Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「家庭」フランソワ・トリュフォー

2009-05-31 22:58:56 | cinema
フランソワ・トリュフォー DVD-BOX 「14の恋の物語」[I]

ポニーキャニオン

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家庭DOMICILE CONJUGAL
1970フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、クロード・ド・ジヴレー、ベルナール・ルヴォン
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ピエール・レオ、クロード・ジャド、松本弘子


アントワーヌ・ドワネルの半生をジャン=ピエール・レオがやはりその半生を費やして演じたシリーズの4作目に当たるでしょうか。
前作の『夜霧の恋人たち』で、最後までアントワーヌに暖かいまなざしをそそいでくれたクリスティーヌでしたが、本作ではとうとうアントワーヌとクリスティーヌは結婚しています。
で、その若い夫婦の結婚生活の波風を描くのですが・・

この映画の面白いところは、二人がどのように暮らしていくかがストーリーとして中心にあるわけではないということでしょうか。
ここでは、いかにも若い家庭に起こりそうなさまざまなエピソード、情景、スケッチのようなもの、が延々とコラージュされるのです。
言ってみればアントワーヌとクリスティーヌの二人の姿を借りて、パリ中の「家庭」がその姿を映し出しているというわけです。
なので、ドワネルものといいつつも、彼の個人史的物語以上の一般性を持つことに成功しています。
アントワーヌとクリスティーヌの、しょっちゅう繰り返される口論や和解の会話に、観客は、ああ、どこかでみた感じだという既視感のようなものを覚えるでしょう。少なくとも家庭を持った人ならば。
そいういう点で、これはシリーズ中でもっとも幸福感のある作品になっていると思います。


もちろん、「あのドワネル君もとうとう家庭を持ったか~」というしみじみとした感慨もあります。彼の子供まで生まれてしまう。ああ、よかったなあアントワーヌ^^

といっても、あのアントワーヌがそこでおとなしく成長してしまうかというとそんなことは全くないのですがね・・・

****

レオの相変わらずのせわしい身振りや会話も、なんともほほえましいです。
それは彼が家庭の一大事件に気がつく駅での慌てぶりとか、隣近所の飲み屋に窓を飛び越えて入っていくばたばた加減とか、随所に彼の持ち味が発揮されています。

こうした彼のいわばパントマイム的な振る舞いの原泉については、本作ではっきりと明示されます。感動的です。ジャック・タチの映画を一度でも観たものであれば、あの独特の動きがあそこまで完コピされていることに驚きを禁じ得ないでしょう。あの駅のシーンは最高です。

もう一つはゴダールへの眼差しをときどき感じました。冒頭の無意味なほどに執拗に脚部のアップを左右に追うカメラワークとかにそういう匂いがするのですが、定かではないものの、「例の」日本人女性が最後に残した言葉が日本語でゴダールのあの作品タイトルであったことは、どこまで意識的だったのでしょうか。おそらくは計画されてのショットだっただろうと思います。

その日本人女性の風貌も、ありがちなねじれたオリエンタリズムみたいなのを拭い切れていないところが苦笑ものでまたいいんですが、なによりも彼女が同居人と会話する日本語のニュアンスがオドロキでした。その会話のリズムは今の日本では全く聞かれることのないもので、時が経つと話し言葉は大きく変わるのだということをあらためて実感してしまいました。
60年代以前の日本映画を観ると当然そういうことは感じるわけですが、なぜかトリュフォーの映画でそれを強烈に感じたのは不思議です。


ほかにも、アントワーヌがアメリカ系の感謝に雇われるときのやり取り(取り違い、英語のギャグ)とか、その会社でまかされた摩訶不思議な仕事とか、日本人女性とのデートでのあぐらネタとか、たくさん可笑しい要素がありました。
そういう点でもこれはある面コメディだったんだろうなと思います。

通俗的コメディ。


***

前に『夜霧の恋人たち』を観たときに、アントワーヌの部屋にバルテュスの絵が掛かっていたのがちらっと見えたんですが、なぜか『家庭』でも、とってつけたようにバルテュスをめぐるやり取りが一瞬でてきました。
バルテュス好きなアントワーヌ。。



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最近よく見る夢

2009-05-28 22:44:47 | diary
最近よく見る夢

ntmymさんにちょっと影響されて
夢について書いてみる。
昔の記事みてると時々見た夢のことを書いてたんだけどね
最近は書いてませんでした。

*****

最近よく見るのは、毎回細部は異なっているのでいろいろなバリエーションがあるのだが、共通している設定は次の三つ。

●自分は大学院に進学したことになっている。
●しかし、うかうかしているうちに授業や講義に出席しそこなっている。
●今日こそはちゃんと授業に出席しようと、がんばって教室に向かう。

だが、教室に向かうまでに様々な困難に出会い、結局たどり着くことはないのだ。


まずもって、カリキュラムとか時間割とかを把握していない。
ので、だれか一緒に受講するヤツをみつけて聞き出さなければならないのだが、それがまた苦労する。朝からカフェや図書館や電車やバスの中で人探しをするのだが、知ってる人を見かける割にはなぜか肝心なことは聴き出せない。やばい、時間が来てしまう。なんとか1時限目には出たいのだが・・どうも1時限目には「数学」とか「国語」とか「体育」とか「英語」とかそういう基礎的な科目が集中しているようだ。(まるで教養学部だ。)じりじりと時間が過ぎていくので、とりあえず当たりをつけて教室まで行こうと思う。

教室は大概は実際の母校の、しかし一度も入ったことのない校舎にある。その校舎の風景をイメージしながら向かうのだが、それがまた毎回難儀な道のりだ。必ず途中で立ちはだかるのが、巨大な建物だ。それは新宿駅のように横に横に長く容易に迂回など到底できそうにない。たしかここを通れば向こう側に抜けられるはずだと思いつつ建物の入り口から入り、階段を登り、怪しげなフロアにでて、寂れたレストランや、簡易宿泊所のような二段ベッドの列や、やたら繁盛している食堂街や、ひとでごった返しているカフェなどを通り抜ける。
なんども階段を上り下りして細い通路や地味な扉を通る。途中窓から緑がいっぱいの中庭なんかが見えたりする。こういう構造だとすると現在位置はこの辺で、てことはこっちに行ったらいいのでは?とか考えはするけれども、結局また階段と通路だ。あるときは、扉を開けたらそこは高い室内壁の中間地点で、がらんとした薄暗い巨大な空間の壁の真ん中にぽつんと扉がありそこから細い階段が下のほうに伸びていたりする。しかたなくそこをこわごわ降りるとなぜか横浜駅地下街だ(笑)

