Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「勝手にしやがれ」ジャン=リュック・ゴダール

2008-12-31 22:56:22 | cinema
勝手にしやがれ デジタル・ニューマスター版 [DVD]

ハピネット・ピクチャーズ

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勝手にしやがれ [DVD]

アミューズ・ビデオ

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1959フランス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
監修:クロード・シャブロル
製作:ジョルジュ・ドゥ・ボールガール
原案:フランソワ・トリュフォー
撮影:ラウール・クタール
音楽:マルシャル・ソラル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジェ、ジャン=ピエール・メルヴィル、ジャン=リュック・ゴダール


年末駆け込み更新~!


さてさて、20年ぶりくらいに再観の『勝手にしやがれ』。
あれ?こんなんだったっけ?(笑f^^;)
あんなに印象的だったラストシーンでさえ
記憶していたものとは違っていた。
こうも記憶と違っていると、また新鮮である(苦笑)
新鮮に、初めて観るように、『勝手にしやがれ』を発見した。

蓮實大先生が著書で仰っておりますが、ビデオもDVDもない時代、映画を見る者が鍛えたのは「動体視力」だと。「映像的記憶」ということだと思うんですけど、要は、1回限り、一瞬で過ぎ去ってしまう映像と音をいかに記憶するかが映画評論や研究では勝負であったということで、そりゃそうだが、あらためて考えるとそれは大変に厳しい道である。
その点ワタシは、もはや張り合うまでもなく「映像的記憶力」は毛の先ほどしか備わっておらず勝負以前の状態であることを、今回あらためて実感する次第でありました。

****

いかにもヤサオトコなミシェル・ポワカール。けっこうワルである。盗んだクルマに乗り、ぶつぶつ独り言いながら調子こいてぶっとばしてたら、白バイ警官にとがめられる。ミシェルはダッシュボードにあった拳銃でおまわりをbang!
ひょうひょうと逃げ去るミシェル。仲間や女友達を訪ねてひょうひょうと暮らす。女から金をくすねたり、「ヤツには貸しがある」とかいってやたら電話かけたり、落ち着かないヤツ^^;
女友達のひとりパトリシアをなんとか口説き落とそうとして「イタリアへ行くぞ」とか言ってるが、パトリシアはなかなかなびかない。
そうこうしているうちに二人で路上にいるところをオヤジ(ゴダール(笑))に密告され捜査網は狭まる。
とりあえず友人のところに転がり込む二人だが・・・

****

ゴダールの長編第1作目、クロード・シャブロル監修、フランソワ・トリュフォー原案という豪華スタッフによる作品。
やたら文学的な独り言とか、希薄なドラマ性とか、あっけない終幕とか、オールロケ・同時録音とか、当時の商業映画の枠を破る衝撃作だったようですが、今観ると割とストレートなやけっぱち青春像

強盗は強盗し、人殺しは人を殺し、密告者は密告する
(だったかな~違うよな~)
そんなような、大変ゴダール的なセリフが登場するのがこの長編デビュー作
このセリフを本当に地でいってしまったのがこの映画である。

エンディングがミシェルの最期かと思いきや、おそらく唯一のパトリシアのカメラ目線アップであることに驚く。へ~。やるなあ。


ミシェルが帽子をぽっとパトリシアにかぶせるシーンが唯一ミシェルの柔らかい心を表していて美しい、とはハスミ師の伝
たしかに美しい。
この帽子の委譲というモチーフは最近観たイーストウッド『硫黄島からの手紙』でもさりげなく心温まる技として使われていた。

パトリシアが徹底的にストライプ柄の服を着ることも無性に気にかかる。
あのシマシマはミシェルを跳ね返す結界か?
最近会っていないが、ジーン・セバーグ似の友人がいる。
今も似ているだろうか・・

****

今回鑑賞したのはデジタルニューマスター版であるが、上映時間は86分。
あれ?たしかゴダール長編第1作はBムービーの理想的長さである90分ちょうどという話ではなかったっけ?
と思ったら、いろいろ調べるとデジタルニューマスター版はマスターとしたプリントの都合かなにかで、微妙に「早回し」になっているらしい。
こういう問題が生じるのかあ
ゴダールが「1秒間に24回の死」といったその時間軸ももしかすると、映写装置の個体差とかでずれがあるのか?
とすると、世界中で同じ映画を観ているといっても、全く同じ映画を観ている人はすごく限られていたということなのか?それはビデオやDVDでも同じことが言えるのか?
かつてカセットテープ時代の音楽がそうであったように?

90分と86分の違いが画面上どのように顕現するかは見比べてないのでわからない。映像的記憶のやばいワタシなぞには違いがわからないことだろう・・


近いうちにもう一回観たい。



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「百年恋歌」侯孝賢

2008-12-31 14:10:48 | cinema
百年恋歌 amazon限定特典付きDVD

竹書房

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1966年「恋愛夢」、1911年「自由夢」辛亥革命前夜、2005年「青春夢」の三編から成る男女恋愛話。
恋愛話しといっても、これ見よがしのドラマチックなものでもないし、コメディタッチでもないし、ハラハラドキドキでもない。近年の恋愛ものからこれらの要素を取り払ったら果たしてドラマは成立するだろうか?

答えは「する」でした~
っていうようなドラマでした。

ワンシーンワンカットに近く、セリフもほとんどないのが特徴的で、基本サイレント映画の精神に近い。2編目の「自由夢」はまさにサイレントの手法(セリフはなく、随所に字幕が挟まれる)。人物が奏でるものを中心とした音楽のみが音として付けられている。これは全く説話行為的に支障はなく、説話という面ではサイレントとトーキーとのあいだには本質的に断層はないのではないかと思ってしまう。
このスタイルはまた、トーキー時代を迎えてもなお無声映画的作法にこだわったチャップリンの作品に結果的に似ている。

このゆっくりと、必ずしも明示的でない話の展開につきあっていられるかが評価の分かれ目になってしまうだろう。この説話的悠長さを作者は目指したのではないかと思うのだ。

風光明媚な「美しいショット」はほとんど出てこない。室内のカメラは大概は一カ所に据えられた視点のみに終始し、大きな変化を写し取ることがない。常に一方向からの視線のみを与えられ、そこにかすかな動きを見せる人物たちの思いに身を寄せるのは、現在の日本の社会ではそれほど受けのいいこととは思えない。

受けと言えば、室内のカメラは必ず窓のほうを向いているのも特徴的だ。カメラは部屋の奥から外への視線を送り、途中にいる人物たちはほぼ逆光となる。ちょっと青の強い寒い感じのする画面にかろうじて顔立ちのわかる程度のシルエットとなった人物がうかび、まちがってもレフ板で顔を照らしたりはしない。
これもまた受けのいいこととは思えない。

これらのことも、すべてこの作品の茫洋とした気の長さに奉仕する要素になっていると思う。
ふと思う。
映画と美というものが結びつくときには、こうした悠長さを必ず伴うような気がちょっとしている。
タルコフスキー、アンゲロプロス、そしてホウ・シャオ・シェン?



