おしまいです。
ああ、長かった。






【追記】
あ、そうそう。
ライブの時に、猫沢サンが「曲名とかわからなかったら私をつかまえてきいてくださるか、あるいは、あそこの壁際にすわっているコアなファンがいるのであの人にきいてください」とか言って、いきなりワタシに振ってきましたのよ(笑)
いや、出席回数は多いですけど、知識はそんなにないんですよ~ファン歴も浅い方ですし~~それに加えて近年の著しい記憶力減退が・・^^;
とこれまたびっくりでしたのです。

【ついでに追記】
ライブの後、猫沢さんには、こちらが話をしたい!という気持ちだけで接してきましたが、ふと、おつかれさま~という気持ちが全然ないなあ自分、と気がつき。
ただ出席して自分の気持ちだけを満たすのではなく、なにか相手のためになることもしていけたらいいなあと、なにやらガラにもなく殊勝なことを考えた今日でした。

う~~ん。。とりあえず、、ここではいつも「行ってきました」しか書かないけど、こんどからは「今度猫沢さんのライブがあります」ということを書くとか??
(スケール小さい!)

廃盤となっているコロムビア時代のCDの再発に奔走する、というのが一番世のためになるかなあとは思うんですが・・・なにをどうやってやればいいの??

小川美潮さんのCDはめでたく版元を変えて再発されてましたけど、ああいう形でもうまくいかないでしょうかねぇぇぇ??



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「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」ホウ・シャオシェン

2009-08-18 23:18:12 | cinema
ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン [DVD]

角川エンタテインメント

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ホウ・シャオシェンの レッド・バルーン
LE VOYAGE DU BALLON ROUGE
2007フランス
監督:ホウ・シャオシェン
製作:クリスティーナ・ラーセン、フランソワ・マルゴラン
脚本:ホウ・シャオシェン、フランソワ・マルゴラン
撮影:リー・ピンビン
出演:ジュリエット・ビノシュ、シモン・イテアニュ、イポリット・ジラルド、ソン・ファン、ルイーズ・マルゴラン 他

パリ・オルセー美術館の開館20周年記念事業の一環として製作されたということで、フランス資本による作品。中国生まれだけれど実質台湾の映画人である侯孝賢が、フランスでラモリス『赤い風船』のオマージュを撮る。よい時代なのかも。

作品は、ラモリス風孤独なファンタジーという感じはあまりなく、ホウ・シャオシェンらしく(といっても『百年恋歌』しか観ていないが)、明確なストーリーのない、演技者たちの自然な振る舞いを淡々と写し取る。ジュリエットもシモンもまったく素のようなしぐさや会話で、この自然さに仰天する。本当にこんな日常を彼らは生きているのではないか?という究極のフィクションを実現している。

カメラもほとんどがジュリエットたちの住むこじんまりしたアパルトマンの中を、ほとんど動かない位置で撮るばかり。これは『百年恋歌』でも見られたカメラ位置。動かない視野をつかのま行き来する人物たち。

あとは学校?帰りのシモンを迎えに行くシッターのソンが、二人でパリの街を歩く外の景色。ときおり画面をよぎる風船の動きだけが『赤い風船』のものだ。パリの街並みは変貌し、子供たちが走り回る喧騒に満ちた活気は感じられない。日本車が列を成して路上駐車し、子供は保護者の迎えを学校で待つようになったのだ。

ジュリエットはギニョル劇の弁士?をやっている。そのリハーサル風景もはさまれる。これまた、ジュリエット本職か?と思わせる名演である。共演する人形操者やクラリネットのひとは本職なのだろうけれど、なかなか面白いものだな。人形劇。

そのリハーサル会場をシモンとソンが訪れるのもまた日常的な雰囲気。こういうなんでもないことがよく記憶に残ったりするもんだ。そういう記憶は意味はなくても重要なものだ。きっとホウ監督はそういうことがわかっているのだと思う。

風船にかこつけて、ホウ監督は自分の撮りたいものをとったのだなあ。そんな感じ。

あと北京で映像を学びパリに来たというソンさんに、明示されない努力と才能を感じさせるところもうまかった。映像ではシモンと散歩しているだけなんだけどね。



ラモリス『赤い風船』のこと





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「オリバー!」キャロル・リード

2009-08-18 00:34:15 | cinema
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オリバー!OLIVER!
1968イギリス
監督:キャロル・リード
原作:チャールズ・ディケンズ
脚本:ヴァーノン・ハリス
音楽:ジョン・グリーン、ライオネル・バート
出演:マーク・レスター、オリヴァー・リード、ロン・ムーディ、シャニ・ウォリス、ジャック・ワイルド、シーラ・ホワイト、レナード・ロシター
振付:オナ・ホワイト

ジャック・ワイルド追悼上映会をいたしました。
何度か観ていますが、久々に観てなかなか感動的でした。途中ちょっとうとうとしちまいましたが^^;

贅沢なのは冒頭と中間のインターミッション、それからエンディングに、コンテ絵を流しつつ音楽を堪能できるところ。ミュージカル版は見ていませんが、これはオペラですね~「序曲」ではこれから聴けるであろう曲をコラージュしたわくわくさせる展開。インターミッションは前半の記憶を反芻するような感じ。そしてエンディングはまた余韻をじっくり味わうような、元気ながら哀調もたたえる感じ。贅沢ですな~

冒頭、モノトーンのイラストが実写に摩り替わると、そこは薄暗い地下の作業場で、巨大な粉挽き機を足で動かしている襤褸をまとった少年たち。何人もの汚い足で大きなローラーをまわすと、下では粉が袋に落ちてくる。重労働。埃っぽい汚く薄暗い。
孤児院の子供たちに与えられる食事は、思わず顔をしかめるようなドブ色の粥だけ。くじ引きでまけたオリバーは仲間にせきたてられて、粥のおかわりを要求する。理事たちの怒りを買ったオリバーは二束三文で売り飛ばされる。ここからオリバーの旅が始まった。

******

汚く埃っぽくじめじめして暗い。この感じは後にロンドンで流れ着いた下町にも徹底される。このセットのこだわりは、さりげないけれど徹底していてすごい。この徹底が中盤ブラウンロー氏に引き取られたときの清潔な環境と暮らしぶりとの対比を、視覚生理的に生んでいるのだろう。下町のフェイギンのアジトもなかなかに汚いし、入り組んでいる。朽ちた木でできた階段はラスト近く見事に崩れ落ちるのもさもありなんだ、

この汚さはワタシの映画的快感を誘発するらしい。汚い映画はかなり好きなのですね。先日の『砂時計サナトリウム』やシュヴァンクマイエル『ファウスト』『ルナシー』なんかを思いだしますが、あるいはリドリー・スコット『エイリアン』のエイリアン世界なども好きな感じです。そういうことでワタシはこの『オリバー!』が好きだったんだなと今回認識しました。

