Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「生きて、語り伝える」ガブリエル・ガルシア=マルケス

2009-12-30 23:26:42 | book
生きて、語り伝える
ガブリエル・ガルシア=マルケス
新潮社

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「生きて、語り伝える」ガブリエル・ガルシア=マルケス

ガルシア=マルケスの自伝を読む。
特に前半で幼少の頃の大家族の流転が回想されるのだが、驚くのは、『百年の孤独』や『予告された殺人の記録』『族長の秋』などの奇想天外な着想が、実際に彼の家族が生きていた生活の中に題材を得ていたものだったということだ。魔術的リアリズムとは彼の作品の特徴や技法を現す言葉ではなく、まさに彼が生きた現実のことだったのだ。
彼自身も、彼が経験したはずのない事柄についての記憶があったりする不思議な性質を持っているようだが、それ以上に彼の両親、あるいは祖父母は魔術的な現実と記憶を生きていたようだ。『百年の孤独』で印象的なバナナプランテーションでの虐殺や、彫金の作業場の神秘など、知られたエピソードが実際に起きた事柄や一族に伝えられた記憶に基づいていることがわかる。挙げればいくらでも書いてあるのだが、たとえば祖母がピストルの夢を見たときに、ピストルが「7」の形をしていたので、7を含む番号の宝くじを買えと子供や孫たちに伝え、実際に孫娘がくじを当ててしまうなど、そういう小さな不思議に満ち満ちていたようだ。

長じて首都ボゴタやその他の土地で勉学にいそしんだり新聞社でジャーナリストとして働いたりするようになると、魔術的な要素は減ってくるのだが、今度は、不安定な国情(南米で安定した国家などあるのか?)もあって、これが一人の人生の青年期なのか?と疑ってしまうほどの変転を経験する。注意深く読むならば、勤め先の事情や家族の貧困対策、首都での暴動鎮圧などのあおりを受け、数ヶ月から1年単位で居所を変え、職場を変えていることがわかる。極度に貧乏なのに、借りる部屋があり、ふらりと舞い戻った職場でもその場で再就職したりと、ある意味では自由度の高い社会でもあったのだ。着ている服もぼろぼろのいっちょううらでみすぼらしいサンダルを履いた長髪髭もじゃな若者でも、ちゃんと生きていけたのは、今の成長し安定した日本のようなところでは逆に考えられないことである。社会や人間のたくましさや柔軟さという点では、どちらの社会が望ましいのか、すぐには判断できないが、少なくとも世界の大部分ではこうした激動の中を生きていかなければならないのが普通なのだとすると、日本の社会で生きることはどんなにか特異なことだろう?と思う。

第一長編『落葉』を書くまでに相当の曲折があるのだが、作品として世に残すうえで真に確信を得ることの重要性を悟る道でもあったようで、その点の妥協なさを後の小説群でも貫きとおした、そのあたりが彼の業績の礎となっているだろう。彼の小説を多く読めば読むほどこの自伝は刺激的である。




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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ

2009-12-29 13:05:18 | cinema
カティンの森 [DVD]

アルバトロス

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カティンの森KATYN
2007ポーランド
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:アンジェイ・ムラルチク
脚本:アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
音楽:クシシュトフ・ペンデレツキ
出演:マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ 他


空間と時間と言葉と音響のあしらいようによって希に創起される映画的な感動を求めて日頃映画を観ているのだけれど、時としてそういう利己的な感動などほんの些細なことに思えてしまう映画にも出会うことがあり、『カティンの森』はそういう類の超越的映画なのだった。
題材の重みやアンジェイ・ワイダの経歴という予備知識もそういう超越感の形成に多分に関わっているだろうけれども、それ以上に、この映画の映像と音から伝わる意味や感触が、もはやフィクションでもノンフィクションの別なく、まさに世界と歴史のある時点で本当に存在したものである、という確信のようなものがスクリーンから迫ってくる。実在をそっくり受け止めるのに、好きも嫌いもよいも悪いも感動も幻滅もないのである。

ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺事件を軸に、そのさなかにいた家族や友人などの個人的な体験を描く一種の群像劇である。ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結び、ポーランドに両面から侵攻し分割統治する。第二次世界大戦の端緒となった事件である。その後ドイツはソ連領を侵犯し、結果ソ連は連合国側に加わることなり戦勝国となる。しかしドイツが、ソ連が、という大括りの固有名詞で語られる歴史からは、この映画で扱われる事件にまつわる真実はまったく見えてこない。戦争に代表される人間の愚行の本質を見るには、そのさなかの個人のありようを追う以外には糸口は見出せない。そう強く確信するかのように、この映画は、鉄道の橋を両側から避難のために渡ろうとしていた群衆が鉢合わせする混乱から始まる。このファーストシーンはワイダの強い信念の表れだと感じる。敵の姿はなく、しかし互いに正面に見る群集の姿からどこにも逃げ場がないことを徐々に悟る人々、錯綜する情報、それぞれに思う方向へ避難を始める人々。その場に見る見る膨らんでいく恐怖と絶望とそれでも生きようとする気持ち。彼らのいた空気を内包し、観客に体験させること、それがこの映画の意志である。

クラクフ大学の教師たちがドイツ軍により一網打尽に収容所に連行され、それによって夫を失う老婦人。そしてポーランド軍将校である息子もまたソ連軍により連れ去られる。残された老婦人と将校の妻、その娘。崩壊した家族を生きる彼らは無力であり、絶望もし、しかしほとんど望みのない希望にかろうじてすがり生き抜いていく。将校の家族にもまた容赦なくソ連軍の手がのびる。幸運にも魔の手を逃れるもののいつなんどき襲い掛かるとも知れない恐怖にも怯えなければならない。人間が作り出した過酷な社会ではいかに人生は損耗するものか。

また、事件によって父や兄を失った若い世代においても、事件は癒えることはない。真実を知る若い世代はソ連の衛星国となったポーランドの社会主義政権下での冷酷な監視と弾圧に対し無力な反抗をするが、やはり命を落とす者もある。事件を告発するだけでなく、その後長く続いた冷酷な社会体制下で人々がどう暮らすことになったかまでを描いているのがこの映画の特徴だ。

ポーランドの歴史/個人史に色濃く染み付いている社会の歪みは、人類の記憶として語られなければならないのだろう。真実を語り残そうとするワイダ監督の意志は、ほとんど怨念の域に近いように感じる。その怨念のありようは、ただ恨み言を連ねる私怨ではなく、感情過多になるのを避け、人物の深い悲しみのうちの存在を実感させ、そして教育的なまでに多面的にあらんと配慮されたこの作品から滲み出る、芸術家としての怨念なのだ。

*****

怨念の直接的な噴出は、この映画のラスト、例外的に当事者の視点を離れ現場を眺める視線によって描かれる「処理」のシーンが担っているだろう。最後にロザリオがかすかに震え力尽きるシーンは、ありきたりなメッセージをはるかに越えて、このような世界の虚しさを強く訴える。ワイダの鬼気迫る演出もさることながら、「死者」を演じる俳優やエキストラたちの「熱演」ぶりからも、このチームの強い思いが感じられた。

************

パンフによれば、ポーランド将校の粛清は、過去にソ連と対立したポーランドの知識的・軍事的指導層を空白にして、そこにソ連の息のかかった勢力を据えることによって支配体制を作るという意図だったということである。支配を成功させることという目的の下にあるならばこれはなんと合理的な発想だろうか。
合理主義はそれ自体で害悪ではなくむしろ現代社会を形作る上で大切な思想だと思うのだが、逆にそれ自体で世界をまっとうに形作ることもできないものでもある。必要なのは正しいビジョンの下の合理主義である。そして「正しい」ビジョンほど意見の分かれるものはないのである。20世紀の歴史から学ぶべきことの一つだろう。