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「夜の女たち」溝口健二

2008-12-31 10:22:05 | cinema
夜の女たち [DVD]

松竹ホームビデオ

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1948日本
監督:溝口健二
原作:久板栄二郎
脚色:依田義賢
出演:田中絹代、高杉早苗、角田富江 他


ウムム・・年内に観たものは年内に書いておきたいと思いつつ、
これは間に合わんな;;
ということで、すこし手抜きでいこうかなあ
(別に焦る理由はどこにもないか・・・)

******

溝口戦後すぐの作品

一見してロッセリーニを想起させるタッチであるが、こちらはセットをふんだんに使い、役者も多数動員した、撮影所システムの作品である。
それでもおそらくはネオレアリスモのような潮流と意識的には同根ではないだろうか。どこまで本気であるかはともかく、この作品には戦争と戦後の混乱という社会の荒波に翻弄される女性たちの姿を通して、強い怒りのようなものがみなぎっているからである。

おそらくは引揚者で、困窮の末に誇りを捨て夜の女になる主人公。
彼女の住む世界の女たちの生き様は、自分を卑下し社会を恨み自暴自棄であるけれども、心のどこかでそのような自己に対する嫌悪、立ち直ることへの希望も持っている。

映画は、単純な善悪で物事を見ず、悪の中にも生きる実存があることから目をそらさない。
そこでの生にどっぷりと浸かる者の、社会や強者への反目と、同時に抱く自己への疑念。そういうものにまっすぐ深くメスを入れると同時に、しかし観念的な善悪の眼差しの軽薄さをもばっさり否定する。一刀両断の切れ味。

最後に女性たちが自らの境遇を悲しみ、憤りとともに世の中が変わることを願うところは、女性自身による強い意志の発露をとらえたという点で、『祇園の姉妹』の戦後焼け跡バージョンであるといえる。表現方法では戦後の新時代を踏まえた突破口を模索しながらも、溝口的テーマは綿々と暖められていたということだろうか。

****

村上春樹「海辺のカフカ」での一シーン(トイレが一つしかないですね・・)を思わせる、純血協会のおばさんには笑えるが、あれが観念的善悪を象徴していたのである。おそらくああいう人もかなりの数いたはずであり、あのシーンにより、実を見ず夜の女を唾棄するような社会の表層に対して痛烈にパンチを食らわせているのだろう。実際観客の大部分はそのパンチを食らう側だったと想像すると、あのシーンはなかなかのもんである。

あと、最初と最後にしか出てこないと思うが、音楽がすごい可笑しい。
ベートーヴェンの5番を解体再構築したような音楽で、大仰さはそのままに、偽物感覚いっぱいの傑作である。。


しかし、とことん溝口というのは女性を描くんだなあ。

浦辺粂子がでているそうなんですけど、誰かわかりませんでした~


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「ミツバチのささやき」ビクトル・エリセ

2008-12-31 00:54:14 | cinema
ビクトル・エリセ DVD-BOX

紀伊國屋書店

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1973スペイン
監督・原案:ビクトル・エリセ
脚本:アンヘル・フェルナンデス=サントス、ビクトル・エリセ
撮影:ルイス・クアドラド
音楽:ルイス・デ・パブロ
出演:アナ・トレント、イザベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス

何をか言わんやの名画でございます。
エリセDVDBOX版の鑑賞で、約20年ぶりの再観となりました。
20年も立つとかなりの部分を忘れているのですが、冒頭、村にトラックがやって来て、二叉路を右に入って、公民館前に停車すると子供たちが群がってくる、というシークエンスと、映画屋のだんなの声がハスキーなのはよく覚えていました。

ほんとうによく出来た映画です。
技術とかそういうこともありますが、思いを詰めることができる、そういう術を知っている人の作品という印象を強く受けます。

***

最初にイザベルとアナの姉妹が言葉を発するのは、ひそひそ声でありました。これは同じ監督による『エル・スール』でのエストレリャと母との会話にも受け継がれていることもあって、とても印象的です。
ひそひそ話による意思疎通にはなにやら特別なひそみがあるように思えてなりません。

そこで語られたのは、姉妹が観たばかりの映画『フランケンシュタイン』において、怪物がなぜ少女を殺したのか?というアナの問いでした。イザベルの答えはアナの心にちょっとした冒険心のようなものを育てます。村はずれの小屋で出会うおそらくはレジスタンスにも恐怖心をいだきません。それは彼女の想像の世界と繋がってはいますが、現実世界との出会いの場でもあるのです。幼年の頃の現実とはそういうものです。

なので、彼女がレジスタンスを助けた行為が父親に露呈してしまうとき、はじめて彼女は父親の言いつけを守らず、森へさまよい出ます。現実とファンタジーが闇の中でショートして、彼女は怪物と出会います。

翌日発見されたアナがその後数日寝込んでしまうのも当然でしょう。ほんのちょっとアナは成長して昨日とは違うアナになったのです。

そんな繊細な精神の動きを、カメラはハチミツ色の光とあたたかみのある石の館のなかでとらえます。まさにハニカム型のすりガラスが入った窓の際で、金網に入ったミツバチをちょっとつついてみるアナのあどけない顔立ちに大きな目は、とても幸せで、でもこれから起伏のある現実と取り結んでいく予感にも満ちています。

1カットごとに心がゆれる、そんな映画でした。

****

家の部屋はドアによってつながっており、ドアをすべて開け放つと、いくつかの部屋をずっとよこぎって視線を投げることができます。そのような、奥行きのある画面が特徴的でした。奥へ向って駆けてゆく少女はとても美しいです。これは廃屋へむかって走る姉妹のシーンにも共通しています。地平線の見える絶景とその手前にある小屋へ向って遠く小さく駆けてゆくアナとイザベル。
ああ、なんてすてきなんでしょ

この映画を「西部劇のようだ」と言ったのが蓮実師。すごいこというなあ。西部劇は結構好きなんだけど、全然一所懸命観ていないので、何とも言えませんが、たしかに村はずれの廃屋に負傷したハズレ者が迷い込み、それを女性がこっそり助けるというプロットはなんとなく西部劇的かもしれません。おそらくハスミ氏が言いたいのはそういうことではないのでしょうけれどね。


BOXには特典ディスクがついていて、それには『精霊の足跡』というルポのようなものが入っています。撮影の30年後に、りっぱに成人したアナ・トレントがロケ地の村を再訪する姿と、『フランケンシュタイン』が上映された公民館で『ミツバチのささやき』を上映するという催しの様子が収められています。昔とほとんど変わらない村の姿に感銘を受けましたが、なんと言ってもアナの成人した姿に感慨ひとしおです。

アナは最近では『ブーリン家の姉妹』に出演しているそうで、ぜひ観てみたいです。

****

1月24日から、『ミツバチ~』『エル・スール』のニュープリント上映が、渋谷ユーロスペースであるそうです。
DVD持ってるけど行っちゃうかもしれません^^



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「懺悔」テンギス・アブラゼ

2008-12-29 22:56:00 | cinema
懺悔

1984ソビエト(グルジア)
監督:テンギス・アブラゼ
脚本:ナナ・ジャネリゼ、テンギス・アブラゼ、レゾ・クヴェセラワ
出演:アフタンディル・マハラゼ、イア・ニニゼ、メラブ・ニニゼ、ケテヴァン・アブラゼ 他