結局建物の「向こう側」に抜けたことは一度もない。ああ、結局今日も授業には出られないのか・・とかいう無力感も感じつつ、そうだ、地下から地下鉄に乗っていけばいいのか。とか思いつき、乗り場に行ってみる。するとそこは妙にアナクロなシステムで、切符を改札を通るところでいちいち駅員さんから買わなければならない。SUICAなぞはいっさい登場しない。改札口も1個しかないし。改札の向こうに電車が到着するのを見つつ、小銭を苦労して払いホームに行く。
電車はなぜかいつも2両編成くらいの小さなものだ。乗ると、座席の配置が妙に凝っており、二人がけ、一人がけ、ボックス席、横長席などが混在している。近所の学生さんとか主婦風の人とかサラリーマン風のひととか雑多な乗客がみな一様に黙りこくって疲れた感じで座っている。

この電車がまたややこしい。路線を確認するとどうもこれはものすごく遠くに自分は来てしまっているようだ。目的地に向かっているはずが、いつのまにか横へ横へとそれている。しかも電車は妙に迂回しており、この経路で行くとするとたっぷり5時間はかかりそうだ。××駅で乗り換えて、○○行きに乗る。これでいけるはずだ。しかし電車に乗っているうちに外は薄暗くなり、妙に暗い夕日が赤い光をさしていたりする。重苦しい秋の夕暮れといった感じ。

ときには電話をかけようとがんばってみることもある。夢の中の電話の常として、まずボタンをちゃんと押せない。なんどやっても押し間違えてしまうのだ。なんなんだろうねえあの夢の中の電話。そのうち電話番号もよく思い出せなくなってきて、ますます電話をするのは困難になる。
夢でもさすがに電話は固定電話ではなく携帯になっているのがせめてもの救いである(なんの?)。

バスに乗ることも結構ある。これも電車と同じようなもので、路線がよく把握できていない。乗り場を探してうろうろしたあげく、車内で路線図を見る。う~む、これでは30分はかかるかなあ、でも終点から学校まではまた結構歩かなければならないよ。。といってるうちに秋の夕暮れである。
あの夕暮れ感がなんとも言えん。

*****

で、結局はたどりつくことのない大学院。
実際のところは大学院へ行ったことはない。
一時は進学を考えたがやめた。
それほど行きたかったわけでもないので、それについては何も後悔がないのだが、実は結構気にしているんだろうか?

大学時代には結構いい加減な暮らしをしていたので授業に出れないことも、さぼることも多々あったし、1時限目の授業は出席不足でよく単位を落とした。これが深層で焦燥感となってのこっているのだろうか??

それを、なぜ今になって夢に見る?

人間というのはわからんもんだ。




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「チャットモンチー レストラン スープ」チャットモンチー

2009-05-28 09:32:16 | music
チャットモンチー レストラン スープ [DVD]

キューンレコード

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チャットモンチー レストラン スープ

07.07.07日比谷野音でのライブを収録したDVDです。
日比谷野音なんて何年行ってないだろう。。
間違いなく記憶にあるのは泉谷しげるライブ。もう30年前のことだ。
その後一度くらいは行ったような気もするのだが、記憶が定かでない・・・
つまり、日比谷野音には縁がないということだな。。

そしてその野音でワタシの娘のような年齢の子がライブをやったDVDを観る。音楽は世代も越えるね。

野外なので、時折吹く風が橋本恵莉子ちゃんの髪をふわっとなびかせて、顔の輪郭がわかる。
ああ、なんてかわいいんでしょう。リンゴの木の下の世界だ。まだあげそめしまえがみの~・・・的青春の心持ここによみがえり~

・・などというオヤジコメントはさっさと終わらして、ですね、


******


チャットモンチーの魅力は、身も蓋もないけどやっぱり3ピースバンドとしてのポテンシャルが今マックスにあることだろうか。3つの楽器がそれぞれに水準が高くてかつ個性的でないと、ありきたりになってしまう。
これは非常に困難なことなのだが、この3人はあっさりと楽しげにそれを実行してしまっている。

特にギターは、かき鳴らしばかりではなく、リズムやリフを相当練っていてかつ練習している。テクニックが高いというよりは、自分のボキャブラリーを意識しているという点で強い。
複雑なコードを繰るでもなく、バリバリのソロを弾くでもなく、どちらかというと朴訥なプレイなのにかっこいいのは、その音が曲全体のイメージにマッチしてトータルな貢献をしているからだろう。
あのつたなさがかわいくかっこいいのです。
考えられたフレーズに要所でのエフェクター操作、そのうえに歌までうたってそれが切なくいいのだから、彼女のセルフコントロール能力は相当なものだと思うのだ。

ドラムの高橋久美子さんの驚異的ドラム語りが炸裂するのは、実はアルバム「告白」を待たねばならないが、この07年の時点で十分彼女は洗練されている。洗練はくみこんを語るうえでのキーワードになるだろう。
世には洗練を嫌う向きもあるのだが、洗練されて普通になってしまう場合と、洗練されてどんどん個性的になっていく場合があると思う。彼女は後者で、ほかには例えばスピッツの崎ちゃんなんかがそうだ。
コーラスの主要な部分を歌っていることもあって、くみこんのドラムは曲を支える以上の「歌い」をしている。

ベースは全体で見るとちょっと地味な印象を受けるが、3人目の「語り」を見出そうとしている感じのラインを弾く。ルート音をときおりはずれ、単音での物語を紡ぐ。
バスドラと一緒にルート音を弾かないとコンテストで落ちるよ~的なアホ臭さとは無縁な発想を彼女が得ているのは頼もしい。そのうえで、ライブ中一度たりともリズム落ちしない。高速16ビートをフィンガーピッキングで疾走してみせるあっこはなかなかかっこよい。

そう。彼女たちは一度たりとも「間違えない」のだ。これはすごいと思うが、プロってそういうもんだろうか。スタジオミュージシャンを集めたバックバンド的なものだったらそれもあるだろうが、そうでないバンドでこれは、よほど練習をしているか、よほどの天才であるかのどちらかであろう。両方かもしれない。

****

さて、ライブが始まって最初に驚くのは、ドラムのくみこんを正面右斜めから捉える固定カメラが、バスドラたたくたびにぶるぶるゆれることだ(笑)
ちょっと緊張気味で喉が慣れていないえっちゃんの切ない表情をよそに、くみこんはぶるぶるゆれている。いいなあ(笑)

