Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ジャン=リュック・ゴダール「愛の世紀」

2006-03-31 13:11:34 | cinema
ジャン=リュック・ゴダール愛の世紀+アンヌ=マリー・ミエヴィルそして愛に至るDVD BOX 2枚組

紀伊國屋書店

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2001フランス/スイス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
録音:フランソワ・ミュジー

オープニング、天使のレリーフのショットに続き、モノクロ画像に白文字のタイトル、そして声。男と女の会話。
重なってくる音楽。
白紙のノートのカット。

最初からはっとさせられる。相変わらず、といってもよいだろう、これは緻密に構成された「音楽」なのだ。
絶妙なテンポでたたみ込まれる映像・言葉・音、この時点で私は考えることをやめた。この快楽に身を沈めよう・・・・

・・・ってなわけで、ひたすら浸り込んだだけで、なにも言葉にならないのでありました^^;

考えたのは・・・

雑踏をただ雑踏としてゴダールが撮ったのを見るのははじめてじゃないだろうか。
モノクロの物憂い現実としての雑踏。
ゴダールの街は、そこで愛する、生きる、対話する、死ぬ、場だった。
でもこの映画では、ただ雑踏としてまなざしは注がれる。
この変化はなんだろう。
インタビューで、「この映画は大人になること」が一つの
主題、といっていたように思う。
あるがままを見てそのもの自体を理解しようとすること=大人になること
ということだろうか。


中盤から、過去にさかのぼると、それまでのモノクロとうってかわって過度に色を調整したカラーになる、オレンジの海にブルーの浜。
そのショック。
記憶の内部をのぞくような、色の交錯と海のオーバーラップの多用。
モノクロの現実が御しがたく困難であるのに対し、
過去は生き生きとし、鮮やかで、過剰なことに、思わず涙してしまう。

映画はさらに過去へ、過去へ、とさかのぼり、ショットは鮮やかさを増す。
なぜ?
なぜこんなに寂しくいとおしい?
ただ脈絡の難解な映像と言葉と音のつらなりでしかないのに。

モノクロの質感に身をゆだねるには、劇場で観るべきだろう。
かつ何度でも観るべき映画だろう。
なんども観ること。
それでしかこの映画にうち勝つ道はない。
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職場復帰訓練終了!

2006-03-31 10:31:20 | diary
のんきにホーキングだのゴダールだのと書いておりましたが、
その間、粛々と職場に通っておりました。

職場の健康相談室というところのお医者さんとも面談を行い、
結局お医者さんの提言で、

4月から職場に本復帰、ただし、
4月は10:00~15:45
5月は10:00~16:45
6月は10:00~17:45

という勤務時間でスタートすることになりました。

4月からはフルタイムで朝1時間だけ勤務軽減というつもりでいたので、
なんだか得したような気分です。らっきー。

仕事の方は、だいたい4月からの分担も見えてきました。
電算の設備系(電源とか空調とか)のリプレース+メンテナンスの計画を立てるという仕事をやりそうです。
うちの会社の電算は表向きしっかり動いてますが、そういう裏舞台は結構ガタがきているのを知っているので、あんまりうれしい話ではありません。真剣にやるとまた頭痛くなりそうな仕事です。

気持ちとやり方を切り替えて、今後は「ダメでもいいやし~らないっと」路線で行こうと心に決める私です。


今日は3月最後の日なので、一日こっそりブログでも書こうかと思います。
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スティーヴン・ホーキング「ホーキング宇宙のすべてを語る」

2006-03-29 12:44:00 | book
ホーキング、宇宙のすべてを語る

ランダムハウス講談社

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「ホーキング、宇宙のすべてを語る」の続き。

<タイムトラベル>
・未来
相対性理論は未来への旅は可能であることを示している。
宇宙船に乗り、光速近くまで加速し、しばらくそれを維持する。そして戻ってくる。
「双子のパラドックス」
宇宙船での時間の進み方は地球より遅くなるため、帰還時には地上では宇宙船の時計以上に時間が進んでいる。双子でも宇宙飛行士となったほうは年をとらない。