グルジア映画「懺悔」を観ました。
80年代前半をかけて製作され、当時のソビエト体制下では公開できなかったものの、ペレストロイカの進展により86年にグルジアで、87年にモスクワでそしてソ連全土で公開された。
その後アメリカの会社が世界配給権を得たが、採算性無しと日本での公開を渋っていたため、二本では幻の映画となっていたもの。
今回はその配給権が切れてロシアの映画会社の所有となったため輸入・公開が可能になったとのことです。

テーマは非常に重いものです。

ある架空の小さな市。独裁者の死にあたり、かつて独裁者の粛清により両親を失った娘が告発の行動に出るのです。娘(といっても既に成人してますが)は逮捕され裁判にかけられますが、その過程で、画家だった父親が罪なくして連行され殺されたこと、母と娘で父を案じ、囚人流刑地から送られた丸太に囚人が名前を刻んでいると聞き父の名を探して回ったこと、そしてその母もまた咎なく連行され死んだことなど、辛い過去が明かになります。
そして、独裁の時代が終わった今、その告発を人々はどう受け止めるでしょうか。ほとんどの人は、告発に対して嫌悪をあらわにします。独裁者の息子は、父親のしたことに対して良心の呵責を覚えつつも、周囲に同調し、父親を安らかに埋葬しようとします。ただ一人孫だけは、祖父の罪を感じ被告に謝罪し、罪を認めない父親と衝突します。この残された親子の葛藤が大きな意味を持つことになります。

過酷な現実のあとに生き延びた者が、過去をどのようにとらえて生きてゆくべきなのかを問うのがこの映画です。「懺悔」というタイトルが示すように、それは「忘却」でも「無関心」でも「拒絶」でもない、受け止めて悔い改めてゆくという道なのでしょう。


しかし、この映画のすごいところは、そうした重いテーマにあって、悲劇や決意の物語に観客を酔わせるようなことはしない点にあります。随所にユーモラスな表現を用いたり、人物に不思議な白日夢を見せたり、回想と夢が混交したり、夢想が入れ子構造になっていたり、と、ユーモアとシュールなエッセンスで彩るのです。
理屈や物語ではなく、感覚に訴える映画であるところが秀逸なのです。

たとえば、独裁者が演説するバルコニーの下で消火栓工事をしくじり、大量の水が大雨のように降りしきる。その中で必死で演説する者とそれをタイプライタで筆記する者がいる、そんな情景にうんと時間をかけ、我々はそれを観て大笑いするわけですが、そのさなかに、喧噪を避けて窓を閉める画家と、それを凝視する独裁者のカットを差し挟んでいたりする。我々はそれを観て、独裁者をちゃかしつつもその理不尽な権力になおぞっとするわけです。
なにか理屈を越えて生理に迫る表現です。

二代目が判断に苦しみ家の地下に降りてゆくとなぜか司祭がいて、懺悔をするのだけれど、じつはその司祭は父である独裁者だった、とか、あるいは三代目が葛藤するあまり、祖父といっしょに出口のない石壁の円形の部屋に閉じ込められる白日夢を見る、とか、幻想的なカットも豊富です。

このように、重厚な主題を超越せんとするかのようにユーモアと幻想を武器とするのは、もしかしたら製作がまだ厳しい体制下であったことによるのかもしれませんが、非常に東欧的なものを感じます。
映画でいうならばたとえばヒティロヴァ『ひなぎく』などを思い出します。また小説ならばゴンブロヴィチ『コスモス』、ストルガツキー『滅びの世界』のような世界かもしれません。
それらの作品のもつ、腹の底に響くような表現世界を、この映画も持っていたと思います。

おまけに、この映画、最後に「ええっ?!」とおどろく、いわば禁じ手を使っています。これは一瞬、ありえんだろう!と心の中で叫びましたが、よく考えると、まだ懺悔はなされていない、はじまってすらいないのだという、強烈なメッセージだったのだと思いました。



上映時間は2時間30分を超え、お尻が痛くなりつつも、この世界の悲痛さに笑い泣く時間でありました。

******

タイトルバックのグルジア文字が不思議~見慣れない~
スタッフ/キャストをみると、監督のアブラゼさんをはじめ、○○○ゼ、とゼで終わる姓の人がすごく多い。


岩波ホールものすご~く久しぶりに行きました。
昔は時々行っていたのに。
今日(29日)はなんというか、客層の年齢はかなり高め~で、
う~む、そういう映画館になっているのか?岩波ホール?
(しかも結構満員)


神保町にも久しぶり~なのでちょっと散歩したが
古書店はほぼ店じまい
ひさびさに「さぼうる」にでも寄るかと思ったけれど、なんだか気後れして
ドトールにしたよ^^;
スタバとかAnd on andとか出来ていてびっくり。
「書泉グランデ」をちょいと覗いてから帰りましたとさ




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「写真屋・寺山修司/摩訶不思議なファインダー」展第1期

2008-12-29 21:12:14 | art
寺山修司の写真ワークスの展示があったので行ってきました。

「写真屋・寺山修司/摩訶不思議なファインダー」展
@BLD GALLERY


もう第1期の展示は終わってしまったようですが、年明けから第2期が始まります。(1/9~2/28)

寺山修司についてはいろいろと知っている割にはよく知らないのですが(なんじゃそりゃ)短歌や映画や芝居やとくれば当然写真だってやっているだろうに、あまり寺山の写真というのは意識したことがなかった。

で、それなりに想像して向いましたですよ。あの天井桟敷みたいな面々が、異形・奇形をさらしつつ廃墟とか場末とかいう雰囲気のところでポーズをとっていることだろうと。
で、行ってみたら・・・まったくそのとおりのイメージが並んでおりました^^;

期待通りなんですけれど、期待通りにしても一定水準のインパクトがあるだろうと踏んでいたのですが、意外にも、写真としての彼らは、おとなしく、企図され、予定調和的にフレームに納まっていたのです。

もしかすると写真においてはその枠組破壊的な寺山パワーはそがれてしまったのかもしれません。とするとこれは結構由々しき問題で。何故写真だけがかれの想像/創造の発露をかくもたやすく馴致してしまうことができるのか?これはよく考える必要がありましょう。。

同じようなイメージであっても、横尾忠則や丸尾末広の提示する画像のほうがその禍々しさに満ちています。やはり絵というものは想像力の本質をぐっとつかむことができるのでしょうか。必要なものは描き、不必要なものは排除する。意識無意識の強権が表現をコントロールします。

しかし写真というものは、どんなに構図や被写体を選ぼうとも、そこには意図するもの以上の情報を含んでいます。ロラン・バルトを引くまでもなくそれこそが写真のもう一方の深淵でもあるわけですが、寺山はその写真の深淵に踏み込むことを意識していなかったのではないかと思われます。あの寺山とあろう人が、あくまで選んだ構図、選んだ被写体、選んだ表現内容としての写真を追求してしまった結果が、このなんともいえぬワタシのちょっとした落胆なのではないでしょうか。

それが証拠に(?)パネルの写真とは別に、写真をいろいろな素材(色紙、銀紙、あるいは写真を壁面や人物などに映写したものを再度撮影、等)で変調した試作物が展示されていましたが、そちらの、写真から離れていった作品群のほうがよほど面白かったのですから。



