Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「JPN」Perfume

2013-10-30 11:28:57 | music
JPN(通常盤)
クリエーター情報なし
徳間ジャパンコミュニケーションズ



新譜がでたばっかりのPerfumeですが、
1つ前の本作JPN。

新作LEVEL3がダンスアルバムだとすると、
JPNは思うにPerfumeのソングアルバムなのだと。

歌心いっぱいあふれた楽曲が
エフェクト感少なめの3人の声でみごとに編みこまれています。
音もなんというか上品だと思う。
定番の音から微妙に離れて面白い音づくりをしつつ
全体をポップな音響に仕上げていると思います。

基本的に歌心あふれる曲は大好きなので
このアルバムは捨て曲は1曲もなし!


歌心ってなんだろうというと、
絶妙なメロディラインと
その絶妙さを彩って推進するコード進行だと思うんだよね。
俗に堕ちることなく工夫され仕掛けが施されたコードとメロディ。
それが全曲に備わってるのだね。

つうことで愛聴してますの^^
歌モノお好きな方にはおすすめですの^^


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「NEW」ポール・マッカートニー

2013-10-28 23:36:30 | music
NEW
クリエーター情報なし
ユニバーサルミュージック


宣伝ではビートルズ回帰のアルバムのように盛り上がっていたが、
内容は完全にソロのポールであり、遊びと冒険のある2013年のポールという感じ。

1曲目のハイボルテージなロックは、デヴィッド・ボウイのThe Next Dayの冒頭を思わせていい感じ。
ネットなどで露出されていたあのキャッチーな曲NEWはもちろんいい曲だし(短さがいい)
ボーナストラックを除いたアルバムの最後の曲であるROADもワタシ好み。

で、やっぱり買うならば国内盤ですねー。
ボーナストラックが世界最多の3曲。
以前からボーナストラックに名作が多いwポールだけにこれは必須です。

で、やっぱりボーナストラックよいですが、
特に日本盤だけのトラックSTRUGGLEが面白い曲です。
サウンドがとても面白い。美しいメロディで聴かせる曲ではないけれど、
遊びで作った感じの歌がアレンジでちゃんとした領域に高まっているという感じです。
これはいいね。

と感心していると、最後にびっくりすることになるんですが・・・
それはCDで聴いた人にしかわかりませんのよ~~


ということで、ワタシ的には静かに盛り上がりそうなアルバムですた。


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「ブリキの太鼓」ギュンター・グラス

2013-10-28 01:48:36 | book
ブリキの太鼓 (池澤夏樹=個人編集世界文学全集2)
ギュンター・グラス
河出書房新社


新訳ということなので買っておいて積んであったものを読みました。

旧訳の方は映画公開のころに一応読んでいるのですが、もちろんほぼすべては記憶の彼方。
旧訳と新訳の違いなどはまーーったく指摘できません。
概して読み易い日本語で、かつグラスの文体のややこしくひねくれた雰囲気も十分に楽しめるという感じです。

内容については、怒濤のドイツ・ポーランド辺境史という感じで
もはやここに何を記すべきか途方に暮れるのですが。。

生まれでた瞬間にすでに自我というか一人前の意識を持っていたオスカルは
3歳の誕生日にこれ以上大きくなることを拒否し、18歳(だったかな)までを
身長94センチメートルのままで過ごす。
一人前の自意識と、外見3歳の幼児とのそれぞれの利点を抜け目なく生かして、
第二次世界大戦前後という激動の時代を激動の地域で生き抜くのだが、
そのどこにも所属しない者の視点からみた時代は
深刻であるとともに滑稽で笑い飛ばしも出来るものに見える。
その特殊な視点からの人間社会の徹底した相対化が本書第二部までの面白さではないかしら。

もちろんオスカル自身はオスカルの立場でまっとうに直面する社会にコミットしているのだが、
そのことによってあのとてつもない時代が腰砕けにくだけていくという構造が面白い。

その点からすると、第三部は成長を決意したオスカルがその二面性(おとなとこどもの)を離れて
ひとつの個人に収斂していく過程なのだが、それはオスカルはいかにして生計を立てたかみたいな話になる。
オスカル対社会ではなくオスカル=社会となる物語なのだ。
それはもちろんとてもおもしろんだけど、第2部までとは違った視点のものというように思えるので、
シュレンドルフによる映画化が第2部の終わり近くまでで終わっていることも、
慧眼なのだろうな。

ということを踏まえつつ、なお映画の続編を見てみたい気がする。
オスカル後日談ではあるが、ひとりの青年がいかに戦後ドイツを生きたかという面白い映画となるはずだ。

*****

シュレンドルフの起こした映像は、かなり原作に忠実であったのだなあと認識。
むしろ映画を観てからこの本を読んでしまうと、
映画での情景しか浮かばなくて困るのかもしれない。
困りはしないけれど。

終盤なんどかオスカルと一家の生きた情景が怒濤のようにフラッシュバックするところでは
思わず涙ぐんでしまった。
それはオスカルの記憶であるとともに、青年期にシュレンドルフの映画に親しんだワタシ自身の記憶でもあるからだ。
映画を観ていたことによって小説でのオスカルの心情を疑似体験したということか。

塵払い団のこととか、映画にないエピソードもたくさんあり、
脳内映画を補って映像がたくさん浮かぶ。
小説体験が映画的体験にこんなに近いのも面白いね。

旧訳↓
ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』全3巻セット (集英社文庫)
ギュンター・グラス
集英社


