Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

疲れるよ

2007-04-30 15:59:20 | movelog

今日は午前中六本木の国立新美術館に。
昼ご飯は西麻布で。
そのあと渋谷で玩具をみて
今は何故か川崎にいる。

なんでこうなるのか?
疲れたのでクスリを早めに飲む。

六本木で自転車タクシーに乗った。
車に突っ込まれそうでこわかった。
みんなあれで移動すればおもしろいのにな
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ジャン=リュック・ゴダール「彼女について私が知っている二、三の事柄」

2007-04-29 01:52:53 | cinema
彼女について私が知っている二、三の事柄

ハピネット・ピクチャーズ

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1966フランス
監督:ジャン=リュック・ゴダール
製作:フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:マリナ・ヴラディ(ジュリエット)アニー・デュプレー(マリアンヌ)ロジェ・モンソール、ラウール・レヴィ、ジャン・ナルボニ、ジュリエット・ベルト


面白かったよ!

といっても、タイトルからイメージされるアンナ・カリーナもののようなコケティッシュな作品かと思ったらさにあらず。
ゴダールが物語を離れ、引用によるナレーションとダイアローグ、即興による演出、傍若無人なサウンド処理で思想のスパイラルを紡いでいく形式を模索したと思しき、ハードなタッチ。

特にぼそぼそ声のナレーションは、言ってることが小難しくてついていくのがやっと。

でも後半に行くに従って、会話が会話の連鎖をよび、次にどんな人物がなにを話すのか楽しみに。
映画とともに目覚め、思考し、映画とともに中断しとり残される。
そんなタイプの作品。

***

「彼女」とは、たとえば「女と男のいる舗道」のように一人の女性を指すのではなく、複数の女性、そして様々な状況を包含している女性名詞であるパリのことでもあるという。

そのパリは、しかし「男性・女性」のような暖かみのある雑踏や町並みを映してはくれない。工事現場、近代的で巨大な集合住宅、工場。これが同じパリ?

そしてその集合住宅に住み、夫と子供のいる女性ジュリエットの後を追いながら、そこに様々に関わる人物の心のひだを映していく。66年の、ありとあらゆるパリの心性がつぎつぎと浮かび上がってくる。

家賃と賃金と物価のバランス、過酷な子育て、労働と自分の世界とのバランス、主婦の売春、社会階層、資本主義社会の未来展望、アメリカの帝国主義、ヴェトナム情勢、共産主義、語彙の消失、メディア社会の到来、全体主義、性の抑圧、言葉とはなにか、表現するとはどういうことか、世界と一体化すること・・・などなど

こうしたあらゆる切り口を、深みでなく表層で切り取って並べてみせるそこには、深刻さや真剣さとはまた違った、俯瞰するような世界観が匂い立つ。

繰り返し観て、ともに考え、とり残されたくなる作品だった。

***

売春は一つのゴダール的なモチーフだ。けれど、売春の生々しい実体に迫ったりはせず、子供を預け売春をするジュリエットに深刻さのかけらもなく、そもそも服を脱ぐシーンすらない。
のみならず、ジュリエットは、若い男と車でホテルに向っている時に、世界が自分であり自分が世界であるような感覚を覚えた、とすら語る。
ゴダール的認識:売春は「労働と愛が一致する唯一の場所」であり、「誰もが多かれ少なかれ売春的行為を行っている」という文化論の映像表現なのだ。

っていうか、バッグを被らされて歩かされるところとか、かなり滑稽だ。

****

・後に「中国女」にも出演するジュリエット・ベルトが後半カフェで画面の外の男と会話するシーンはとても魅力的だった。セックスへの恐怖などないと語るベルトはこの作品でデビュー。彼女、残念ながら90年に他界しているようだ。

・おそらくゴダール本人が水道局員?ででてくるところは大笑い。


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ジャン=リュック・ゴダール「映画史第8章徴は至る所に」

2007-04-28 20:31:04 | cinema
ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX

紀伊國屋書店

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1998フランス
監督・編集:ジャン=リュック・ゴダール

第8章(4B)は一応の終章にあたる。
ここでようやくアンヌ=マリー・ミエヴィルと自分自身への献辞が出て、まとめにはいるのかとも思いきや、しかしこれまでの各章を総集しようという意志はあまり感じられない。
むしろ、「映画史」以降のゴダール作品に反響するであろうイメージ・音・ことばの最初の波紋という感じだ。
「映画史5」(第9章)の構想もあったという話であるし、「映画史特別編 選ばれた瞬間」(2005)という作品もある。あるいは「アワーミュージック」(2004)の「映画史」との類似性も考え合わせると、「映画史」はおそらく結ばれることのない企てなのだとも思われる。

となれば、ゴダールにはしてやられてばかりでくやしいので、こっちで勝手に総括してみようか。
(無理無理)

**

「徴(しるし)は至る所に」とはシャルル=フェルディナン・ラミュの1919年の小説からの言葉であるという。(世界の終焉を告げる行商人の物語で、ゴダールが以前から映画化を目論んでいる小説。)

徴とはなにか?