・・と思いつつも、一方では、これまたバルトがいうように、写真の深淵が口開くのはとことん個人的な体験である、ということも思い出しています。今回のワタシの失望は、寺山ばかりに問題があるのではない。ワタシの個人的な像体験として成立しなかっただけ、でもあるのでしょう。
なので、観る人によっては、トラウマのようにあれらの写真を見ることができるのかもしれません。


写真は面白く、ときに近寄りがたい。

****

とかいいながらこれは購入しました。
写真屋・寺山修司―摩訶不思議なファインダー

フィルムアート社

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バルトの名著
明るい部屋―写真についての覚書
ロラン バルト
みすず書房

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「残菊物語」溝口健二

2008-12-28 15:17:22 | cinema
残菊物語 [DVD]

松竹ホームビデオ

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1939日本
監督:溝口健二
原作:村松梢風
脚色:依田義賢
出演:花柳章太郎(尾上菊之助)森赫子(お徳)


すばらしいメロドラマ大作でした。
「終」の文字がでたとき、思わず手を打ち鳴らし、「よっ!溝口~っ!」と叫んでしまった。(心の中でね(深夜だったもんで))
芝居が題材の映画だし、そうした声援がとてもよく似合う。

尾上の名を継ぐ若旦那の菊之助、名優のおやじさんとの共演舞台だが、おやじさんからボロクソにいわれるほどの大根。しかし取り巻きたちは名前と血筋だけみてちやほやする。菊之助だって自分の技量はわかってる。周りはみんなおべんちゃらばかり言う。面白くない。
そんなある日、菊之助は弟夫婦の子供の乳母であるお徳と道で出会う。お徳は、怒らないでくださいねといいながら、若旦那の芸はなってない、と本当のことを言う。夜遊びもいいけれど本道の芸のことをお忘れになっちゃ行けません。菊之助はこれにいたく感じ入り、修行に励む心を持ち、そんなきっかけを与えてくれたお徳を大切に思うようになる。
しかしそうした思いは人々の口に上るようになってきて、名家のぼっちゃんが奉公人にたぶらかされたとか、本人たちの純情をよそに噂が噂を呼び、とうとうお徳は暇を出されてしまう。
それを知った菊之助、せっかくやる気が出て来たものを、もうこの家にはいられん。とばかり、関西へ芸の修行の旅に出る。
決意とはうらはらに上方芝居でもさんざんな評判をとってしまう菊之助
だったが、ある晩芝居を終え外に出ると、連絡の取れなくなっていたお徳の姿が・・・
家人のいましめをふりきって一人菊之助を追って出て来たお徳でありました。以降お徳の献身的な支えを得る菊之助だが、芝居の道は険しくなる一方であった・・・


というようなお話ですな。

献身を絵に描いたようなお徳の心意気には非常に打たれるものがありまする。
ただ尽くすだけでなく、旅回り一座に身を落とし性格がネジ曲がろうとせんばかりの菊之助を時には叱咤し、時には懐柔し、ひとえに菊之助の芸の向上のみを考える芯の強い女の姿でもあります。

結局お徳はその志を貫くことで、菊ちゃんの芸はよくなるし、尾上の旦那さんの許しも得つつ、しかし最後はああいうことになるのです。
決して現代的な個人としては描かれていませんが、身を犠牲にして尽くしたというよりは、利他的な愛情を持ち、相手の自己実現を己の自己実現と同一視したということで、決してお徳は不幸な人間ではありませんでした。こういう自己実現のあり方も決して間違いではない。一見封建的な感じがしますが、ある意味現代に有効な生き方の処方なのかもしれません。これは悲劇ではなく、志の成就の物語なのです。

****

溝口的なワンシーンワンカットはすでにこの時代には確立されていました。それに手の込んだセットの内部を、レール移動でしっかり見せてくれるサービス精神や、逆に荒れ荒んだ地方の田舎芝居小屋の殺伐としたセットに冷たい雨が降る・・などといううら悲しい暗いシーンではしっとりと暗い室内を撮る、動と静を使い分けた演出がすばらしい。

特に菊之助が落ちぶれるにつれ、どんどん室内は暗くなり、動きは緩やかになり、ついには菊之助は横になり居眠りしながらすねたりしてしまう、そういうコントロールは計算したものか野生のカンか?

となると、後段、菊之助の復活にともなって画面は活気をとりもどしてくるわけで、それはそのままラストシーンの舟、提灯、花火、人々の熱気、へとつながっていくわけです。最後は哀しいけれども、しかしなにごとかの成就した瞬間を皆で祝い上げるシーンともなっているわけです。見事なもんです。

あまり有名な作品でないような気もしますが、金も労力もかけた秀作かつ、後の50年代の溝口につながるタッチを持った作品だったと思います。



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「父親たちの星条旗」クリント・イーストウッド

2008-12-27 22:19:25 | cinema
父親たちの星条旗 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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2006アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
製作:スティーヴン・スピルバーグ、クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ
原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)

年末に至り、書く気力がまったく失せてしまったワタシでございます~
が、まあ気張らずに論旨も結句もいいかげんでいいんだよという気持ちで書けばいいんだよなと思い、書いてます。

いや、別に普段からそんなに考えて書いてるわけじゃないんですけどね~

****

『硫黄島からの手紙』が回想場面を除き終始戦場である硫黄島の基地内のシーンであったのに対して、本作では硫黄島での戦いのシーンだけでなく、後日に本国で英雄として祭り上げられる様子にも多くのカットが費やされる。
ほぼ孤立無援の部隊で行われた日本側の戦いが当然「現場」で完結してしまうのに対し、物量を誇る米軍では逆に本国の思惑も戦場のありように影響を及ぼす。例えば、擂鉢山に立てた星条旗もすぐに政治家の横やりが入り後にしかるべき記念品として残るように降ろされる。また、代わりに二度目の旗を立てた時の写真が有名になり、写真に写っていた者のうち3人が英雄に祭り上げられる。彼らは国債購入キャンペーンに利用され、戦場での悲惨な体験とはあまりにかけ離れた本土でのお祭り騒ぎを体験する。

アメリカにとっての太平洋戦争は、資本や政治の平常時の論理と戦場の非常時の悲惨が混濁する戦争だったのだろう。そしてそれは、本土が戦場になることのない優勢な側にのみ可能な混濁だったのだ。

その混濁は冒頭のあるシークエンスで象徴的に示されていた。
照明弾の降りしきるなか岩山を登り、旗を立てる3人を背後から下から追うカメラ。だれもが戦場と思うシーンだが、カメラが山を登りきると山の向こうに広がるのは巨大なスタジアムに満場の観衆の声援。鳴り止まぬ花火。戦場とショウビジネスの同居を象徴的に表すシークエンスだ。
以降映画は、狂騒と悲惨の有様を、本国での「英雄」3人の生き様と、硫黄島での上陸戦の様子とを細かく交差させてみせる。この二つの世界のあまりのギャップに気が遠くなりそうだ。

*****

敗者に映像はない、とは大島渚の弁であるが、この映画も一枚の写真をめぐってアメリカ側から観た戦争の虚実を展開する点で、まさにその言葉を思い出させる。
アメリカの硫黄島が映像の喚起する多様な説話で彩られたとするなら、一方日本の硫黄島は、現場で完結してしまう、イメージを欠いた孤立戦だったのだ。