****

怨念といえば、全編で使われているクシシュトフ・ペンデレツキの音楽も注目である。トーンクラスタ期の作品もあるが、主にロマンティックな作風のものが選曲されている。ロマンティックと言っても、調性のなかに執拗に組み込まれる不協和音によってただならぬ感情が引き起こされる、ただものではない曲たち。音楽は単に劇伴であることをやめ、ワイダと同じ地平に立つ強い意志で音楽をつくりだしてきたペンデレツキの音楽の力そのままに、映画と同調し力を強めている。
交響曲のいくつかや交響詩「ヤコブの夢」、「ポーランド・レクイエム」など、既存曲の断片を使っているのだが、この映画のために書かれたかのように強い力をもっている。この映画のサウンドトラックは、ワイダの怨念によってあらたに編集されたペンデレツキ・カティン・ブリコラージュなのだ。





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「ONE PIECE FILM STRONG WORLD」境宗久

2009-12-28 00:34:21 | cinema
ONE PIECE FILM ワンピースフィルム STRONG WORLD
2009日本
監督:境宗久
製作総指揮:尾田栄一郎
企画:柴田宏明
原作:尾田栄一郎
脚本:上坂浩彦
ストーリー:尾田栄一郎

アニメ化10周年、劇場版10作目という節目を記念して原作者の尾田栄一郎自ら製作総指揮を務め、初めて映画ストーリーも描き下ろし、てなことのようですが、そういうこともありつつも、劇場先着特典でワンピース「0巻」があることでの異様な人気のようですね~。劇場版も初期はけっこう行列したけれど、最近はそうでもなくて下火かなあと思っていたのですが。製作側もすごい努力をしたんでしょう。尾田先生はどうか知りませんが、映画興行の当事者ならば祝杯をあげたい気分なのでは?

ワンピースはけっこう好きなんだけれど。コミックは全巻持っているし、初期の頃はTVもわくわくして観たし。なんだかんだと屈折しつつも根はロマン派というか、まっすぐなヒューマニスティックなメッセージに結局弱いというワタシの精神体質を見事に突いているシリーズなわけで、権威に盲従せず、自由を重んじ、仲間を大切にし、道を信じ、その裏返しの不正を憎み、邪悪なものには勇敢に立ち向かうという、これ以上ないストレートな価値観の提示には、そんなうまいこといかねえよ世の中は・・とか思いながらも否定しきれない夢見がちな自分がいるのです。

内容としてはほとんど水戸黄門的焼き直しであって、なんら新鮮なところはないのだが、それでも楽しめちゃうところまで水戸黄門的なのである。この陳腐さと、結局は暴力至上主義的カタルシスをかろうじて正当化しているのが上に述べたまっすぐな人間主義なわけで、この大河シリーズが映し出している現代日本のメンタリティをきっちり分析してみると結構面白いことがわかるのではないかなという気がする。

ただ若い人はそういう様々なメッセージを総体的に受け止めているとも限らず、中には結局強いものが正義だ、とか正義を貫くには結局暴力に訴えるしかないとか、悪人は暴力で叩き潰してもかまわないとか、そういう一面的なものだけ吸収してるとか、そういうこともありそうな気もしないではない。まっとうな正直さだけではこれだけの人気はありえず、それと相反するかのような暴力的カタルシスが同居してこその魅力だとも思うので、そのへんの矛盾を容認している供給側には、やはりある意味あざとさを感じ取らなくもないし。そこが最大の弱点だと思うんだよねワンピースの。

ワンピース嫌いな人は、まさにこの作品の魅力となっているあまりにもステレオタイプ的真っ当さと、それが暴力と同居することのうさんくささと、その両方を嫌うのだろうと想像する。

*******

TVにはないスケール感を心がけた画面のつくりではあったと思うけれど、スケール感という点ではやっぱり宮崎アニメを見慣れている日本では勝負は厳しいよね。ナウシカなんかで切り開いたアニメでの躍動感や奥行きはやっぱりすごいんだなあと、なぜか宮崎賛歌に走る。あのアニメの時代が監督の老齢化によって終わらんとしているのはなんとも残念ですな。

え~と、名前なんだっけ?え~と、う~んと、あ!竹中直人!彼は悪役シキの声をやっているのだが、竹中直人を意識しなくなるくらいよくはまっていて好演でした。彼とは数日後のだめで出会うのだけれどw