冒頭、以前の章で提示された観念が再び響く。
人はその哀れな心の中に未だ存在しない場所を持つ。苦悩がそこに入り、心を在らしめる
ゴダールは、存在しない場所が心を在らしめる、という禅問答的瞬間に、なにやら心=世界=映画のようなつながりを見いだしているハズである。

徴とはきっとそういう非存在と存在の交接する心の瞬間を指すだろう。
しかもそれは「至る所」にあり、世界の終焉を示しているというのだ。



非存在を扱うものの逸話として、しつこく繰り返されるのが、オランダの天文学者ヤン・オールトによる宇宙の質量の計算の話。
引力の総和を計算すると見た目の星々から考えられる質量の倍になるという話。
存在しないものの質量という観念がゴダールには思わずぐっときちゃうのに違いない。
ゴダールと物理学
ゴダールの決別


「映画史」全般を通じて人間自身による人間への暴虐の映像を繰り返し取り上げるのも、それが心のなかの非存在の問題だからだろう。
想像力による映像(映画)と、現実の映像(記録映像など)を混在させることで、想像力と、それを容易く超えてやってくる未知なる現実との関係のなかに、心の中の非存在に入り込む苦悩が現実と映画の問題であることを、なかば強迫的に示す。

想像力が存在で、それを凌駕する現実の方が非存在であるという逆説・・・
それこそが禅問答的交接点であり、であるならばそれは確かに世界の終わりを示しているかもしれず、なおかつそれがゴダールにおける「映画」であるのだ。

***

さらにいうなら、ゴダールはおそらく非存在との出会いという現象を、19世紀末から現代まで(いや、ゴダールまで(!))の問題だと思っているに違いない(苦笑)

エイゼンシュテインの未完作品にはしつこく拘泥するが、ゴダール以降の映画はことごとく無視するという態度は、また、ヨーロッパとロシアとハリウッド以外の地域をほぼ完璧に無視するという態度はいったい何事か??
というと、これはやはり非存在の領域へ苦悩が流れ込むことによって在らしめられた心、という問題をリアルに感じ取れた範囲がここまでだという告白なのだろう。

言い換えるならば、結局映画史=非存在との出会い史=個人史であることを強く意識しているということか。
これは、個人史でしかあり得ないという限定ではなく
個人史でありながらどこかしら普遍性をもって突出してしまう、という、あの、芸術や文学がしばしば体現する、背筋がぞっとするような瞬間の持つ、精神の振れ幅のことを言うのだ。

***

と、だんだん何を言っているのかわからなくなってきたところでひと休みしてと・・・

ええと、そうやって考えてみると、芸術的振れ幅に迫るはずの「映画史」を、しかしゴダールはきわめて非体系的で、無法則で、非芸術的な方法ででっちあげてしまう、ということに、あらためて驚きを禁じ得ないのでした。

例えば「引用」。ゴダールといえば引用、なんだろうけれど、「映画史」における引用は、引用によって文脈を形成したり、主張を補強したり、注意を喚起したり、という引用らしさはまるでなく、脈絡のない映像が急速にいれかわったりフラッシュバックしてみたりするし、引用元を解体せんばかりにスローモーションになったかと思うといきなりリワインドしてみたり、完全に静止画像になってしまったり、一部をくり抜かれたふざけたトリミングにさらされたりする。

これは引用でもなんでもない
再構築でもなければ、解体ですらない。

そのくせ「映画史」は、借用した映像と言葉と音(とゴダール自身の怪しい身ぶり)のみでなりたっているのだ。

ここでも逆説。
傲岸さと謙虚さの同居。
逆説の海の中でいったいゴダールは/われわれは、どうすればいいのか?

****

あ~疲れてきた!

結局苦労の甲斐なく、どう考えても総括にはほど遠い地点に着地(胴体着陸か)してしまいましたね。
考えてみると誰に乞われて書くわけでもないのに、これ以上苦労するのがしんどくなってきたというのが正直な所です・・・m(__)m白旗


・話の種に観るも良し。
・環境ビデオとして流しっぱなしもよし。
・トランス用ビデオとして暗闇でかぶりつくのも良し。
・文字フェチ、ナレーションフェチな方には最適。

と、いろいろな楽しみ方のある「映画史」なのでした。

***

ああそうそう、日本版DVDには、かの浅田彰氏監修の注釈画面3075ページがついていて、本編と相互にリファレンス可能と言う、DVDならではの特典がついているので、これはシアターよりもDVDが格段にお得でしょう。

しかも5.1chサラウンドだし(!)


好き度:
(5つ星:完全に趣味の世界=人には勧められません(汗))



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葬儀の日

2007-04-26 04:58:24 | diary
それほど親しかったわけではないが、以前同じ職場で机を並べ、その後もときおりは会って話をする機会のあった人が亡くなった。

お通夜に行くため、雨のようやくあがった広尾の道を歩いていくと、普段歩かないところを歩いていることも手伝って、なんだか夢の中の出来事のような気がしてくる。

お寺は中国大使館のすぐとなりにあったので、なんのタイミングなのか、物々しい警備の横を通り過ぎていくことになった。これもまた夢の中のよう。

時間よりやや早く着いた私は、受付をすませると控えの間に通される。知らない人ばかりの控えの間で小さくなって座っていると、若いお坊さんの読経がはじまる。
このなかで知っている人は故人だけだ。なのに、なれない式服姿も、新しい鞄も、ちょっとだけ染めた髪の毛も、彼女に見てもらうことはできない。ちょっとそのへんに彼女がひょいと座っているんじゃないかという気がしてならない。

焼香が始まったので、列の後尾に並ぶ。遠目で飾られた写真の顔を見ながら並ぶ。焼香は前の人に続いて流れるように行われるので、おちついてお別れを言う感じでもないけれど、数珠を手に、せめて写真の笑顔だけはしっかり見ておこうと思う。やんでいた雨が霧のようにまた降り始める。