ブリキの太鼓 ディレクターズカット ブルーレイ [Blu-ray]
クリエーター情報なし
角川書店

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「豊穣の海 第1~4巻」三島由紀夫

2013-10-27 02:14:46 | book
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社


三島由紀夫の遺作を読みました。
明治から昭和にかけて、日本の近代から現代を通じて生きた本多という人物を語り部のようにして、
輪廻転生する魂を強烈な軸にしながら、
どんどん変わっていく日本の社会精神史に仮借なく切り込んでいく。

神道を根源とする戦前の貴族や平民の心性や
対流としての仏教思想、インドにおもむいてのヒンズー教の思想にも深く関わりながら
人物は深い思念を巡らしてはそれぞれに信じるところを歩むのだが、
それも戦後の世俗趣味の興隆に至っては、行動も卑小なものになり先細りするかのような展開すら見せる。

がっぷりと日本の近代現代のありように向かい合った、迫力のある小説である。
以前どこかの文学賞かなにかで石原某が、応募作に真摯に現代と切り結ぶものなしと嘆いたという話を記憶しているが、
彼の念頭にあったのは三島のこの小説のようなものだったのではなかろうか。

***

第一巻「春の雪」は、明治の学習院に通う貴族あるいは名家の子息二人が主人公(本多はそのひとり)であるが、
彼らはまったくもって頭脳明晰で志も壮大で、それは現代の10代に望むべくもないのだが、一面では、長じれば社会の一員として身を呈して世の礎となるべく社会の無言の圧力のもとで誰もが生きる時代でもある。
そのなかで、本多の親友である松枝は、10代の持つ純粋さを押し通すのだが、そのこと自体が十分に過激であるために、純粋さも一層研ぎすまされた形をとることになる。
抑圧の中の純愛ものという感じか。それ自体はとても感動的であるし、
この松枝の過激なはみ出しが、この長大な物語すなわち社会の変貌の始まりであるのだという観点は
とても面白いと思う。

第二巻「奔馬」は、明治以前の神道的な国体思想を理想とする昭和の若者の生き様を描いているのだが、その若者、勳は、
松枝の転生した姿だと思われるのである。しかし時代はもはや明治ではなく、聖なるものではなく卑俗なるもの、政財界が牽引する世となっており、松枝を受け継いだと思われる純粋さは、暴力的な革命の中に死ぬことに見いだされることになる。
卑俗な世界がどのように卑俗になっていくのかを表す一方で、勳の企ても、手本とした神風連の高みにはほど遠くもろく貧弱であるところがよい。

第三巻「暁の寺」では、転生の印は遠くビルマに現れるのだが、ここでは本多がビルマからインドを歴訪し、ガンジス川とともに生きて死ぬ人々の圧倒的な姿を目の当たりにして、属する日本のあり方をぐっと相対化してしまうのだ。ここでヒンズー教の思想にも突っ込む。
時代は戦後になり、占領下の激変をあっさりと僥倖でのりこえた本多が、転生の対象に複雑な感情を抱くのだが、ここで松枝の持つ純粋さの行方はがぜん不明瞭となる。

第四巻「天人五衰」は舞台は昭和40年代になり、卑俗なるものがすでに主流のものとなり久しい世界である。ここでも年老いた本多は転生の印を見つけはするのだが・・もはや聖俗の葛藤からほとばしる純粋さの疾走もない、すべては平坦で地にへばりつき説明が出来る。そんな感じ。そんななかで古い時代を知る本多自身も卑俗なるものとして余生を送るのである。
物語は生彩を欠き、ひとりひとりが抱く劣情が狭く展開することになるので、全体としては先細りしている印象を持つのが第四巻であるが、転生の印の信憑性のことをはじめ、これまで築いた根本的な設定や前提をことごとく覆し、すべてを灰燼に帰するかのような破壊力が実はこの巻にはあるのだと思う。
そして読者がずっと予期していた大団円を迎えようとする終盤で、えっと絶句するようなことが待っているのである。

***

という具合に、ある面では、人の純粋さは時代に即してどのように現れるのかという小説であり、現代ではそれも曖昧模糊として最後には霧散するようである。
あるいは神道、仏教と培ってきた思想の変貌と終焉であり、その裏側での聖なるものから卑俗なるものへという社会の流れについての小説でもあるだろう。
そういう変節もまた、純粋さをもって社会の枠をはみ出た松枝に始まる、俗なる個人の誕生によるものであるという小説でもあるかもしれない。
幾重にも折り込まれ世の中をすべてとりこんでしまっているような力作である。

もはや現代の誰も書き得ないような言葉の連なりにも驚く。
たった数十年でわれわれの書く文章はこんなに隔たってしまった。



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ユジャ・ワンのラフマニノフピアノ協奏曲第3番ほか出ましたねー

2013-10-25 03:00:22 | music
Piano Concerto No.3/Prokofiev: Piano Concerto No.2
R. Rachmaninov
Deutsche Grammophon

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番
クリエーター情報なし
ユニバーサル ミュージック


ユジャ・ワン+ドゥダメル+シモン・ボリバル・シンフォニー・オーケストラの待望の新譜ですね。
いまのところ輸入盤で手に入ります。
国内盤はたぶん12月になってから。

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」と
プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番」が収録されてます。