それと、ルフィが敵の牙城に乗り込むところのこれでもか~!的な盛り上げと「後光」wは、作る側もこれが水戸黄門的カタルシスでなりたっていることに十分すぎるほど自覚的であることを示していて、そこは潔くてかえって好感を持ったけどね。




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「オイディプス王」ソポクレス

2009-12-26 00:43:16 | book
オイディプス王 (岩波文庫)
ソポクレス
岩波書店

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「オイディプス王」ソポクレス

紀元前427年ころに書かれたという話です。ギリシャ三大悲劇詩人の一人ソポクレスによる超有名戯曲。
ガルシア=マルケス自伝を読んでいたら、そこにはいろいろな小説等への言及があるのだが、ギリシャの古典を読まないとダメだぞと盛んに先達から言われたという話が載っており(それでもガルシア=マルケスはしばらくはオデュッセイアしか読まなかったという話だけど)、ならばなんか読んでみるかな~と思い、とりあえず有名どころを。

有名と言っても、ワタシは、アリストテレスがほめたり、フロイトがエディプス・コンプレックスと言ってみたり、ドゥルーズ=ガタリがアンチ・オイディプスと言ってみたり、そういうことで知っていたわけだけどね。じゃあ元はどんな感じ?と思い読んでみる。

すると、なんともシンプルな作劇。物語の核だけががっしりと組まれていて、それをこれまた形式美を誇るコロス(合唱=長老とかの集団)による詠歌が支える。もう設定自体が悲劇なので、ことさら情感に訴える悲劇性ではなくて、悲劇を受け止める人間のあり方を示すような感じだ。
wikipediaなんかであらすじが載っているが、あのあらすじ読めば本文を読む必要がないくらいシンプルなのだ(笑)。

この世界、神がいて人間(個人)がいて群集がいて、それぞれの観点を含む戯曲という形式は、構造的にバッハの頃のカンタータなどによく似ている。あの世界に親しんでいれば「オイディプス王」も読みやすいだろう。キリスト教文化は初期の頃からギリシャの影響を受けているけれど、それがその後の綿々とした変転のすえに、ドイツのプロテスタント文化のなかに形として受け継がれたのだと想像するとなかなか面白い。というか血なまぐさいキリスト教史を面白いというのもなにか不謹慎ではあるが??

岩波文庫版藤沢令夫訳で読んだけれど、訳文も平易で文語口語を駆使して工夫されていて面白かった。読むのが遅いワタシでもあっというまに読めた。

****

読んでいて常に思い出していたのは、パゾリーニ「アポロンの地獄」の情景。邦題がめちゃめちゃだけど、要は「オイディプス王」の映画化なんだよね。あの映画は好きだなあ。ギリシャというよりはほとんど原始社会みたいな味付けなのでびっくりしちゃうけどね。

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猫沢エミPetit concert de Noel‐‘my-an’@AKASAKA行きました。

2009-12-23 02:26:25 | 猫沢エミ
猫沢エミPetit concert de Noel‐‘my-an’@AKASAKA
2009.12.19sat


猫沢エミ:Vo,perc etc
円山天使:g
岩見継吾:b
special guest Mari-Mari:Vo

赤坂のちょっと奥まった通りにある小さなお店でのライブでした。
クリスマスなので、ディナープレートもついたウレシイ企画。
この日は2ステージ構成で、ワタシは後半2ステージ目に行ってきました。

店内の席は、そうねえ、10~15席くらいでしょうか?
そこに30名のお客さん。
う~ん、入り切るのか?と心配したのだが、やっぱり一部の人は
外のテラス席でのお食事となっていました。
ストーブがあるとはいえ、寒いよ~~

ライブがはじまっても外で聞いている人もいて、
扉を閉められなかったのですが、
おりしも東京では今年最低の気温となったらしい日だったので
夜が更けるにつれぐんぐん寒くなり、
室内でも結構冷えました。

