「天の声」と「枯草熱」のカップリングのうち、『天の声」を読んだ。
いや、この小説の、ボーダーレスで緻密な粘着質な広がりようはただごとではない・・・
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ニュートリノ観測データの中に偶然発見された「メッセージ」と思しきパターン。未知なる他者からの「手紙」を解読するべく、マスターズ・ヴォイス計画が極秘に進められる。集められるのは物理学者に始まって数学・生物学・言語学・情報工学など多岐に渡る分野の学者たち。
この小説は、その計画(MAVO計画)に参加した数学者ホガースの手記という体裁で書かれている。
「手紙」の解読を巡って、様々な仮説と実験、推測と憶測が繰り広げられるが、一向にその実体にたどり着くことはできず、膨大な記録と関連文献を生み出した末に、計画は失敗に終わる。その顛末を計画の内側から描こうというものだ。
計画の成果と思しきものはふたつだけ。
手紙を搬送するニュートリノ束を高分子溶液に照射すると、化学的に安定することがわかった。つまり生物の骨格となる原始構造を作り出しやすくなると言う作用があるということだ。
もうひとつは「蛙の卵」「蝿の王」と命名された、『手紙」の数パーセントの情報から読み取って作った物質。
その物質はエネルギーをつくりだしており、それは『冷たい核反応」によるものだった。
しかも観測の結果、この物質は核反応を瞬間移動する能力まであった・・・
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しかしこの手記、一筋縄ではいかない。
こうしたアイディアやプロットやストーリーを追うことがこの本の目的ではないようだ。
そもそも、長い長い「序文」からしてくせ者で、著者ホガース自身の世界観だの、認識論だの、心理的バックボーンだのが掘り下げて延々と語られる。幼少のころの母の臨終の場でのおさえきれない「ほくそ笑み」の話などは、レムの自伝的小説である「高い城」を読んでいるような錯覚に陥る。
で、やっと本論にはいったと思いきや、こんな調子だ。
そもそも「手紙」はメッセージなのだろうか。われわれに向けられたものではなく、高次の文明間の通信をたまたま傍受しているのにすぎないのではないか?・・・メッセージと思っているパターンは単なる句読点のようなもので、パターン間の沈黙にこそ検知できないメッセージが入っているのでは?・・・『蛙の卵」は本当にメッセージを解読したといえるのか?たまさかわれわれの文明が読み取り可能にすぎなかった偶然/誤読の産物ではないのか?・・・手紙は一種の排泄物であり、植物が光合成によって他の生物の生息環境を作り出しているのと同じように、無意図的なものにすぎないのではないのか?・・・
特に迫力があるのはラストの講演会での議論。
膨張と収縮を三百億年ごとに繰り返す宇宙の交代期にうけつがれるのがニュートリノの波であり、世界と反世界との教会の割れ目から流れ込んでくるモノだ・・・
前宇宙の高次文明が、次の宇宙交代後の宇宙に向け、生命萌芽の種を引き継いだ遺言状のようなものだ・・・
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絶対他者との遭遇。そのときわれわれはどのように考え行動するのかを、SF的誠実さをもってとことん追求すると、このような手記になるのだろう。
人間が逡巡する様を、自然科学的・人文科学的・政治的に、そして下世話的な観点からも丹念に描ききろうとするものだから、その言及は多岐・多層にわたり、一行一行が濃密な文明批評となって、次から次へとたたみかける謎掛けのような読後感だ。
この本はSF的誠実さ・真摯さの極北、到達点であって、ここから先どこへ行きようがあるだろうという地点にレムは立っていたのだと思う。
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と同時に、これは小説としての冒険でもあるだろう。
たとえば、架空の人物が残した手記が死後公刊されたという設定(丁寧にその出版経緯まで巻頭に書かれている)がかもしだすメタフィクションの実験性。
あるいは、長い「序文」で特に顕著だが、「高い城」で試みて、不首尾に終わったと自ら述べている自伝的手法の再度の導入。(「高い城」では記憶を一つの秩序生成装置として信頼することでフィクションを成立させることができるという発想で自伝的手法を用いたが、「天の声」では、それをさらに、未来の架空人物の自伝的回想という形にすることでもう一皮フィクションの殻をかぶせている)
さらには、『手紙」の発見経緯の、妙に入り組んだ内容にみられるような、偶然と必然が区分不能な状況を描くという、いかにもレム的なテーマも含んでいるだろう。
ついでに言うと、メタフィクション的笑い話さえ含んでいる。
(研究にいきづまったある学者が、ノンフィクション的想像力に活路を見いだそうと、いわゆるSF小説を大量に取り寄せる場面がある。そして、SFというのはその実、大衆のよってたつ常識や観念を裏切るものではなく、むしろそれに迎合するステロタイプを際限なく繰り出す、非想像力的ジャンルなのだということがわかって、大きく失望して見せたりしている。)
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SFとしての究極+小説という形式の実験。
という二つの側面を存分に追求した、油ののった小説だったのではないだろうか。
しかし、万人に手放しでお勧めはできないかな(^^;)