Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

『第2の秋』勅使川原三郎9/6公演

2013-09-07 16:50:58 | dance
勅使川原三郎のダンス公演『第2の秋』いってきました。
ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの作品から喚起されたダンスということで、『春、一夜にして』に続くもののようですが、そちらは見逃しています。
ちょうど今、勅使川原三郎のスタジオであるKARASAPPARATUSで旧作の公演記録映像を公開しているのでそちらも行けたらいいなあ。
【追記】st/STさんの指摘ですが、もう1作ありました。→コメント欄参照


ということで『第2の秋』、シュルツの持っている強い郷愁と孤独感を伴う幻想的な肌触りをよく表した感動的な作品でありました。

共演者である佐東利穂子が長くしなやかな肢体を活かして柔らかく繊細な部分を受け持つかのようであるのに対し、勅使川原三郎は往年の、激しく痙攣し不如意に折れ曲がる関節の動きから、非情な現実とそれに喚起される幻想を体現しているようで、二人のソロ、ソロからデュエットへの移行、デュエット、そしてまたソロへという交錯の中で、か弱さと激しさ、軟と硬がそれぞれの振幅で空間を揺らし共鳴しあるいはうなりを生じるというダイナミックな舞台でした。

音楽(と音響)も、控えめながらギクシャクしたノイズと、静謐かつ流れのあるピアノによるバッハとを中心に交錯的に構成され、二人の対比とはまた別の層で軟と硬との交流を作っていたと思います。

また、舞台の前方に張られた薄いスクリーン(場面により巻き上げられる)には、森や雲の映像が投影され、スクリーンの奥で踊る二人が映像の向こう側に透けて見えるという演出が、非常に効果的で素晴らしかった。
郷愁や幻想を具体的に形にするとはこういうことだなと感心。

久しぶりに本格的な舞台を観て、勅使川原三郎の魅力と実力を堪能した。

***

個人的には勅使川原三郎の病的な痙攣ダンスを堪能できてウレシス。
80年代に初めて観て度肝を抜かれたあの動きは健在で、まあ変わらないってことかもしれないが、あの動きが醸し出す世界の独特なことは他にはないものだなあ。
シュルツのこれまた独特で病的な人形へのオブセッションとも呼応してこの公演には大変相応しいものだった。

バッハはワタシは曲を知りすぎていて、ちょっとシュルツ的世界とは違うものを感じてしまうのだった。
平均律第1巻からは変ホ短調フーガ、同じくプレリュード、ロ短調プレリュード、第2巻からは変ロ短調フーガと、短調(それも変な調)からの選曲で、その点では好みなんだけど。

あとはバルトークと思われる激しい激しいバイオリンとピアノの演奏(あれはなんの曲なのか?調べよう)、ノイズに乗せてヴァージン・プリューンズの声のコラージュなど。

ヴァージン・プリューンズなどは耳にするのは30年ぶりくらいなので、ノイズなのにものすごい既視感があって最初はどうしたことかと困惑したぜ。

照明や舞台もよく。床に光の輪を作ったり縦横に光の道を作ったりと、凝っていた。



公演は9/6.7.8東京芸術劇場プレイハウスにて。


@東京芸術劇場プレイハウス9/6
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「ツァイトゥング Zeitung」ローザス

2009-12-08 00:10:05 | dance
ローザスROSAS「ツァイトゥング Zeitung」
2009.11.28sat16:00
彩の国さいたま芸術劇場大ホール
1階C列26番



コンテンポラリーダンスのグループ、ローザスの日本公演に行ってきました。
もう1週間前になるんですね、早いなあ。

「ツァイトゥング Zeitung」とはドイツ語で「新聞」という意味である。
とあちこちには書いてあるのだが、
「新聞」というタイトルではどうしても内容と合っている気がしない。ピンと来ない。本当に「新聞」でいいのか?
ドイツ語だったら発音は「ツァイトゥンク」だと思うのだけれど、gをグと表記しているのはなにか意味があるのか?

zeitは「時」であるから「時ung」と思っていた方がなんか内容に合っているような気がしている。へんな妄想である。

******

初盤はヴェーベルンによる古風な多声合唱曲ではじまる。動きのほうは、ペアもしくはソロで、腰が見えない力でが引っ張られることで運動が始まるという感じのダンス。身体性への内省を促すような即物的な動きである。