ラスト近く、ドクの言葉として、
もし彼らを讃えたいのなら、ありのままの姿をみることだ
というようなことを言っていた。
これが最大のメッセージとなるだろう。

戦いを、像ではなく実としてとらえよ。
これは戦争についてのメッセージであるとともに、現代マスメディア論でもある。


ま、こんなとこにしとこう。





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「ロクス・ソルス」レーモン・ルーセル

2008-12-25 02:55:31 | book
ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)
レーモン ルーセル
平凡社

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読みました。
これも20年くらいまえから、いつか読んでやろうと思っていたものです。
最初ペヨトル工房から訳書が出て、その後入手困難だったのですが、いつのまにか平凡社ライブラリに入っていました。
もっともこれも滅多に本屋さんの店頭で見かけないんですけどね。


レーモン・ルーセル1914年の小説。
これまた先入観でそうとうな奇書を想像していましたが、ちょっと違いました。
いや、奇書であることに間違いはないんですが、なんと言えばいいのか・・奇想に満ち満ちていながら、その文体はあくまでも質素でまっすぐ。奇想を伝えるのに、もっとも簡素で適切な言葉を選んで選んで書いた、という印象です。

この小説の内容をあっさり要約したことばが、訳者解説にありましたので引用します。

「パリ郊外モンモランシーに住む科学者マルシャル・カントレルが、その広大な邸内に設置した発明品の数々を、一群の人々が数時間にわたって見てまわるだけの話である。」

(笑)

ほんとにひたすらそれだけなのです。人物がなにをしでかすでも無い、ひたすら発明品などが動くさまを克明に描写し、そのあとでいちいちその発明などがどのようなことに由来し着想を得たかという一種の種明かしが行われる。それだけで長編小説になっているのです。

ただその描写と種明かしが、実に凝っている。一見まったくもって用途も目的もわからない構造物が、実は、実に豊潤な背景と目的を持っていることがわかる。その関連するエピソードが非常に魅力的なのです。

しかもそのエピソードは挿話内挿話のような形で入り組んだ構造になっていたり、あるいは歴史上のエピソードから科学的知識まで幅広い知見を盛り込んだもので、なにやらただごとではないのです。



解説によると、ルーセルは小説を書く際に、ある「方法」を用いたと、死後発表された遺言的著作で告白してるそうです。
それは、小説の着想を得るのに、言葉遊びのような方法をとっているのです。
たとえば、ある一文を適当に考えて、さらにそのなかの単語を、似ているがまったく意味の異なるものに入れ換えてみる。すると文全体の意味が変なものになっていく。
そのような、入れ替え、ずらし、分解のようなことをやって生じた奇抜な意味作用をもとに小説を書いてゆくのだそうです。

内容は違いますが例えばバロウズなどのカットアップとか、マラルメの詩とか、そういう類いの文章の冒険に似たものを感じます。

しかもルーセルの場合はその出来上がりが、先にも述べましたが、奇想に満ちつつも透明な文体、というなんとも不思議な仕上がりになるのが興味深いところです。


発明品の描写ですから、視覚的なものを言葉で説明していて、読みながらそれをイメージするのにすごく難儀する小説であります。
なので読むのにすごい時間を要しました。
でも、なるべくその描写を読み取って頭の中に像を描いてから、種明かしを読むと、その背後の物語がいっそう魅惑的になるように思えました。
忍耐を要しましたが、それだけの価値はあったなと。


****

ルーセルはこの小説で名声が得られると思っていたようです。(汗)
新聞で連載し、自費出版もしましたが、いっこうに売れず。
そこで、彼はこの小説を芝居にして上演することにしたそうです。
上演は1922年。そのころのパリは舞台もののスキャンダラスな伝説に事欠きませんが、この芝居も、ものすごい拒絶の一方で、シュルレアリスト、ダダイストの熱狂的な支持を得たようで、上演は大混乱を引き起こしたということです。ブルトンは逮捕されたりしたらしい。

死後ルーセルの小説はフーコーやレリスの支持を受けつつ、それなりに評価され、かろうじて日本でも訳書を読める状況になったわけです。
いや、よかったよかった(?)

****

クエイ兄弟の新作映画『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』の元ネタのひとつでもあります。が、映画では直接的にこの小説からのエピソードはありません。ただ、屋敷に科学者が独自の世界を構築しているということと、数々の自動機械のイメージが影響を与えているのだと思います。

それから思い出すのは、アメリカ人で日本びいきのアヴァンミュージシャン、ジョン・ゾーンのアルバム「ロクス・ソルス」です。
あのアルバムがどれほどこの小説と関わりがあるかはわかりません。CDを引っ張りだして確かめてみようと思いますが、ウチのCD棚はジャングルになっているので、すぐにはできませんので後日に(苦笑)




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眠れんのでチャットモンチー

2008-12-24 04:21:41 | music
風吹けば恋
チャットモンチー,高橋久美子,橋本絵莉子
KRE(SME)(M)

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すっかりチャットモンチー好きなmanimaniですが、
今夜はクイーンと坂本龍一を聴いたらなんだか眠れなくなってしまって
布団からまたごそごそはい出してブログいじり。

チャットモンチーのインディーな時代の音源は
某youtubeなどで聴けるのだが、
音楽の初期衝動のままに、定型であることを拒むような音楽だ。
構成もアレンジも全く荒削りで、ただパワーに満ちている。

メジャーデビュー後の作品たちは、年を追う毎に
洗練され、ポップになり、またパワフルにもなっている。
この傾向に対して昔からチャットを知っている人々の中には
つまらなくなったという感想を持つ人もいるようだ。

まあ大概メジャーデビューしたバンドにはこういう評価が往々にして起こる。
スピッツなんかも、ファーストで彼らは終わった、とかいう人もいる。
(全然そんなことはない。)

メジャーで売れていながら、独自のスタイルを発展させるというのは
すごいことで、
独善的にならず、しかし自分が納得するスタイルを形成していくというのは、
ひとつの道の極め方として必要なスタンスなのだと思うし、
そういうものを感じさせるバンドをワタシは気に入るのだと思う。

原初の衝動の力の価値はもちろん認めつつ、
メジャーという切磋琢磨のなかで磨き上げるものにも
すばらしいきらめきがまた別の形で存在することを見過ごしたくはない。
という意味で、ワタシはあえてポップでキャッチーな現在進行形チャットをすばらしいと言いたいと思うのだ~




などという前置きはまあいいとして、
チャットモンチーの最大のキラーチューンは今のところ
「風吹けば恋」
だと思う。

サビはたしかCMかなんかに使われて、うちの子供でも知っている。
非常にキャッチーなサビであって、これ以上はないくらい洗練されたメロディラインと溌剌さを持つ部分。

それに対していわゆるAメロ部分はというと、これが結構アヴァンギャルドな感じなのである。
ギターのコードとベースとの和声は、ワタシにはどうなっているのかわからない。
そのうえ、ボーカルのラインはどの調にもとづくものなのかわからない。
とっても不思議な調性のロックなのだ。

この感覚は、ビョークの1stアルバム1曲目でボーカルが出た瞬間に感じるものに似ている。

そのうえ、この無調っぽいAメロから、突然の上昇パッセージをボーカルが歌うと、その先は極上のポップな世界につながっている、というのがすごい。
なにやらすごい感激しちゃうのだ。

(これまた思い出すのは、マライアの曲名わすれちゃったが70年代にCMで有名になった、マライアで唯一メジャーな曲。(マライア・キャリーじゃないよ(笑))
あれもサビのいい感じがサギじゃないかというくらいAメロはかっとんでた。)

アヴァンポップというのとはまた違うスタンス。二つの要素を1曲のなかでぶつけてしまうというのが、チャットなりの洗練の形なのだ。

今はシングルで発売中だが、きっと次のアルバムに入るんだろうな。
来春発売らしいです。NEWアルバム。



というわけで、橋本絵莉子ちゃんはすごくカワイイと思う^^;
カワイイだけでなく、ギターをちゃんとコントロールして弾いている。
上手いとかいうのとは違う、真摯な感じ?