・過去
ゲーデルは、一般相対性理論から導かれる奇妙な時空を発見した。それは回転する宇宙である。この時空では、地球から遙か遠方まで移動して戻ってくると、出発するより前の時間の地球に帰ってくることになる。
(ただし回転する時空は、実際の宇宙の観測結果とは一致しないが・・・)
アインシュタインは自らの理論がこのような時空を許していることにショックを受けたそうだ。
時間をさかのぼることができるかという問題は、光速より速く運動できるかという問題に非常に近い。
無限の速度で運動出来れば、時間をさかのぼることが可能である。実際にはどんなに大きいエネルギーを用いても光速を越える運動をすることはできず、過去への旅行は不可能に思える。

<ワームホール>
光速より速い運動という観点では、ワームホールという可能性がある。(かもしれない)
空間をゆがめ、A地点からB地点への近道が作れるかも知れない。
1935年、アインシュタインとネイサン・ローゼンが論文で許容したのがアインシュタイン=ローゼン・ブリッジ、今で言うワームホールである。
ワームホールが出現するには、負の曲率を持つ時空領域が必要である。古典物理学では負のエネルギーは存在しないが、量子論では、ある領域のエネルギー密度が負であっても、それを補うだけの正のエネルギー密度が別の領域にあり、全体が正であればよい。従って負の曲率で空間を曲げることも出来ると考えられる。
ファインマンの経歴総和法によるなら、過去へのタイムトラベルは単一の素粒子のスケールでは確実に起こるとされる。
(すべての素粒子はワームホールであるという可能性を、例によって強引に敷衍し、並行宇宙への移動を重ねてゆく冒険小説が、グレッグ・イーガンの「ディアスポラ」である。)

このへんの話は、「ホーキング、未来を語る」でもうちょっとつっこんだ話になる。しかし、つっこんだからといってよりよくわかるわけではない。
・・・っていうか、「未来を語る」ではもっとむずかしくなっている^^;
特にぴんと来ないのは「pブレーン」のイメージである。さっぱりわからない。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで

早川書房

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ホーキング、未来を語る

アーティストハウスパプリッシャーズ

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スタニスワフ・レム死去

2006-03-28 16:56:29 | diary
ポーランドの作家、スタニスワフ・レム氏、死去。
すごい作家だった。

レム氏死去
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Aちゃん、怪我をする^^;

2006-03-27 21:50:05 | movelog
卒業式ではなかなか感心なことを言って株をあげたかと思いきや・・・

今日、遊びに行った児童センターで、ローブレでコケて、腕を強打
児童センターの職員の方が近所の病院に連れて行ってくれました。

骨には異常ないようだけど、夜になって
「いたいよぉ~」とつぶやいています。

とりあえず湿布して、
明日仕事を休んでもう一度病院に連れて行ってみよう。

しかし・・・すこしは慎重に遊べぇ!
父の人生をややこしくしないでくれぇ!^^;

(セキュリティのため写真は削除しました。4/3)
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Aちゃん、卒業する。

2006-03-25 16:34:12 | movelog
ちょっと肌寒かった昨日は、Aちゃんの小学校卒業の日でした。
(どっちがAちゃんでしょう?)

粛々としたいい式でした。

お友達は涙々でボロボロになっていましたが、
Aちゃんはまったく動じなかったようで、むしろ笑いをこらえていたようです。

親も、小さい頃三輪車に乗ってコロコロあるいていたなあなどと思い出したりはしましたが、特に感涙にむせぶこともなく、淡々と写真を撮ってみたりビデオとってみたり。

こういう無感動なところが似てしまっているんだろうかとちょっと不安に・・・

卒業証書授与のときはひとり一言、中学生になるにあたっての抱負なんぞを発表していた。意外に立派なことを言っていたので驚く。
本当にひとりで考えたのかなあ・・・

で肝心の6年生の成績は?・・・う~~むっ!・・・・・・
子は似て欲しいところは親に似ず・・ってことでしょうか(汗)

ってなことを書いている横でMちゃんは文章を読み上げたりして親をからかっている。
こいつももうすぐ4年生。
完全な内弁慶に育ってしまっているらしく、まったくもぉ~


しかしあと一週間したら中学生だぞ、Aちゃん。


(セキュリティのため写真は削除しました4/3)
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スティーヴン・ホーキング他「ホーキング宇宙のすべてを語る」

2006-03-23 10:58:18 | book
ホーキング、宇宙のすべてを語る

ランダムハウス講談社

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20年前に出版された「ホーキング宇宙を語る」をさらに平易にした内容で、読みやすくて、現在の状況を概観するには最適な本だった。