****

それと、冒頭の少年たちが暗い石段を列を成して降りてくるシーンはラング『メトロポリス』を想起させ、ラストの赤い夕日に照らされた町は『ファスビンダーのケレル』を思い出させます。ファスビンダーが『オリバー!』を参照しているとは思えないですけど(笑)、キャロルリードが『メトロポリス』を引用するということはありそうなことですね。

曲もなんだかハッピーな感じで、変に暗くなくていいですね。ポール・サイモンの『ザ・ケープマン』のような地味暗~なかんじもいいですけどね。
『オリバー!』ではハッピーなんだけど、洗練の極みとまでは行っていなくて、そこがまたいい感じです。編曲も展開がわかりやすくいいすね。ジャック・ワイルドふんするドジャーがオリバーを引き回す野外シーンでの「Consider yourself」での市場の群集が次々に群舞に加わっていくところは実に楽しいし、エンディングの「群集解散!」という演出もステキです。最近何かのコマーシャルにも流用されていたアイディアですね。

一番いい曲は、引き取られた葬儀屋でいじめにあって、閉じ込められた地下室でオリバーが歌う「Where is Love?」でしょうか。なかなか凝った曲です。つたなく歌う歌声は誰のものでしょうか?マークにぴったりです。
 

よき監督はよき動物使いである、というのも日頃感じていることですが、この作品にも魅力的動物君が出てきます。ビル・サイクスの相棒ブルゾイ?も、ナンシーを殺めた後にビルを非難するような駆け引きを見せて見事です。フェイギンが隠し財産を愛でるのを不思議そうに見るふくろうもいいですね。



ジャック・ワイルドは思っていたほど活躍はしませんでしたし後半はすっかりオリバー・リードに持っていかれるのですが、ダンスシーンではしっかり大人に混じって本気のステップを見せていましたし、ラストのフェイギンとのやりとりは助演男優賞ものでしょう。
マーク・レスターは難しい踊りのときはちゃっかり画面隅っこでおとなしくしていたりとご愛嬌な感じで、それがまた情けなくていいんだな(笑)

というわけで、ジャック16歳の、16歳に見えない子供ぶりを見せた演技でした。



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「ハリー・ポッターと謎のプリンス」デヴィッド・イェーツ

2009-08-15 04:04:31 | cinema
不思議ちゃん

ハリー・ポッターと謎のプリンス
HARRY POTTER AND THE HALF-BLOOD PRINCE
2008イギリス/アメリカ
監督: デヴィッド・イェーツ
脚本: スティーヴ・クローヴス
出演: ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン その他スゴく大勢。



【以下ややネタバレ!ですかね】

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を観てきました。家族で。

今回はあの大切な人が・・・という以外は特に進展がなく・・というのはワタシがぼんやりみているせいでしょうか?やけに長い映画だなと思いながら。150分もあったんですね。

主な進展といえば色恋沙汰ですかね。ロンの不器用な感じはなんだか日本男児的な気がしました。

今回最も楽しみにしてたのは、CMなどでも使われていたあのシーン。
マルフォイに呪いをかけられた○○さん(名前忘れちまった。ケイト?キャシー?)が、呪いのネックレス?をダンブルドアに届けようと雪道を歩いていると突然倒れ、謎の力によって空中に紙くずのように舞い上げられ、叫ぶ。この絵柄がすごい好みなのです。真っ白な背景に赤い服を着た少女が浮かび、悪鬼の形相で叫ぶ。ここだけが突出して禍々しいトラウマちっくなシーンです。あの叫びの顔。口の開き具合と歯の見え具合、目の開き具合がすばらしい。あれはいい。

しかし、肝心のお使いを成し遂げられないような強力すぎる呪いってダメじゃん?とか後になって思いますが。。(笑)



それから前作から登場した不思議ちゃんルーナを楽しみにしておりました。毎回いろいろなかぶりものが楽しいルーナですが、結構魔法使いとしてもさりげなく優秀で、前作ではダンブルドア軍団に率先して参加し、アズカバンから脱獄した死喰い人たちと戦ったりする。(言ってることあってるかな?)
でもかぶりものだし^^;。いいですね~。

今回も、マルフォイに魔法にかけられたハリーをさりげなく救って、またハリーの信頼をこっそり得る。そんでハリーにクリスマスパーティーに誘われてうれしそう^^。で最後のほうのライオンでは客席の笑いを取ってました。ロンの妹ジニーの同級生ということです。ハリーもジニーよりルーナとくっつくと面白いのに。ワタシならそうする!^^;
ルーナ・ラヴグッドという名前もすごい。Luna Lovegoodですよ。Lunaはもちろん月で、月の女神でもあって、Lunaticということですね。

ルーナを演じているのはイヴァナ・リンチというこれまた魅力的な名の女の子です。デヴィッドの血縁か?と思うがそうでもないらしい。1991年アイルランド生まれというから、ついこの間生まれたばかり(笑)。ネットでいろいろ見たところ、彼女はやっぱりハリー・ポッターのファンだったようで、映画に出ることができてうれしいだろうな。肩まで伸びた髪に大きな瞳の不思議ちゃん。イメージぴったりなのではないかしら?(原作未読なので想像)
彼女はヴェジタリアンだそう。
8月16日が誕生日だということなのでもうすぐそこです。
はっぴーばーすでー!


というわけで、上映中イヴァナのことばかり考えておりました・・・


こんな適当なレビューでもいいかしらね??




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「オリバー!」キャロル・リードというかジャック・ワイルド追悼

2009-08-14 00:18:21 | cinema
この映画をよく観た。
ビデオでだけれど。

『小さな恋のメロディ』でもコンビを組んでいるマーク・レスターとジャック・ワイルド。絵に描いたようなコンビ。
両作ともジャックは名前のとおりワイルドな感じで、したたかで現実的な知恵を持っている。マークは無垢で純真でそれゆえ生きる知恵を持たない。
対照的な二人が出会い、互いに自分にないものを相手から学び、成長する。
これは東洋風にいうと文武両道、ある意味パーフェクトな人間像というものについての映画的考察だったのではないか?
この考察が60年代の終わり~70年代の始まりに、このふたりによって2度表象されたのは決して偶然ではないのだろう。

で、ですね、
どちらの映画でも大人を食ういきおいでその演技力を見せつけたのはジャック・ワイルドのほう。
チビなくせにかっこよかったジャック。
16歳で『オリバー!』19歳で『~メロディ』に出たあとは、2005年までちょこちょことTVや映画に出演している。
そう。彼はワタシが知らない間に、2006年に没していたんです;;
口腔がんだそうです。54歳で。
ああ、ジャック。。

というわけで、追悼です。
追悼にはやはり『オリバー!』を観るのが一番かもしれない。
ディケンズ『オリヴァーツイスト』の物語をミュージカルにしたものです。
あの暗い話を、明るいマーチで派手にやってしまうところがスゴいと思います。
監督はキャロル・リード。オリバーはもちろんマーク・レスターで、ジャックはフェイギンたちの仲間、スリ名人の少年ドジャーを演じています。
人でごった返すロンドンの街でさまようオリバーをそっけなくでもやさしく呼び止めるドジャーのかっこよさには泣けますね。
悪漢ビルにはオリバー・リード。キャロル・リードの映画『オリバー!』にオリバー・リードが出ているので、頭がごっちゃになります。。。


ということで、この暗く明るいミュージカルはイギリス映画です。というところもいいですね。ジャックもイギリスで生まれイギリスで亡くなった俳優さんです。イギリス映画。ゴダールはイギリス映画などなかった、とうそぶいていますが、ジャックが出た映画や、マイケル・パウエルの映画などを思い起こすと、そこには歴然とイギリス映画が存在するような気がします。(まあ、パウエルの相棒プレスバーガーはハンガリー人なんですけどね)


ジャック逝去のことはラムの大通りのえいさんに教えてもらいました。

それから、ジャックの死のときまでマークとは友人でいたということです。


R.I.P.