もちろんベースのあっこもドラムのくみこんもかわいい。
いや~若いのによく練習して上手い。
よしよしと褒め讃えたい。(もはや親のような気分(笑))




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「チェチェンへ アレクサンドラの旅」アレクサンドル・ソクーロフ

2008-12-22 23:40:03 | cinema
2007ロシア/フランス
脚本・監督:アレクサンドル・ソクーロフ
撮影監督:アレクサンドル・ブーロフ
音楽:アンドレイ・シグレ
出演:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、ヴァシリー・シェフツォフ




観てきました。
途中例によってウトウトしてしまったので、それほど語る資格はありませんが、
それでもなんというか、妙に感動して帰ってきました。

冒頭、老女が難儀して貨物列車か護送車かというような列車によじ上るところから始まって、目的地に着くともはや降りるための踏み台すらなく、兵士たちの助けをかりてかろうじて降りるところ、装甲車の屋根の上に文字通りよじ上り精根尽きるところ、と、知性も気力も愛情もありそうな母性が、いかにも場違いなところへなにか強い意志でやってくる、そんな姿を見るだけでなにやら深く感じ入るものがあります。

それをまた、色合いを抑えたソクーロフ的セピアな風合いの画面が、前線のホコリや熱気を感じさせつつ、どちらかというと無感動な手つきで老女と兵士の出会いを無骨に写し収めているところもまた、じんと来るものがあります。

職業軍人として部下を率いている孫との再会も、そんなに湿っぽい場面ではありません。どちらかというと、お互い自分と相手は対等だと思っているので、かける言葉も気遣いもぶっきらぼうです。
それがまたよいのです。老女は戦場の論理を代表する孫やその上司に、「建設はいつ学ぶの?」「人を殺したの?」と、素朴かつ無遠慮な質問を投げかけます。そのとき、戦場の論理と、それに関わらず普遍の隣人愛のようなものに生きる存在が何の仲介もなくふとそこに同居するのです。
それは老女が駐屯地から外に出て市場で出会うチェチェン人の女性たちとの交流でいっそうクローズアップされますが、大文字の歴史、男の作る世の中、政治、そうしたものがある一方で、それとは異なる生命の論理があるのだということを、対立でも問題提起でもなく、一種の美学として現前させている(というと語弊があるかも?)、そんな思いで観ました。

また、最も美しいシーンというべきなのは、孫デニスが祖母の三つ編みの髪を編み直すところでしょう。三つ編みをほぐすアップ、そして三つ編みを編み直すアップ。鏡が汚れているとかなんとか他愛無いことをいいながらも、このときふたりの心は一時ほぐれ、以前の一緒に暮らしていたであろう時のふたりに戻るのです。
泣けましたね~
ここではデニスは軍人としてのジレンマを告白し、祖母アレクサンドラは老いと孤独についての苦しみを語ります。
しかもそれもまたまったく場違いな出来事なのです。この場違いというキーワードが、この映画の深さのなにものかを物語るような気がしてなりません。



この訪問も、デニスの突然の出立で急に打ち切られます。
帰路につくためにバッグを引きずりながら土の道を歩く姿をカメラはずっと追い、その横をおおきな車両が兵士を乗せて荒々しく過ぎてゆきます。最後まで老女のいる風景はそこでは異質なものでした。列車にまた難儀して乗り込み、別れを惜しむ市場の女性たちに手を振り、列車は動き出します。列車から動き出す風景を写すカメラのその運動にまたじわりと涙するワタシでありました。

ソクーロフらしく(というほど彼の作品を見ているわけではないですが)人間の芯のほうにある濃縮された美しさを一瞬かいまみせるような、感動的なフィルムだったと思います。

ウトウトしちゃったところが気になるので、もう一度観るかも・・
(と思ってとうとうユーロスペースの会員になっちゃった^^)


【追記】
三つ編みを編むシーンはたまたま前夜に観た侯孝賢『百年恋歌』でも印象的に使われていて、思わぬ類似にまた心打たれる。こうしてふと全く違う映画同士が似るところを観ると、昔聞いたことのある、形状がワニの頭にそっくりなセミがアフリカかどこかにいる、という話をついつい思い出してしまうのだったw


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「硫黄島からの手紙」クリント・イーストウッド

2008-12-21 23:38:12 | cinema
硫黄島からの手紙 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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2006アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ
脚本:アイリス・ヤマシタ
出演:渡辺謙、二宮和也、伊原剛志、加瀬亮、松崎悠希、中村獅童、裕木奈江


二宮くんの活躍を見ようと思って借りてきましたが、もちろんイーストウッドの監督の具合も気になりましたし、イーストウッド+スピルバーグ製作というものがどのように形になるのかも気になりました。

脚本には日本名の方がついているようで(日系ですかね)、日本人たちの会話はほとんど不自然ではありませんでしたが、普段我々(日本人)がイメージ/記号として持っている日本の軍隊(特に陸軍)のありかたと比較すると、かなり兵隊個々が意外な自主性をもって行動/発言しているように思いました。

二宮くん演じる西郷も、もちろん仲間内ですが、こんな島アメリカにくれてやれば家に帰れる、とか、かなりな放言をしていて、皇国の民としての自覚がある人間ではないように思えました。当時、個々の兵隊さんがどれほどの意識でいたのかは勉強不足でわかりませんが、実際このような人間もいたにはいたことでしょう。

そういう意味では、紋切り型を避ける、個人の内面に迫る、という、現代的ヒューマニズムの原則を持って臨んだ映画製作だったのだろうと思えました。それは特にステレオタイプな日本兵の像を抱いているものにはなおさら感じられるでしょう。

***

元としているのは、主人公格の栗林隊長が遺した絵手紙ということなのですが、その遺物からどの程度硫黄島での状況が再現できるのか、これまた不勉強で知るところではないのですが、おそらくは西郷の振る舞いなどは創作なのでしょう。おそらくは当時を知る日本人には創造できなかった人物像であり、かつ戦争を知らない世代もいいところの二宮くんのような俳優が、コスプレすれすれの境界で演じることでしかあの人物像はなし得なかったでしょう。

あの人間像が、これまで積み重ねられてきた戦時中の日本人の像をさらに追記上書きされて、今後の像にどのように影響を与えたでしょうか。後世の人はこの映画をみて、戦時中の日本兵はどのようであったと推測するでしょうか。今はまだ見当もつきません。

*******

硫黄島での日本兵のありかたは、合理的な発想をする指揮官を迎えながら、精神論を重んずる将校たちがそれを疎んじ、指揮命令系統が機能しない集団として描かれ、その結果無益な自決や成敗が行われるという風に描かれます。
もともと物量や後方支援も足りていない絶望的な戦いだったことも描かれます。