とりあえずわかったこと。↓

統一理論
現在の物理学の大目標は、以下の4つの力が一つの力の異なる側面を表していることを説明する統一理論の発見である。

1 重力 2 電磁力 3 弱い核力(弱い力) 4 強い核力(強い力)

このうち電磁力と弱い力は既に統一理論がある。電磁力・弱い力・強い力を統合する「大統一理論(GUT)」の試みがあるが、重力が含まれない。

統一理論の構築に向けて、当面直面するのは、重力を量子化された理論とすること、すなわち、量子力学の原理を一般相対性理論に組み入れる方法を見つけることである。

ひも理論
統一理論として現在有力な理論。

粒子は点ではなく、無限に細く長さのあるひもの上の波である、という理論。ひもには「開いたひも」「閉じたひも」かある。

10次元もしくは26次元の宇宙で成立する。我々の宇宙が3次元+1次元なのは、その他の次元が小さく曲げられているためである。1×10のー30乗センチメートルくらい、汗。
(で、だからなに?っていうところはよくわからなかったのだ~)

人間原理
ひも原理のとおりだとすると、なぜ、この宇宙は我々の生存に都合のよい3次元+1次元のみが曲げられないで残っている宇宙であるのか?

これを説明するのが人間原理である。人間原理には弱いそれと強いそれがある。

弱い人間原理とははこうである。
<人間が誕生可能な条件を備えた宇宙に人間は誕生したのであり、その宇宙の原理を追求したときに、それが人間にとって都合のよい姿であっても不思議ではない。>

強い人間原理とはこうである。
<我々のいる宇宙以外にも多様な宇宙がある。しかし我々には、我々の存在しうる宇宙のみが観測可能なのである。>

(ホーキングは、観測不可能な宇宙を想定する意味はないとして強い人間原理には疑問のようである。逆に強力に人間原理を拡大解釈したアクロバットSFが、グレッグ・イーガンの「万物理論」である。)

今後の注目株
現在等しく発言権のある理論は次の3つ。
1 ひも理論 2 Pブレーン理論 3 超重力理論

***

はたして人類は統一理論に手が届くだろうか。ゲーデルの不完全定理にように、統一的な説明には限界があるのかもしれない。
すくなくとも、量子力学の呈示する確定可能性の限界まで説明できる理論は発見できるだろうというのがこの本での感触である。

これを読んでから20年前の本を読むと理解が深まるかも。
ブラックホールとかの各論も面白かったので整理してみたいけれど、またあとで。

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで

早川書房

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ホーキング、未来を語る

アーティストハウスパプリッシャーズ

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トイレの夢ばかり見続ける

2006-03-21 15:56:13 | diary
本来ならここで、『ゴダール「愛の世紀」』つって書き始めなきゃいけないんだけれど・・・いやいけないってこともないけどさ・・・

ともかく最近トイレの夢をよく見るんです。
っていうか寝ると必ず。

しかもどういうわけか、いつでもろくでもないトイレ

部屋の奥に白い壁があって、その下がちょっとくぼんだコンクリートになっていて、そこで用を足す・・とか、
巨大な汚い風呂の一角にどうかんがえても汚物でぬるぬるしていそうな升があってそこがトイレとか、
板張りのぼろ屋の二階に上がっていくと板張りのペナペナの扉があって、そこを開くと、板張りの暗い部屋があって、その奥のベニヤ板にむかって放尿しなければいけないとか、
どうみてもただの排水孔なんだけどそこがトイレで床が尿びたしになってしまうとか、

昨晩の夢はもう最悪で、なんだか知らないけれど、自分が精魂尽き果てた~って感じで、全身の力が抜けてしまって、薄らぐ視界のなか、文字通り這うようにして、息も絶え絶え、やっとのことでたどりつき、はい上がり、なにかにつかまって立ち上がると、そこはトイレ。しかもまた古びてそこらじゅう剥げかかった琺瑯引きのがらんとした部屋で、ただ床に放尿するだけのきたな~いトイレ。
なにが悲しくてこんな満身創痍の状態で力をふりしぼってトイレに行かなければいけないんだろう;;