【追記】
冷静になって考えてみると、『オリバー!』はもともとブロードウェイミュージカルだったのですから、イギリス映画として映画化されることで、なんというか、本籍獲得といった感じでしょうか?(笑)




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こんなのもあります。
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『小さな恋のメロディ』はいまは絶版のようですね?
残念。




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「砂時計サナトリウム」ヴォイチェフ・J・ハス

2009-08-11 22:54:51 | cinema
砂時計サナトリウムSanatorium pod klepsydra
1973ポーランド
監督・脚本:ヴォイチェフ・イエジー・ハス
原作:ブルーノ・シュルツ
撮影:ヴィトルド・ソボチンスキ
音楽:イエジー・マクシミウク
出演:ヤン・ノビツキ、タデウシュ・コンドラット、ほか

およそ20年ぶりに再見することになりました、73年ポーランド映画『砂時計サナトリウム』。ポーランド、というかもっと限定的に「ドロホビチの」というべきかもしれない作家ブルーノ・シュルツの短編『クレプシドラ・サナトリウム』に基づく映画です。

以前観たときはシネマテーク・ジャポネーゼという自主配給・上映団体がフィルムを入手しての上映で、やはりハス監督の『人形』と併映でアテネ・フランセでの鑑賞だったようです。当時のパンフレットを実家から持ってきていたので、その内容を見ると、商業映画の流通の仕方に相当に不満を感じている人々による団体だったことがわかります。ほとんどアジ文のような編集記が付いておりました。シュルツの原作の訳者である工藤幸雄氏が寄稿しており、またシナリオ採録もありの充実した内容です。
日本語字幕のフィルムが当時はあったわけですが、今はどこにあるのでしょうか。今回はポーランド~東欧系文学ではおなじみ沼野充義氏とその門下生による「ブルーノ・シュルツ祭」での、DVD(英語字幕)による上映会でした。

*****

さて、映画のほうですけれど、やはり記憶とは大分違っておりました^^;。明確に覚えていたのは、サナトリウムの大きな黒い門と、主人公ユゼフがなにやらごちゃごちゃとモノが詰まっているベッド下をごそごそ潜り抜けるシーンの二つだけ。あとは非常に新鮮にみえました。
タッチとしては、実に東欧的としか言いようがない感じ。寒々しく、乱雑で汚れていて、色はくすみ、でも妙にざわざわしている。同じくポーランドの監督イエジ・スコリモフスキ『フェルディドゥルケ』や、シュヴァンクマイエル『悦楽共犯者』、これは東欧ではありませんがフィリップ・ド・ブロカ『まぼろしの市街戦』を思わせる幻想的でしかしバイタリティを持つ作品でした。

冒頭ユゼフが父ヤクブのいるサナトリウムを訪れるために乗っている列車の内部からしてまず列車らしからぬ、細々とした物が異様に散乱して、それも埃にまみれくもの巣が張り大変なことになっています。非常にいい感じです。この列車がラストシーンではまた意味ありげな役割を持つわけですが、そこに車掌さんが出てきます。この車掌さん、原作ではわりと地味なんですが、映画では重厚な車掌服を着た大柄な男ですごい存在感があります。車掌服もまたラストでは重要なモチーフとなります。この辺は原作をよく読みこんでいるという印象です。

列車を降りサナトリウムに向かう道がまた変で、なぜか墓石の乱立する中を狭そうに通り抜け、雪の降る中枯れ枝をばきばきかきわけたり、サナトリウムの巨大な門をこじ開けてみると入り口は岩で塞がっていて、しかたなく高いところにある窓によじ登って入る、と、難儀な道です。思えばこの、狭く難儀なところをかきわけて通ってゆくということが、これから映画のなかで何度も何度も繰り返される、移動のモチーフとなっているわけです。

サナトリウム内部も人気がなくくすんだ暗い色なのですが、モノは散乱していてやはりくもの巣が張っている。汚い。埃っぽい。いいですね~。看護婦に出会い父や医者の居所を訊いてみると、今はみんな眠っています、との答え。食堂でお待ちくださいといわれて食堂に行くと、そこにはいつこしらえたともわからぬ食べ物やケーキがある。食欲を感じてユゼフがケーキを手にすると看護婦が現れ、先生がお会いになります。ユゼフはばつが悪そうにケーキを元に戻す。うん。原作どおりです。
でも原作では父親の眠っている姿をみてユゼフがいろいろ内省するなど、沈痛な感じがありましたが、映画はシュルツのほかの短編を翻案して盛り込んでおり、全体としてユゼフがサナトリウムと父の店を探索し不思議な出来事や人物と出会う冒険譚のようになっています。布地商である父の店の人でごった返してどうしようもない感じや、店の二階で鳥をたくさん飼っているところなどは他の短編からの引用です。シュルツの短編集としての『クレプシドラ・サナトリウム』は「父の存在」をめぐる徹底した戯画でもあり、父が生前から衰えてゆく様や、死後も得体の知れない生物のように生者にちょっかいを出す、いわば否定しても消えてなくならないやっかいものとして描かれており、そういう父の主題を映画でもとりこもうとしたのでしょう。

はっとするイメージもところどころで見られ、人物が倒れると顔がガチャンと壊れ、人形だったことがわかり、安っぽい作り物の割れた顔面からやはり作り物の目玉がぽよんと飛び出す、しかし赤い血が一筋流れ落ちる、というシーンなどは、後にシュルツ『大鰐通り』をアニメ化したクエイ兄弟の作風を彷彿とさせます。この人形も、やはりシュルツが短編集『肉桂色の店』に残した人形論に基づく主題なのですね。

最後にサナトリウムを後に再び列車に乗るユゼフですが、彼はどういうわけか列車から降りることが出来ず、列車に住み着き、服もぼろぼろになり、車掌の服を与えられます。shibataさんはこれを、鉄郎が車掌さんになってしまう物語と表現しましたが、う~ん、そう思うとあの999の車掌さんもなにやらあやしい背景を持つ存在に思えてきましたね~