ボーカルのちょっと頼りなさそうな感じもよい。高音を苦しそうに出すえっちゃんの素顔をときおりおきる風があらわにするところがなんともセクシイだ。
そのなれない感も後半にはすっかりこなれてくるのもよい。
夕方始まったライブは次第に夕暮れを向かえ、夜になる。野音の醍醐味だ。

たくさん曲をやったのだけれど、これもライブでやるのか~と感心したのは「ウィークエンドのまぼろし」。そういうタイトルだったのか~とタイトルを覚えられないワタシはまた感心するのだが。
演奏も結構凝ったアレンジなうえに、歌が早口言葉のようである。アクロバット的演奏を披露する彼女たちのなんともかっこいいことよ。

  広がるのはただ切れ間ない青のコラージュ
  少年はバスケットボール枕にして
  空に浮かぶ明日を見ている

ああ、歌詞の引用はご法度でしたっけ・・
広がるのは・・ってところでドラムがスネアのロールになるとこなんかが、くみこんのセンスだと思う。

あとは「恋愛スピリッツ」の歌い出しでしょうか。
えっちゃんのナマ声ですよ。と書くと隠微な感じ~。
あれはナマで聞くといいでしょうねえ。
そして楽器が一斉にはいるところのノーカウント入り!カウントなしはマンガ「緑茶夢」を思い出しますな。バンドなら一度はやってみたい技でしょう。その技をこの部分に選ぶそのセンスがよいですね~

「とび魚のバタフライ」のフラダンスもいいですね。PVでのえっちゃんの腰つきがなかなかよかったのを思い出します。

それと、アンコールでえっちゃんがサンバーストのストラトキャスターを弾きますね。これも見所っていうか、ギターでかくてストラトに見えません!(笑)

お客さんが結構おとなしめなのも野音のベンチの構造のせいでしょうかね。でも曲間のトークでのえっちゃんの起立・礼とかではちゃんと参加してましたね。あのくらいの緩さのお客さんのほうが安心します。楽しんでる感じがします。あんまり客席がノリノリってのも気持ち悪い。


なんかいいことばっかり書きましたが、実際わるいところがないのですよ。
いいなあ、バンドは^^/



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にゃ~~~~

2009-05-27 00:07:14 | ウツ記
最近は映画やら本のこととかが多いので
たまにはウツ記でも書いてみんとす。。

昨年末に2ヶ月弱職場を休んでしまったのだが
1月に復帰して今に至るのはきっとどこかで書いた。
5月。
う~~ん、まだ5ヶ月しか経ってないのか~~^^;

基本的にはそんなに精神的に調子が悪くなる事はないのだが
いまだに睡眠リズムの問題が解消されず
朝、すぱっと見事なまでに起きれはするのだが、
朝ご飯食べ終わると異常にまた眠くなるというのがずっと続いているのです。

これがまた、とにかく眠いんだな。
もう、我慢するとかいう水準ではない。
誰になんと言われようとももう立っていられない!寝る!
という感じなので、いくら前日に「明日は頑張って早く出かけよう!」と心に決めようが、実際朝ご飯後になるとそんな決意など取るにたらない事のように思えるから面白い。

いやおもしろがっている場合ではないのだが、、
でも人間の意思ってのは人間を律する上で、意外と表面のことにしか通用しないんだなあと感心したり。

意志が弱い!とか言うひともいるでしょうが、
あの眠気はもうレベルが違うのですな、これが。。。


それでもたまさかなんとかごはん後に眠らずに出勤できる日もないこともない。
が、そういうときは職場に行ってから異常に眠くなっちゃったりするのでまた
困りものだ。
職場で「すみません30分くらい消えます」と周りにささやいて、
更衣室のちっちゃなソファーで爆睡する。

職場で寝ちゃうって、ありえね~~
でも気持ちいい~~(笑)

で20分くらいですっきり目覚めて仕事に戻る。


なんか睡眠障害があるのかな
太ってきたのでいびきをかくようになったらしく
家族に「うるせ~!」とか言われているようだが
本人はよく寝ているのでわからん。
まったくわからんから不思議だ。
無呼吸なんとかというやつかしら??



でもまあ、最近は職場で爆睡はかなり減ってきたし
朝二度寝してもぎりぎり起きて出勤できるようになってきたし
この調子で常人並みになってくれるといいなあ



ムカシは平気で夜3時4時まで起きていて、
翌朝は7時半ころに起床、
子供を保育園にぶち込んで出勤してた。
あれはやっぱり若かったからかな~

まあ、寝坊して遅刻ってのもよくやってたけどね^^;



というわけで、睡眠問題。
当面の課題はそれなので、そもそも0時過ぎにブログを書いてる場合ではないのでありました^^;

では
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オレーグ・ヤンコフスキー追悼

2009-05-25 23:09:23 | cinema
オレーグ・ヤンコフスキー追悼

インタファクス通信によると、ロシア俳優のオレグ・ヤンコフスキー氏が20日(5月)、モスクワの病院で死去、65歳。すい臓がんを患っていたという。44年2月、旧ソ連カザフスタン生まれ。


オレーグの出演作はタルコフスキーの『鏡』『ノスタルジア』のみ観ているが、とくに『ノスタルジア』によって忘れえぬ俳優である。

タルコフスキーにとって終生のテーマの一つであった「憂愁の病」と「魂の救済」。その総括として堂々たる作品となった『ノスタルジア』では、オレーグは同郷の音楽家サスノフスキーの足取りを追いイタリアを巡るロシア詩人として登場する。彼の抑制された演技ともいえぬ独特の存在感は、映画の主題をすぐれて体現して見事である。無表情で主にわずかなしぐさにより、サスノフスキーの陥った故国への思いに深く同調し、死に至る病に落ちてゆく詩人の心の動きを表し深めていく。その同じ無表情で、通訳もなしに深部で心を通じ合わせるドメニコとの約束を命を賭けて果たそうとする最後のシークエンスでのうちに秘めた緊張感はやはり忘れ得ない。(写真)

やはり故人となっているアナトーリ・ソロニーツィンとともに、タルコフスキー役者として重要な位置を占めたと思う。この1作で。

『ノスタルジア』のドメニコは当初ソロニーツィンを想定していたという話なので、実現していれば二大タルコ俳優の競演が観られたのだが。(『鏡』でも競演しているが、両者が出会い会話することはない。)



他の出演作では『クロイツェル・ソナタ』(1987ソ連)、『私の20世紀』(1989ハンガリー・西ドイツ)、『おろしや国酔夢譚』(1992日本)、『耳に残るは君の歌声』(2000イギリス/フランス)などがある。いずれも未見だが、才媛サリー・ポッターによる『耳に~』は観てみたい。ジョニー・デップなど豪華陣との競演である。また、『私の20世紀』は評などを読むとかなり面白そうだ。監督がハンガリー人というところも気になるし。

1944年は第二次大戦のさなか。ノルマンディ上陸作戦の年である。ジョン・レノンより4歳若く、ジョージ・ルーカス、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと同じ年である。リヒャルト・ゾルゲ、エドゥアルド・ムンクの没年でもある(だからなんだ?)