このトイレドリームインフェルノ・・なんとかならないかなあ
ちゃんと寝る前にトイレに行ってるんだけどなあ・・
かえってそれがよくないのかな~

どなたか夢分析してください~

*****と言ってないで、ウェブ検索「トイレの夢」!!**************

●某サイト
「トイレの夢は、自分自身の中に流したいこと、排泄したいことがあるときに良く見るのです。
誰かに見られることを恥ずかしがり、排泄出来ない、トイレが詰まって流れない、水浸しで使えない、それぞれ、今のあなたの問題を表しています。
なぜ排泄できなかったのか、その理由を見つめてください。」

●某サイトその2
「すっきりとトイレを済ませる夢は、運気が上昇するサインだよ。悩みが解決し、健康状態も良くなっていくよ。トイレが見つからずに困る夢は、友人や恋人とのコミュニケーション不足のしるし。トイレで身体や服を汚してしまう夢や、排泄物が残っているトイレの夢は大ラッキーだよ」

●某サイトその3
「トイレの夢は、過去に体験したことで、不必要な物を洗い流してしまう、つまり開放であったり、手放しであったりするのはご存知ですね。」

●某サイトその4
「心の中に「排泄したい」「水に流してしまいたい思い」があるとき
にトイレの夢を見るそうですよ。思い当たりがありませんか?
実際にトイレが汚れていると用が足せなくて困惑してしまうでしょう。ですから、夢の中でトイレが汚れているのは、そのとき抱いている思いをどう処理してよいのか「困っている」ことをあらわしているのだと思います。

***********

う~む・・・よくわからない。
水に流してしまいたい思い・・・・・心当たりは?

仕事に関しては、確かに自己矛盾というかダブルバインド的隘路にいるだろう。
今の仕事は生きるために自分に実際選択可能な唯一の選択肢なのだけれど、結局その仕事が自分を苦しめるものでもあるという状況。

生きるために生を犠牲にするという状況。
生きるために生を犠牲にしていることを自分に隠しきれなくなった状況。
生きるために生を犠牲にしていることを隠しきれなくなったことに気づいていながら、その道を選択せざるを得ない状況。
生きるために生を犠牲にしていることを隠しきれなくなったことに気づいていながら、その道を選択せざるを得ない状況を変えることができない状況。
生きるために生を犠牲にしていることを隠しきれなくなったことに気づいていながら、その道を選択せざるを得ない状況を変えることができない状況を変えることができない状況。
生きるために・・・(以下くりかえす)・・・・・

わぁあぁぁぁあぁぁぁあぁあぁあぁぁぁ~~~~っっ!!

ああ・・なんだか気分が悪くなってきた。
読んで気分が悪くなってしまった方、ごめんなさい。

(あれ?でも大ラッキーという解釈もあるのか・・・→自己分析できずABEnd)

**

関係ないですが、昨日は約800ページビュー/日という、
このブログでは通常ありえない閲覧数を記録しました。
いったいなにがあったのか、不明ですが、
とりあえず御礼申し上げます。
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ジャン=リュック・ゴダール「アワーミュージック」

2006-03-20 13:00:36 | cinema
ゴダール「アワーミュージック」

2004フランス/スイス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール

1 地獄篇・・・資料映像のパッチワークで、人間の殺戮の歴史がつづられる。
        ときおり挟まれるナレーション
        「生存者がいるのが不思議なくらいだ」
2 煉獄篇・・・サラエヴォに招かれる作家たち。
        その中にゴダール本人が含まれている。
        「サラエヴォ・ノート」のゴイティソーロもいる。
        映像とテキストについて、ゴダールが講演をする。
        示されるいくつかの写真。
        聴講者のひとりオルガは一人眼を閉じて聴き入る。
        後日、ゴダールは自宅でオルガの死の知らせを聞く。
3 天国・・・・オルガが日差しのなか、湖の畔を歩く。
        幻のスタンプ(出国許可?)を腕に押され、湖へ続く門を出る。

残ったこと
○インディアンが朗読する詩句。
「そろそろ同世代の我々が出会うべき時だ。同じ土地のよそ者同士として」

異なる民族・異なる文化の共存という点では、その概念にしろ、そのことについて考える習慣にしろ、ヨーロッパに比べ日本ではひどく未成熟なのだということに思い至る。

この詩句の持つ真摯な訴えを、ゴダールが真正面からぶつけてきたことは、驚きであるとともに、ここまで来てしまった世界のことを思わざるを得ない。

異質であることを踏まえながら共存していくことへの思い。


○切り返しショットを表す二つの写真
ハワード・ホークスの映画の引用だそうだ。
電話をかける男女の写真は、左右逆な以外、まったく同質の構図だ。
そして、ゴダールの言葉。「両者はまったくよく似ている。監督が区別できなかったからだ」