焼香を済ませ、そうそうにおいとまする。待っていれば知り合いも何人かはやってくるだろうけれど、なんとなく誰に会いたいという気分でもなく、傘をさして会釈を何度かして門を出る。塀ごしに会場が見えるので、そこでまたそっと手をあわせる。

故人はにぎやかなところが好きだったなと思い、帰りは六本木に出て、六本木ヒルズをちょっと歩く。どこどこにあるおいしいお店の話とか、どこどこで泊まったすてきな宿の話とか彼女の話し声がちょっとだけよみがえる。一息つきたくなってスタバで座り込む。寒いのにフラペを注文する。

最後にあったのはいつだろう?夏にやった飲み会のときかな。あのときはほとんど話もできなかったから、実際は前の冬に同僚の赤ちゃんを見にいったときが最後かな。あのとき一緒に写真におさまったよな。
あの人が、このあいだまでは会いも出来たし話も出来たのに、今はもういない。

悲しいというより、不思議でならない。



帰りに家から電話がある。子供から。ママはまだ帰ってこないしおねえちゃんは塾にいっちゃった。わかった、急いで帰るよ。
電車に乗っていると妻から、お風呂洗い洗剤を買ってきてとメールが入る。

電車の乗り換えのとき、そんなに混んでいなかったのに、人を押し込んで乗り込むのに臆して、1本のがしてしまった。なんだかまだ夢の中のことみたいだ。家に帰るとなにもかもがいつもどおり。でも実は毎日すこしずつ何かが変わっているのだろう。その変化の先にはいろいろなことが待っているのだろう。そんなことを考えたりもする。


早めに寝たが、さっきMちゃんに蹴り起こされる。寝相が悪くて困るよ。。。
しかたなくブログを書きはじめる。
で、書き終わり、もう一度寝ることにする。







葬儀の日

河出書房新社

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ジャン=リュック・ゴダール「はなればなれに」

2007-04-25 22:40:50 | cinema
はなればなれに

紀伊國屋書店

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思ったより劇映画していた。
もちろん初期のゴダールらしいアイロニーとウイットにあふれているけれど、作品としては「勝手にしやがれ」のほうが破壊力はあるかもしれない。

***

フランツは英語教室(全然英会話教室ではないところが面白い)のクラスメイト、オディールと仲良し。オディールがやっかいになっている伯母の家に大金が画されていることを知り、悪友アルチュールと大金強奪をたくらむ。オディールの手引きのもと、TVのサスペンスものよろしく立ち回る二人だが・・・??

***

疾走する映画である。オディールのアンナ・カリーナをはじめ、登場人物たちがとにかく走り回る。自分の足で、自転車で、車で。歩道をはみ出し、車道をはみ出し、パリをはみ出し、1.33:1の画面をはみ出さんばかりに、走る。
映画=運動の快楽ということをシンプルに思い出させてくれるこのスピードへの挑戦は、ルーブルを走り抜けるあのすがすがしい名シーンを生み、のちにベルトルッチ「ドリーマーズ」において模倣されることになる。いいなあ。

ほかにも名シーン多し。
カフェでのダンス(ハリ・ガリという当時流行のダンスらしい)や「1分間の実験」もいい。例によって唐突に踊り出す彼らのなんとキュートなこと。この唐突さを寄せ集めてアンナ・カリーナを清濁のイコンとしたのが「女と男のいる舗道」という感じかも。


アンナ・カリーナは、「ちゃんとした演技」をしたかったんだと、どこかで読んだ気がする(ああ、どこだかおもいだせない)。そういう彼女の思いと、ゴダールの傍若無人さが歩み寄ってできあがった作品なのかも。そう考えると、アンナの魅力を最大に引き出しているのが、演技とははなれたところ、ダンスや無意味的なアップやどうでもいい会話での表情だったりするのもなんとも皮肉っぽいというか、残酷な現実というか・・


あとハリウッドとかTVドラマへの目配せもあって、強盗たちはTVドラマなみに「派手に」ぶちかます(あのステッカーどこで用意したんだ(笑))とか、エンディングのチャップリンばりのメロドラマと人を食った「予告」なんかが、確信犯的ふてぶてしさで思わず苦笑。
そもそもゴダール自身によるナレーションは全編まじめに聴いてたらバカをみるような外しブリ(笑)で、アメリカ的ノワールなものに倣いながらもすっぽり骨抜きにしてしまう気概が心地よい。

***

日本版タイトルの「はなればなれに」もなかなか魅力的なタイトル。だけど、原題はBANDE a PARTなので、「はみ出し者たち」とかいう意味?
「はなればなれに」というのは、終盤のフランツの、異様にとってつけたようなセリフから取られていると思われるので、なんとなく全体のタイトルとしては今ひとつピンとこないかもしれない。

そういや原題をバンド名にしているグループもあるな。(気持ちはわかる)


ゴダールとしては異例なくらいわかりやすい作品ですヨ。


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ライアン・ジョンソン「BRICK」

2007-04-23 22:12:02 | cinema
BRICK

BRICK‐ブリック‐ [DVD]

video maker(VC/DAS)(D)

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2005アメリカ
監督・脚本:ライアン・ジョンソン
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット(ブレンダン)ノラ・ゼヘットナー(ローラ)


「映画『ツイン・ピークス』以来のミステリーが遂に日本上陸!!」
「映画『ツイン・ピークス』を凌ぐ人類未踏の映像体験を実感させる」

・・・ってチラシに書いてあったんです。
となれば元ピーカーとしては行かねばならないでしょう?