ラフマニノフもプロコフィエフも、ユジャらしく
乱れのないリズムと軽めの音での疾走感がふんだんに発揮されています。

もちろん巨匠色はなく、聴きようによっては軽すぎるのかもしれません。

が意外に?というか旧譜のラフマニノフ第2番でも明らかではあったんですが、
第2楽章の弱音での歌いかたにはなかなかのリリシズムがありまして
間違いなくそこでは異国へ、ロシアへ、中国へ、南米へ、連れて行ってくれるのであります。

この異国感が確実に聞き取れれば、ワタシ的な演奏の評価は◯です。
あまあまです。
ワタシが得るものがあればどんな演奏でもいいのです。

演奏は聴いていただく以外ないのですが、
特筆すべきは演奏終了後のお客さんの反応ではないでしょうか。
南米魂炸裂の声援は、日本のお行儀のいい聴衆からは発し得ないものがあります。
すごいなあベネズエラ。

あとこのジャケットのアートワークはどんなもんだいねん
変なの~と思いつつ、まあ変なのがあってもいいかなと。


ヘビロテ中。


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「親衛隊士の日」ウラジーミル・ソローキン

2013-10-22 03:14:49 | book
親衛隊士の日
ウラジーミル・ソローキン
河出書房新社



ソローキンは3冊持っているが、読むのはこれが初めて。
(積ん読ですな)
近年は小説らしい体を成してきたというウワサのソローキンですが
たしかに読み易いです。

近未来設定だと思うんだけど、
ロシアで再び帝政のようなものが布かれていて、
その親衛隊のメンバーの1日を描くんだけど。

帝政に反逆するものと認定された貴族の元にはこの親衛隊が出向いて粛清するんだけど、
まあ帝政でなくても粛清のあった歴史のあるロシアでは痛烈な描写だと思うんだよね。
酷いことをやりながら描写はコミカルで。

親衛隊の仕事はいろいろで、税関でのトラブル収拾にかりだされたり
劇場での演目の監視をしたり
皇帝の奥方のいいつけで占星術師だかなんだかの(なんだっけ?)ところにいったり

親衛隊内部の結束も高く、序列は厳格に守られるにしても友情とそれ以上の忠誠心のようなもので
がっちり団結していて、
屈強な男ばかりで浴場にいき、非合法ドラッグみたいなものでぶっとんだりするし
それどころか◯◯◯を×××に次々に突っ込んで繋がってみたりする(!!)


なんなんだろうこの小説は。
体制がどうなろうともやることは変わらないよということなんだろうか。
ロシア的なものにはこれまでも惹かれつつも理解を拒絶されているような不思議な魅力があって気になるのだけれど、
ここでのロシアは例えばタルコフスキーなどとは肌合いが違う
しかしまた同じように引力と斥力が同居する変な感触のある世界である。

**

現代史といちいちつきあわせて読むとかなり面白いと思われる。
人物の名前がことごとくどこかのだれかを想起させるようなものになっていたりするようであるし。

ブルガーコフを思わせるところもある。ドラッグでぶっとんでいるところの描写はそんな感じがする。


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「クォンタム・ファミリーズ」東浩紀

2013-10-21 02:49:09 | book
クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社



「クォンタム・ファミリーズ」東浩紀

『クリュセの魚』の方を先に読んだのだけど、
あちらはラノベ風テイストを織り交ぜてそういう層にアピールした面があるのに対して、
『クォンタム~』の方は、ずっしり大人向けというか、ハードSFに近いSF読者を相手にしているように思える。

内容は暗く、そして入り組んでいる。

コンピュータライズされネットワーク化された、我々がここ10年の間に手に入れたネット空間の行く末について、
量子コンピュータというパラメータを投じつつ、決して明るくないビジョンを示している。

その暗いビジョンのなかで衰退していく社会に生きる「複数の」家族もまた、それぞれに荒廃している。
個人はよるべない空疎な社会空間に自己実現や充足からは遠く生きる他なく、精神を病んでいたり、
精神を病むことを当然ある可能性として受け止めていたりする。
その荒廃を例えば家族に向け暴力的な行為に出たりするし、それに対する憎しみを持っていたりする。

あるいは外に向けられる人の意識もまた荒んでいる。
憎悪をネットで増幅させて反社会的な言説のもとに集ったり、そこから無差別テロを画策する者がいる。
テロのさなか、逃げる人を捕まえては年収を訊いて高年収のものを殺害したりする。

そういう暗さ。


そのなかにあって、多かれ少なかれ似通った平行世界(量子コンピュータ以降理論的存在が確認された)に属する家族が、
平行世界間の時間的なずれを利用して入り組んだ方法で交流することになるのだが、
そこにはすくなくとも4つの似てはいるが異なっている平行世界が関係しており関係はかなり複雑である。


私見だが、この暗さと複雑さを重ねあわせたところが本書の最大の魅力なのだと思う。
似通っているが細部はそれなりに違っている世界が交わっても、暗さはそれぞれに事情が違いながらのしかかる。
そのなかで、主人公は様々に追い込まれ、最後に事情はどうあれ目前にある家族を守るのだという行動に出る。
そのシンプルな思考が解決ということになるわけではないが、
そこに至らずにはいられない心情が、この重層的な暗さの中でこちらの心にずしんと響いてくる。


エピローグ的な最終章の、大団円に至らない暫定的な静寂がまたよい。
解決などはあり得ない、不断に違和感のある身体と精神と社会を生きていく以外にないのだと
そう思わせる締めくくりは、どうしても同感せざるを得ない。
ワタシの世界では平行世界との交わりはいまのところ意識のレベルではないにしても
暗さはこの近未来小説と何ら変わりはないし
複雑さだってそうは変わらないのかもしれない。