これまでの我々の「他者」とはこの強烈な対称性の中での他者にすぎなかった。
同質性にもとづく同一性。
これに対峙して置いてみるのは、まったく対称性のない切り返し。
非対称性のなかでの他者をどう描いてゆくのか。
そのとき映画はどのような姿になるのか。
非対称性の文化の共存をどう世界は描いてゆくのか。
そのとき世界はどのような姿になるのか。

○デジタルカメラは世界を救うと思いますか?という問いに対して。
ゴダールの・・・長い沈黙
バッハのカンタータ160シンフォニアのピアノ編曲版が流れる。

○地獄篇でヒロシマの映像を探したが見つからなかった。
 インタビューによると使用しているらしい。そして「日本人はすぐに広島とわかるかどうか興味がある」、とも・・
 わからなかった・・それだけ廃墟のイメージは似通っているのか、単に自分がうかつなのか・・

***

サラエヴォは同じ土地のよそ者同士が共存する希望に満ちたコスモポリスだったが、90年代にバランスは崩れ、隣人が憎しみあい殺しあった。
そこは未来への希望が潰えた、現代の「絶望」を象徴する土地である。
その場所から今度はイスラエルとパレスチナの関係について解き起こそうというゴダールの試みは、希望を意味するのか絶望なのか。

一度観ただけではわからなかった。
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頭脳飽和状態なんです

2006-03-19 16:50:14 | movelog

ゴダール「愛の世紀」「アワーミュージック」を観に渋谷へ。
てっきり二本立てと思って行ったら、各編別料金だった。
パンフあわせて4600円の出費となり、今月も赤字確定。

これだけの出費に値するものを自分は持ち帰っているだろうか・・・と考えると非常に心もとない。

どちらの作品もそれぞれ心に訴えるものがあったにせよ、所々うとうとしてしまったりで、全体像が結ばない。

まあ過ぎたことは仕方がない。
どのような形であれ自分で観た以上のものは持ち帰れない。

たまたま蓮見重彦と青山真治の対談の日だったのが儲けもの。

帰り道、サラエボと天国のことを考えながら、変わりはじめた天気の空を見上げ、写真を撮る。

風が冷たくなってきた。
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ジョン・レノンよ安らかであれ・・・

2006-03-19 03:19:43 | diary
ジョン・レノン降霊?

こんな記事を見つけた。
思ったのは、まずジョージの霊が嘆くだろうということ。
彼は自伝やインタビューの中で、ビートルズの名で多くの人が金儲けをしようと目論み続ける状況を常に嘆いていたから。
彼は世界の精神的側面を重んじていた。ジョンの精神がどのようなカルマを背負ってどう転生したかを知るのは、実は彼なのではないかしら?

ジョンは・・もし彼の霊が降りてくるなら、自分がこれほど偶像視されていることに幻滅するだろう。
インスタント・カーマ。
主催者は、「9.11以降の世界情勢へのコメント」みたいなのを期待していたりするのかな?
私は「イン・ヒズ・オウン・ライト」の精神が降りてくるのを期待しますけど・・・

ジョンの「降霊」になにか既視感があるのは、実は我々はいつでも彼の精神に触れることができているからなのだろう。
ジョンの魂に触れたければ「ジョンの魂」を聴けばいい。
こう思うと、あの邦題、よくつけたなと思う。

雑感でした。
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グリッドコンピューティングとビジネスグリッド

2006-03-17 14:27:53 | diary
グリッドコンピューティング

グリッドコンピューティングとは、ネットワークを介して複数のITリソースを結びつけ、これを1台の仮想的高性能コンピュータとして使おうという概念。

これ自体は目新しいことではなく、学術研究の世界なんかではよく耳にした。
マックを1000台つなげて偉い計算をしたとか・・・
(100台だったかな?)