***

それとあと目を引くのは、女性の胸、ですね^^;。女性が出るときはほぼ例外なく胸をはだけているか、裸体か、胸をはだけた後か(笑)というこのこだわりは一体なにか?シュルツ祭での討議でも話題になりましたが、シュルツのもう一つの才能である画業を振り返ると、執拗に女性の脚とそれにかしづく男たちという構図が出てくる。そういうフェティッシュな側面を、映画では胸に置き換えていると読むこともできそうです。なぜ置き換えたかというと、脚への偏愛のほうがより変態的で(笑)73年ころの政権下での表現としてよりノーマルな胸にしたのかも?という憶測も(by沼田氏)。

****

ハス監督作では、他にポトツキによる奇書の名高い『サラゴサ手稿』の映画化など、興味深いフィルモグラフィがあり、ぜひ見てみたいものです。40年代からキャリアがある人のようですが、日本ではあまり知られていない監督なので残念です。
調べてわかったのですが、作品によって監督名のクレジットが微妙に違うものがあるらしく、ほとんどの作品はヴォイチェフ・ハス名義のようですね。『砂時計サナトリウム』はヴォイチェフ・J・ハス名義らしいです。

ついでにハス監督は2000年に亡くなられていたんですね。認識しておりませんでした。


73年カンヌ審査員賞受賞。


リージョン1ですがDVDがあります。
今は取扱できませんとでていますが。。

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原作はこちら
シュルツ全小説 (平凡社ライブラリー)
ブルーノ シュルツ
平凡社

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「アマルフィ 女神の報酬」西谷弘

2009-08-11 00:05:09 | cinema
アマルフィ
2009日本
監督:西谷弘
原作:真保裕一
出演:織田裕二、天海祐希、戸田恵梨香、佐藤浩市、大塚寧々、佐野史郎、大森絢音、サラ・ブライトマン、福山雅治 他


脚本家クレジットがないので物議をかもしたようですね。


【以下ややネタバレでございます!】


映画としては結構楽しめました。映画ならではのタイムスケールを意識して、時間の経過やシーンの繰り返しなどをうまくつかった演出(特に前半)は感心すべきところがありました。

しかし総論的にはどうもひっかかる映画であったと思われてなりません。某TV局開局50周年?記念作であり、主にTVドラマの演出で活躍した監督による作品だから、というわけではありませんが、全体があくまでもTVの枠の中で作られた作品という気がします。そのままTVのよいところ(はそんなにないか?(笑))も悪いところも受け継いでいると思います。

******

なにが一番気にかかるのかすぐにはわからなかったのですが、鑑賞後帰り道に思い至りました。この作品の最大の問題点は、これが「テロが成功する」物語だということにあるのでしょう。
テロはいかなる動機であれ目的であれ許容すべきでないというのが、現代的な考え方だと思うのです。モラルというと簡単に響いてしまって困るのですが、製作者たちは、あのような形で正義を実現することをよしとしているのでしょうか?武力で大統領を襲いながら一人の犠牲者も出ずというリアリズム的疑問点は不問とするとしても、無垢で正当な主張が武力で貫かれたという達成感を最後の新聞記事のアップがわざわざ裏打ちしているくらいですから、これはテロの忌まわしさを伝えるようなつくりになっているとは到底思えません。
これを世界に見せることができるのでしょうか?テロに厳しく直面し苦悩する国々の国民に、誇りを持って見せられるのでしょうか?
そういう点で、この作品は非常に限られたコミュニティでしか通用せず理解もされない、ローカルな発想のものだということです。そこが耐えがたくTV的です。耐え難いくらいですからワタシは耐えません。ローカルなのが悪いのではなく、悪いローカル性を本質として持っているということです。これを世界は許すわけにはいきますまい。

それは映画の罪なのか原作の罪なのかは、言うまでもありません。(それぞれの罪なのです^^;)

******

あとは目先を変えると、肝心のアマルフィという土地が、えらく簡単に扱われていることに失望してしまいました。車の進行を追って動いていたカメラがしだいに空撮であることを示し、アマルフィの海岸沿いの山にへばりつく集落を広々と空撮するに至る演出は、定番としていい演出だと思いますが、その空撮のカメラの「引き」があまりにも足りない。土地と青空の割合のバランスが悪いのです。空が足りない。

同様に、アマルフィの集落の魅惑、狭く入り組んで迷路のように張り巡らされた集落の路地と、路地の到達点である広場の広さと、そういう地理的利点をほとんど映像の悦楽に置き換えることに成功していません。まさにそのようなことを生かそうという意図が感じられるにも関わらず、です。
思い出したのはニコラス・ローグ『赤い影』ですが、あれはヴェネツィアの陰鬱な風景を、決してフォトジェニックな絵柄ではないのによくとらえて物語の本質へととりこんでいました。あのような地の力を映画の血肉にしてしまうような、不遜な意図というところまでにはこの作品は至っていないのだと思います。

これは作品タイトルですらあるアマルフィの地の訪問が、「時間つなぎ」としてもたらされたという原作の(未読ですけど、たぶん原作の)設定上の問題でもあるでしょう。残念なことです。

引き画面の欠如と呼応するように、映画にあふれかえるのは人物のバストショットの連続です。しかも「顔が語る」的場面の多さ。顔が語るのは決して悪いことではありませんが、これもまたいかにも狭い画面を前提とした、運動性を押さえて行う表現の技法と思えてなりません。ちょっと譲って、それもまた映画の可能性として魅力ある演出だとしてみても、ワタシには織田裕二の表情が何かを語っていたとはどうしても思えなかった(笑)。

織田裕二も天海祐希もどちらもワタシはちょっと苦手なのですが、どうやら彼らがいつも同じ顔をしていることに起因する苦手感なのだと今回思い至りました(笑)。にもかかわらず彼らが懸命に画面を「顔」で満たしているのにはなにか痛々しいものを感じました。まあ彼らなりにあの中ではかなり健闘したのではないかと思いますが。

*****

と、なにか不満ばかりを述べてしまって心苦しいのですが、そもそもなんでワタシが観にいったかというと、家族が観たいと言ったのもありますが、なにを隠そうワタシは戸田恵梨香を観にいったのです~^^。
こうして思うと、彼女は意外といろいろな表情を見せるのです。造形が変わるという感じで。脇役扱いでしたし彼女の経験の浅さもあってもう一つ魅力を堪能できませんでしたが、これからいろいろな役柄に挑戦して魅力を磨いてもらいたいものです。(いや、才能を感じるから好きだというわけではなくて、ただ彼女の顔が好きなmanimaniですが^^)




*****

いいところも実はいくつかありましたが、一番気に入ったシーンは、美術館での監視カメラ映像を映すところで、閉められたトイレのドアを1分近くじっと映し続けるところです。この時間配分の感覚はなかなか効果的だと思いました。ドアが閉じられたとき、こちらもこの映像が永く続いてくれることを願い、そしてそのとおりとなったのです。