で行ったんです。観に。
そしたら、まあ、なんというか、ピークスとは全然違う世界でしたね。
残念。



「あなたにこの”謎の記号”が解けるか!?」(チラシより)てさあ、
「記号」が出た~と思った次のシークエンスではもう種明かししちゃってるじゃないですか(笑)

謎めいたメッセージは確かにたくさんちりばめられているんだけれど、全ては解かれるための謎なんだな。対してピークスのほうは、謎はあくまで謎なんですよ。謎が謎を呼びさえしない、つぎつぎと折り重なっては次元をすりぬけていく。解かれることからするすると逃げていく。あれがいいんだな。

だからこの映画、根本的にピークス流ミステリーではなかった。
「探偵小説のスタイルを引用しながら」(チラシ)というが、いや、引用どころかかなり正統なハードボイルド探偵ドラマそのものだった。

正統ハードボイルドが今成立しうるか?とかいうような根源的な問いは誰かに任せるとして、わたくしハードボイルドにはあまりなじみがないので・・というか、タフな世界を生き抜く奴をみてると自分が必要以上に矮小にみえてくるので、いささか敬遠ぎみなのですよ。なのでまあ確かにタフで暗い陰のある主人公がやり抜く姿をみてスカッとした楽しみを得ることは出来たけれども、それ以上には特になにも・・・(汗)

それよかどっかでまたリンチの映画を観て当初の期待感を満足させねば・・・



。。。冒頭のチラシの文句をよく読んでみると、「映画『ツイン・ピークス』」となっている。あ、そうかTVシリーズじゃなくてFire,Walk with meのほうか・・あれはちょっと謎解き要素がたしかにあるかも??文章はよく読んでから理解しないとね。。。




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そういやあ忘れてたな

2007-04-21 02:39:22 | diary
このブログには書くのを忘れていましたが、
復職後1年間がんばったけれど、年明けから遅刻・欠席が常体化してしまい、いよいよ休暇が底をついてきたので、救済策として3ヶ月くらいの病気休暇に入ることになりました。

3ヶ月はあっというまなので、生活のリズムをしっかり整えないといかんな~と思いつつ、さっそく映画観にいって夜更かしして、ダメなヤツだな~

もし心配されている方がいたら、大丈夫、ちゃんと朝起きて夜寝ま~す。
これを機に職員ハンドブックを一から読んで仕事の基礎を身に着けちゃおうかな。
(心にもないことを・・・)


平日昼間に暇な人がいたら遊びましょう。
(雨の日と遠くはいやですけど(わがまま))

んでは。

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トム・ティクヴァ「マリアの受難」

2007-04-20 01:22:46 | cinema
マリアの受難

1993ドイツ
監督・脚本・製作・音楽:トム・ティクヴァ
脚本:クリスティアーヌ・ヴォス
撮影:フランク・グリーベ
音楽:クラウス・ガーターニヒ
出演:ニナ・ペトリ(マリア)カティヤ・シュトゥット(16のマリア)ジュリアン・ハイネマン(10のマリア)ヨーゼフ・ビアビヒラー(父)ペーター・フランケ(夫)ヨアヒム・クロル(ディーター)


大上段に振りかぶってみたり細部に拘泥してみたりあることないこといじくって理屈をこねたり誤読に意訳を重ねてあらぬ方向へ妄想を駆り立ててみるのが映画を見る楽しみであったりするわけで、時には誤読の方が面白い映画なんかもあったりするのもまた面白く。
とはいうものの、どんなに屁理屈のエンジンをふかしてみてもその先へ先へとどんどん疾走して追い付けない映画というのもあるもんで、そういう映画ほど実は好きだったりもするし。
で、「マリアの受難」はそうそう追い付けない先回りの映画でありました。

原題はDie Toedliche Maria(oはほんとはウムラウト)
ディー・テートリヒェってのは、ドイツ人にとってどういう語感なんだろうなと前から知りたいと思っている。普通に訳すと「死すべき運命にある」「瀕死の」てなことだろうと思うんだけど。80年代に活躍したドイツのグループDie Toedliche Dorisは、いつのまにか「致死量ドーリス」という訳が定着しているみたい。なんかきっともっと独特な感覚を呼び起こす言葉なんだろうと勝手に想像する。


【この先、極度にネタバレしそうです!!】


で、この映画、見方によっちゃ割と深刻だけどありがち?な見方もできるよな。
「精神の死」は社会の弱い所にひずみとなってやってくるけれど、その一つの切り口は「女性」ってことで。(ありがちでしょ?)

マリアという女性にあてがわれる極端な孤独と労働。
小さい時は変に親に囲われて、母の不在ということもあって父親の屈折した愛憎の対象となるし。
長じて思春期を迎えても当然父親の理解なんか得られないし、家事ばかりやらされる毎日。
しまいにゃ半身不随となった父のツライ介護も加わって。
結婚相手も父にあてがわれていわれるまま。セックスも愛情なんかないし。

友だちはおばにもらった怪しげな木彫りの人形だけ。人形に宛てて毎日手紙を書いてはしまいこむ自家発電の日々。
向いに住む怪しげな男とちょっとしたきっかけで仲良くなっても、それは日常を打開する光明なんかじゃなくて、変に解放されたリビドーが異様な妄想に加担する一方。

そんなマリアがいきなり破水!妊娠もしてないのに。と思ったら産み落としたのはなんと10代の頃の自分自身。なんだよ、新しい生命すらもまた、同じ道を歩む「死すべき運命の」子なのか??

結局この愛なき世界のひずむ所、精神の死の再生産を繰り返すだけなのだぁ~??