そのなかで、栗林の絵手紙や、西のオリンピックでの乗馬の逸話、西郷の家庭の回想、清水が憲兵隊を除隊になったエピソードなどにより、兵隊たちにもひとりひとりのかけがえのない人生があることを印象づけます。オーソドックスなドラマといえばそうなのですが、やはり、やっぱり戦争は人のただひとつの人生を丁寧にひとつずつひねりつぶしてしまう、残酷なものなのだと実感せざるを得ません。

特に演出上でも抜きん出て印象深いのは、負傷したアメリカ兵の持っていた手紙を西が訳して読み上げるところです。栗林の絵手紙や、ときおりナレーションの形で示される西郷の妻への手紙と、作品のタイトルが示唆するように、「手紙」がこの映画のバーバルなメッセージを担っているわけですが、アメリカ兵の手紙によって、鬼畜米英の手紙は俺たちの手紙と質的になにも変わらないじゃないかということを日本兵は実感するのです。
このことこそが唯一この負け戦がもたらした明るい側面なのかもしれません。
ここで敵兵同士のこころの交流などを描かず、手紙のみを媒介としたところに演出の冴えを見ることが出来ます。

なにしろ、心の交流どころか、この映画ではアメリカ兵を、投降兵を無惨にも射殺してしまう存在として描いてさえいるのです。本質的に同質なもの同志が、決定的に相反しあうことの悲劇を、この射殺と理解の併置で示しているのです。最初はあの射殺シーンは不要なのではないか、後に捕虜の遺体を発見するシーンさえあればすべては描けるので、全くムダなシーンではないかと思ったのだが、そうではなかったなと今は思う。

****

あと、はっとしたのは、西郷が憲兵上がりの清水への疑心を解き、理解を示すシーンで、理解のしるしに無言で西郷の帽子を清水にぱさっとかぶせるのです。
帽子のやりとりが映画史的に親密さの交換の徴であることは、某ハスミ師の著作でも指摘されていましたが、それがまさにここでも再現されています。そんな史的なことを知らずとも、この交換が十分に和解を示していることを画面は伝えていて、なんとも感動的です。
帽子のシーンはトレイラーでも使われていたので、DVDで見る場合はトレイラーにも注目です。


さて、ニーノくんはどうだったでしょうかねえ??
やっぱりコスプレ寸前的なぎこちなさ、しっくりこなさがあったように思います。21世紀の青年が60年前の人間を演じていることは隠しきれなかったようです。
それによって新しい人間像を与えたかったのかもしれませんし、それであればある程度の成功を収めていたでしょう。

むしろ本当に浮いていたのは、中村獅童ではなかったでしょうか?(笑)
すこしもお国のために死ぬことこそ兵隊だと信じている風に見えませんでしたが、どうでしょう?

よかったのは、というか、好きなのは、西郷の妻を演じた裕木奈江。いや、今や世界のNAEなんでしょうか?本当に悲しんで涙をぼろぼろ流していました。泣きゃいいってもんではないですけども、ほんとうに生きている人間に見えました。
そもそも裕木奈江って好きなんですよ。あのきれいでも上手でもないけどなんかなまめかしいって感じが。いかにも日本で受けなさそうでしょ?^^;
彼女や工藤夕貴とかがもっと活躍するような日本映画界(そんなのがあるとして)だと面白いのに。


一応第1弾は『父親たちの星条旗』で、本作は第2弾になっている。
ワタシは先に第2弾をみたけれど、それが正解だったような気がしている。



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頭がいっぱいになってきたのでガス抜き

2008-12-20 22:47:08 | diary
このところ映画については
書くほうが観るほうに追いつかないという幸せな状態になっており、
まあ、言うことはないんですが、
誰に乞われているでもないのになんだか焦って書かなきゃ!とか思っていて、そういう自分もなんだかアホくさくなり、ここらでくだらんことでも書いとくかな、ということです。

今日は休日特典で午前中朝寝をして、昼過ぎから家で侯孝賢(ホウ・シャオシェン)『百年恋歌』を観ていたら、また眠くなってうとうと。
そこへ外出先から下の子が戻って来て、「あれ?今日ぐぎぐぎは?」
「あ!しまった!!ほよ~~」

と、ばたばたして「ぐぎぐぎ」に出かけたのです。
「ぐぎぐぎ」とはカイロプラクティックを指す我が家用語。
15時に予約していたのに、15時15分になってもワタシはDVDかけながらウトウトしていたのでした。

あわててカイロの先生に電話し、「忘れこけておりました、4時からは空いてますか?」とかいって、時間変更。
自転車で猛烈ダッシュして坂の上の医院まで。

そしてカイロに着いて(エジプトじゃないよ)最初に血圧計ったら、153/75とかいうえらい数値!
う~む、これは自転車坂道ダッシュのせいではないですかねえ?といいながら、あながち高血圧はあり得ないこともない最近のメタボ体型なワタシ。ちょっと心配。

家に帰ってよせばいいのにおなか周りを久々に計測したら、なんと史上初100cm超え^^;
どおりで最近ズボンがきついわけだ。というか、上着系まできついし;;

というわけで、いつもいつものことながらあらためて高らかにダイエット宣言!!をしてみたものの、とりあえずなにをやろうかな??とか言ってるうちに今日は終わらんとしている。

夕ご飯は控えめにしようと思っていたが、家族が、炊きたてご飯に、お昼にマカロンを作ったときの余りの卵黄を乗っけて食べるの図に幻惑され、結局ワタシもタマゴがけご飯を食らう。美味なり。う~む。ダイエットは明日からだ。

そんなこんなで夜も更けつつ、派遣切りに内定取り消しなんていう時勢に幸福なことである。製造業等への派遣を許したのはまさにこういう事態のときに容易に企業体保全が出来るからだったのであって、いまごろ問題にしてもそれは遅いだろう。派遣法の改定のときにこういう事態を見越してもっと騒がなければいけないのだ。社会の仕組みとして他人事と思ってはいけないのだが、幸運にも我が家に世界同時不況のしわ寄せはまだ来ていない。


侯孝賢は『レッドバルーン』を見逃してしまったが、あれはどんなもんだろうか?
『百年恋歌』はまだ途中までですが、わりと好きなタイプかも。
エドワード・ヤンもすばらしかったし、台湾系は合うのかも。

あとは『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』『勝手にしやがれ』『残菊物語』『夜の女たち』coming soon!よ
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「台風クラブ」相米慎二

2008-12-20 00:14:28 | cinema
台風クラブ [DVD]

パイオニアLDC

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1985日本
監督:相米慎二
脚本:加藤裕司
撮影:伊藤昭裕
出演: 三上祐一、紅林茂、松永敏行、工藤夕貴、大西結花 他