そういう瞬間も含めてなんだかんだとこのオールイタリアロケの宿命的ローカル映画(笑)をワタシは結構楽しんでもおりました。



しかし、イタリア、この間邦人観光客ぼったくりレストラン事件がありましたが、でも、行ってみたい~



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「淀川長治物語・神戸篇 サイナラ」大林宣彦

2009-08-10 00:38:29 | cinema
淀川長治物語 神戸編 ~サイナラ~ [DVD]

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淀川長治物語・神戸篇 サイナラ
2000日本
監督:大林宣彦
脚本:市川森一、大林宣彦
出演:秋吉久美子、柄本明、ガダルカナル・タカ、勝野洋輔、勝野雅奈恵、白石加代子、嶋田久作、大森嘉之、岸部一徳、根岸季衣、高橋かおり、宮崎あおい、宮崎将


【追記】
誤字だらけだったので訂正しました^^;
【追記終わり】


今年は淀川長治生誕百年だそうで、記念の催しに行ってきました。
ちょうどいま8月8日~16日に往年の名画の上映があるそうです。
関連していろいろな映画のポスターや淀川さんの映画解説用直筆メモの展示とか、関連書籍販売などもあるようです。
くわしくはこちらに。

で、ワタシが行ったのはその前夜祭で、大林宣彦監督による淀川長治伝記映画の上映と監督のトークでありました。

映画は思ったよりはるかに面白く、またよく出来てもいて(というのは失礼か)思わぬ感動を得てしまいました。
デヴィッド・リンチとかシュヴァンクマイエルとかそういう世界も大好きだけれど、いっぽうでやっぱり淀川長治的映画愛、いや、愛の映画も大好きだなあと、あらためて思うのでした。

思えばワタシの映画体験の根底には、70年代以前のアメリカ映画の異国情緒に加え、淀川さんの名調子と、日曜洋画劇場のエンディングテーマso in loveの憂鬱な響きが横たわっているのです。もしかしたらかろうじて最後の「淀川長治の子」(孫?)の世代なのかもしれません。

****

この映画は淀川さんが生まれてから生地神戸を離れるまでの少年期を描いた作品だ。が、これは一人の映画解説者の伝記ということを離れても、十分に興味深くまた激動に満ちた物語であった。思い出したのは溝口健二の『近松物語』や『山椒大夫』『祇園の姉妹』『残菊物語』など。そういう物語の強度を持った作品であり、考えてみれば溝口が描いた「現代劇」が舞台としたのはまさに淀川少年の時代じゃないか。あの時代には起伏に富んだ物語にリアルな現代性があったのだろうと、思い至る。

****

淀川少年の生家は代々続く置屋の老舗で、淀川少年は裕福なボンボンとして生まれたのである。幼くして活動写真に夢中になったのも、屈託なく写真への愛情を育んだのもそういう育ちの環境によるところも大きいだろう。芸者衆にかわいがられ、奔放な姉たちに囲まれ、いかにも幸福そうな少年。

最初の大事件の記憶があの大正米騒動であるというのも、なかなかびっくりである。米騒動の記憶のある人と同時代人であるという感覚が自分にはなかったのだが、考えればおかしくはない。米騒動の際に焼き討ちにあう側として淀川家はいたのだが、暴動を逃れて山上の寺に逃げ込む際に、焼ける神戸の街をみおろして、「活動写真のようだ~」とひとりごちる少年は、ある意味すごい。

米騒動や関東大震災などを機に世の中は流れ始め、淀川家も没落していくのだが、それが長治少年にはあまり苦になっていないように見える。屋敷に住む身分だった淀川家もとうとう長屋住まいになり、姉は家出をし弟は自殺。父は早くも惚けてしまい、悲しみに泣き暮らす母と祖母との暮らし。長治しか頼るものはいない、という状況で、あっさり彼は上京を心に決めるのだ。

家の没落と並行して、この時期は長治の映画との蜜月期でもあったろう。
そもそも母が活動写真を観ている最中に産気づき、一緒にいた父親は外に出て車屋を呼び止め、妻を車に乗せると自分はそそくさと活動を観にもどってしまうという、嘘のようなハナシである。なにやら約束された人物という感じがぷんぷんである。
活動に通い詰め、活動のシーンを級友たちとまねて大騒ぎをする。しかし長治少年ほど入れ込む級友も少なく、当然長治は物足りない。劇場の本社から配給作品を携えてやってきた菊池青年と仲良くなり、試写に呼んでもらったりする。劇伴に大きな木魚が要る、ということになり、淀川家にあった巨大木魚を拝借したい菊池だが長治の父はウンとはいわない。そこで長治少年は深夜菊池を手引きし、木魚強奪を敢行する、などなど、後の映画への情熱を開花させる。
成長した長治は映画の宣伝文句を考える副業を始め、学校で内職しているところを教師に見つかるも、逆に映画への愛を雄弁に披露し、今宣伝しようとしている映画のあらすじを滔々と語り出す、そんな少年になっていた。
彼が、投稿していた映画雑誌や投稿仲間を頼って上京しようと思うのも自然のなりゆきだったろう。

そういうことの一方で、少年時代の出会いと別れについても印象深いエピソードとして時間をかけて描かれている。
少女の頃から奔放だった姉は、親の決めた相手との婚礼の当日に家を飛び出し大騒ぎ。長らく音信不通となるが、後にミルクホールの気丈な女主人となっている姉と再会する。
あるいは、貧しく屈折した少年との友情。彼の出会いと別れは長治に一つの洞察を与える。人生とは活動写真のようだ。みんな泣いたり笑ったり一生懸命で面白い。これが人生だと。
それから、芸者のひとり淀丸さん。彼女は長治をかわいがり、月に一度の彼女の贅沢である洋食とワインに長治を連れていったりする。また、菊池に一目惚れするその姿を長治に見せてもいる。「一目惚れというのは本当にあるんだ。活劇の世界は本当にあるんだ」と長治は感動する。これまた重要なひとだ。淀丸さん。彼女は「大人の事情」で長治の前から姿を消し、次に彼女の話を聞くのは彼女が車にひかれて亡くなったということである。淀丸さん。
ラスト近く、登場人物がみんな活動写真館に集い、弁士に扮した子供時代の長治とともに活動を観ているシーンがあるが、この作品の終わりとともに彼らが観ている映画も終わり、皆拍手をし、三々五々散ってゆく。そこに最後まで残っているのは淀丸さんだ。ああ、淀丸さん。
人生出会いと別れだねえ。サイナラ。

*****

かように淀川さんの人生は、映画と、それと同じくらい示唆に満ちた出会いと別れに満ちていた。激動の時代だったけれども、そこを生きるということのなかには、大人も子供も一緒くたの本気のぶつかり合いがあって、そういうことの機微を描いた映画、いや活動写真もいっぱい作られていただろう。
そのことを淀川さんは後世に一所懸命伝えていたに違いない。映画って、出会ってぶつかってわかりあい別れる、そういうことの機微なんだよ、と。サイナラ、サイナラ、サイナラと。


