Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

沖縄記1998 3:はいむるぶし

2011-02-26 23:39:38 | 沖縄記1998
なんか書いてたけど忘れてた沖縄記
10年以上前の旅行記ですけど^^;



沖縄記3:はいむるぶし

波照間島から小浜島へ。
一度石垣島に船で戻り、そこからまた船で小浜島へ。

波照間島からの船は、行きのジェットコースター的航海を覚悟して乗ったのだが、予想外に平穏な海で楽々。
小浜島まではすぐ着いちゃう。
ここにはヤマハリゾートの「はいむるぶし」がある。
そこが目的地。
沖縄行の後半はリゾートライフということよ。

(はいむるぶし、いまはどうもヤマハではなく三井系になっているらしい。
  世の中そんなもんだよな。)



はいむるぶし、着いたロビーの近代建築空間に、波照間島での熱帯夜ローカルライフに疲れた身がほっとする。
敷地内にコテージ風の客室が点在する。敷地内には、池で水牛が水浴びし、孔雀が闊歩し、ハンモックが点在する。優雅である。


敷地内の移動用に電気で動くカートを貸してくれる。
一家5人を乗せてぶぶー

テニスコートなどいろいろなアトラクションもあるが、基本だらだら過ごしたいワタシたちは、主にカートでプライベートビーチやプールまで出かけていき、水遊びしたりビーチカウチで昼寝したり。

おなかがすくとレストランにいきソーキそばなどを食べる。
子供たちのお気に入りは黒糖ロイヤルミルク。
結構なお値段だったが、せっかくのリゾートなので毎回頼んだ。

波照間島ワイルドライフも素敵な経験だったが、ここでは昼ごはんもクーラーの効いたところで食べられる。文明ボケした我が家にはこちらが向いているのかも。



半日だけ、子供たちをばあちゃんに預けて、夫婦でシュノーケリングのツアーに参加した。
ボートに乗って島周辺から西表島の近くまで。
ところどころ止まってシュノーケリングを楽しむ。
思ったより透明度がなくて魚もいない。地形もよく見えないという感じで、ちょっと残念。

それでもシュノーケリングにしては大胆なほど深く潜ってみたりして(耳がヤバい!)、
アジだかイサキだかなんだかのうまそうな回遊魚系もいたし、楽しかった。
インストラクターの人が「お二人はダイバーですね?」と見破り、あとは完全放置状態になったのだったのだけど。
(本当は本格的に潜りたかったのだが、経費と時間の関係でシュノーケリングに妥協したのです)



プライベートビーチはまあ特に何があるわけでもない、というか何もない浜でした。
若干脱衣所と売店かバーがあったかもしれない。
砂浜で遠浅なので泳ぐ感じでもない。のんびり何もない時間をすごすところ。
ヤドカリがとことこいっぱい歩いているので、追っかけて遊んだりした。夕暮れの浜もきれいだった。



そういえば、沖縄伝統衣装を着て写真を撮ったな。子供たちはめんどくさがっていたが。やつらすぐめんどくさがるのは今も変わらんが。お約束のように色とりどりの衣装にぶーたれた顔で写真におさまっていた。


あとは、そうねえ、電動カートでころころ移動しながら、子供たちはプールで遊び(海よりもプールのほうが楽しいとかw)、ハンモックで昼寝してはご飯を食べに行き、だらだらするという、まるでアクティブではないリゾートライフを満喫したのです。

少々お高いところををなんとかすれば、のんびりしたい人には向いているかも。はいむるぶし。
(10年以上まえの感想ですからね。いまはどうだか全然わかりません。)

ただ、当時すでにコテージの設備とかは古くなった感じがしてたな。エアコンとか旧式で効きも悪かった。このへんは今はさすがにリニューアルされていることでしょう。


はいむるぶしTシャツを買った。





*****

波照間島補記

島の小学校の周りの塀に、児童が書いた絵があったが、それは戦時中に波照間島から西表島に疎開した子供たちについての物語だった。
こんなところでも、いや南の島だからこそ、そんなこともあったのだな。