R.I.P.
深い感謝とともに


ノスタルジア

ノスタルジア再観
コメント (4)
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水深90mまで潜水可能な・・?

2009-05-24 02:54:09 | diary
水深90mでiPodを聴く装置?

Yahooニュースより↓

**********
トリニティ株式会社は2009年5月22日、H2O Audio の新製品であるダイビング用 iPod コントロールユニット「iDIVE300」を、5月23日より Trinity Online Store にて販売開始する、と発表した。
「iDIVE300」は、iPod/iPhone 両対応のコントロールユニット、水圧による音量低下に対応するための内蔵アンプを装備し、90mまでの水面下で音楽を聴くことが可能できるダイビングアイテム。
90mまでの水圧に耐える防水設計で、アンプ内蔵により水圧に負けない音量を確保。iPod/iPhone で音楽を聴きながら、スキューバダイビングやシュノーケリングなどを楽しむことができる。
市場想定価格は、4万9,800円(総額)。
***********




・・・・これは売れないと思うが・・・^^;
製品企画した人には悪いが・・


ダイビングのときは結構音にも注意を払う。
・近くを船が航行していないか(浮上時には命取り!)
・空気はもれていないか(もちろん命取り)
・スタビにどのくらい空気が入ったかまたは出たか
・近くで助けを求めている人がいないか(タンクをナイフでたたく音とか)
・「大物」が近くにいないか(マンタの気配・・とか)
・ダイビングコンピュータのアラーム音

これらを無視して水中で音楽に浸れるってのは
よほど神経の太い人だ
場合によっては死んでもいい、とか
まあ人が死ぬのを見過ごしてもいいや、とか
そう思う人にはお勧めだ。
せいぜい世界の果てまでもつまらぬ量産ミュージックで満たすがよい~

あ、でも
リゾートホテルのプライベートビーチかなんかで
シュノーケリングするくらいなら大丈夫かな

しかし
そもそも潜ってまで音楽を聴きたいという気が知れないが・・?


それに・・高い



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運動会苛酷なり

2009-05-23 13:25:02 | movelog
暑い!
疲れた!
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ユリイカ2009年3月号 特集=諸星大二郎

2009-05-21 22:22:22 | book
ユリイカ2009年3月号 特集=諸星大二郎

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ユリイカ3月号 特集~諸星大二郎

西遊妖猿伝新装版の発刊に合せたような特集。
なんといっても幻の作品、70年COM投稿作品「硬貨を入れてからボタンを押して下さい」が初掲載されているのと、諸星本人のインタビューが目玉でしょう。

「硬貨~」は、諸星らしい凄惨な状況(おそらくは未来かあるいは異世界での文明末期を思わせる)におきながら、これまた諸星らしいといえる、肩すかし脱力系のオチがついている。劇画風画調とのミスマッチも可笑しい。これで勝負をかけようとした諸星のなんともいえぬふてぶてしさというか、本気かい?的な笑いも生む。

インタビューでは、中国故事などを縦横無尽に料理する作品のバックボーンについて、さぞや博識な勉強家と思いきや結構いいかげんにネタ拾いしているらしいことが伺えて、中国史アンソロジー的な本を「便利なんです」とかいって笑ってみせるのが可笑しい。

あの独特な絵柄についても、ああ見えていろいろ試行錯誤しているらしく、最近になってもペンを変えてみたりしている。筆なども使う「西遊妖猿伝」のタッチは物語のダイナミックさとよくマッチして迫力がある。やたら出てくる馬に乗った活劇なんか、描くの大変そ~

評論も論者というよりは皆諸星ファン!というのを隠さない愛情に満ちている。
特にあの独特の画調のもつ力について分析しているものが目立つ。ものすごく線が多いくせに精緻ではなく、といって書き込みが弱いわけでもない画調によって表現される独特の質感に負うところが多く、同時期に出た大友克洋や星野之宣との比較で、彼らならきっちりと描ききるところを諸星はこうしちゃう、それによる諸星効果の独自性を論じてみせるところなどはなかなか面白く。

まあ、そんなことファンならばとっくに肌で知っていることですけどね。

なわけで、本書読後に、未読の諸星単行本をにょろにょろと買い漁っているワタシです。結構冊数多い^^;



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「ブラッド・ミュージック」グレッグ・ベア

2009-05-20 22:48:06 | book
ブラッド・ミュージック (ハヤカワ文庫SF)
グレッグ・ベア,小川 隆
早川書房

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「ブラッド・ミュージック」グレッグ・ベア

読んだ~
イーガンの書評などで、あるいはクラーク「幼年期の終わり」との関連でよく名前が挙る作品で、前から読んでやろうと購入していたが、ようやく読んだ。積読歴5年?(笑)

天才肌の研究者ヴァージル・クラムは、学歴データを改ざんするなどしてバイオチップ研究開発を行う大企業で働いていたが、ひょんなことから哺乳類の細胞の遺伝子操作によって、ロジックを処理する細胞=生体素子を作ることができることに気づく。こっそりその研究に没頭していたヴァージルだが、ある日上司にバレ、研究室からの退去と研究資材の破棄を通告される。窮したヴァージルは自分でもまさかと思う方法で培養中だった細胞を持ち出す。そしてその結果、とんでもないことが持ち上がる・・・・・

なんて本の帯文みたいなことを書いてみる。
これがどうしてイーガンやクラークに行き着くのか?という観点で読んだのでなかなかワクワクした。

遺伝子工学や量子力学のハードな設定を踏まえつつも、それらは意外とさらりと「そういうもの」として流すことができてしまい、全体の内容はむしろそういう原因で発生する事態をめぐって様々な人々がどのように行動するかを複眼的に描いている。つまり、わりと普通だった(笑)