読了後1ヶ月以上経過してしまったので
細部を既に忘れかけていて、この程度しか書けないのです。

****

『クリュセの魚』のところで書いたけど、ネットの技術と空間の可能性を利用することで「一般意志2.0」の現出を夢見た著者が、
本作ではその技術と可能性と同根のところから、ボットが跳躍し人の関与が極端に減り信頼性が失墜したネット空間を予見していることが、軽くショックでありました。
こうして明るいことばかり見ない著者には共感できますね。

上にちょっと書いたけど、年収を訊いてから人を撃ち殺すヤツが妙に印象的でした。
実際今の世の中には他人の年収の多さにクレームやネガティブキャンペーンをはったりする心性がまちがいなくあり、
そのような暗い今の側面を擬人化したヤツなんだろう。
こういう現代社会の肌触りをほかにも細かく取り込んでいるのが面白いというか気が滅入るというか。。

それから、頻繁に村上春樹、特に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に言及があるのが意外というか、
この小説のテイスト自体は村上春樹的(とくに「世界の終わり」のほうとか『ねじまき鳥クロニクル』とか)に近いものがあるので、
うなずけはするのだが。(ワタシは嬉しい←実はハルキスト)

頻繁に言及といえばもうひとつP.K.ディックもしばしば登場する。これもウレシイのだが、
村上もディックも平行世界ものの作者であるわけで、そういうモノを参照しつつ著者の頭の中で構想が練られたのだと
思うのも楽しい。




ということで、大人向けSF風味社会小説/私小説でしたかと。
量子力学の他世界解釈を現実のものとすることから派生するアイディアという点で
『クリュセの魚』と共通するものがあり、両方読むのがオススメ。
(主人公の姓も同じだしね)



ちなみに文庫版ではなく単行本版で読みました。
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「ルパン三世 念力珍作戦」坪島孝

2013-10-19 02:13:19 | cinema
ルパン三世 念力珍作戦【期間限定プライス版】 [DVD]
クリエーター情報なし
東宝


ルパン三世 念力珍作戦
1974日本
監督:坪島孝
脚本:長野洋
原作:モンキー・パンチ
出演:目黒祐樹、田中邦衛、江崎英子、伊東四朗
音楽:佐藤勝


「いい車ね」
というオープニングから
「浅間山だ!」
という中間地点を経て
コンテナヤードをぐるぐる走り回りながらエンドマークを迎えるまで
ひたすら涙なくしては観ることの出来ない
70年代ドタバタナンセンス映画

原作クレジットはあれどまったく原作には関係なく作られている(と思う)
濡れ場になると♂♀マークが絡み合うというところが原作と共通するくらいか。
宝石泥棒をバキュームカーでやるっていうのは原作にあるのかな?

銭形警部(伊東四朗)率いる腰抜け刑事たちの活躍が実にバカバカしく面白い。
とりしらべのときに激昂して机を叩くところで、手が痛いので部下の手をかわりにばーんとやるのを
しつこく何回もやってみせたり、夜中の追跡シーンで走ってたのを急停止したら靴の裏が焼けてあっちっち!とか、
もほんとにばかばかしい。

当時の流行や事件を随所に反映しているのだと思われる。
そもそも「念力」って流行したねえ。本作の内容にはほぼ念力は関係ないんだけども。
あとは浅間山の噴火とか、当時の売り出し中女子グループ(ポピーズというらしい)のカメオ出演とか。

次元大介(田中邦衛)の早撃ちがコマを切って短く繋いでるとか
ほんとにしびれるのだけれど。

のどかで屈託のない笑い。
みんなこんなふうに笑っていたんだ
1974年
劇場公開時は『ノストラダムスの大予言』と併映だったのだ。
来るべき恐怖の大王に対峙する一方で
こういう口直しも用意してたんだね。
おしること塩昆布。

公開時ワタシは、父親の友人が某所で開いていた映画館にて
本作を何回も観た。
大予言は恐くて1回でパスしたが(もっと観ておけばよかった)
こちらのほうは面白くてしょうがなかった。
ルパン帝国のぼっちゃん、とか言ってへりくだってた次元が急に
「そんじゃルパンよぉ?」とくだけるところなどで大笑いしていた。
子供だったのだ。

それでも当時からこの歳になるまで持ってきた記憶と
実際の映像はけっこう食い違っていた。
そういうもんだろう。

父親の友人の所有していた映画館は近年まで営業していたが
2年くらい前についにその灯を落としたということだ。
そのことは新聞だかネット記事だかの片隅に載っていた。

**

監督の坪島孝はクレージーキャッツの一連の映画の監督のひとりということで
まさにそういうノリである。

殺し屋が孤児院に現れるとそれが天本英世だったりして、
彼だけはモンキーパンチぽさがあった。



@自宅録画
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「エフィー・プリースト」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2013-10-18 01:21:11 | cinema
エフィー・プリーストFontane Effi Briest
1974西ドイツ
監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
原作:テオドール・フォンターネ
出演:ハンナ・シグラ、ヴォルフガング・シェンク、ウリ・ロンメル ほか



寝てしまった。
面白くないということではありません。
体調の問題です。

作風として、モノクロで昔の肖像写真のような静謐さと、ちょっとストローブ=ユイレ風のエピソード細切れ感があり、
いつもの?ドタバタしてギラギラしたファスビンダーではありません。