ご老体にはこたえるのぉw

あの場所はちょっと冬はキツいかもなあと思いました。
夏の夕暮れならば気持ちがよいかもしれません。
でも外席ではあくまでもライブはガラス越しになってしまうので、
これもよろしくないかもね。
同じチャージ払ってある人は室内で、ある人は凍えながらガラス越しってのもねえww

ということで会場運営上はいろいろ課題が残るような気がいたしましたが、個人的には室内で座れたのもあって、結構それはそれで楽しかったんですけど。
お客さんも出演者も寒い寒いとストーブを取り囲んで雑談したりして、アットホームな苦行って感じでね(笑)
それに、お客さんはぬくぬく大事に扱われるべきとも思っていないので。

でも、楽しんだ人は場の雰囲気を良く知っているおなじみな人とかだったのかもしれない。初めてライブに足を運んだようなお客さんは所在ない思いをしたかもしれないな・・・・どうだろう。


お料理:ひっつみのラザニア、ラタトゥイユ、サラダ&クリスマス・シュトーレン

美味でした~

***********

さて、ライブ。
猫沢さんのパフォーマンスは前半と後半にわかれ、
後半の最初の方にスペシャルゲストMari-Mariさんが2曲やる
という構成でした。

会場がアットホームな雰囲気でリラックスしていたせいか、猫沢さんのパーカッションは一層ワイルドで、ばしばし鳴ってました。
グルこと岩見氏のベースもはじけぎみ。全体的にパワフルな演奏でした。
よく言えば元気よい演奏。悪く言うとちょっと荒い感じ?かも。




で、恒例セットリストを兼ねた曲ごとのつぶやきをば↓



宇宙の法則
イントロにノイジーなインプロヴィゼーションを入れていたが、ギター円山氏がディレイとテープループをあわせたようなエフェクトを披露してました。ディレイ速度を変えると音程も変わってしまう懐かしいテープディレイ、いや、テープエコーwですが、アナログな機材は音楽的な味わいがあるよね。
で始まったのはアルバム「goldfish pie」からの1曲。いや、これ曲名がすぐにわかりませんでしたよ。なつかしい。原曲はなんとも怠惰なラテンの昼下がりみたいなリズム隊なのだが、今回はちょっと鋭角的(相対的にね)なのは、猫沢さんのコンガがパワフルなせいでしょう。後半のブレイクビートをくりかえすところは、結構ライブでウケル構成なんだな~

Les Cafés
続いてグル岩見氏のリフに導かれておなじみカフェチューン。今日はグルのソロ部分が妙にはじけている。変だw。どんなに変なところに迷い込んでもちゃんとテンポがキープされているところがサスガデアル。これは歌詞(和訳)を見ながら聴きたいな。
曲が終わったところで、猫沢さんがひとこと「手の水分が奪われてる!」乾燥しているらしい。あとでハンドクリームをスタッフから借りて塗っていた。すでにアットホーム。

ムッシュ・ダンダン
これもワリとおなじみな曲なんですが、考えてみたら誰の曲だ??(今まで知らなかった)で、ググってみたけれど、「ピチカート・ファイヴ初期メンバーだった鴨宮諒が、ボーカルに梶原もと子を迎えて結成したマンナのデビューシングル。」で正しいでしょうか?曲調から歌詞から猫沢ワールドにぴったりなので猫沢さんの曲かと思ってました。
猫沢さんがマラカスとともに器用に弾く鉄琴がかわいいのですが、あれを聴くといつも、楽器を弾き間違えるとかそういうことは、曲全体のよさとかにはあまり関係ないことなんだなあと思うw。

私の世界
これも最近の定番ですね。原曲はアントニオ・カルロス・ジョビンなんですが、曲の(というかコード進行の)ものすごさに気を奪われるのですが、原曲作詞もジョビンなんですね?猫沢さんは歌詞を猫沢界のあれこれに置き換えていて、また独自のものにしています。これは思うに21世紀の「Bath Room」なのかもな、とふと思う。
ギターのコードさばきがますます流麗になっているような気がする。これが弾けるようにならないと猫沢バンドのギタリストの座は奪えない。(なんの野心だ?w)

Alaskaの恋
ホース振り回したのはこれでしたっけ?アラスカを吹くであろう風の音を想像させるホース音ですが、今回は会場が狭く、ホースをときおりマイクスタンドにゴツンとぶつけて笑いを取っておりましたw 最近加わった新兵器ジャンベによるビートが似合う曲です。ジャンベはコンガに比べると音に色彩がないというか、ちょっと土っぽい音なので、猫沢セットに加わったことで全体の多彩さがぐっと増したと思う。よいね。

ホース!