これは次にピアノで演奏されるバッハ「6声のリチェルカーレ」へと引き継がれる。フーガとしては展開が長く自由であり、構築度は比較的薄い楽曲だが、ダンスのほうもモノフォニックな動きを引き継いでいく。今度は右腕が何かに引っ張られているような動き。

バッハに対して主に管弦楽の録音によるヴェーベルンは、ほとんど凶暴な音響を提示してくるが、厳格な対位法という点では共通項が、いやむしろバッハよりもシステマチックなのだ。その凶暴な対位法を契機に、ダンスも人数が増え、あるいは入れ替わり、シークエンスのユニゾンとズレという要素が出てくる。このあたりはローザスの18番である。

中盤からはこのユニゾンとズレに、インスピレーションの源泉のひとつであろう数学的、物理法則的なものを象徴するように、ロープで円環を計測するような動きが加わり、それに伴って円を描いて移動するようなモチーフが加わってくる。

ハイライトの一つはそうした対位法と円環を全員で踊り華々しくユニゾンで終わるダンスであり、それは先ほどの「6声のリチェルカーレ」のヴェーベルン編曲版に伴われる。

この編曲は単にバッハによる声部を管弦に置き換えるだけでなく、一つの声部をさらに複数の楽器で分散させる「いきすぎた」編曲であるが、この声部内の色彩の変化は、むしろダンスの性質とよく呼応しているものだろう。ダンスにはあるが原曲にはありえない声部のユニゾンも、この声部内色彩の変化としてとらえることができる。

大団円に見えた舞台だが、その後にさらに展開部があった。ここからは予定調和的な終焉を予感させることなく、構成感が希薄になっていく。崩壊か?
照明もそれに呼応してか、舞台らしさを失い、蛍光灯の天井照明を思わせるような荒さをまとう。
音楽もピアノによってバッハが中断したりする。

こうして失速と崩壊感を経たのちに唐突に舞台は終わる。拍手もためらいがちにカーテンコール体制を確認した後に起こる。

*****

即物性から物語性、そして精神性から形而上へ。コンテンポラリーダンスのテリトリーは思えばおそろしく広がっているのだが、「ツァイトゥング」はその領域を足早に駆け巡ってみせたということではないだろうか。
抽象性が高いうえに、もしくは高いゆえに、物語性にも精神性にも通じている音楽の代表格であるバッハとヴェーベルンを用いているのはそのためか。
言語を用いない表現による世界の広がりの現在を豊かに感じられる舞台だったと思う。

*******

公演パンフが入場料に込みであることにいたく感動する。
メンバー情報から評論、使用曲リスト、アンヌ・テレサのインタビューなど充実の内容である。

シェーンベルクの扱いはバッハとヴェーベルンほどには明確ではない。インタビューでは、歴史的なつながりのなかに、両者をつなぐ存在として位置づけていると発言している。シェーンベルクの音楽は大きな振幅をもって作られていて、アンビバレンツなものである。このことは思う以上になにかおおきな役割を担っているのかもしれない。

バッハの中断は、フーガの技法のなかの有名なコントラプンクトゥス18であるが、楽譜の中断箇所とは違うところで中断している。あえてb-a-c-hの音形が出る前での中断は何を意味するだろうか?
同じくバッハの、ちょっと趣を異にするパルティータからの選曲(2番ハ短調)では、逆に前奏部分を省略してあった。こういう部分切りだしにはどの程度の意味があるのだろうか。ある程度はダンス側からの直感的な選別という気もしなくもない。ダンスよりは圧倒的に音楽リスナーであるワタシ的には音楽が完結していてもらいたいという思いもあるし、逆に切られることでのインパクトも感じられる。

そういえば、使用曲リスト中にバッハの平均律第1巻22番プレリュードが掲載されているが、ワタシの記憶ではこの曲はつかわれていなかった。
どうだろうか?




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「キャッツ」劇団四季に行く

2008-05-10 23:54:32 | dance
今日は劇団四季ミュージカル「キャッツ」に行ってきました。

キャッツシアターに異様に近いところに住んでいるのに
観に行ったことがないのはなんか悔しいよね~という動機で、
人に頼んでチケットを取ってもらいました。

チケット取るのに1年だか半年だか前から取らなければない。
しかも四季の会だかなんだかの会員でないとそれもムズカシイ
とか?