*****************

この映画は、淀川さん逝去のおりに、某洋画劇場放映TV局の依頼でTVドラマとして構想されたけれども、どうしてもTVドラマの枠にはおさまりそうにない、となり、自主制作の映画としてスタートすることとなったものだということです。

スクリーンでの上映は、完成時のほかは2~3の映画祭で上映された以外に機会がないということで、今回は貴重なフィルム上映を観ることが出来て望外の喜びである。
DVD化されているとは思わなかったです。

長治の姉の少女時代を演じているのは宮崎あおい。兄の宮崎将とともに出演ですが、ちょうどやはり兄妹で出た青山真治『ユリイカ』と同時期の出演です。あちらでは無言の謎めいた少女でしたがこちらでは画面を走り回り愛嬌を振りまくとともに、ちょっとモダンな香りの振る舞いの、役柄にぴったりの少女を演じておりました。短い時期の微妙なしかしはっきりした少女の成長を、和服姿でよく表していたと思います。

勝野雅奈恵(=勝野洋+キャシー中島の娘さん)が演じていたのは淀丸さん。演技の巧劣という点ではいろいろとありましょうが、芸者衆にまじって登場したときに明らかに一人異彩を放っていたところはすばらしい存在といえましょう。そして一目惚れを本当に眼差しで演じてしまっているのも特筆すべきことでしょう。『アマルフィ』の織田裕二にみせてやりたい眼差しです(後日参照(笑))。

あとは、息子の死を知った(と明示されないのですが)ときに秀逸な走りを見せた秋吉久美子がよかったです。

ふと坊屋三郎が出てたりするところもすごい。



**********

大林監督のトークも感動的でした。
主に淀川さんに関するエピソードを語りつつ、淀川さんが伝えようとした映画とはどういうものだったかを有言無言に語ってくれました。

60年代半ばから映画というものは大きく変わってきた。それまでの映画は、出会って傷つけあってわかりあって愛を学ぶのが映画だった。
そういう映画の道筋を忘れて映画を撮ってはいけないのではないかと。

淀川さんがスピルバーグが苦手だったことにふれ、『プライベート・ライアン』の冒頭20分を評してスピルバーグは「ヒューマニズムを商売にしてしまう」と淀川さんはおっしゃったとか。
それはたとえば、『渚にて』の冒頭近くで、赤ん坊に毒を盛るシーンで赤ん坊をいっさい画面に出していないこと、あるいは、ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』で売れる映画を作ったけれども、もしあれが『スター・ピース』だったらやはり売れなかっただろう、ということの指摘によっても語られたことです。

ただ愛のストーリーを語るということだけではなく、制作側にどのようなモラルがあるかということ、何をだけでなくどのように伝えるかということを問題にした、「愛の映画」を作ること。そういう愛が60年代以前の映画にはあったということだろうと、ワタシなりに考えました。

もちろん、そういう「愛」が真正面から信じられる時代にはもういないのだとも思います。「愛の不在」を描かざるを得ない映画作家というものにも共感します。それでも、淀川さんの愛したような映画にはなお力があるのだろうし、学ぶところも得るところも大きいのだと、素直な心で思いました。


今回の企画は、淀川長治生誕100年の催しをどこもヤル気配がない、長年出演していた某TV局も動く様子がない、ということで、一種の危機感を持って企画されたそうです。
また同じく企画された映画ポスターデザイナー野口久光氏の回顧展も、どこの美術館に持ち込んでもやらせてもらえないそうです。

映画のポスターはファインアートではない、一介の映画解説者の回顧など必要ない。日本は文化国家のフリをしていますが、おしなべて文化事業というのは結局はそうしたうっすらとした一般的な認識をこっそり補強するだけで、集客できるものにのみ力を入れる、制度維持の機構でしかないのです。

それは分野を問わず、官民を問わず、営利/非営利を問わず、行われていることの姿だろうなあと、某大手CDショップでの無名インディーズの扱い方などを思い出しながら半ば逆恨み的に腹を立て、この駄文を終わることに致します。




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「1Q84 BOOK1 BOOK2」村上春樹

2009-08-06 22:47:08 | book
1Q84 BOOK 1
村上 春樹
新潮社

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1Q84 BOOK 2
村上 春樹
新潮社

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村上春樹を一気読み。
この小説には理由は分からないのだけれど、ワタシを、浅瀬に引っ張っていくようなかすかに禍々しい香りのする力で引き込んでいく。このわずかに禍々しいという温度感が実に気色悪く独特だ。この力に捕われると、もうダメだ。仕事をしていても小説のことを考えている。早く続きが読みたくなり、仕事をしている時間がどうしようもなく空虚に思えてくる。病が高じると、いよいよ仕事を休んでホンを読む・・・ということになる。
マズい。

なわけで、青豆さんの、天吾くんの1Q84を共に生き、呼吸しました。

ネタバレのつもりはありませんが、これから読まれる方は、この駄文は読まずに先入観なしに読まれることをオススメしておきます。

*******

まず思うのは・・村上春樹にとってセックスはやはりミラクルなんでしょうかねえ??ということでした^^;
青豆の場合は、幾層にも折り重なったトラウマ体験の頂点からふっと一線を越えてしまったところから彼女の性遍歴が始まるのだし。
天吾の場合は、自分ではなにもしないけれども、性交によって変化した世界と対峙するための力と契約する。生きる力をふかえりから与えられたのです。

sex is a miracle...

これは全く変わることのない村上的命題であることが、ここでもまた明らかになってしまったのです。
ここが一番賛否のわかれるところではないでしょうか。
きっとハルキ氏はセックスの実像などはまったく求めておらず、そこに抽象的な意味を求めてしまう。それは普遍的ですらなく、ほとんど妄想に近いものですから、ワタシにはどうしても、「それはありえない」「そんなセックス観を持っている人間(特に女性)などいない」と正面から目くじらを立てる気にはならんのです。
この小説の(あるいは過去の、例えば「ノルウェイの森」などの)性生活の描写は、ある面ではフェミニズムやジェンダー論の世界から大いなる反論を呼びそうですらありますが、そもそも論争を仕掛ける以前の原始的な(というか幼稚とさえいえる?)段階のリビドーに怒る気もしないというところなのでしょうか?
いずれにしろそれにもかかわらず彼の小説のファンに女性も多い、ということは、なにやらよく考えてみるべきものがあるように思えます。

****

と、セックスについて思わせぶりな事を書きつつ、次に何を書こうかなあ?