***
10代のマリア

***

・・・という社会派的テーマで実はこの映画終わらないのだ~

死の再生産から抜け出す契機は、急激に訪れた自分自身との出会いにある。
一つは、自分で書きためた膨大な手紙をクローゼットの裏から取り出してみたこと。怒濤のように忘れていた過去の些事の嵐がマリアに襲いかかる。これで自分自身が客体として現れる一方で、鬱屈した精神の方は徐々にはみだしにかかり、あらぬ夢となってマリアに寝汗をかかせることになる。
もうひとつは、件の人形との濃密な共犯関係が形をなしてくること。人形は、マリアの古くからの話し相手、友人という関係から、その人形に隠したヘソクリを夫に盗み取られることを契機に一心同体の存在となり、やがてマリアを懐妊させる男性器となり、ついには夫の殺害の共犯者とさえなるのだ。

この自分との出会いは、外面的なカタストロフをもたらすが、精神においては解放をもたらしたということなんだろう。破滅と解放の両方を生きた瞬間、彼女の涙に海の波の音がかぶさり、窓辺でえもいわれぬ光に包まれる。あのラストへ向けてのシークエンスはなかなか感動的である。

で、このままマリア昇天・・と誰もが思ったであろう次の瞬間、なんとまあ、マリアの死は成就しないのである(おっと!)
こ・これは?
破滅した現実の中を、解放された精神で生きよ・・ということなんだろうか?
それはそれでなんと過酷な・・・?

****

****

・・・などというたわごとは軽~く追い抜いて、この映画は突っ走っていってしまうのだ。

細部が徹底して面白い。
時計のカッチンと針が動くアップや、
ペーパーフィルターのコーヒーにお湯を注ぐ超アップとか、
親父の部屋のシーンでは必ず妙なドローン音が律儀に欠かさず入るとか、
母の死の場面のストロボ効果とか、
1カット毎になにかしら普通でない。
こういうところにも、先回りするパワーの秘密があるに違いない。

スタイルも手法も全然違うけれど、モノへの異常なまでのクローズアップはシュヴァンクマイエルに、最後に人形を洗うシーンのような明示されないおどろおどろしさはリンチに、時計の音や人のささやき声は実相寺に、それぞれ通じるモノがあった。

光も音響設計も凝っている。
1993年、28歳でこんなしっかりした映画を撮る若者がいたとはね~
「パフューム」よりも監督の資質がはっきり出ていると思った。
「ラン・ローラ・ラン」も観ないといけないな。

10歳のマリアも16歳のマリアもとてもよかった。10歳のあどけなさ16歳の不安定さをしっかり表情だけで表現した。ジュリアンの口元のできものとかカティヤのそばかすだらけとかそういう細部が絶妙だよ。


パンフが洒落てるのさ。
ちょと高いけど。


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気になる~~

2007-04-17 23:54:06 | book
最近すっごく気になっている作家ブルガーコフ。

19世紀末に生まれ、1940年ころに没。ロシア革命時には反革命側の軍医を勤め、20年代にソビエト官僚社会を風刺した小説を書く。暗いユーモアにグロテスクな表現。しかもSFパニック小説も書いているということ。20年代ソビエトのSF。しかも反体制的な。
う~~ん 魅力的だ。


悪魔物語・運命の卵

岩波書店

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巨匠とマルガリータ

郁朋社

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・・・しかしソビエトといえば、家にはいまだにストルガツキイが積んである。
あれを読んでからにしようかな。


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ジャン=リュック・ゴダール「ゴダールの決別」

2007-04-15 18:37:38 | cinema
ゴダールの決別 デジタルリマスター版

レントラックジャパン

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原題はHELAS POUR MOI
なんて悲しいことだ・・という感じ?

「誰の周りにも目に見えぬ夢がある」との言葉どおり、これは目に見えぬものと映画について考察した・・いや、逡巡したあげくおっぽりだした映画である。(?)
目に見えぬものを扱えるのは神秘主義者か物理学者だが、ゴダールは映画作家なのだ。映像と音という、極めて可視的な媒体のうえでしか勝負の出来ない彼は、さんざんな暴挙を繰り返したあげく、ああ、悲しい、と嘆いてみせる。なにが悲しくてこんな映画を撮るのか、と問うのはなんとなく間が抜けている。なにかが悲しいからこの映画があるのでなく、この映画自体が悲しいのであるから。そんな映画だと思って観ると、結構倒錯的に面白いもんである。

生粋のヨーロピアンであるゴダールにとって「見えないもの」の最右翼はどうしたって「神」なのだろうか。
シモンとラシェルは、例によって噛みあわずすれ違うばかりの夫婦。それが愛だ、といわんばかりの夫婦の関係は、ラシェルが、シモンが本当に自分の夫であるシモンなのかどうかわからなくなってくる、という、他者の同一性への疑問で混乱したところで、さらにシモンによりによって神が光臨したらしいということになりますますこみいってくる。

ああなんてこと?(モン・デュ)とか言うと
ほら所有形容詞をつけてわが名を呼んだ・・とか言ってさ(笑)

わたしが神だよんとばかりにシモンの声色が変わるのも妙におかしいが、いよいよ可視化したとたんにそれはまったくもっていかがわしく、これが「目に見えぬ夢」の表現なのかい?このおとしまえはどうつけるんだ?と思っていたら、なんとまあ、「これからあとは語るべきことはない。あとのことは映像と物語の外でおこった」とかいってほっぽりだしてしまう。
「まず石を投げよ」
とか言ってなんだいなありゃ??