が、題材としてはファスビンダーらしいもので、19世紀貴族の箱入り娘が不倫の恋に落ち、
強い自我を持ちはじめ枠をはみ出して行くというもの。

なんでこう女性の姿ばかり追うのか?というのは、女声ボーカルに自我の表出を託しているようなワタシには
それなりによくわかる気もするのだが、そこにはある面では理想というか自分にはないものの実現ということがあるのだろう。

**

ここでも設定年齢を軽々とのりこえるハンナ・シグラの絶妙に微妙な存在感が映える。
彼女の良さはこの絶妙に微妙であることの受容なくしては理解できないであろう。

ファスビンダー組でははずすことのできない面々がうじゃうじゃでてくるんだけれど、
特にイルム・ヘルマンがあの独特の辛気くささをさらに増強したようなキャラクターででてくるので
ヤバいものを食べた時のようにしびれるね。

ファスビンダーはストローブ=ユイレの影響は演劇時代に受けているとのことである。
詳しくひもとく気力がないですが。

ところで映画の正式なタイトルはこれだそうです↓
"Fontane Effi Briest oder viele, die eine Ahnung haben von ihren Möglichkeiten
und ihren Bedürfnissen und trotzdem das herrschende System in ihrem Kopf akzeptieren
durch ihre Taten und es somit festigen und durchaus bestätigen"



罪なき罪―エフィ・ブリースト (上) (岩波文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店



@自宅録画
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「アウトロー」クリント・イーストウッド

2013-10-17 03:00:25 | cinema
アウトロー 特別版 [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ


アウトローTHE OUTLAW JOSEY WALES
1976アメリカ
監督:クリント・イーストウッド
原作:フォレスト・カーター
脚本:フィリップ・カウフマン、ソニア・チャーナス
撮影:ブルース・サーティース
出演:クリント・イーストウッド、ジョン・ヴァーノン、ソンドラ・ロック、ビル・マッキーニー、チーフ・ダン・ジョージ ほか


南北戦争終結の頃のお話。

ここでの主人公のアウトロー像はアンビバレントなものです。
もともとは妻子を大事にする開拓者で土地を耕し定住する男だったのだけれど、
妻子が「レッドブーツ」達に殺され家を焼かれたことで、復讐の念を抱きつつ
彼らと敵対する南軍のひとりとして戦う。
けれど南軍が投降していくなか、復讐が目的の彼だけは投降せず、
そこから本当のアウトローとしての独り立ちがあるわけです。

しかし彼は孤高を目指すのではなく、
実はどんどん人と関わっていく。
彼が何に対して是とし、何に対して非というのか、が
ここからの話を推進します。

理不尽な暴力や抑圧(それはしばしば集団で行われる)に対しては反射的な嫌悪を抱き、
本来は平和を愛する孤独な人々に対しては庇護の念を(控えめに)表す。
その結果、アウトローたる彼の周りにはしだいに帯同者がふえていく。
ここが面白いところですね。
上記のような原理?から、帯同者には、原住民の老人、同じく原住民の女、
移住の途中で原住民に襲われていたところを助けた白人の老婦人と若い女性。
面白い所帯です。

彼らが落ち着くことになるミズーリ(だったっけ?)の農地とあばらやの近くにある
寂れた町の酒場(酒なんかほとんどないような)にたむろる連中ともなにかいい関係を築いちゃったりします。
彼らも交えて農場でバーベキューとかして歌い踊ったりして
つかの間の幸せって感じです。

全然アウトローな感じではありませんが、
こうした取捨選択の原理のなかに、正義と独立の矜持が貫かれているので、
つまりこういうことを貫くとアウトローにならざるを得ないということで、
別の面ではこれがアウトローになってしまう時代の悲しさというか
往々にして大きな力や体制のもとでは
人間の尊厳を守るということが些事になってしまうんだということをも
語っていると思います。

敗者、少数民族、女性、老人
そういった弱者の側に立つ強い個人、アンチヒーロー的ヒーロー。

実にイーストウッド的な
あるいは70年代的な主題を扱った映画だと思います。

******

ワタシはこういう価値観に染まって育ってきたので、
まあここでのイーストウッドには無条件に心酔しますです。

ソンドラ・ロックめちゃめちゃかわいいし。




@自宅録画
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「エンド・オブ・バイオレンス」ヴィム・ヴェンダース

2013-10-12 00:34:58 | cinema
エンド・オブ・バイオレンスTHE END OF VIOLENCE
1997ドイツ
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ニコラス・クライン
音楽:ライ・クーダー
出演:ビル・プルマン、アンディ・マクダウェル、ガブリエル・バーンほか


存在しなかったかのように扱われているような気がしないでもない作品かと。
これ自体はそんなにひどくはないと思うのだが。

ヴェンダースの作品として考えれば
サスペンス的な要素が主体ではないということはまあ納得いくので
影の組織が詰めが甘いとか
陰謀の内容がしょぼいとか
そういうことはあまり非難すべき点ではないように思える。

これもまた得意なモチーフだが、
映画プロデューサーの日常と非日常を扱ったなかで、
うまくいかない夫婦間の愛情のもつれ=肥大化したビジネスに対応せざるを得ない現代人の愛の形
とか
高度に監視化された社会のなかで、なお隠遁する、無名であるとはどういうスタイルなのか
とか
そういう社会における合理主義の帰結としての冷酷さを受け止めつつも乗り越えていく希望を個人の心のありように求める
とか
そんなヴェンダースらしすぎる主題が、
らしさに忠実に配されている映画なのだと思う。