でも、今これがビジネスでの適用が検討されていて、「ビジネスグリッド」という概念のもと、各種コンソーシアムなどで検討されていることは不覚にも知らなかった。

当面は企業内でのTCO削減の観点からの導入止まりだろうけれど、構想としては企業間共有も視野に入れているらしい。

となると「ユーティリティ・コンピューティング」という概念に近くなってくる。
=企業に対して、コンピュータ資源を電気や水道のように提供しようとする概念。

コンピュータ資源を公共資源として活用する未来・・・・
・・・おや?どこかで聞いたような・・・??

おお、これはまさにグレッグ・イーガンの「順列都市」の基本インフラではないですか!
(要するにこれが言いたかったということで^^;)

まだ実現は遠いなという実感だけれど、「あの世界」へ続く検討が現実に始まっているのは知らなかったです。
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スタニスワフ・レム「天の声」

2006-03-17 04:29:45 | book
天の声・枯草熱

国書刊行会

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「天の声」と「枯草熱」のカップリングのうち、『天の声」を読んだ。
いや、この小説の、ボーダーレスで緻密な粘着質な広がりようはただごとではない・・・

**

ニュートリノ観測データの中に偶然発見された「メッセージ」と思しきパターン。未知なる他者からの「手紙」を解読するべく、マスターズ・ヴォイス計画が極秘に進められる。集められるのは物理学者に始まって数学・生物学・言語学・情報工学など多岐に渡る分野の学者たち。
この小説は、その計画(MAVO計画)に参加した数学者ホガースの手記という体裁で書かれている。
「手紙」の解読を巡って、様々な仮説と実験、推測と憶測が繰り広げられるが、一向にその実体にたどり着くことはできず、膨大な記録と関連文献を生み出した末に、計画は失敗に終わる。その顛末を計画の内側から描こうというものだ。

計画の成果と思しきものはふたつだけ。
手紙を搬送するニュートリノ束を高分子溶液に照射すると、化学的に安定することがわかった。つまり生物の骨格となる原始構造を作り出しやすくなると言う作用があるということだ。
もうひとつは「蛙の卵」「蝿の王」と命名された、『手紙」の数パーセントの情報から読み取って作った物質。
その物質はエネルギーをつくりだしており、それは『冷たい核反応」によるものだった。
しかも観測の結果、この物質は核反応を瞬間移動する能力まであった・・・

**

しかしこの手記、一筋縄ではいかない。
こうしたアイディアやプロットやストーリーを追うことがこの本の目的ではないようだ。
そもそも、長い長い「序文」からしてくせ者で、著者ホガース自身の世界観だの、認識論だの、心理的バックボーンだのが掘り下げて延々と語られる。幼少のころの母の臨終の場でのおさえきれない「ほくそ笑み」の話などは、レムの自伝的小説である「高い城」を読んでいるような錯覚に陥る。

で、やっと本論にはいったと思いきや、こんな調子だ。
そもそも「手紙」はメッセージなのだろうか。われわれに向けられたものではなく、高次の文明間の通信をたまたま傍受しているのにすぎないのではないか?・・・メッセージと思っているパターンは単なる句読点のようなもので、パターン間の沈黙にこそ検知できないメッセージが入っているのでは?・・・『蛙の卵」は本当にメッセージを解読したといえるのか?たまさかわれわれの文明が読み取り可能にすぎなかった偶然/誤読の産物ではないのか?・・・手紙は一種の排泄物であり、植物が光合成によって他の生物の生息環境を作り出しているのと同じように、無意図的なものにすぎないのではないのか?・・・

特に迫力があるのはラストの講演会での議論。
膨張と収縮を三百億年ごとに繰り返す宇宙の交代期にうけつがれるのがニュートリノの波であり、世界と反世界との教会の割れ目から流れ込んでくるモノだ・・・
前宇宙の高次文明が、次の宇宙交代後の宇宙に向け、生命萌芽の種を引き継いだ遺言状のようなものだ・・・

**

絶対他者との遭遇。そのときわれわれはどのように考え行動するのかを、SF的誠実さをもってとことん追求すると、このような手記になるのだろう。
人間が逡巡する様を、自然科学的・人文科学的・政治的に、そして下世話的な観点からも丹念に描ききろうとするものだから、その言及は多岐・多層にわたり、一行一行が濃密な文明批評となって、次から次へとたたみかける謎掛けのような読後感だ。
この本はSF的誠実さ・真摯さの極北、到達点であって、ここから先どこへ行きようがあるだろうという地点にレムは立っていたのだと思う。