この物語はどうやら1984年に青豆が某所の階段をおりたところでくるっと1Q94年の世界に入り込んでしまった、パラレルワールド的なお話のようでありますが、そこは、パラレルな世界へ迷い込むという異体験が主題なのではなくて、親しんでいたはずの世界がいつのまにか違和感にあふれたものになっている、という、内的/外的な「世界の変質」を、80年代半ばに置いてみたということだろうと思います。

どこかで誰かが言っていたのですが(これではなにもわからない^^;)60年代というのは、62年頃にはじまって72年頃までの10年を言うのだと。
これは何となく共感できるのです。矛盾するようですけど70年代というのは69年ころに始まって82年頃までのような気がします。
何を言っているのかというと、よくわからないのですが、80年代って84年頃から始まっているような気がするのです。(で89年に終わる)
今日的なもの、過去と明らかに異なっている今日的な社会の特質の起源がその84年に種蒔かれたと考えると、なんだか腑に落ちるものがあるのです。直感ですけれど。

小説には、その後社会を振り回すいろいろな要素が、周到に網羅的に登場します。羽振りのいい不動産屋の若者とか、新興宗教の教祖とか、年少の小説家とか、高級ホテルに泊まるサラリーマンとか、ワープロとか(パソコンでなくね)、あやしげな財団とか・・ああ、もういろいろ忘れてしまっているなあ・・
そこはとてもよく考えられてるように思います。

あのときから、社会は、慣れ親しんだ世界から別の世界へと移行してしまったのかもしれません。だから今日とこれからを考えるためには、その移行の特異点に戻ってみる必要がある、とこの小説は言っているような気がします。

そう、村上春樹的総括の試みなのだろうと思いました。この異質な世界に責任がある世代としての、未来へ向けたメッセージを、小説家らしい態度で(という概念はハルキストならばおなじみでしょう)形にしてみようと思ったに違いありません(と突然断言してみる)。
だって、いつになく真摯な態度が伝わってくる小説でしたもの。セックスは除き(笑)

******

天吾君が、活躍していそうで実はなにもしていないというところが妙に可笑しかった。ふかえりの件について「技術屋」としてちょっと働いたあとは、ほぼ状況に対して無力で受け身であるし、でもそのくせ未来への希望をひとり手にしてしまう。
これは謎だなあ・・・ふかえりの行方よりも青豆の顛末よりもふかえりの父親の身の上よりも牛河の団体の正体よりも安田恭子の運命よりも教団の内情よりも、天吾のことが一番謎でした。
ほかにもそんなに謎があるのか?(笑)と皆さんお思いでしょうが、いやいや、もっといっぱいあるんですよ(笑)

伏線は回収さるべき、という心情の方にはまったくおすすめできませんね、この小説は。ワタシは謎が謎のママであることが大好きです。ほんとうに大好きなのです。だから、『1Q84』は大好きな小説です。
『スプートニクの恋人』と『アフターダーク』は今ひとつだったのですが、これはワタシ的には合格です。

*****

もっと書くべきことがあるように思うのですが、うまくまとまりません。
再読の機会があったらまた書くでしょう。

ワタシの通った学校のことがちらと出てくるのもなにかの因縁でしょう。



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「out of noise」坂本龍一

2009-08-05 23:37:44 | music
out of noise(数量限定生産)
坂本龍一
commmons

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こちらはCDのみ↓
out of noise
坂本龍一
commmons

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しばらく坂本龍一から遠ざかっていたのだが、先日入手した「ユリイカ」の特集号をよみ再び興味が沸き、最新アルバムを購入。

で、さっそく聴いてみましたが、これが予想外によい!
というか、あまり期待はしていなかったのですよ。

『音楽図鑑』『未来派野郎』『エスペラント』あたりまでは聴いていたのですが、そのあと若干ブランクがありつつ、『Beauty』を聴いてみたら、どうも今ひとつのれず・・・あのワールドミュージック的コラージュが、もはや古くさく感じてしまったのですね。そういう方法論ならすでに細野さんのクラウン時代に消化されてしまっているだろう、と。
これなら『音楽図鑑』のほうがよっぽど無国籍/ノージャンルだと。

というわけで、ちょこちょこと耳にしつつも避けていた坂本君。

しかしこの『out of noise』はよいですね。
形式や構造から自由であろうとしてきた音楽家の一つの試みは、しかし意外なほど音楽的で、使われているノイズもアンチ楽音という意味合いさえも与えられずに、音として屹立することの「無」を感じさせる。
またピアノによる楽曲は意外なほど坂本色を否定せず、また古楽器(ヴィオール系)による楽曲はルネサンスやあるいはアルヴォ・ペルトかマイケル・ナイマンを思わせる静謐な趣で、モノトーンで統一されているようで、実は多彩に響く音世界でした。

アーティストが参加して北極圏の様子を船で観に行くというツアーがあるそうですが、それに参加した経験が反映しているのと、そこで採取してきた音が使われているそうです。

長い音楽生活の果てに、なにやらようやくいい意味で無私な作品にたどり着いたという感のある作品でした。


CDというパッケージでの音楽流通に対して否定的な発言もあった教授ですが、本作ではカーボンオフセットCDというシステムによる流通を考えたようです。パッケージの魅力というものを捨てきれないワタシのような人間には、よろこばしいスタイルです。


ユリイカ2009年4月臨時増刊号 総特集=坂本龍一 SKMT

青土社

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↓自伝本も読みたいです。
音楽は自由にする
坂本龍一
新潮社

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「バーダー・マインホフ 理想の果てに」ウリ・エデル

2009-08-02 14:20:18 | cinema
バーダー・マインホフ 理想の果てに [DVD]
クリエーター情報なし
Happinet(SB)(D)


バーダー・マインホフ公式サイト

バーダー・マインホフ 理想の果てに
DER BAADER MEINHOF KOMPLEX
2008ドイツ/フランス/チェコ
監督:ウリ・エデル
製作・脚本:ベルント・アイヒンガー、ウリ・エデル
原作:シュテファン・アウスト
出演:マルティナ・ゲデック(ウルリケ・マインホフ)、モーリッツ・ブライブトロイ(アンドレアス・バーダー)、ヨハンナ・ヴォカレク(グドルン・エンスリン)、ナディヤ・ウール(ブリギッテ・モーンハウプト)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ペトラ・シェルム)、ブルーノ・ガンツ(ホルスト・ヘロルド)



どうやらこれからの文章は、バーダー・マインホフ・コンプレックスをめぐる断章、のようなことになるみたいだ。まとまった文章を書く気はさらさらなくしてしまった。まあ、いつものことだけど。

*****

ウリ・エデル監督作を観るのは『クリスチーネ・F』以来のことですが、両者はとてもよく似ていたのが印象的でした。
ともにある種の青春映画である点で、そしてまるで青春映画らしくない面持ちを持っていることで。

****

このところ「あの時代」を題材とする映画がいくつかあるようだけれど、あれはなんだったのか、あるいはなんであるのかをどのように描いているだろうか。
思うのは、あの時代の過激な政治思想(とくくってしまうのはまだ早いが)は、真に正義感を持った人間たちによる無私の行動だったのか、それとも、権威を憎む若者らしいエネルギーの暴走がたまたま政治行動と結びつくのが時代の潮流だったということなのだろうか?いずれにしろそれに払われた犠牲はあまりに多く、それに見合う(何をもって見合うとするかは大きな問題だ)程度には社会矛盾は解消したのかというと決してそんな気はしない。