つうわけで、すごく悲しくて笑ったよ。なかなかいいぞこの温度。

***

「映画史」でも持ち出されるテーマ(?)が二つ、ここでも取り上げられる。

○過去は終わっていない、過ぎ去ってさえいない。むしろ過去は次第に現実においついてくる。(意訳よ)

○オランダの天文学者ヤン・オールトは宇宙の質量を算出したが、その総量は目に見える星々の質量の2倍であった。残りの半分はなにか?・・・実体のない存在の発見

この二つについて果敢に挑みながら、ことごとく失敗し、むしろ「失敗することに成功している」((c)蓮実教授)のがこの映画なんだろう。


好き度:
でも人には全然薦めません。怒られそうだから。



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ジャン=リュック・ゴダール「男性・女性」

2007-04-15 02:50:24 | cinema
男性・女性

ハピネット・ピクチャーズ

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1965フランス/スウェーデン
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ジャン=ピエール・レオ、シャンタル・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール


面白かったですよ。これ。

「男性・女性」といいながら、男性から女性への無数の問いであふれている映画。男性の問いは脈絡がなく頭でっかち。女性の答えはいつも真摯だけれどうつろいやすく謎めいている。

なんとかしてセックスとか政治とか思想とかに彼女たちを巻き込もうとしてがんばる男たち。でも、知らない、わからない、興味ない、とするりとどこかへいってしまう女たち。ベトナムやアメリカ式生活、コカコーラの子供たち、と、様々な時事をちりばめてみても、結局最後は男は「無意識のうちに質問は中立性を欠いていた」とか独白して、つまらない事故で死んでしまうらしいのだ。

世界はどこまでいっても「男性・女性」なわけで、どんなに世界が「男的問題」に満ちていようとも、どこかしらで「女的宙づり」を余儀なくされるんだ。政治的・思想的でありながらどこかみんな笑い飛ばしてしまうような、絶妙なバランス感覚が、希望と失望のまざったような生暖かい世界が、この映画には染み付いている。
それがうれしいし、溢れる質問がいくらでも置換可能なのだとすると、いまもって終わらない、継続中の映画なんだという気がする。

***

男性代表はジャン=ピエール・レオ演じるポールなんだけど、彼の落ち着きのない、どこかコミカルは立ち振る舞いは、とても「男性的問題」を背負いきれるタマじゃないよって感じで、観ていてうれしくなる。あのタバコのくわえ方はなんだろね~(笑)死に方も超マヌケ。

一方のシャンタル・ゴヤ演じるマドレーヌは、質素な生活態度で、歌手としての一歩を踏み出しはじめたところで、よっぽどしっかりした人間に見える。もちろん男との「愛」に生きたりはしない。笑顔で「迷ってるの」のリフレインで映画から姿を消すところなんかは実にキュートな存在。

日頃、男である自分なんて女性の傘の下というか手のひらの上の存在なんだよな~なんて実感している自分には妙にしっくり来る映画で、出てくる女性たちの個性的な顔立ちや受け答えの表情はほんとうにすばらしいなと思うよ。

ゴダールの撮る女性は最高だよ。


**

ボブ・ディランのギャグが面白かった。ゴダールもディランを意識してたのか~

ブリジット・バルドーはすぐにわかったけど、フランソワーズ・アルディも出てたらしい。わからなかった。

シナリオ採録がほしいくらいステキなセリフ(と字幕)に満ちていたな。

男性MASCULINには顔MASCと尻CULが含まれている・・とかなんとか。
「決別」でも同じようなこといってたし、こんなことばっかり考えてるんだろうなゴダールって。
(女性FEMININにはなにもないっていってたけど、ラストでやってくれた)



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読んでる本/読むつもりの本

2007-04-14 03:27:12 | book
最近読んでる/読んだ/読むつもりの本のご紹介♪


ポーランドの作家、というかポーランドから南米に旅行にいったらそのまま戦争勃発で帰れなくなって、20年以上。ヨーロッパにもどったけれど最後までポーランドの地を踏むことなくフランスで没した作家(長)ゴンブロヴィッチの小説。

こないだ「バカカイ」を本屋で買ったばかりだというのに、いつのまにか「フェルディドゥルケ」が文庫版新刊で出ていて、これもアマゾン買い。

フェルディドゥルケ

平凡社

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バカカイ―ゴンブローヴィチ短篇集

河出書房新社

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でもいま読んでいるのはこれ↓
タイドランド

角川書店

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若い作家ミッチ・カリンによる極上ファンタジー。
このあいだDVD発売になったギリアムの「ローズ・イン・タイドランド」の原作本。
映画に劣らずテンポの良い、死とタブーのおり混ざったいいかんじのファンタジー味。少女の妄想の広がり具合が自然で多様で目が離せない。

ローズ・イン・タイドランド

東北新社

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でもって、通勤途中に読んでいるのはこいつ。
死霊〈1〉

講談社

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埴谷雄高50年の大作。
どこに連れていかれるのか見当も付かない、哲学なんだか文学なんだか、思考実験的奇書。文庫は3巻あるので、まだまだ先が長い。
いまんとこ時制がどんどんさかのぼって、津田家と三輪家でなんだかもめているとこ。(わかる人にはわかる^^;)


とかいう合間に、これも読んだ。
ゴダール革命

筑摩書房

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蓮実重彦先生のゴダールを巡る饒舌。
ゴダール観て性懲りもなく打ちのめされて歯噛みしながら、くそ~と思って手を出してみると、ゴダールと同程度にこれは無闇に咀嚼や解釈とは無縁本で、またもや打ちのめされる幸福という贅沢を味わえる一冊。
黒沢清インタビューも集録。


こんなしてつまみ読みしてるから読み進まないんだよな~(反省)
でもどれもきっと面白いから、がんばって読んでみましょう!