乾いた岩と適度な植生の波照間島に対して、西表島はジャングルなので、疎開した子供たちは次々にマラリアにやられて亡くなったそうである。

戦時中の無謀さということもあるが、戦争に限らず長年の人間の知恵に対する現代人の浅知恵だよねー。
場所があるから移住しようってのはね。

そういう尊い犠牲があって人間の今の居住地は定まってきたんだろうけれど、そういう知恵は軽視される現代だからね。



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「ソーシャル・ネットワーク」デヴィッド・フィンチャー

2011-02-21 02:45:11 | cinema
ソーシャル・ネットワークTHE SOCIAL NETWORK
2010アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールド 他


また少し寝てしまったのだが^^;

頭がよく非凡な才能があって努力もして実際的能力もある人たちが、ネット(環境と人脈と)を使ってつながりあって、でかい面白いものを作りましたという、サクセスストーリーに、成功ゆえに生じるチーム内の軋轢を加えたお話でした。

プロジェクトものとかサクセスストーリーとかは、それ自体は大概興味深いものでかつドラマチックだし面白いのです。好きなのです。

まさにそこでは「物語」が主役であり、演出は物語に奉仕することで成功する。そういう演出はなんというか職人芸のような味わいがあって、十分な実用性を実現して結果機能美のようなものも備えているというような。

そういう楽しみかたがひとつあると思う。

ぼんやりと思い出したのは「スティング」とか「ホット・ロック」とかなぜかレッドフォードの犯罪映画なのだが、まあ旧い話ですよね~。
昔はああいうアウトローもので痛快なのがあったけど、今もきっといっぱいあるんでしょうね。観てないけど。

で往年の記憶で申し訳ないけれど、そういう映画にあった演出の妙技でストーリーに酔うというような感覚は、本作「ソーシャルネットワーク」には感じなかった。ワタシはね。

なんでかなーといろいろ考えてみたんだけど、ひとことで言うと、「見せ金がない」ってことじゃないかなー?と。

例えば、アタッシュケースをおもむろに開けると札束がぎっしり詰まっているとか、にやりと笑って菓子折り開けると菓子の下には小判がぎっしりとかですね。
そういう「すごいこと」が起きているときには、見世物としてのダイナミズムのある被写体があると盛り上がるのですね。たぶん。

で、本作では、マーク君がひらめきを得て「すごいこと」をやるんだけど、それは姿としてはせいぜいエキセントリックな風情でノートパソコンを高速キータッチする猫背なわけですよ。
あるいは、その結果の画面を皆で覗き込んで「すごいすごい」とか、アクセス数がものすごい!とか言うくらいなことで。

だからそういうことに萌える人ならば、この映画は燃えるのだろう。
えーと、そういう表象においてシニフィアン連鎖とかゲシュタルト崩壊とかシュレディンガーの猫とか(すごい出鱈目)引き起こす人においては、十分「見せ金」になっているのだろう。

数字を見て聞いてそれでぐっときちゃう。パソコン高速操作でその奥で実現されていることのすごさまでありありと想像できちゃう。画面にどんどんプライヴェート画像がでてきておお!となる。
そういう感覚を備えた世代?時代?の映画なのだな。

ワタシはまあそういう感覚もわからないではないが、どこか物足りなかったな。
すごいことが起きるたびにパソコン猫背と数字なのも気になった。
まあ旧い世代ということで。




↑でシニフィアン連鎖とか馬鹿言ってるときに、「身体性」と書こうと思ってやめたんですけどね。

「体が感じる」とか「体が覚えてる」とか、よくリアルなことと体をくっつけて感じますよねー。
パソコン猫背にすごいリアルな「身体」を感じるというふうに考えると、その身体って猫背のことじゃなくて、ディスプレイの向こうで実現している(実現?)抽象的な状態のことであって、身体が実際には触れないもの、実体のないモノに伸びているということになるので、
まあ、面白いですね。
(そうでもない?)