そんなえらいこととは知りませんでした~~


というわけで、親子4人なので安い席をゲットし、初観戦。
劇場は専用なだけあって壁中をオブジェが埋め尽くす、なかなかのワクワク空間でありました。

期待感のなかいつのまにか舞台上に猫が這っていて、前ぶれなく始まり、ああの始まりは面白いな~とか、
おお、鍛えられた肉体を見るのはいいのおぉぉ~~とか
訓練された動きが見事だなあとか思いながら、
ふと気がつくと・・・爆睡(笑)

いや~気持ちよく寝ましたよ。
時々客席に猫が這ってきて大きな声で歌うんで目が覚めたりはして、
いつのまにか舞台装置が大掛かりな仕掛けを披露しておお~と思ったりはするんですが、またすやすや~~

休憩を挟んで後半は比較的起きてましたが、それでも6割がた寝たんではないかしら。。

幸せといえば幸せなんですけど、何ヶ月も前から予定していてこのていたらく、家族もあきれていましたわ。
(眠いもんは眠いんですよ)


というわけで、パンフ1800円というのもちょっと引いてしまって
(というか公演自体4割しか見ていないのにパンフだけ買ってもねえ・・)
出演者情報とかもいっさい手元になく・・・・

全然まともな感想が書けないのでした。



猫がたくさん出てくるんですけど(もちろん人ですけど)、みんなホントによく訓練されていて、ムダな動きや、動きがずれるということがない。
完璧すぎて、その大変さが逆に全然伝わってこない。自然な動きに見える。
これはやっぱり高水準のプロだわ。

でもその完璧さ故に、ライブならではの肉体と生命の生々しさが思いがけず発露してしまうような魅惑的シーンというのはあまり感じられなかったな。
この生々しさの欠如というのがおそらくこの集団の特徴で、それ故にここまでの一般ウケというのを獲得したんだな、と、
なんとなく、客席の女子率の高さを眺めながら思った次第です。

ワタシ的にはもうちょっと不器用な芝居のほうが好みかも。



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Rosas「Hoppla!」

2005-11-01 15:23:08 | dance
1989,colour, 52’

監督: ウォルフガング・コルブ
振付: アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演: ローザス
音楽: ベラ・バルトーク ≪ミクロコスモス≫≪弦楽四重奏曲第4番≫

hopp・la
[ホップラ](間投詞)
(つまずいたときなど)おっと;(人にぶつかってぶっきらぼうに)ごめんよっ;(物を投げるときに)ほらよっ

ふうん

**

ローザスの最初の映像作品Hoppla!を観た。
映像は89年の作品だが、そこに含まれる2作はそれぞれ、
「Mikrokosmos」1987、「Bartok/Aantekeningen」1986の作品だ。

ミクロコスモス」は、バルトークの2台のピアノのための7つの小曲に振り付けられた、男女のデュオである。
互いに引きつけたりはじきあったり、受け入れたり拒絶したりという所作が、音楽の構造を踏まえたユニゾンやずらしを交えて展開される。

アンテケニンゲン」は、同じくバルトークの弦楽四重奏曲第4番に振り付けたもの。4人の女性ダンサーにより踊られる。
音楽と踊りの関係はかなり密接で、4人のダンサーをうまく使った動きの対位法的アプローチが顕著。
振り付けもかなり挑発的なパワーを持ったもので、緩急取り混ぜたリズミカルで激しい踊りである。観ていてこちらの体も動きそうになる。
メリハリのきいた訓練されたユニゾン、キュートな仕草、ちりばめられる動きのずれ、パンツもいっぱい見えるし^^;ローザスらしさが満載、ローザスの魅力をめいっぱい堪能できる作品だった。

このビデオ、80年代のローザスがどうであったか、よく伝わる作品だと思う。
振り付けのアンヌ・テレサを含む少人数のダンサーが身と心を寄せ合い作り出していった密度の濃いダンスを観ることができる。
映像ではこの作品と、「Rosas danst Rosas」を押さえるとローザス観た~という気分になるのではないだろうか。

**

例によって資料がないので、一所懸命エンドロールを追いかけたが、短期記憶の弱い私には、大した情報を持ち帰ることができなかった。残念。
ダンサーの名前すらよく把握できなかった^^;