それでもヴァージルのパーソナルドラマからはじまり、関係者を一人ずつ巻き込み、一気にパンデミック的に物語が拡大していく感じはなかなかスリリングで、そもそもヴァージルとなんの関わりもなかった少女のエピソードなども加わり、広がりがある。(まあ、そういう傍流的逸話はハードSF的には邪魔かもしれないが・・)

規模的な広がりとともに、一方で知性を持った細胞たち(ヌーサイトと呼ばれる)が形作る世界の深化も描かれ、そちらのほうは異世界とのコンタクトものとして興味深い広がりを見せる。人間界とヌーサイトと、双方での物語の広がりが重なり合うのがこの小説の面白いところだと思う。



人間界のほうは一種のパニック小説的でもあるが、ひとりひとりのエピソードは情緒的でありどこか物悲しいのが印象的だ。ヴァージルも、その母親と対面するシーンがあるが、どこか奇矯な秀才に育った息子を、どこまでも見通すような母親のキャラクターは印象に残る。(彼女は最後にことの本質をしっかり見抜いて行動した。)

自身の感染に気づくや否や恐るべき行動力で我が身をヨーロッパの研究機関に隔離した研究者バーナードも魅力的だ。彼の存在はなかなか重要で、ヌーサイトがどのような活動をするのかは、主に彼と、彼の「内部」との会話で伝えられる。(もちろんそれは完全に解明されることがなく、異文化に完全に吸収されてしまうまでになんとか人間の言葉になった部分でしかわからないのだが)
その過程で彼は自分自身の記憶と対峙するとともに、まったく別人の記憶とも出会う。そしてそれは彼が隔離されているがゆえにあくまで「バーナード宇宙」の中の出来事だ。それなのに彼は「内部」で死んだはずのヴァージルとも会うことになる。記憶の伝承をミクロ世界で考えた場合の一つのありそうな話が展開される。ヌーサイト世界の特質の一つをバーナードという設定で表しているのはなかなか上手い。

***

いろいろ疑問な点もある。
知性を持った細胞のその知性をつかさどる器官はなにか?細胞単体でみると、それは知性というよりは遺伝子の自己改変能力とみるのだろうか。文中にも活動の最小単位は?とヌーサイトに問うと、それは一定の集まりであるというような回答が帰ってくる。細胞は遺伝子を改変し、一定の機能を果たすモジュールを形成するように形態を作っていくのだ。だとすると、その個々の遺伝子の改変を方向付けるものは何だろう?
ヌーサイトによれば、どうやら彼らの中に上位の司令塔があるらしいこともほのめかされる。その司令塔が全体の変動をコントロールしているのか?じゃあその司令塔はどうやって作られたのか?etc.etc……と疑問がずるずると連なっていく。

う~むわからんぞ

祖先や接触のあった人間から受け継いだ細胞があるがゆえに、不完全であれ別人の記憶が残る、というのも、わかったようなわからんような。。ヌーサイトにおける記憶自体はやっぱりそれをつかさどるモジュールによって保持されるのだろうけれど、それと細胞の継承とはどういう関係があるのだ??

ああ、いちいち考えるとめんどくさいなあ・・・

それにしても、実はいちばんの謎は、なんといってもヌーサイトたちは結局どうなったか??ということでしょう。(それがわからんのか?的おどろき(笑))

ヌーサイトにおける宇宙とは、外=マクロ世界ではなく内=ミクロ世界なのだという言及があるが、きっとそういうことなのだろう。素粒子レベルのところに何がしかのものを見出し、そちらの世界に彼らは行ってしまったのだろうか?そしてその帰結としてマクロ世界の物理法則がまったくとらえどころなく変化していく。これは面白い(わかんないけど)。


「感染者」の行く先をとらえると確かに80年代の『幼年期の終わり』といえなくもない。が、『幼年期~』が大いなる意志の成就とするなら、こちらのほうは巨大な事故なのではないだろうか。不可思議な集合知を持ちはするが、それが神の視座でないところが80年代的といえるのかもしれない。

SFのメインストリームの魅力を持ちつつもあくまで異存在=絶対他者とのコンタクトが不可解なものであるというトーンを持った本作に、ワタシは好感を持つのでありました。
でもほんとはもっと不可解なほうがいいな(笑)


【追記】
おっと。
この作品には偉大なる?先駆的作品があり、それは諸星大二郎「生物都市」である~なんていうのはちょっと強引かも?
個体が集合的生体にとりこまれることで、幸福感を得るというイメージが共通していると思う。
彼方より―諸星大二郎自選短編集 (集英社文庫―コミック版)
諸星 大二郎
集英社

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ユリイカ2009年5月号 特集=クリント・イーストウッド

2009-05-19 21:52:47 | book
ユリイカ2009年5月号 特集=クリント・イーストウッド

青土社

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なにやらタイムリーな特殊
青土社もそれなりに販売戦略があるってことでしょうか
(見事にワタシは買ったしね)

原稿執筆時はまだ『チェンジリング』が公開中の頃のようで、限られた著者が『グラン・トリノ』を観ている、という感じです。

くっだらない評論も混じっていたりはするのですが、割と多角的に、いろいろな観点からイーストウッドについて読み解いているので、興味のある方、特に『チェンジリング』『グラン・トリノ』を観たかたなら面白く読める特集になっていると思います。

ハスミ師と黒沢監督の対談は予想通りの展開で(笑)ということはさておき、イーストウッド本人のインタビューや、『グラン・トリノ』の脚本家のインタビューなどがやはり面白いですね。
映画史的にも哲学的にもいろいろと位置づけることが出来るイーストウッド作品ですが、やっぱり本人はそんなことそれほど考えて撮ってはいなさそうなところが実に感動的です。『グラン・トリノ』も、老人+人種差別主義者なんていう主人公の脚本は書いても売れないぞと皆に言われた脚本を、さらっとイーストウッドが拾って、しかもほとんど一字一句の書き直しもなく使ったというのだからオドロキです。イーストウッドがいなければあの映画はないわけですけど、それと同じくらいあの映画は脚本家の手腕にも依っているのです。
そういうことはイーストウッド本人がいちばんよくわかっているのでしょう。


バタイユやフーコーの言葉を引きつつ、イーストウッド映画にまつわる死のイメージを「自由と真理」という概念に結びつける丹生谷貴志の論考がワタシには面白かったですね。そういうことというのは基本的に映画を観るのに不可欠な観点というわけではなく、ある意味ムダな深読みなわけで、だからこそもしかしたら理屈には出来ないけれど観賞後にモヤモヤと残る消化不良的割り切れなさをストンと突いてくれるのかもしれませんねえ。