身体性とかは現実性の根拠みたいに言われることもあるけれど、実際にはそうやって空虚?なものにのどんどん浸透しているので、ホントは根拠じゃなくて作られ変わっていくものなのだ。

それをいうなら「お金」だって同じようなもので。
紙束以上のなにかをそこにリアルに見てしまうのだから、幻想の身体性ですかね。
いや、お金のほうこそよっぽど実体のない現実なのだよなあ。

で、ワタシの身体はまだそのへんにいると。

*****

冒頭のパブだかなんだかのごった返した感じとか、
どっか意味なく屋外で会話するときの吐く息がやたら白かったりとか、
おもしろい演出はいっぱいあったと思います。

でもまあ、それが説話の審級をはるか離れて原存在をゆるがすとか、
そういうきわめて映画的な事件になるかというと、
そういうことはないわけですけどね。

たとえフィンチャーといえども(?)



しかし変な感想になっちまったな。





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「ポンヌフの恋人」(ニュープリント版)レオス・カラックス

2011-02-16 03:02:03 | cinema
ボーイ・ミーツ・ガール&汚れた血&ポンヌフの恋人 DVD-BOX~レオス・カラックス監督 “アレックス三部作” ~ [DVD]
クリエーター情報なし
アミューズソフトエンタテインメント



3回目の鑑賞になりまする。

この映画が好きなのは、とりあえず
「汚い」
ということだと思うんだよねw
とくに冒頭アレックスの登場あたりからずーっと
(すばらしいことに)なんの説明もなく引き回されて橋へと落ち着いて行くまでのシークエンスの汚いこと。

汚い映画好きとしては、これはやはり外せませんね~

そんなきちゃない映画が、
30年ぶり?くらいに?
ニュープリントで上映ということなので
そりゃ行くかね、ああ、行くかね
とひとりつぶやいて観に行きました。

(後から考えると、公開当時にも劇場でみているので
当時は当然ニュープリントだったわけで、
自分はニュープリントしか観ていないw
ことさら今回おニューだからといって
なにも喜び勇んで行くこともないのかもねえ??)

****

で、本作、ワタシは2009年にVHSで観ているので、そのときの記事を読み返してみたのだが、面白いほどに今回も同じ感想だったんだよねー。観方が貧困なのかな~??と思うくらいに。

付け加えるならば、記憶から欠落していた部分が今回は印象的だったかな。

ミシェルの実家?に深夜忍び込むアレックス。懐中電灯の明かりに浮かび上がるチェロ弾きの絵。「誰?ミシェル?」と寝ぼけ眼でおきる妹?役は、実際にジュリエットの妹なのだそうだ。とても似た顔立ちだった。

あるいは橋の主ハンス。彼がなぜホームレスになったか、その生活の果てに現れたミシェルによってどれだけ密かに心乱されたか。拒絶から許容、ルーブルへの侵入、そして絶望へ。彼がぼちゃんと落ちる姿がフレームアウトぎりぎりのところで捉えられるのもすばらしいと思う。

(ルーブルの壁を開いて人が登場するというシーンは、20年後にツァイ・ミンリャンの映画でワタシはまた目にすることになったのだがw)

それにしても、説明的なことは極力排して、人の姿を見せることで物語を感じさせるつくりになっているのは、なんとも好みだなー。
ラストがちょっとハッピーな解決に傾いているのが微妙に気に食わないがw、
あと、すぐに音楽流して祝祭的走りにつないじゃうとことかは気になるが、
それらを除けば、意外なほどもりだくさんなエピソードが冗漫に見えないよい映画だと思うな。

それと、今回の上映では、裏がパンフになっている小さい卓上カレンダーが売られていた。なかなかよいので購入。

そしてそのパンフで確認したのだが、というか自分がぼんやりしていてちゃんと認識していなかっただけなのだが、本作のセット、橋をセーヌに架けたのだとばかり思っていたのだが、そうではなくて、橋はもちろん、川も両岸の町並みも全部南フランスに再現したものだったのだ。
橋だけでもすごいと思っていたのだが、いまさらながら度肝を抜かれる。セーヌで水上スキーとかパリじゅうに花火を上げるとか、いくら芸術の街とはいえ寛容だよなあパリ、と思っていたが、これで合点がいった(笑)
メトロの通路でポスターをごうごう燃やすのもセットだったのかなー?