それ故に、
この映画のぬるさとはヴェンダースの提示する思想のぬるさそのものに他ならない。

たとえばプロデューサーの隠遁を支えているのは、メキシカンたちとの素朴な信頼と友情であってそれ以外のものはなにもない。
あるいは組織の暴力を阻止しようとするのは、ひとりの母親の決意と身振りだけであってそれ以上のものはない。
いくらなんでも、それではこの世は渡っていけないだろう、と観る者に思わせる彼の思想。
これだけ?という失望感である。


とはいうものの、ワタシがヴェンダースを憎めないのは
そういう花畑的な思想の足腰の弱さを、隠しもせず補強のそぶりも見せない
開けっぴろげなところが、ワタシ自身の資質とよく似ているからだろう。

この種の人間は、このようにさらけ出す以外にやりようがないのだということがよくわかる(つもり)
だからヴェンダースをハリウッドに呼んで成功させようみたいな思惑は
当然裏切られてしまうわけですね。


そういう同族的な視点から、ワタシはこの映画そんなに苦痛ではありませんでした。

映画そのものについてというより
なんか弁解みたいになってしまったな。

******

サミュエル・フラーが老いた父親役で登場
パソコンやワープロを拒絶する。

映画中、キンコーズでパソコンをいじるところで、ネットスケープが立ち上がる場面で
盛者必衰の理があらわされた。。



@自宅録画


ネットスケープ
コメント (2)
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「オール・アバウト・マイ・マザー」ペドロ・アルモドバル

2013-10-10 01:02:19 | cinema
オール・アバウト・マイ・マザー [DVD]
クリエーター情報なし
アミューズ・ビデオ


オール・アバウト・マイ・マザーTODO SOBRE MI MADRE
1998スペイン
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、マリサ・パレデス、ペネロペ・クルス、アントニア・サン・フアン、ロサ・マリア・サルダ 他

よい作品です。
アルモドバル、昔観てた時は不思議な変な作家よねと思っていたけど、
この時期くらいから「変な」という感じはいい意味でなくなっているかも。

いや、変なのかな~
性転換まではいかないオカマさんとの間にできた子供をめぐる
切なくシリアスな愛憎の交流。
主題と内容は全然変じゃないんだけど細部にいろいろな面白いところがある。

『イヴの総て』を巧みに引用しているとか
不在の夫のことについて話すと約束したあとに事故に遭うとか
事故の場面を被害者目線のアングルで撮るとか
臓器移植コーディネータの仕事と事故が関係してくるところとか
『欲望という名の電車』の内容とマヌエラの境遇を微妙にシンクロさせているとか
ペネロペ・クロスのシスター・ロサの親子関係が変なとことか
ロサの父親が認知症らしいこととか
マヌエラが息子がサインを拒まれた女優に接近すると仲良くなってしまうところとか
ロサの子供の父親がマヌエラの子供の父親であるところとか(これは細部ではなくて根幹だ)

実に巧みなプロットなんだよね。
『トーク・トゥ・ハー』なんかもこういう類いの巧みさを発揮している。
マヌエラの悲しみをのりこえていく過程が
そういう細部の積み重ねの中にじわじわと書き込まれているような感じで、
がつーんという感動じゃない、ああ観てよかったなという喜びのようなものがある映画ですね。



移動をトンネルの暗闇を突き進むカメラ目線で表すとか
列車が右に去っていってマヌエラが去るんだけど、カメラはそのままで
「2年後」(だっけ?)とテロップが出て
次に列車が右からやってきて、マヌエラが戻ってくるというシーンにつなげちゃうとか
可笑しいつくりもあってうれしい。



@自宅録画
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「天国の門 デジタル修復完全版」マイケル・チミノ

2013-10-08 23:46:56 | cinema
天国の門HEAVEN'S GATE
1981アメリカ
監督・脚本:マイケル・チミノ
撮影:ヴィルモス・ジグモンド
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
クリス・クリストファーソン、クリストファー・ウォーケン、ジョン・ハート、イザベル・ユペール、ジェフ・ブリッジス、ジョセフ・コットン、ブラッド・ドゥーリフ ほか


『天国の門』は以前DVDで観たのだが、
今回はデジタル修復およびチミノ監修によるディレクターズカット版ということです。
当初劇場公開時は149分、
2005年にMGMが公開したものが3時間39分(219分)、
今回のものは216分ということで、これまでDVDで発売されたものは219分のものということです。

修復に当ってはテクニカラーの3原色に分離されたマスターネガをベースにしたということですが、
画像は若干荒く、特に前半の卒業式シーンでは、黒い服の表面に白いざらざらが見られるような感じでした。
もちろんだからよくないということではありませんけど。

サウンドトラックはすごいものでした。
金に糸目を付けずに作られただけあって、随所に突き詰められた末の過剰みたいなものがあって、
卒業式でのダンスとか、
移民たちのローラースケートとか
ワイオミングの町のにぎわいとかが大変過剰に物量が投じられているんですけど、
その結果が、音に出ている。
鉄道が着く町の中心部では狭い町ながらスゴい数の人がひしめいていて、その喧噪と
ひっきりなしに馬車が通る音がスゴい音で常に鳴っている。

あるいはワイオミングの荒野にある小さな集落で
雪のかぶった山々をバックに風が吹くんだけど、
その風の音が妙にリアルで大きく、自分が野外で風を受けているような気分になる。