逆に映画評論という畑のひとの書くことは、そういう不意打ちのような資質がないように思えました。特に映画に「古典期」というものがあったということを前提にした映画史的議論にはどうしても違和感を覚えずにはいられませんでした。
(「古典」はあるとしても、「古典期」という期間があったとはどうしても思えない・・)


ま、何を言っても結局は観ないことにはね・・・
(というワタシもほとんど観ていないイーストウッド)



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「The Road 1-9+DVD」Henry Cow

2009-05-17 14:54:18 | music
The Road Vol.1-5

ReR

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The Road Vol.6-10: DVD

ReR

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買うつもりがなかったんだけれど、あれこれと考えているうちに
衝動買いしてしまった~
Amazonでは取扱がないようだけれど、この2つのBOXをセットにして
日本語ブックレットをつけた日本盤が出ています。

こちらで取り扱っています
あとタワレコなどでも買えますね

ヘンリー・カウについてはこちら

The Roadはヘンリー・カウのライブ音源やデモ音源などを、そのキャリアを網羅するような形で集成したCD-BOXです。そんでもって彼らの結成40周年記念盤。
ライブだと結構インプロヴィゼーション部分も長いだろうし、スタジオ盤リマスターを揃えようと思っていたので、こいつは買わんでいいかな~なんて思っていたんですが・・・

買ってまずはやっぱり唯一のライブ映像と言われるDVDを観るじゃないですか?
そしたら、もう思わず興奮!ですよ!
あのダグマーがBeautifulu as ...Terrible as.....を歌う姿を見て
リンジーのバスーンプレイを観て
カトラーの過剰なまでの腕の運動を観て
フリスの顔だけは変わらない若い体型を観て
ティムのはにかみながらMCする若々しさを観て
そいで、ジョージー・ボーンのベースの構え方!を観て
もう、食い入るように見入ってしまい・・・
・・・あまりの集中度に途中「LITHOTB」終了後にもう疲れて見続けられなくなりました(笑)

すごいよね~あんな緊張し切ったライブをやってるんだよね
音だけで聴いていても、まあすごいのはすごいんだけど、
そこに具体的に肉体運動のイメージが加わると
さらにダイナミックですよ

なわけで、CD9枚もまだ一枚も聴いてませんけど^^;
このDVDだけでBOX買いの価値がありました!!
という報告まで!

あ、そうそうDVDはPAL方式のみですので要注意

****

日本語訳ブックレットの冒頭に
リンジー・クーパーが多発性硬化症にかかっており
現在病状はかなり深刻であることが記されていて
ショックを受ける。
病気であるというのはどこかで聞いていたけれども。。しくしく



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「チャットモンチー レストラン 前菜」チャットモンチー

2009-05-15 22:13:25 | music
チャットモンチー レストラン 前菜 [DVD]

キューンレコード

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いまごろレビュー

チャットモンチーのデビューから「橙」までの8曲のPV集ですね。

01ハナノユメ2005
いや~やっぱり初々しいですね~
オープニングは上から真下を見下ろすショットで決めてくれますな。
で橋本絵莉子ちゃん、顔がいまと違う!
あちこちで整形?とかささやかれているがさもありなん。
でもきっとそんなことはしていないでしょう。
そんなのチャットらしくないもん

02恋の煙2006
これは撮り方がかっこいいですね。
闇の中で弱い光のスポットがメンバーの手元や口元を照らす。
もうちょっとスタイリッシュにやればちょっとデヴィッドリンチ的世界になりそう。
カメラ、もっと、もっと寄るんだ!

03恋愛スピリッツ2006
これは衝動吐露系のチャットの魅力のひとつを象徴する歌ですね。
サイショの長いアカペラをどう写すか・・普通ならやっぱ真正面からでしょうねえ
えっちゃんの顔がすこし今に近くなってきた。
やっぱり顔って変わるんだねえ。ビックリだ。

04シャングリラ2006
こいつもいい曲だけど、このクリップはなんかちょっと違う気がするなあ。
あのダンサーのイメージではないよ
映像を考え過ぎだろう。
竹●芸能企画がPVプロデュースしてるんだけど、そこってスピッツのPVとかもやってたよね?どうもいつも今ひとつ洗練されない感じなんだよね(笑)

05女子たちに明日はない2007
あ~あ、あ~な~た~のこ~え~が と~お~くな~る~~
これは見た目華やかで許す。
黄色のレスポールがかっこいいな
アッコのベースはいつも青プレベってわけじゃないのね
3人とも女子軍団のなかにすっぽりとけ込んでしまって、本当に分からない。
普通の女の子だな~~^^

06とび魚のバタフライ2007
3人の演技が面白い。つーか、かわいいこはなにやってもかわいいな^^
フラダンスもいい感じです。
えっちゃんの片方二重まぶたがかわいいな~~
実はワタシも片方二重(かわいくないけどさ)

07世界が終わる夜に2007
これはうってかわって全編アニメ
曲のイメージをしっかりつかんだいい出来だと思います。
(これはプロデュース竹●さんじゃないのでね(笑))
3Dソフトも使わずに作ったものだそうで、力作です。
都市の荒々しさに思わず人が重ねる妄想をちゃんと形にしている。
ぐっじょぶ。

08橙2007
このビデオはよいよ。
チャットモンチーがどういう風にカッコいいかをしっかり収めている。
バンドはかくあるべし。
飾らず騙さず驕らず。
ほとんど気づかないスピードでカメラが演奏する3人に寄って行く
それだけなのにエモーショナル
長回し一発撮り。
かっこえー
(これも竹●ではありません(しつこい))


かわいかっこいいので、とにかく許す!
本編にメンバーのコメンタリーがついてるのと、
メイキングもついてるので、
何回も楽しめます

あ、それから
メニュー画面のときのBGMがこのために書き下ろした曲で
1曲まるまるがループ編集で入っている
贅沢仕様です

しかしえっちゃんはかわいいなあ
(あっこもくみこんもかわいいですよ)



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「名探偵コナン 漆黒の追跡者(チェイサー)」山本泰一郎

2009-05-14 23:43:28 | cinema
「名探偵コナン 漆黒の追跡者(チェイサー)」
2009日本
監督:山本泰一郎
アニメーション制作:東京ムービー
原作:青山剛昌
脚本:古内一成


GW初日に観ました。貴重な劇場鑑賞の機会にこいつがチョイスされるのも家族持ちならではの出来事でしょう(笑)GWにはどこにも出かけなかったので、せめてもの家族イベントということでした。