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フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク「善き人のためのソナタ」

2007-04-12 04:04:17 | cinema
善き人のためのソナタ


2006ドイツ

監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ 
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)セバスチャン・コッホ(ドライマン)

1984年、東ドイツ。
秘密警察シュタージは思想統制を目的に、国民に対する徹底した諜報活動を行っていた。劇作家ドライマンは体制に協力的と見られていたが、シュタージは彼を監視することを決める。監視にあたるのは冷酷なまでの執拗さで尋問の専門家といわれるヴィースラー。盗聴器による四六時中の監視が行われるが、ドライマンの生活を知るにつれヴィースラーの心に変化が・・・


ヴィースラーは西側的な自由な心性に出会い人間的な感情を得ていく物語、のように宣伝されているけれど、私が見た感じでは、ヴィースラーの心を動かしたのは、むしろ自分の属する側の体制内部の持つ、むしろ反体制的ともいえる矛盾だったのだと思う。
ヴィースラーは、体制の論理のためには非人間的な手段でさえいとわない、ある意味一定の価値に忠実な人物なのだ。
しかしその価値を担うはずの上層部の行動原理が、たとえば上司のグルビッツの利己的出世欲であったり、大臣(名前忘れたよ)の下劣な下心だったりすることが、この監視の仕事を通じてヴィースラーの価値への信望をゆるがすのだ。

ヴィースラーは非情な人間だったのではなく、もともと価値の判断を自分自身でできる自律的な人間だったのだ。東ドイツの瓦解とは、正しい者の誤った者に対する勝利なのではなくて、ただ自律的人間の自律の営みの結果なのだ、と私は思った。

**

にしても、政治が人を追いつめる様は、ほんとうにやりきれない。
映画をみても滅多に涙しないわたしですが、クリスタ=マリアのことはため息がでちゃいました。いまいち何事も政治的な臭いを嫌う体質になっちゃっているのも、政治の究極ってこういう極限なんだよなと思っているからなんだよな。

これはついこのあいだ、80年代のヨーロッパの話というのもちょっとショック。今時、人類は自由平等博愛の方向へリニアに進化するなんてことは子供だって信じてないわけだけど、自分にはどこかそういう素朴な進化論が根強くあることに気づいてしまって、ショックなことが、ショック(笑)

細かい演出が効果的でよかったな。年を経てわかる赤インクの「証拠」とか、贈られた楽譜を最初はぞんざいにあつかっているところとか。いわゆる伏線ってやつですけどね。

**

タイトルはDas Leben der Anderenだから、「他人の生活」とかいう感じかな。
「善き人のためのソナタ」というのは、イェルツカがドライマンに贈る楽譜のタイトルなわけだけど、最後にはアレのタイトルになるわけで、これも映画のタイトルにしてしまうと、最後に開かれる本がこの映画の物語を書いたモノだという風に思えてしまって、ちょっと混乱のもとでは?
anderenというのはシュタージにおける非体制的な思想を持つ者という概念のようなので、ここは原題を生かした方がよかったような・・


監督も俳優さんもみな若いのに渋い!
ティクヴァといい、ドイツではいま何かが起こっているのかもしれない。

渋いソナタを書いたのは「イングリッシュ・ペイシェント」の、というより、ゴダールの「勝手に逃げろ/人生」で映画音楽家のキャリアをスタートさせた、といいたい、ガブリエル・ヤレド。
でも宣伝文句にある「この曲を真剣に・・」ってのは、ヤレドの曲じゃなくて、どうやらゲッペルスがベートーベンの熱情を評していった言葉らしいように私には聞こえましたが、どうだったっけ??
【追記】ゲッペルスじゃなくてレーニンだったみたいです(汗)


好き度:なんか好き嫌いでははかれませんな~



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ジャン=リュック・ゴダール「映画史第7章宇宙のコントロール」

2007-04-10 12:53:26 | cinema
ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX

紀伊國屋書店

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第7章(4A)は「宇宙のコントロール」
「アレクサンダー大王が、シーザーが、ヒトラーが成し遂げられなかった「宇宙のコントロール」を、ドライヤーとヒッチコックだけが成し遂げた」という。
たいそうな断言にしばし絶句する。
映画はあるはずのないものを現出させる。あるはずのないものを組み合わせる。それが映画の持つ神の手だとするなら、凡百の映画ではなくなぜドライヤーとヒッチコックなのか?