K
で、またジャンベによる高速16ビートで始まったのはなんと、最近のライブでは初登場の「K」でした。アルバム「Gyan-Gyan」に入っている。原曲はちょっと宇宙っぽいシーケンスビートなんだけど、ここでは強力にジャングルビートになっていてかっこいい。まんなかサビ後のCメロ「ち~いさ~な~て~で」てとこが好きなんだよね~。ここをライブではちょっとさらりとやってしまったので、かすかに残念。

Röntgen
レントゲンもいいね~これはライブではまんなかのインスト部分でベースがランニングするジャジーなレゲエになるのがかっこいいんだよね~。今日のグルのランニングは荒々しい。どこまで走っていってしまうのかわからないのが楽しい。



ここで前半終わり。KのあとのMCでグルも猫沢さんと同郷の福島県出身だということがわかる。円さんが新潟ってのは知っていた。



The Rabbit Was Me
後半は、小さな手帳をみながらロリータな隠微な詩を朗読した後、MashCatのThe Rabbit Was Me。歌詞も曲もゲンズブールの世界でよい。歌詞はゲンズブールよりやばいかもしれない。バタイユの域?

C'est vous sur le pont
この曲を後半にやるのはめずらしい。前回だかに書いたが、言葉がどんどん音節をあいまいにしていき、歌とは音声なのだと思わせる傾向がますます強まっている。これはいかにこの歌が身体に染み付いているかということを表すと思う。サビのところで猫沢さんがマラカスと・・あれはなんていうのか?もう一個の鳴り物を両手で扱いながら歌うのを、前列に座っていたお客さんがとても楽しそうに見ていた。

Mon petit chat
冒頭に曲の主旨を解説してました。これもめずらしい。口笛の枯れ具合も絶好調で、なごみ系、会場の雰囲気に妙にあっていました。寒さとともにパリの冬の猫を想像させる感じ。


ここからスペシャルゲストMari-Mariさんの登場です。猫沢さんとMari-Mariさんはデビュー年が一緒だそうで、ほとんど同期会でのガールズトークになってました。いいなあガールズトーク。2曲やりました。

J
Sunrise Sunset


Mari-Mariさんと猫さん


猫沢バンドをバックにMari-Mariさんがリバーヴの効いたマイクで流麗に歌うのです。二人のボーカリストの個性の違いをしみじみ。声や歌い方の違いもあるけれど、結果として出る音の姿に求めるものが違う、と当たり前のことを強く感じる。
猫沢さんがコーラスをつける。いいなあ女性のコーラスは。
猫沢さんは自分のパフォーマンスでは無意識に歌の部分ではパーカッションをほどよい具合に抑え目にしているのだが、ここでは打楽器奏者なのでばしばし叩いている感じ。

TABACの森
猫沢バンド最小ユニットなのに、色彩感豊かな演奏になるのが不思議な曲。リフがそのままコード進行になっているからかな。この曲を聴くと岡田史子のマンガを思い出す。森に彼の骨を拾いに行く、タバコの白は骨の白だ、そんなイメージが岡田史子ぴったりだと思う。

ミルクの冠
冒頭のパーカッションパターンだけで悶絶してしまう、名曲だよなあ~。
あのパーカッションのイントロだけは変えないでもらいたいというくらい。

Zo-wa-zo Oiseaux
「暴れん坊の時間です」って言ったっけ?あれ?記憶が・・・
とにかくタダでさえ元気がいいのに、さらに元気を出す皆さん^^;
ベースのソロではもうぶっ飛んでしまって、ソロから復帰する時のテンポがえらく早くなってしまって、後半の歌がキツそうでウケましたww