**

と同時に、これは小説としての冒険でもあるだろう。

たとえば、架空の人物が残した手記が死後公刊されたという設定(丁寧にその出版経緯まで巻頭に書かれている)がかもしだすメタフィクションの実験性。

あるいは、長い「序文」で特に顕著だが、「高い城」で試みて、不首尾に終わったと自ら述べている自伝的手法の再度の導入。(「高い城」では記憶を一つの秩序生成装置として信頼することでフィクションを成立させることができるという発想で自伝的手法を用いたが、「天の声」では、それをさらに、未来の架空人物の自伝的回想という形にすることでもう一皮フィクションの殻をかぶせている)

さらには、『手紙」の発見経緯の、妙に入り組んだ内容にみられるような、偶然と必然が区分不能な状況を描くという、いかにもレム的なテーマも含んでいるだろう。

ついでに言うと、メタフィクション的笑い話さえ含んでいる。
(研究にいきづまったある学者が、ノンフィクション的想像力に活路を見いだそうと、いわゆるSF小説を大量に取り寄せる場面がある。そして、SFというのはその実、大衆のよってたつ常識や観念を裏切るものではなく、むしろそれに迎合するステロタイプを際限なく繰り出す、非想像力的ジャンルなのだということがわかって、大きく失望して見せたりしている。)

**

SFとしての究極+小説という形式の実験。
という二つの側面を存分に追求した、油ののった小説だったのではないだろうか。
しかし、万人に手放しでお勧めはできないかな(^^;)
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ドッグヴィル再び

2006-03-16 03:19:43 | cinema
ドッグヴィル スタンダード・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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なぜか気になるこの映画

○セット
この映画では、セットがなく、地面に家の間取りや街路などを表す線が引かれているのが特徴。
しかし全くセットが無いわけではなく、机、教会の鐘楼、車、集会所の壁、ベッドなどはセットがある。家の壁、畑、果樹園、道、犬などは存在しない。
この存在/非存在、あるいは可視/不可視のバランスはちょっと面白いと思うのだ。
グレースのレイプシーンで一層はっきりするのだが、存在しない壁ごしに、村人はなにごともないように日常をすごしている、その向こうのほうに、レイプシーンが「見える」わけで、「見えない」はずの「事情」が、暗黙のうちに共同体のなかで既成事実化してゆくタチの悪さをよくあらわしていると思う。
それを期に、村の男たちはグレースを「性の訪問」によって慰み物にすることを暗黙の了解事としてゆくのだ・・・

○犬
村に一匹だけいる犬は、ずっと不可視の存在である。が、最後の最後に可視の存在となり、同時に鎖から解き放たれる。
犬は本能で行動するものの象徴であり、同時に、訓練し躾ることのできるものである。
グレースの存在によって解き放たれる村人の本能と欲望。そしてそれを飼い慣らし我がものにするために、グレースに付けられる首輪と鎖。
ラスト、グレースを解放する者がやってきて、そのくびきからグレースと解き放つ。そして引き起こされる惨劇は、自らの本能と欲望が解放され招いた災厄なのではなかろうか。
そしてその災厄のなか一人何をのがれるのは、ただ犬のみである。解き放たれた本能は、惨劇の後もなお野放しとなり、おそらくは次の惨劇へと続いているのだろう。

○労働の対価
グレースが最初に村人を戸別訪問し、仕事はありませんか?と問う。
村人は「とくに仕事はない」と一様に言う。
グレースは積極的に働きかけ、そこにはなかった仕事を作り出し、家々で働き始める。
そうして生まれた「やらなくても良かった仕事」は次第にエスカレートし、文字どおりの「肉体労働」にまで発展する。
その労働の対価はなにか。
それは「村での滞在許可」だ。
最初のうちは対等な対価として支払われていたが、村が彼女を「かくまった」ことによって、共犯者の要素が色濃くなるにつれ、「滞在許可」が「監禁」に変わってゆく。
この時点で対価は隷属に変わってしまうのだ。『滞在許可」の象徴であった7つの人形も村人によりたたき割られてしまう。このときから、村人は彼女の労働に対する対価を正当に支払っていないといえる。

最後にグレースに、本来帰属するべき場所と地位が与えられるとき、その負債がどうあつかわれるべきかがグレースの逡巡の源になったのだ。そして彼女は一挙に負債の返済を求めることになる。