あと、今回はアルヴォ・ペルトの音楽が印象に残ったな。
ボウイとかよりも。



2011.2.2wed 新宿武蔵野館


**

そしてアレックス3部作はDVDBOXが出ちゃうのだ。




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Quand la femme tient la barre de sa vie N°3-猫沢エミライブ&トーク@TRAUMARIS

2011-02-14 01:17:49 | 猫沢エミ
Quand la femme tient la barre de sa vie N°3
-猫沢エミライブ&トーク@TRAUMARIS
2011年2月12日(土)
open:18:30~ start:19:00~
出演:猫沢エミ(vo.per)+円山天使(g)+岩見継吾(w.b)
トーク:sino (illustratrice)



またまた行ってきました。
猫沢エミのライブ&トーク

追っかけで
意地になって行っているとお思いでしょうが、
まあ、そういう面も全くないわけではありませんけれども
今回はっきり理解したのはですね、
やはりライブは毎回毎回が違うものだということですね。

それは常に同じところにはいない、
ミュージシャンもお客さんも
場所も空気も
どんどん変わっていく
そういう変化の中にいるのだということを知る。
それもまた音楽の力のひとつのような気がしましたね。

常に、その場そのときに生成されるのが音楽。
同じことの繰り返しはなく
二度とない時を生きるのです。

ライブでなくてもCD再生でさえ
たぶんそうなのです。

++

こーんな不思議な空間


という思いを抱かせた今回のライブ。
前回の充実したグルーヴセットとはまた違った
なんというか音響的に訴えるライブになったと思う。
アコーディオンのサブちゃんがいないにも関わらず!

円山さんのギターのワザモノがいつも以上に凝っていたのもあるでしょう。
が、曲によってパーカッションの響き方が違うような
ベースの唸り具合が違うような
そんな不思議なサウンドだったのです。

そういうのって考えてできる部分もあるけれど
それだけでできることでもない
熟成したものと
新しいアイディアとが出会って
体が曲に寄り添って勝手に出来上がる境地だと思うんだよね。

そういうバンドになってきたということでしょうねー
インプロヴィゼーションの部分も
どんどん自由度が増してきて聴いていて面白いしね。


と褒め讃えるわけですが。


円さん




事件(笑)としては
まず名曲「スクーター」やりました!
今回のアレンジがすごいよいのよね
パーカッションがところどころ際立つようなアレンジで
そこではコンガがはじけるようによく鳴っていて
ファーストアルバムでは涼しげなフレンチ・オリエンタルな(なんじゃそりゃ?)曲でしたが
今回は勢い余っていろいろなものをまき散らしながら街を疾走するスクーターになっておりました。
その若々しさと楽しさにうるうる。

そして大事件としては(笑)
大名曲であるところの「赤い星」!!
これが超グレードアップして帰ってきたのです。
前半ベースの渋いラインのみで歌われるのだけれど
中盤ギターが深いリバーヴ+αをきかせて深いヴェールをかける
その瞬間にトリハダがぞわわと立つ。
あの半音下降するクリシェを含む進行を目をつぶって聴く。
これが30分続いてもいい。
終わるな!



そして驚愕すべきはw
I wanna go to America」をやってしまった!
ことですかね!
これは大変だ。
こういうキャラはあまりライブでは見せてなかったのでは?
曲の最後ではしっかりウケをとっていたしw
この勢いでは、アレをやる日も近いのかもしれない。
アレ・・・曲名を覚えられないのだが・・・
あれですよ。


(なにいってんだ?)


調べた。「1999696699XXX」ですよ。
これライブでやったら笑うな~~w




バイオリンを弾く!猫沢エミ!