間違いなく4人のうちのひとりは池田扶美代さん(^^;)
あとは、89年の来日公演時のメンバーから想定すると、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル自身も踊っているはずだ。

音楽はいずれも生演奏で、演奏者のクレジットもあったが、記憶に残っている名は一つもない。私の記憶力はもうだめなのだ・・・

Rosasのサイト
ユーロスペースの関連ページ

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Rosas"Counter Phrases"

2005-10-30 00:59:47 | dance

2004,colour, 62’
監督:ティエリー・ドゥ・メイ
振付:アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
出演:ローザス
音楽:ジョルジュ・アペルギス、ティエリー・ドゥ・メイ、ロビン・ドゥ・ラーフ、ルカ・フランチェスコニ、ジョナサン・ハーヴェイ、細川俊夫、マグヌス・リンドベルイ、スティーヴ・ライヒ、ファウスト・ロミテッリ、ステファン・ヴァン・エイケン
演奏:イクトゥス・アンサンブル

ベルギーのダンスグループRosasの映像作品を観た。

10人の現代音楽作曲家の作品に振り付けた10のフレーズ+音楽のない作品から成る約1時間の映像作品。

すべて屋外でのロケで、自然豊かな場所や階段、広場などでのダンス。

音楽はどれもいわゆる現代音楽的な響きをもったものだが、それにあてがわれるダンサーの所作と組み合わせ、衣装、空間によって、それぞれの作品は驚くほど表情が異なる。

多人数でのダンスでは多層的に入り組む振り付けが、音楽の持つ焦燥感をあおる。
男性が女性を執拗にリフトする作品や、芝生で男女が時にシンクロし時に自由に動く作品・・

ソロやデュエットの作品では、音楽は内省的に聴こえる。
木や花をモチーフとしてソロダンスを紡いでゆく作品、男女の激しい動きのからみを見せる作品・・

Rosasの持つ多彩なダンスボキャブラリーをじっくり堪能した。


日本人だからひいき目にみているのかもしれないけれど、
ダンサーの池田扶美代さんの存在感はよかった。
オープニングから顔のアップだったし、アンヌ・テレサはおそらく池田さんの「顔」を重要な素材と考えているんだろう。

また映像は、時に2面、3面に別れ、それぞれ別アングルで撮影したものであったりと、単にダンスを記録する以上の演出が施されている。
同時に屋外の光や風の動きを積極的にとらえ、舞台とは異なる、独立した映像作品として制作しようとする意図が感じられる。

**

しかしダンスってなんだろう。
見ていると体のなかに、躍動する感じや息づかい、屋外の空気の冷たさ、足の裏の感触などが忍び込んでくる。
そこに表現される一定の時間と空間のなかの動き。
それだけなのに、心身が解放される感覚がある。
身体性の果てにある解放?

**

ユーロスペースでのRosas in filmsと題した連続上映。
東京都写真美術館での展示ROSAS XXVとの連動企画だった。

しかし、企画はいいけれど、この上映作品に関する資料の配布は一切なし。
パンフ類の販売もなし。
これはちょっと不親切だと思う。
音楽作品のタイトルも結構重要なモチーフだったのに、資料としては手もとに残らない。
残念。

あと、ダンスを追っているのでどうしても画面は左右に動きまわるので、
ちょっと船酔い状態になってしまった。
1時間が限度だったかも。

Rosasのサイト
ユーロスペースの関連ページ(現在はもうページがありません20190313)

<追記10/31>
コンテンポラリーダンス業界における情報の欠如については「現代パフォーミング・アーツ入門」さんのブログでも言及されています。
本エントリのトラックバックから参照ください。

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ROSAS XXV1980-2005

2005-10-14 14:39:58 | dance

「ローザスとアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの25年」展
行きました。
東京都写真美術館 ROSAS XXV1980-2005


ROSASは4月に来日公演もあり、行きたかったけれども、貧乏生活の折り断念。(というかチケット完売だったし)
今回の展示も写真中心というので躊躇していたけれど、何となく勢いでお出かけ。

しかし、平日の開館直後、お客さんは私ひとり
すっかりROSASの雰囲気を堪能した。

**

実際にROSASの舞台を見たのは2度(ROSAS DANST ROSAS,ACHTERLAND)だけ。
(94年の来日公演だったかな)
あとは映像で断片を見たことがある程度。