大鉈を振るって、あの時代の問題と行動を洗いざらい検証して乗り越えてしまえば人類は多少は幸福になるだろうと思うが、そう簡単にはいかないのだ。
結局この映画も、そう簡単にはいかないのだと結末を曖昧にしている。何一つ終わってはいないし、矛盾もテロもgoes onだ。

考える契機。
映画に託されるものはそのことに尽きるのだろう。そのことが映画的かどうかはまったくわからないが、映画だってある種のメディアであるからには、メディアとして機能することで失望したりはしない。考えて行動するための、指針ではなくて材料。それでいいのかもしれない。

****

映画的に、よく作られていた映画であって、その点が妙に気にかかる。
冒頭のいきなりの群衆的暴力シーンで背景に流れるサスペンスフルな音楽から、途中かすかに聴こえるディープ・パープルやディジー・ミス・リジー、エンディングのボブディランまで。この映画の音楽はほとんどエンタテインメントだった。

音と題材との関係性のありようは驚くほどあの映画を想起させた。若松孝二『実録連合赤軍』である。これとあれの類似はいろいろあるが、まずは「実録」であろうと望んでいること、そして音楽が状況を盛り上げるものとして使われていること。
突き詰めるとなにか矛盾を感じさせるこの二つの特徴が、ワタシのなかに妙な居心地悪さを生む。「見てきたように」撮られているのに、これはどこまでも「演技」なんですよと、意識下で注釈を常に加えられているのだと思う。そう思うと、意外と(?)この二つの特徴は誠実なものなのかもしれない。

たとえば音楽がいっさいなかったとするならば、ワタシは納得感を持ってこの映画を見ることが出来ただろう。しかし、そこで隠蔽されるのはリアリズムというイズムだ。
いま求められているのはリアリズムなようでいて、実は、リアルに撮ったものに「これは虚像です。お忘れなく」というレッテルが張られた、酔えない酒なのかもしれない。その飲み心地の悪さ、居心地の悪さに、むしろ考える契機がある。

*****

原題はDER BAADER MEINHOF KOMPLEXで、こっちの方がかっこ良いよね~
KOMPLEXはもちろん英語ではCOMPLEX。
「複合体」であって、また「観念複合」「固定[強迫]観念」でもある語がくっついているところがいいと思うのだ。
これまた考える契機だ。。

彼らがドイツ赤軍をなのる経緯があまり明らかでないけれど、連合赤軍のように、深い経緯があるとも思えなかった。世界は共産主義革命へ進んでゆく、それゆえに革命者は赤軍を名乗る。これもまた真剣な見通しなのか、若気の思い込み(コンプレックス)なのか、わからない。

彼らは中東に出向きパレスチナ解放軍(PFLP?ファタハ?)のもとで訓練を受けたりするが、まったく真剣でなく(いや?彼らなりに真剣であったか?)、むしろフリーセックスと革命を結びつけたりしてイスラム教徒の前で傍若無人な振る舞いをして帰ってくる。
本気で西側帝国主義と戦うつもりなのか?わからない。

この映画では、彼らの行動は多面的なものとして扱われているように思う。彼らの良心からでた行動であるとともに、若い精神の暴走でもあったのだ、と。真剣な議論の一方で、深夜に車を乗り回しまどから銃を撃ってみたりする危険な遊戯も描いてみせる。一筋縄ではいかない。あれは混乱した(コンプレックス)現象なのだ。

そして、しかもなにも解決していないのだ。バーダーもマインホフも知らなかった第二、第三世代による共闘は、より過激さを増し、かつ無軌道だ。それはほんの30年前のことである。

****

時代感覚を思い描いてみる。70年代とは、ドイツでのあの大規模な残虐行為がまだ「ほんの30年前」のことだった時代である。それを経験した世代はまだ父祖として社会の中枢にいて、それを経験していない世代は、父祖を「それを防げなかった世代」と見るだろう。
しかも、リアルタイムには、ユダヤの国による新たな民族浄化が行われている。あろうことか。そしてそれを後押しするアメリカという存在。
そのアメリカはベトナムを相手にしている。
「それを防げなかった世代」と同じ轍を踏まないようにはどうすればよいのか?という問いは、思えば切実なものなのではないだろうか。neinというべき相手は目の前にいる。父祖はそれに対してneinと言わなかった。ならば自分たちのすべきことはneinを形にすることだ。

このことは映画で、中心人物のひとりグドルンが父親に対して表明する叫びが表していたことだ。あの叫びでワタシは一気にこの70年代のメンタリティに引き込まれたと思う。

とりあえずほんの30年前、を二つ積み重ねて地続きの世界を眺めやること。
その長い視線の端を、自分の今の生活と繋いでみること。
そうしたらこの先の30年がみえるだろうか。
そんな視点を、わたしたちの共同体は持っているだろうか??

**************************************************************

おどろいたのは、映画にでてくる人物たちの「本気度」だ。冒頭の群衆シーンもそうだし、集会での人々の熱狂ぶり、銃撃戦のべらぼうなまでの弾丸投入量、裁判シーンでの被告側はもちろん裁判官たちのいらつき度とか、監獄での監視員との乱闘といい、爆弾テロでの爆破シーンといい、まったくもってすごい。度を超して本気である。あんなことが演技でできるものだろうか?しかも俳優はもちろん大量のエキストラのひとりひとりまでが、こぞって本気なのだ。
どんな映画に比べてもこれは度を超している。

おそらく、映画で見るたとえば暴力は、リアルという形をとる以上それはリアルという制度にそった様式化された暴力だ。リアルだ!と感心するとき、それはその様式に共鳴しているのであり、制度のなかでの出来事であり、そこから逃れることは容易でない。
なのに、この映画は、過剰な本気度でその制度をぶち破りかけている、と思える。
これについては上手く言うことが出来ない。制度の外のことを形にするのはまた困難なことだ。けれど・・・本気すぎる!と言っておこう。

****

ブルーノ・ガンツとアレクサンドラ・マリア・ララを見ることを一つの目的として観に行ったのだが、そんなことは途中ですっかり忘れてしまっていた。

ブルーノは含蓄のある言葉を放つ賢人風の警察トップだった(よね?)あんなに老けていたかなあ?老けメイクなのかな?

アレクサンドラは、自身ないけど、車で検問突破して撃たれてしまう彼女だよね?
検問にさしかかったときの不安な表情が胸を突いた。

***

あとはあれですね、この公式サイトは、なんとも貧弱だけれど、まあ豊潤なサイトをつくるべきとも一概には言えないのですけどねゴニョゴニョ
このサイト、キャストもスタッフもろくに情報が取れないのがね~存在意義があるのかしら~?というと、まあ、パンフ買えってことかもしれませんねゴニョゴニョ


おしまい。


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