と、どうも気になって考えてしまう映画だということで・・・
コメント (6)
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ラース・フォン・トリアー「ドッグヴィル」

2006-03-14 13:10:29 | cinema
ドッグヴィル スタンダード・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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ドッグヴィル
2003デンマーク
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影: アンソニー・ドッド・マントル
出演: ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー
ナレーション:ジョン・ハート

ギャングに追われる謎の美女グレース。迷い込んだのは人里離れた小さな村「ドッグヴィル」。村人はグレースの扱いについて集会を開く。かくまうべきか追い出すべきか・・・
グレースは2週間の猶予をもらい、村にとけ込もうとする。村人トムの助言に従って、すべての家を訪ね、小さな仕事から手伝いを始め、次第に村人とうち解けてゆくグレース。
しかし、ある日警察が村にやってきて、グレースの手配書を貼る。これを機に、村人とグレースの関係が徐々に変化し始める・・醜くゆがんでゆく人間関係・・そしてついに恐るべき結末が訪れる。

後味悪い映画を作らせると天下一品のラース・フォン・トリアー監督の、これまたしっかり後味の悪い一作だ。

床に家や道を表す線を引いただけで、あとは家具や壁の一部などの最小限のセットだけ、というセットにまず驚かされる。カメラも揺れ動くハンドカメラが主体で、ときおり村全体を見下ろす天井(?)からの俯瞰が挟まれる。
出演者は存在しないドアを開けて家を出入りすると、ドアの開け閉めする音が聞こえる。
セットは演劇的だけれど、そこに繰り広げられるのは見る者の想像力を刺激する不思議な映画的リアリティだ。

おそらくはアメリカの縮図と考えてよい閉鎖的な共同体が舞台だ。貧しく、希望のない、それでも粛々と続く日常。
そしてそこへ放り込まれる突然の他者。共同体はどのようにしてそれを受け入れ、またどのようにそれを疎んじ、どのように扱うのか。
そのプロセスがこの映画の後味悪さの中心だ。

理性や慈愛の念と同居する、欲望や本能に根ざす妬みや恨み。
そうした欺瞞を持ちながらそれを暗黙のうちに共有し、温存しながら存続する共同体の原理。
似つかわしくない美女を放り込むことによって、そうした村の暗部が容赦なくむき出しになってゆく。
この暗部の毒気の濃度を徐々に高めながらラストへと向かうこの映画、そのラストシーンもまた、??考えさせる。

共同体の持つ欺瞞の罪はいったい誰の罪なのか?一人一人に撮るべき責任は、償うべき罪はあるのか?それとも貧困や環境にこそ罪はあるのか?
環境に罪があるとして人々を許すのは、寛容なのか傲慢なのか?
罪を償う機会を与えることこそ謙虚な考えなのか?
根元的な問を列挙して解決しないまま、映画はある一つの道を選んで終わる。

それは何の答にもなっていないにもかかわらず、映画のクライマックスでありカタルシスにさえなっているところが、また恐ろしい。
すなわち裏を返せば、この映画のもっとも難解で受け入れがたい瞬間がよりによって最後にやってくるのだ。

ああ後味悪い。

でもこの後味悪さ、ちょっと忘れがたい。

**

このオープンなセットは、共同体の性質をよく表現していて面白いと思った。
(プライバシーがあるようで、隣の事情は筒抜けという感じ)

自動車はすべて本物を使っていたのも面白い。
移動は唯一外世界を象徴するものだから、実体があるのかな。

エンドロールで流れるデヴィッド・ボウイのヤング・アメリカンがまた象徴的。
その間の、貧困層を写した写真も意味ありげで、これまた後味悪い。

↓ここの無料放送で観ました。
 ときどきCMがはさまれるのがうざいんですが、無料なので我慢・・・・
gyao

続編が近日公開ですね。

***
<追記>
トリアーといえば「ドグマ95」
しかし「ドッグヴィル」はドグマの考え方とは大きく異なる作品になっている。
(当然ドグマ95のクレジットはなかった)
むしろ積極的にアンチドグマ的な映画になっている。
(完全セット撮影、殺人や銃のシーンなど)
このあたりの変節の経緯を知りたいな。
ドグマ95
コメント (11)
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