脚本がよく練られていて、謎解き構造も結構複雑で観ていて空きませんでした。マージャンパイとその裏の記号が非常に謎めいていたけれど、実際はダイイングメッセージからあっさりターゲットが絞られ、よくかんがえるとなんだったんだあれは?みたいな^^;気もしますが、見ている間は結構スリリングでした。絞られたターゲットが実は・・というところもひねりが効いていてよかったです。
そう思うとあの刑事さん大集合もなんだったのか?最後にころころころがるため?(笑)ああ、そうか、黒い組織のスパイが誰か?を盛り上げるためか~あれも結構みんな怪しくて面白かったかも。
コナンの秘密兵器とか、蘭の空手とか、難波の高校生探偵(名前忘れ)とその彼女とかあらゆる見せ場をしっかりと埋め込んで、最後は伏線張ってあった博士の新発明で切り抜ける。これはなんというか、職人の脚本だと思った。

作画もよくできていて、廊下から窓の外に見える建物を斜めに捉えながら、視点が廊下を移動するときに、微妙に変わっていく景色のパースペクティヴをちゃんととらえたりしていて、作画技術ってのはすごいんだなあと感心する。3Dソフトとかそういうの使うのかなあ?(まったく無知)

一方でアニメというのはいつも感じることだけど、そういう構図とかをすべてあらかじめ計画しないとできないわけで、実写ならば現場でのひらめきや偶然を採用するという即興的ダイナミクスがあるけれど、アニメにはそれがない。そういうところが窮屈な感じがして、つくりがよければよいほど窮屈感がある。アニメは計画性がすべてであるならば、もちろん脚本やコンテに力を注ぐのが正解なので、よいんですけどね。

それにしても蘭の髪の毛はなぜ常にとんがっているのか??

そいから倉木麻衣の歌う曲はいまいちでしたな。。

****

しかし、コナンとカントルが同居するこのブログって・・??^^;



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「ウェディング・ベルを鳴らせ!」エミール・クストリッツァ

2009-05-12 20:59:47 | cinema
ウェディングベルを鳴らせ!PROMETS-MOI
2007セルビア共和国/フランス
監督・脚本:エミール・クストリッツァ
撮影:ミロラド・グルシーカ
音楽:ストリボール・クストリッツァ
出演:ウロシュ・ミロヴァノヴィッチ(ツァーネ)マリヤ・ペトロニイェヴィッチ(ヤスナ)リリャナ・ブラゴイェヴィッチ(ボサ)ストリボール・クストリッツァ(トプス)ミキ・マノイロヴィッチ(バヨ)アレクサンダル・ベルチェク(ジヴォイン)



クストリッツァの新作を観ました。
例によって基本はちゃめちゃのコメディなのですが、これまた例によってアクの強いバルカン臭い音楽や泥臭い舞台装置に彩られて、普通のコメディ以上のエモーションを感じます。これが好きな人にはたまらない。冒頭怪しげな3人組が車にぎゅうぎゅうに詰まって草原をやってくるショットで、もう「許す!」となってしまったワタクシでした。

とはいえ、『アンダーグラウンド』にあった我が身を恐れぬ鋭い風刺精神や、その冒頭での動物園空爆や地下世界の無軌道な滅茶滅茶ぶりから比べるとその毒気は大分おとなしくなり、また一方でそうした狂乱とともに深い人間性への洞察を同居させた『ライフイズミラクル』のような文字通りの奇跡に比べると、その物語はより民話風なのどかさをもっており、ある面では少しばかり物足りなさを覚えたのも事実です。
作風的には『アリゾナ・ドリーム』を舞台をバルカンに移したような、「バルカン的上品さ」を持ったものなのかもしれません。

物語のほほえましさについてはその最後のタイトルロールに記されるある種の宣言によって保障されてもいるのですが、その楽天ぶりは、劇中のツインタワーのようなあっけらかんとした毒の面でも貫かれていて、こういうところは健在、というよりむしろ作を追う毎に深く(浅く?)なっているようです。ああ、そうかんがえるとそういう地味な毒に満ちていたかもしれません。冒頭の廃校になるクラスで教えているロシア語とか、ちょっと抜けてるスキンヘッド兄弟が古い工場を解体しようとするときのアメリカ風刺とか・・・

『アリゾナ・ドリーム』との関連を思ったのは、上品さということのほかに、クストリッツァで頻出する(特に『アリゾナ~』で顕著な)飛行・浮遊というモチーフがここでもふんだんに用いられていたからです。大砲によって空を飛ぶ「天使/悪魔」はわかりやすい例として、鐘を吊り上げたときのじいさんとおばさんのロープによるシーソー、潜望鏡による下から上へのイメージ、兄弟の靴工場に悪役が踏み込んでくるときのツァーネの隠れ場所が梁の上であること、ヤスナの学校での漫画的宙吊りとそれに対応する囚われの身となったヤスナの救出劇の際の窓からの宙吊り、悪役ボスをやっつけるときの階段による階上と階下の運動、そういったもろもろに、飛行・浮遊・上下運動が用いられます。これがクストリッツァの画面にテーマパーク的躍動をもたらしていて、なかなか好きです。

ぶら~ん


この浮遊への意思はいったいなんでしょうか?一つにはこれは愛の成就の儀式ということがあります。『アリゾナ~』での人力飛行機や『ライフ~』での飛翔するベッド、今作での釣鐘でのおじいさんたち、ヤスナ救出によりツァーネが彼女の心を射止めるのは、まさにツァーネがさかさまになっているときです。愛は空中で成就する。
愛の成就は人生の大きなステップアップでありまして、いわば別世界へのパラダイムシフトなわけで、そこへの入り口として、浮遊の儀式をとりいれるのでしょう。『アリゾナ~』では愛の成就のさらに先まで、一種の冥府にまで魚の後を追うように浮遊によるシフトが続きます。
でもまあ、そんなことを深く考えて作っているのではないと思いますけどね^^;。絶対「楽しいから」ここぞというときに宙吊りにするんだと思います(笑)

******

ネタが伏線張られてころころと使い回されるのが
ベタだけどたのしい。イノシシとか去勢ネタとかね

今回もいちおう動物使いの腕は見せていましたね
でもクストリッツァの他の作品ほどではなかったな。

ヤスナ役のマリアはそれはもう美人さんで、ギャングたちが目をつけるのも無理はないし、現実だったらほんとうにあのまま裏社会にとりこまれてしまうんだろうなあ。。映画でよかったよ。

エミールの息子ストリボールがガタイのいいスキンヘッド兄弟で出てきます。大活躍です。オリジナル音楽も彼が担当しています。ノー・スモーキング・オーケストラ来日のときは来なかったので、姿を見て安心です(何が?)