それは特定の技術の巧拙で両者が抜きん出ている、という問題ではないだろう。
特定の映像表現が他と比べて稀有である、ということでもないだろう。
ましてや脚本とその映像化に秀でている、ということでもないだろう。
いずれの点でもたとえばヒッチコックは抜きん出ているといえるだろう。
けれどゴダールは、間違ってもそういうことを称揚しているわけではないように思える。もっと違うことを言っているのだ。
でもじゃあなにを言っているのか、というと、性急に煮詰められた断言以外にはなにも言っていない、とも思う。その断言とそれに続く絶句こそヒッチコックを前にしたゴダールの態度なのかもしれない。そしてその絶句を「映画史」で共有する/拒絶される我々がいる。

ある者をある者と区別して特権化する。差別化による歴史の記述。そういうものとは無縁な絶句の身振りだけによる「映画史」。観て絶句する以外に許される鑑賞態度があるのだろうか。

と思考もここらで絶句。

***

でも無性にヒッチコックの映画を観たくなる。

***

ここで、ゴダールを前に唯一饒舌でありうる日本人、蓮実御大の文章をそのまんま引用すると

「映画を見るとは、何にもまして早さを競う体験なのだ。そして、その体験において、ゴダールは、たえずヒッチコックよりも一歩先んじていなければならない。「風車」や「白いミルク」や「トウモロコシ畑の中のバス」や「並んだボトル」のイメージは、息をきらせて先回りしているゴダールにヒッチコック的な虚構の持続が奇跡のように追いつく一瞬にほかならない。その奇跡を作品に導入したがゆえに、ヒッチコックは「呪われた詩人としては唯一成功した」映画作家とみなしうるのである。」

こんな感じね。



↓この本の85ページから引用。
ゴダール革命

筑摩書房

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猫沢エミ「ライブ at TRAUMARIS/ROPPONGI」

2007-04-08 01:11:13 | 猫沢エミ
2007.4.7sat 20:00-
六本木の隠れ家バーでの30人限定ライブに参戦してきました。

今回は雰囲気からしてこれはもうのんびりくつろいで楽しもう~と思っていたので、早めに現地着、かぶりつき椅子席を確保させていただきました^^v

薄明るい店内の照明も手伝ってほんわか気分、レポートしなきゃとかいう邪念をすててゆる~く楽しんできました。

**

え~と面白い話としては・・と、

そうそう、パリにちょっと戻ったときに、5年間通った近所のお店で「万引き犯」扱いされた!そうです。顔なじみであろうと、悪いことは悪いというスタンスがとてもパリらしいとおっしゃっていました。「何年住んでも、悪いことは平等にやってくる」う~む、ウケてしまったが、自分だったらすぐめげちゃうだろうな。

日本からパリに戻るときは、ラテン系のテンションを持って望むことが必要なので、やっぱりちょっとパワーがいるということでした。なるほどお。

あとは、近所の青山ブッ○センターで猫沢エミセレクションの棚があって、並べる本を選んだはいいけど、実際並んでみると、「まぐろ土佐船」と池波正太郎とサザエさん全巻が同時にならぶことになって、キテレツな状態に・・・失敗したかな~と思っていたら、意外なことに非常にコーナー本の売れ行きがよいそうです(笑)

それから、「ボンズール」という、パリで発行されているフリーペーパーのジャポン版が創刊されるそうで、その編集長になったそうです。
編集長という柄じゃないので、「酋長」と呼べとスタッフには言っているとか(笑)

・・・・なんというか、猫沢さんのまわりにはいつもとてもよい風が吹いているように思う。
そもそもたまたま人前で歌った自作曲一曲でデビューがきまっちゃったという話とか、書店でコーナー作ったらコーナー本には珍しい売れ行きになるとか。
なんか星の巡りが自分とは違う気がする。
もちろん本人の意識無意識の努力のレベルが違うんだろうけどもね。

**

で、歌のほうですけど、なんかとてもよかったな。
場所のせいでもあるし、聴いているこちらがリラックスしているせいでもあるけど、なんだか歌の世界がふわぁあ~~っ・・と広がった。

「私の世界」とか「Mon petit chat」とか「マシュマロワルツ」なんかもいい具合に感情が入っていてよかった。

「T'en va pas」は思わずじんときてしまったが、いちばん熱かったのはアンコールの「私のパパ」だったかも。なんかちょっと演歌の世界に近かったかも(笑)


円山天使さん、ガットギターよかったです。(暗かったのでシルエット)


ゆる~く聴いていたので、曲も曲順もうろおぼえです。
01 夏の模様
02 C'est vous sur le pont
03 私の世界
04 Mon Petit Chat
05 Les Cafes
06 The Return of Alan Bean
07 Marshmallow-Waltz
08 TABACの森
09 羊飼いの少年へ
10 Mandarin World
11 T'en va pas
12 ノワイエ
13 私のパパ


サプライズは「羊飼い」と「TABAC」かな。

そういえば、猫沢さんはアンコールが苦手なので、以前は「ここからアンコールです」って宣言してやってたけど、前回のライブから、普通にアンコールの拍手を受けてたな。
なにか考えが変わったのかしら?(きいてくればよかった)

ギターの円山天使さんには、ガットギターの値段(笑)とか、ブリッジを削ってみる話とか、カポが調子いいですよとかいろいろ教えてもらっちゃいました。どうもありがとう。
(「私の世界」のコードを間違えないで弾き通せるのがすごいっす)

***

二週間後くらいにはパリに旅立つ猫沢さん。
お体に気をつけて、といったら、manimaniさんは仕事がんばって、と返されてしまった。
う~~~~ん・・・そうだよなあ・・・がんばらないとなあ;;


猫さま、おつかれさまでした。タバコはやめたほうがいいですよ(笑)



【追記】
そうそう、次回は6月1日だそう。
「ボンズール・ジャポン」の創刊記念パーティーだそうですよ。
行けるかな~~

【さらに追記】
会場である女性に、「ABCのイベントの時に写真を撮っていた方ですよね、ブログみました」と声をかけられました。こんな拙いブログにお越し下さりありがとうございます~~~m(__)mというのはともかく、あの写真、やっぱり目立っちゃったかぁ~~(シャッター音鳴り響いちゃったしな、失敗!)


まぐろ土佐船

小学館

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