ということで、修復版を劇場の大画面大音響で観れてよかったな~
boidさんありがとう。


内容的なことは前回鑑賞時にも書いたのですが、
今回は特に過剰ということを考えましたね。
物量的過剰ということもあるんだけれど、
そうではない面、たとえばネイトがエラに椅子をすすめるなんでもないシーンなんだけど、
そこでエラがちょっと思案し、表情を変えてゆき目配せしつつ、最後ににっこりわらって座る、
というように、いろいろなところで人物たちの心情を醸し出すような贅沢な時間の使い方をしているのです。
(ちなみにもちろん↑のシーンは無言でね)

あるいはエラを逃がしたいジムと、ここにとどまるときかないエラが話し合うシーンでは、
エラがまとめた荷物をジムが激情して蹴飛ばして、
エラはそれをまた手早く積み直す。
で、しばらくするとまたジムはそれを蹴飛ばして、エラは積み直すんだよね。
2回やる。

そういう過剰さがあるなあと思いました。
豊かな映画という言い方もあるかも知れないが、
普通でない時間の使い方というニュアンスを込めて。

ということは、そういう時間の積み重ねがこの映画の肌触りを決めていっているので、
自ずとこの映画にふさわしい尺というのがある程度長くなるのは必然なんだろう。
長くてテンポが悪いというのとは全然ちがう、
長いゆえにこの映画のテンポと形が出来るという感じ。



それと、カイエ・デュ・シネマに掲載されたチミノ記事の翻訳(チミノといっしょに映画のロケとをまわるってやつ)をboidさんから手に入れたんだけれど、そこに、ジョンフォードの言葉として、「映画で美しいのは(だったっけ?)馬とダンスと山だ」ていう主旨のことが書いてあって、『天国の門』でも実にそのセオリーを守っているのが面白い。

冒頭のダンスと終盤の銃撃戦の回転運動的繋がりについてはもう随所に書かれているのだが、
とくに銃撃戦においてはその繋がりによって馬とダンス(の要素)と山が同時に展開する画面になっているのが、恐るべき点である。。




あとは、そうねえ、中味としては、
正しい人間とか潔白な人間はひとりも出てこないというところがよい。
強いて言うならジムがかろうじて最後に自分の正義を貫こうとするのだが。。

この映画では移民たちは迫害されて被害者的だが
彼らもここでは生きるために家畜泥棒を働く犯罪者であり、
一方で移民の粛清を計る地主たちも、殺人者ではあるけれど、自分の財産を守るという名分がある。
善悪はここでは人に備わった資質ではなく、
状況が人に与えるポジションに過ぎない。
だから状況によって人は悪の側になり殺されもするし
善をまとって殺しもするし、
それはそういうものなんだ。
というような世の中の理解みたいなものを感じたですね。

そういう映画というのの対極には勧善懲悪の映画があり、
世の中はどちらかというと後者を好むように思われるので、
『天国の門』が興行的に失敗するのもムリからぬところかなあと
じわりと感じました。

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映画としては実に見応えがあります。
東京での上映期間はだいぶ短そうなので、観に行かれる方は即スケジュールチェックです。

オフィシャルサイト

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ブラッド・ドゥーリフがエグルストンという役名で出ているんだけど、
エグルストンて誰だったかな??(わかんなかった)

ミッキー・ロークも出てた。
クリストファー・ウォーケンとつるんでいて撃ち殺されてしまう。

クリストファー・ウォーケンは実によいのだね。
一般的なかっこよさとは全然違う気色悪さと心細さがあり、
そこがよい。
(前回観た時は居心地悪しと書いていたが、ワタシも変わるんだね)

今回はジョン・ハートがなかなかよいと思った。
卒業式の馬鹿騒ぎのなか、彼だけがひとり「終わってしまった」と悲しい顔をしているところがよい。

あとは過去記事を。
マイケル・チミノ「天国の門」2005
マイケル・チミノ「天国の門」あげいん2005



そうそう、チミノをずっと支え続けているプロデューサのジョアン・カレリの旦那は
この映画で(そして以降のチミノ作品で)音楽をやっている(我らが)デヴィッド・マンスフィールドなんだそうだ!
これはなんとなくびっくりだ!

そのマンスフィールドによる音楽は、前回観たとき以上に心に響いた。
彼のローラースケート場(ここの名前がHeaven's Gateだ)でのパフォーマンスも
身体能力の高さを示してすばらしい。
ミュージシャンとは運動神経なんだなとつくづく。

ついでに思い出したが、ロニー・ホーキンスも出てるのだ!



@シネマート新宿
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「リリー・マルレーン」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2013-10-07 00:02:20 | cinema
リリー・マルレーンLILI MARLEEN
1981西ドイツ
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
原作:ララ・アンデルセン
脚本:マンフレート・プルツァー、ジョシュア・シンクレア
撮影:クサーヴァー・シュヴァルツェンベルガー
音楽:ペーア・ラーベン
出演:ハンナ・シグラ、ジャンカルロ・ジャンニーニ、メル・ファーラー、クリスティーネ・カウフマンほか


ファスビンダーの文芸大作系の作品。
ファスビンダーらしい荒く暑苦しくいつでも霧が立ち込めるような画面と、
後に『ケレル』で2曲がゴールデン・ラズベリー賞最低主題歌賞にノミネートされてしまうという
ペーア・ラーベンらしい濃すぎる劇伴を存分に堪能できる(ある意味)快作である。