特に惹かれるのは初期のこじんまりとした作品。
椅子と4人の女性によるミニマルでコケティッシュなダンスであるROSAS DANST ROSASや、スティーブ・ライヒの音楽に振り付けたFase、バルトークによるMikrokosmosなど。

80年代に初めてROSASの作品に触れたときは、そのコケティッシュさも含めて、とても新しいモノ、攻撃的なモノ、挑戦的なモノに思えた。
それまでのダンスの枠組みを越えて、たとえば音楽の構造から動きを着想していく、あるいは、4人がミニマルな動作でリンクしたフェーズをずらしていったりとか、女性が女性らしさを故意にちらっとかいま見せる(っつーか、ぶっちゃけパンツをちらっとみせちゃうとか)そういうことすべてがとても斬新で魅力的に見えた。

あの静かな挑発の姿勢はなんだったんだろう、との思いで出かけてみた。

**

展示は、写真はやっぱりROSASを見たことのある人でないとイメージが湧きにくいかも知れない。
作品としてよりも、記録としての写真に徹しているかもしれない。
知っている作品の写真では動きや息づかいが伝わってくるけれど。

ただ、展示写真にはほぼいっさい説明なし。この写真はどの作品の?っていうのは入口で手渡される資料を見ないと判らない。
まあでもそれもいいかもしれない。

あとほとんどはモノクロ写真。それもいいんだけどカラーも見たいな。

**

ビデオインスタレーションは予想以上に楽しめた。

ヴァイオリン・フェーズ/トップ・ショットは、
最初期の作品Faseのうち、アンヌ・テレサのソロパートを天井からのショットでとらえたもの。
白い砂を敷き詰めたステージ上を踊ると、円形の軌跡が次第に出来上がってくるという、幾何学的な着想がこれまたライヒの音楽といい感じに融合して快感である。

実際のインスタレーションでは、床に敷かれた白い砂を「スクリーン」として、そこに上から映像を投影するようになっていた。
これをたったひとりで砂の上に立ってじっくり堪能してしまった。
う~ん贅沢!

しかし「ヴァイオリン・フェーズ」久々に聴いて心地よさに眠気さえ覚えてしまった。^^;

ヴォキャブラリウムは、ROSASの主要ダンサーであるシンチア・ルメイが、ROSASの振り付けを踊りわける作品。語彙録。
おおあの作品で見た動きだ~という感動もあるし、やっぱり当然のようだがダンスの魅力はダンサーが実現しているんだなと実感した。短いパートの24分にわたる連なりだけれど全然退屈しなかった。

池田扶美代のモノローグは、創設時からのダンサー池田さんの独白。
しかしフランス語(多分)です~わっかりませんでした~字幕が欲しいです~
字幕なしは製作者の意図なのかしら??
でも迫力は満点!こういう強さがROSASのダンスの後ろには隠れているのか~と変に感心。
90年の映像作品「Ottone,Ottone」からの抜粋のようです。

**

あと、入口付近に、ROSAS DANST ROSASの写真とともに、実際に使ったとおぼしき椅子と衣装が展示されてあったのがよかったな。

それと展覧会パンフが文章が充実していて買いでした。
(ちょっと高めだけど・・)

**

しかしROSAS好き~とはいえ、実はほとんど観ておりません~・・というところで、
レポートとしてはこのへんで限界でござる。

もう一度FaseとかRosas danst Rosasなどを間近でみてみたいものだ。
あまり大きいステージでは魅力は半減すると思うのだ。

あと、映像でダンスを観るというのは、なにか本質的な魅力が欠落しているような気がしてならない。
視野とか視線とか距離感とか、そういう観客との関連性であるとか、靴が床を擦る音のような臨場感のある軋みみたいなものが、ダンスでは結構重要なんではないかと思う次第。
でも見ないよりは見た方がいいかな(笑)


う~んとあと、「Rosa」という映像作品をグリーナウェイ監督で作っていたのではなかったでしたっけ?(うろ覚え)

**

この日はこの後、昼飯抜きで次の展覧会めざし六本木へGO!

【追記】
ユーロスペースで10/29~ROSASの映像作品を上映するそうです。
行こうかな。

コメント (5)
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