あそうそう、
今回3人の別ユニット(?w)Sphinxを名乗って
アヴァンギャルドなインプロヴィゼーションを披露した場面もありました。
こういうのも面白いね。

内容的には
手前味噌するならば、ワタシのようなヤツらが80年代にやっていたようなことで
まさにそういうフリーインプロロックバンドでライブをやっていた時代を
なつかしく思い出した。

そういう点ではなんというか
状況を更新するようなものではなく
どんなに内容が先鋭的であっても
悪く言っちゃうとどこまでも余興的におさまってしまう印象だったな~

むしろ実は
様々な出自の音世界をとりこんで成長変化する
猫沢的ポップの世界のほうにこそ
過激な突破口がありつづけているように思う。

ポップの方が過激なのだ。


******


C'est vous sur le pont
scooter
Les Cafes
赤い星
私の世界
スフィンクス
 ~Zo-wa-zo Oiseaux
I wanna go to America
TABACの森
Madrigal
Swing

死んだら土になる



あれ?
Zobi la moucheやったよねぇ?
メモに書いてなかったけど
やった?よね?夢?



あー、大大大事件がまだあったわ(笑)
アンコールに「死んだら土になる」やったんだわ!
最初のアルバムからファンキーなナンバー
ワタシ、死んだら立派な土になる~
っていう死生観。

猫沢エミは最初から猫沢エミだったんだな~~w



******

ライブの後はトークショー
というか
ほとんど座談会の雰囲気
お客さんが発言しだすまであと2回くらいあればいいでしょうかw

人数的に女子率が多いのはいつものことですが
話の内容がどんどん女子濃度が高くなって
室内に女子圧のような異様な密度がどんどん高くなるのが感じられ(笑)
(猫沢ゼミ化)

濃厚な話がひたすら続いたのですが
そのへんはワタシの手に余るので、
このへんでwww


******


しなあやさんと行きました。

受付をかなきさんがやっていて
トークショーのあいだステージの片付けを
常連のお客さんが混じってやってましたw

こうしてどんどんアットホームになって行くのか?!?


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「白いリボン」ミヒャエル・ハネケ

2011-02-01 02:21:18 | cinema
白いリボンDAS WEISSE BAND - EINE DEUTSCHE KINDERGESCHICHTE
2009ドイツ/オーストリア/フランス/イタリア
監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
出演:クリスティアン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ウルリッヒ・トゥクール、フィオン・ムーテルト、ミヒャエル・クランツ、ブルクハルト・クラウスナー 他



昨年最後の映画鑑賞は『ゴダール・ソシアリスム』だったのだが、今年最初の映画も『ゴダール・ソシアリスム』だったのよね。
2回観たってことですが、なんだかハードコアな年越し。

で今年2本目はまたハードコア系?なミヒャエル・ハネケ『白いリボン』。
2009年カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作ということだけど、下調べもなんもしなかったワタシは、オープニングのクレジットでそれを知ったのだw。
調べてみるとアカデミー賞外国語映画賞にノミネートもされているということで、大向こうの評価はいいようだね。

観た感想としては、伝統的というか正統的なヨーロッパ映画(そんな概念はないよとは思いつつですが)のたたずまい。モノクロ採用とか固定カメラ多用とか音楽不使用とかいう技法的なことや、俳優の多様な顔つきとか古びた静謐な村の風景とかの被写体の選択であるとか、荘園での主従関係や教会などを含む社会制度習慣の描写など題材のあり方とか、そういうもろもろが例えばベルイマンやドライヤーの作品を想起させるという意味で「正統的」ということなのだが。

ハネケについてはいろいろとよからぬ(笑)評判を聞くのだが(監督の素行ということじゃないですよw、作品についての評判ね)、ワタシは実は今回が初めてのハネケなのです。
先入観ないところで素朴に抱いた感想としては、そういうヨーロッパ映画の伝統?を踏まえつつ、例えばラース・フォン・トリアーのような屈折(挫折?w)をも体験した後に、映画はどうあろうかを考えた作品のように思えました。
それはある意味反動的とすらいえるような回帰の風景を現前させていると言えなくもないかもしれないが(歯切れ悪い)、そこに提示されたものたちの現在性のようなものを前に、逆に何が反動かということをよく考える契機を与えられたような気持ちになるのだ。