リリー・マルレーンを歌った歌手ララ・アンデルセンの自伝を翻案した映画。
スイスの場末の歌手ヴィリーが、たまたま寵愛を受けたドイツ高官の支援でレコーディングした同曲がヒットし、
総統をはじめとするナチス高官との親交も得る人気歌手になるが、
一方でユダヤ人の国外脱出を支援している恋人ロベルトの手助けをし危ない橋を渡る。
一人の人間の数奇な運命とともに、ドイツ近代史の暗部を描き出すという、
この上なくファスビンダー的な主題を持つ題材である。

『マリア・ブラウンの結婚』ほどには突出しないとは言うものの、
ハンナ・シグラはタップダンスを披露するなど、役になり切った姿をみせる。
売れない歌手の微妙にイマイチな感じを保ちつつ、ぎこちなく偶然売れっ子になった姿を演じるあたりが彼女らしいところ。

紆余曲折の末結局結ばれなかった恋人との再開と決別の決然としたところもハンナ・シグラらしく、
またファスビンダーらしい演出。

リリー・マルレーンの歌をバックに(いや、どっちがバックかわからんけども)流れる激しい戦闘場面は、
サム・ペキンパー『戦争のはらわた』のアウトテイクを使ったということ(ひかりTV放映時の解説による。)。
そういう低予算の中で最大限頑張るというところも含め、良くも悪くもファスビンダーの代表作と言えるだろう。

***

好きなシーンは、ドイツの酒場でのデビューのくだりで、
歌手を紹介する酒場主の口上に、奥で恋人に電話する歌手ののろけ声が響いたりして場が微妙になったあげく、
歌を披露した時に賛美別れた客席で軍人も民間人も外国人も乱れ混じる喧嘩が発生し大乱闘に発展するところ。
上を下への大騒ぎの中、ちゃっかり抜け出す高官とかもいて、
ドタバタの非日常の中の妙に冷静なヤツがいるみたいなこういうカオスではファスビンダーは独特のセンスを発揮する。

歌手が売れっ子になって慰問に行った先の酒場でも、超満員の軍人たちの羽目のはずしっぷりもすごい。


あとは、無駄に屋外の夜のシーンで偏光フィルターとかで光を十字にしてみたりとか、
どっかんどっかん爆弾が落ちる音がする中で恋人との逢瀬におもむくとか
過剰な演出がたまらんぜ。

劇中に使われている歌は、誰が歌っているものなのか?
ちょっと調べたがわからなかった。
シーンにあわせて歌い方が毎回違っていたので、映画のために録られているように思えるのだが。
ハンナ・シグラが歌っていたらそれはそれですごいかも。

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ファスビンダーの魅力というのはなかなか人には伝えにくく、
芝居が芝居がかっているとか
俳優が美しくないとか
ありえない偶然があるとか
音楽が臭すぎるとか
もろもろ一般的に映画の美点とされないようなところが山ほどあって、
むしろそこがものすごく魅力的なのでありますよ。

それがなぜ魅力的なのかということをことばにすることが
ワタシにはできないんですけどね~

以前も書きましたが、理解するという点では、
ファスビンダーは演劇出身であって、演劇的な要素も多分に映画に含まれているのだと思えば、
なにか納得できるものがあるのではないか
と思う次第です。





@自宅録画
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「エンゼル・ハート」アラン・パーカー

2013-10-04 00:20:27 | cinema
エンゼル・ハート [DVD]
クリエーター情報なし
パイオニアLDC


エンゼル・ハート(1987)
ANGEL HEART
監督・脚本:アラン・パーカー
原作:ウィリアム・ヒョーツバーグ
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ミッキー・ローク、ロバート・デ・ニーロ、リサ・ボネ、シャーロット・ランプリングほか


これも好きですね~
冒頭やエンディングの背景というか
街並や旧式エレベーターの画面の質感が実にかっこよい
映画の中味もよいが、まず視覚的快楽です。

冒頭に犬と猫がでてくるのもよい。
動物使いである。
獣に導かれる夜に始まる映画というのもなんとなく内容に符合する感じ。

そういう映像の端々が偏執的で、
いちいち思い出せないのだが、
たとえばサイファー氏の異常にきれいに整った長い爪をひょいとアップにしてみたり、
占い師さんの部屋の装飾や置物をひょいとアップにしてみたり、
カラカラと回る古びた換気扇のカットを挟んだり
いろいろいちいちどきっとするカットが多くてしびれる。

昔観たときにはブードゥー的黒魔術の印象が強かったが、
今回観なおしてみるとそうでもない。
例によってちょっと寝ぼけながら観たせいで内容的にはよくわからないことが多い気がする。
多分ワタシだけがわかっていないのか。

サイファー氏はなぜエンジェル氏に歌手(名前忘れた)探しを依頼したのか?
サイファー氏は最初からすべてわかっていたはずだ。

でもって歌手というかエンジェルは、なぜ歌手にゆかりの人物を次々に殺めていくのか??
なんで?

↑なんにもわかっていないwww


ということで、面白く観て好きなわりに理解には至っていないというわけでした。


エピファニーはとても可愛くて、
あのように扱ってしまうのはけしくりからん!
彼女はリサ・ボネ。なんとレニー・クラヴィッツの元妻とか。

原作のウィリアム・ヒョーツバーグはトム・クルーズの「レジェンド/光と闇の伝説」の原作者でもあるんだね。

音楽がカッコいい。ジャンルをちょっとはみ出しているサックスが印象的。
たしかサントラを持っているはず。アナログ盤で。



@自宅録画
コメント (4)
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