マフィアのボス・バヨは『アンダーグラウンド』のマルコの人ですね。今度はかなりコミカルな役どころです。


これはなんでしょう~??





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「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」タデウシュ・カントル

2009-05-09 05:39:26 | art
「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」タデウシュ・カントル

1980年作の演劇の上演映像を観る機会を得た。

タデウシュ・カントル(1915-1990)はポーランドの前衛演劇家で、1955年に劇団「クリコ2」を結成し、1960年代から世界中で自作を公演している。1982年には来日し、『死の教室』(1975)を利架フェスティバルとパルコ劇場で上演し、各方面に衝撃を持って迎えられた。その模様はNHKでも放映され、それを見た若きmanimaniはTV前で非常に感銘を受けた。

グロテスクで生者とも死者ともつかない人物たちと人形、粗末な家屋を思わせるセット、どこかまがまがしいオブジェ、そしていつ果てるとも知れない動作の繰り返しと不自然にループする音楽、舞台上に不満げに現れては怪しげな手つきで指示を出す演出家自身。
それらはワタシのイメージするヨーロッパの深部にあるくすんだ光と闇を、すぐれて滲み出させた表現であるように思えた。その思いは今も変わらないし、今回映像作品を観たあと一層その思いは深まった。



ヴィエロポーレはカントルの生地である。『死の教室』でもそうであったが、カントルの演劇のモチーフは彼の「記憶」からとられているようだ。それは特に幼少期の記憶であり、またそれに伴う歴史的な影(彼は両大戦、ドイツ軍侵攻、ソ連の介入、共産政権などを経験している)である。記憶はなつかしく生き生きとしたそれではなく、彼においては、繰り返し同じ事柄が立ち現れては心の闇に消えてゆく、扉の向こうからやってきては都度新たに死に行くものとして、死のイメージと深く結びついいている。

「ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ」では彼の子供時代のイメージ残滓である、扉、窓枠、寝台、十字架が立てられた墓などをセットに、記憶にある彼の親族たちや兵隊さんたちがが繰り返し現れては消えてゆく。人物は誰もが死者以上に死者らしく禍々しいイメージをまとっており、できそこない、まがいもの、粗悪品ということばが思い浮かぶ。彼らが、ある時点では意味があったけれども、文脈から抜き取られ記憶に残ることによってその意味を剥奪された台詞を大声で繰り返す様は、それ自体の不気味さとともに、記憶のもつ残酷さに思い至り背筋を凍らせる。
そしてさらに記憶にまとわり付く戦禍や病といった直接的な死の臭い。兵隊たちの土のような顔の薄気味悪さ、病床に付す人形と役者の境界があいまいな存在感、墓をシャベルで掘る子供、カメラを模した機関銃のオブジェ。

日本の暗黒舞踏が表層の禍々しさによってむしろ土着的な民族記憶に働きかけ負の祝祭としての場をつくり我々の深層に手を伸ばしたとするならば、カントルはあくまで個の記憶をその本質のままに具象化することで、個の中の深く暗い滓を通じて、観客がそれぞれ同じく持つ深淵のトンネルから手を伸ばす。ヨーロッパのもっとも先鋭的な表現が、この個人記憶回路を通じて共鳴していったことは興味深い。良くも悪くもヨーロッパのかかえる「個」の重みを知る機会ともなった。

とともに、そこにまた深く共鳴する我々(もしくはワタシ)というアジア人はどのようなメンタリティでここに参加しているのだろうかという問いも生まれる。
「個」が西洋の発明品であり、東洋には近代化の過程において輸入されたものであり、今発見途上にある、という図式は有効だろうか?はじめて「個」を生き始めた東洋人が、西洋における「個」の根深い姿を垣間見て、その圧倒的到達点に途方にくれているのだろうか?
これはなにやらうさんくさい説である。むしろそれらの境界を越えて実は個は深淵で広く回路を開いていたのだということへの気づきがインパクトの意味するところのひとつなのだろう。

たとえば東洋思想によるカントル解題というのはワタシたちにとって興味深いことのように思えるが、そんなことはワタシには荷が重過ぎるのでやらない(つーかできない)。

****

カントルの不条理作家としての血脈も、また刺激的である。
やはりポーランドの先駆的作家ヴィトキエヴィッチのもとで初めて芝居の脚本を買いたという出自。『死の教室』がブルーノ・シュルツの短編を源泉に作られているという説。アンジェイ・ワイダによる『死の教室』のフィルム化。(ワイダが不条理系かどうかは措く)史的に見ていずれしかるべき場所に位置づけられる作家であろうけれども、それ以上に、不断に人類の存立の足元を揺るがし続けるような影響力を保ってもらいたい。もはや故人となった今、カントルの業績はどのように受け継がれてゆくべきなのだろう。

※劇団「クリコ2」はカントルの死後もしばらく存続し、遺作などを上演したようであるが、どうも先細りのようである。
※タデウシュ・カントル記念賞なるものが設立され、ピーター・ブルックが受賞していたりするらしいが、どうもカントルの影響力を世に残していくという機能を果たしているようには思えない。
※2004年ころ?日本において回顧上演・上映・シンポジウムなどが開かれたようである。上演という点では舞台上にいたはずのカントルの決定的な不在などの面で、どこまで有効なことなのか、よくわからない。同じことは例えば寺山修司についてもいえるかも。

****

『死の教室』のインパクトを思い出し、原点に返る思いでいくつかカントル関連書を買い集めてみた。
これとか
芸術家よ、くたばれ!
タデウシュ カントール
作品社

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これとか
カディッシュ―タデウシュ・カントルに捧ぐ
ヤン・コット
未知谷

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ついでにこれとか
ポーランド文学史
チェスワフ ミウォシュ
未知谷

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関連DVDも出ているようなので、リージョンフリーのDVDプレイヤーも買っちゃおうかなあ的勢いである。誰か止めてください。(財布が・・・!)

こいつはリージョン1のようですので↓
Theatre of Tadeusz Kantor (Full Sub) [DVD] [Import]

Facets

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ここにもあるようです。
ポーランド土産にだれかかってきてくださいDVD。
CRIKOTEKA


これは『死の教室』から↓




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