この映画を未見でいることに、ちょっとしたもったいつけというか「美味しいものはとっておく」的気分でいたのだが(20年も)そろそろ食うべきかなと思い鑑賞。

で、これは面白かった。
こんなことあり得ないだろう~とか思う人には向かないが、
それでもワタシ的には、とても「あり得る!」と力説したい内容でありました。

自分も一番クレイジーだったのは中学生の頃だったと思うから。

*****

台風(豪雨と強風)、夜、学校、中学生男女
と、アイテムとバックグラウンドがそろってしまえば、
そこは自ずと普段は抑圧している様々な軋轢がむくむくと顔を出すエネルギーの場となるだろう。
それはもちろん論理的な行動になどつながりようもなく、なにものかに突き動かされて、いや、あるいはなにものにも突き動かされずに、頼りなく炸裂する若い命のつぶやきなのだ。
それをあたかも目前で見てしまったかのようにカメラはひたすら凝視する。

無形の情念のようなもの。
若くてそれがゆえに御されることに慣れていない無意識。
そういうものを記号化しない。
ただ、現象を凝視するだけ。
見つめること。

馴化されないもののそのままのうつろいを
まさに見つめるようにしてワタシたちも目撃する。

それは事件ですらない。
観客は目撃者となる資格すら与えられない。
ただ見つめるのみである。

そんな映画はなかなかない。

*****

凝視のときには緊張するものであるから
やはり非常に緊張した。
人物はみな屈託なく振る舞っているようだが、
実は屈託のない人物など一人としていない。
台風の夜に向ってなにかが不可逆的に移ろっていることに
その屈託は敏感に反応して
画面上にぴりぴりとした痙攣をおこす。
ときに揺れ動きときにしっかり据えられるカメラの不安な所作にすくいとられた緊張感は確実に観客に伝わるだろう。
その緊張、その不安こそこの映画の成功だろう。

工藤夕貴の折れそうな細い肢体。
大西結花のあどけない色香。
三上祐一の聡明と未熟。
美しく汚らしい若さを見よ。

***

三浦友和が、とても尊敬できない、しかしきわめて平凡な人物を好演している。
このひとはどう考えても二枚目よりはこうした人物を演ずるほうが魅力的である。

ディレクターズ・カンパニー+ATG映画。

中学生がタバコふかしまくる映画だから文部省推薦とかはないだろうと思っていたら、85年の東京国際映画祭で「都知事賞」というのを獲っている。85年は鈴木都政二期目。太っ腹?

のちに声優として活躍する渕崎ゆり子も出ています。

ラストの足二本は金田一シリーズへのオマージュか?

とにかく豪雨を突っ走る女生徒というフォトジェニックは後に山下敦弘『リンダ・リンダ・リンダ』にしっかり受け継がれていただろう。

あ、そうそう、バービーボーイズ(なつかしい)の曲が2曲ほど使われているが、思いのほかアグレッシヴな作風で軽く驚く。

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「近松物語」溝口健二

2008-12-17 21:39:19 | cinema
近松物語 [DVD]

角川エンタテインメント

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1954日本
監督:溝口健二
原作:近松門左衛門
劇化:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
出演:長谷川一夫、香川京子、南田洋子、進藤英太郎


文句なく面白い!

えらい羽振りのいい商家の嫁と使用人
ほんの小さな火種から、ことはあれよあれよと思わぬ方向に広がり、
誤解が誤解を呼び、配慮が裏目裏目に回り、
ついには不義密通の嫌疑をかけられることに。
しかもその不義密通はぬれぎぬから本物になってゆく
それに商家の事業を横取りしようとするくせ者の思惑もからまり
最後には物語冒頭には想像もできなかった結果に
人の世の定めとはわからぬものよのう・・・

日本的な間を保ちながら、しかし展開はリズミカルで
かつ大胆なので、思わずぐいぐい引き込まれる。
ショットも構図も光も粗がなく今日をそがれることがない。
近松門左衛門のストーリーテリングが溝口の妙技で生き生きと現前した。
スローライフの時代のジェットコースタームービーである。

そもそも何のとがもない奉公人茂兵衛。一番ひどい目にあっているってえのに、ただひたすら家の主人の妻であるおさんのためにと、なにも恨むことがない。
二人は実は最初から惹かれ合っていたところへ、ひょんなことからの逃亡劇の間に互いの愛を確認し合う。そこからのひたむきな純愛。
いや~泣けますな~~

それだけじゃなく、ことの発端となったおさんの兄は、そんなこととはつゆ知らず三味線なんか弾いてのんきなもんで。
不義密通だってそもそもが商家の大旦那が女中に手を出したのがきっかけなのに、本人は全くもって反省もない。
とっさに場を言い繕い、かえってことをややこしくした女中お玉も、あっさりと中盤で退場してしまう。

全然勧善懲悪になってないし、悲劇なんだけどあの状況でなし得る唯一の愛の成就として描かれるハッピーエンドでもある。
この単純でないところがなかなか味わいがあってよろしい。

*****



しかしなあ、
なんであの最初のところ、お金をだまし取ろうとしたとこで、
正直に旦那さまにいっちゃったんだろうか。茂兵衛さん。
黙っときゃよかったんだよな。そもそも奥さんのためだったんだから。

それに旦那がそれを聴いてブチ切れたときに、おさんが正直に話していればあんなことにはならなかったのだよ。

とか、見たものをやきもきさせるのも、この物語のツボなのかもね。

****

長谷川一夫の妙に濃い顔立ちは、逃避行には目立ってしょうがないよ(笑)
あの顔だけはちょっと嘘くさかったが・・
長谷川一夫の初登場シーンが風邪ひきの床からむっくり起き上がってこちらを振り向く、というのはなかなかよかったな。

おさんの香川京子はよかったな~
お金持ちの奥様然として登場したのに、だんだん人間味を帯びて来て、
最後には愛と死、エロスとタナトスの間で恍惚とした表情を見せる。
あれが演出だとしたら、演技だとしたら、すごい計算である。

お玉の南田洋子は、途中から急に出番がなくなって、言い訳のように退場シーンが用意されている。そのシーンではお玉の言い分が実は嘘だったことが証明されるのだが、それもさして重要なことでもなく、なんだな~あれは南田洋子の売り出しだったのかしら?
・・・と思ったが、南田洋子は前年の53年に9本以上の映画に出ている。
すでに売れっ子だ?


溝口作品では別れの場として出ることの多いという水上の舟だが、
ここではまさに今生の別?と思わせ、逆に愛の確認と燃えるような生きる意思の発現の場にすり替わる。これも面白い。
しかし水と舟を幽玄いっぱい上手く撮るよな~~

おさんが捕われるシーンでの、画面奥へ去るおさんをのせた籠と、手前で組み伏せられる茂兵衛、というような、画面の奥行きを上手く使う構図もお見事!

それから、サウンドトラックがすばらしす。
古典芸能系の音響なんだけど、ここぞというときにいつの間にか忍び寄るように音が鳴っている。説話に奉仕しつつも、それはハリウッド的従属とはひと味違う。

*****

人物の立ち振る舞いや、ちょっとした挨拶や鼻歌なんかにも
いまではなかなかなしえない日本がかつて持っていた文化を感じる。
日本は豊潤な文化を持っていたことは言うまでもないことだが、
それらを継承することのない今の日常との距離は
っもはや相当に遠いと感じた。

日本映画がこの豊潤を取り戻すことは決してないだろう。
善かれ悪しかれ、断絶は厳然としてあり、
日本映画も断絶後の空気を生きる他に道はないのだ
たとえば、マキノの名に賭けてその断絶を修復しようとし、南田洋子の夫長門裕之が出演したマキノ雅彦『寝ずの番』ですら、その例外ではない。



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