これはヨーロッパ映画が残してきた映画の連なりの中にある作品として、傑作のひとつに数えられるようになるかも知れない作品である。とともに、その圧倒的な既視感のうえに提示された問題系がいまだ有効であること、未来においていまだ有効であるかもしれないことに、言い知れぬ無力感を抱かせるような、不吉な作品として残るかも知れない。。。。




とまあ、いつものように煮え切らない言葉を連ねてみるわけですが、ベルイマンやドライヤーが「正統」か?というと、これまた全然そんな気もしないわけですし(むしろ異端かも)。異端の系譜に連なっちゃってるとも思えるわけですね。


****

北ドイツの小さな村、と公式サイトにも書いてあるので、北ドイツなんだろうけれど、終わりのほうでサラエボ事件のうわさが語られるところがあって、そこでは字幕としては単純に「大公がサラエボで殺された」という風に言われていた。そういう言い方だと、自分の国の大公という解釈もできませんかねえ?オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子なのだから、だとすると舞台は北ドイツではなく南ドイツ?

という誤解だか曲解だかに支配されてワタシは観てたのです。
(北ドイツと知ったのも観終わった後で^^;)

で、田舎の村にもそういう時代の暗い影が忍び寄ってくるというあたり、なんとなくエリセの映画を思い出しもするのだが、ここの舞台では暗い大潮流以前に、村の中で十分暗い事件が次々に起こっているのだった。

冒頭の陰湿な事件後に、早々に示される怪しい子供たちの気配。表向きは礼儀正しく振舞う子供たちが余計に気味が悪い。

その子供たちを抑圧するのは学校であったり家庭であったりの、厳格な教育思想であるわけで、白いリボンはその象徴でもある。学校での言葉遣いに関する叱咤、家庭での鞭打ち、教会での厳粛な儀式、刑事の厳しい追及。それらの前に子供たちは模範的な振る舞いと言葉遣いをまといつつ、内面はどうやら歪んでいる。

その歪んだ思念が発散されるべく向かった先は、村の実力者の幼い息子であったり、知恵遅れの少年であったりするだろう。端的に抑圧者への復讐(羨み半分の)と弱者の抑圧という問題に触れている。

その実力者もまた、家族(妻)を自分の所有物のように扱い、妻のイタリアでの浮気について妻の言い分に聴く耳持たず、開口一番「そいつと寝たのか?」ということに拘泥するような奴だ。
しかし、女性蔑視は冒頭登場したドクターに極まるのだが。

ほかにも使用人の死を巡る、雇い主と使用人家族との軋轢(というか使用人側の悲劇)とか、若い乳母がくびになる話とかいろいろとりまぜて、あの時代、第一次大戦前夜、20世紀初頭のドイツの農村はこういう抑圧装置だったということなのだ。

そこにはらまれていた差別と抑圧のシステムは、現在の社会にも引き継がれているものであり、それはある面では小村を出て世界に広まっているともいえるだろう。
その源泉がひとえにヨーロッパだったという風には思わないが、ひとつの源泉が形成されていて、それは教育や宗教を通じてこんな小さな村にもしっかり根付いていたということであるだろう。

そういう点でこの映画はほかのヨーロッパ映画と同じように、ヨーロッパの歴史についての映画であろうとしているだろう。

***

舞台を日本の農村とかに移しても、おなじような映画が作れるような気がする。そのことをワタシが半ば確信するのは、とりあえず手塚治虫の一部の作品を読んでいるからだ。
手塚治虫はSF系作品で描いた未来像がどこかワンパターンな世界であるのに対して、日本の田舎を描いたものには実に生々しい現実感がある。(と思っている。)そこでの人間の情念ときたら、実にまがまがしく渦巻いている。

「白いリボン」と併置できる邦画はなんだろう?きっと十分に世界に通用する映画がそこには置かれるはずなのだ。

****

蛇足。
とか言いながらワタシ自身はそういう田舎の経験がない。
むしろ人工的に突然現れたような町にばかり住んできた。
上で書いたようなことはまあよそ者の後知恵なのだった。
だからこそこうしてやたらと映画や本に耽溺するのかもしれないな。

2011.1.12wed 新宿武蔵野館


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