Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「アネット」レオス・カラックス

2022-08-25 22:27:56 | cinema

結構前になってしまったがカラックス

あまり覚えてないので、観たよーということを記すために
適当に思ったことを書いておこう。

*******

アダム・ドライヴァーの毒々しいスタンダップコメディアン
トム・クルーズのこういう感じのがあったよな
「マグノリア」だったかな。
あれはコメディアンではないけれど。

「レニー・ブルース」も思い出す。
あれは題材としてはもう少しストレートか。

なんとなく「オール・ザット・ジャズ」も思い出すが、
これはなんとなく傍若無人な雰囲気が通じるだけか。

一方で最近ジャームッシュのアレ
「デッド・ドント・ダイ」とか「パターソン」とか
ギリアムの「ドンキホーテ」とか観ているので、
いろいろなアダムのイメージがくっついていて

といういろいろな背景を勝手に背負っているように見ちゃったが
アダムの存在感は、コメディアン・ヘンリーらしく見えるにもかかわらず
どうもなにか違う、なにか生きていない人のよう?というような
不思議な感じ。

 

そもそもオープニングから変だ
これは変だ。
そこにいるリアルな製作陣の妙にリアルな存在感が
この先の全部の虚構と普通に繋がっている。
この異様さをうまく言い表せないが、これがこの映画の基調ではないかしら。

すごいあけすけな虚構の網と、その目の向こうに透けて見える剥き出しの何か。
生きているのか生きていないのかよくわからない感じ。

で、その虚構の網の虚構らしさの丸天井のようなものを
ミュージカルというやりかたがもたらしているのかもしれない。

 

そもそもカラックスは毎回オープニングがすごく変だ。
それだけでも他に類を見ないという気がする。

******

で、今回は極力前情報を得ないように頑張った末に観にいったので、
マペットの件は全く知らなかったのです。
で、本当に新鮮にその登場シーンで驚いた。
こういう初見の驚きというのは久々かも。
こういうのは楽しい。

その驚きは、あまりにもあけすけな虚構、虚構の中の虚構が
臆面もなく現れたという感じだった。

不遇な娘(虚構)は最後に受肉(現実化)をするが、
現実化がこの映画の終点であるだろうか。
最後にアダムがちらと監視カメラ(である我々)を見る。
現実への目配せ、現実への綻びではないだろうか。
あそこで虚構の網の世界は均衡を完全に失い
密かに映画は崩壊する。

面白いと思う。

ユーロスペースにて

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