グル~


猫沢さん~



T'en va pas
最後の曲ですといって始まったのがこれ。
80年代の終わりころにフレンチロリータ?ポップの代表格だった
エルザが歌ってヒットした曲なんだよね。
でも90年代初め頃にはもう日本盤も出ないでなかなか手に入らなくなっていたエルザ
いまはどうなんだろう。
最近にも新作を出しているようだ。
エルザのサイトなんか見つけちゃった。
原田知世ちゃんもカバーしていたが、これは原曲に近いビートのあるアレンジ。
猫沢さんのはもうちょっとしっとりした前半から、コードで刻む後半へと、抑制がきいたドラマという作り。これが一番好きかも~


さて、「ここからはアンコールなのでお時間のある方はきいてってください」といつものw自分でアンコール宣言しちゃうパターンw

Le Noyee
ゲンズブールの渋い曲。日本語の訳をつけたのはどんな人だろう?今度はこれを訊いてみよう。これも猫沢さんが歌うとまたぴったりな歌詞なんだな。

God Only Knows
「クリスマスなので神様という言葉が入っている曲を」といって始めたこれ。ビーチボーイズ、というかブライアン・ウィルソンの名作Pet Sounds収録の有名曲。これはもう曲の良さですが、これを猫沢さんの声で聴くと猫沢さんの曲に聴こえるから不思議だよね~
この曲のおかげですっかり最後に気分がふわふわよくなってしまった。




猫沢さん、終演後にちょっと赤い顔をしていたので心配です。風邪気味だったようですね~



終わってからはストーブ囲んでお客さんどうし雑談とかでなごむ。
twitterでフォローしていた人に会えたりした。

帰りは寒いね~といいながらKさんと歩き南北線に乗りました。
猫沢ライブでほとんど今年が終わった気分になってました。。。



あ、そうそう。ホースを振り回す時に上を見上げる猫沢さんの顔は、
まさしくあのアルバム「BROKEN SEWING MACHINE」のスリーブ写真の顔そのものでした。なんか感動したな~^^





あと、Mari-Mariさんとmanimaniさんは名前が似ているねww


おしまい。




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「巴里の屋根の下」ルネ・クレール

2009-12-21 23:50:57 | cinema
巴里の屋根の下 [DVD] FRT-173

ファーストトレーディング

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巴里の屋根の下SOUS LES TOITS DE PARIS
1930フランス
監督:ルネ・クレール
出演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イルリ、ガストン・モドー、エドモン・T・グレヴィル 他

ルネ・クレールのトーキー初作品ということです。フランス下町人情モノ。
歌を作っては街頭で歌って、するとみんな集まってきて覚えて一緒に歌う。それでその場で楽譜を売って稼ぐ。そんなヤサ男が主人公なのだが、なんてシアワセな音楽と経済のあり方でしょうねえ。
そんなみんなの歌声の鳴り響く巴里の町を冒頭に持ってきて、トーキーのよさを印象付けているのかな。

その割りに、実は全編静かな印象の作品であるが、それは当然ながら街の雑踏とか物音とかそういう本来聞こえるはずの音は録音されていないのであるから。この時代のアフレコでは、欲しいと思った音だけが選ばれて映画に入っているという、ある意味では特異な現象が起こっているのか。
公開当時音の使い方が斬新と評判になったように聞く。

映画もかなりノンビリしたテンポである。某所で「テンポが悪い」と書いたら某氏にお叱りを受けてしまったのだが、まあ、真意としては「テンポも含めて映画の語法は文化であるから時代や地域によってその「常識」は異なるのであって、自分が現在持っている常識によって異文化を断罪するのは間違っている、むしろ違和感を時代の背景とともに学んで消火すべきなのだ」という思いはちゃんとあるのです。
でもまあ、テンポが悪いと感じちゃったのも事実ですから^^;。これは「現在の一般的な映画のテンポに比べるとノンビリしているが、それが悪いというべきではなく、この時代の映画のテンポとしては有効だったのかもしれない」と言いなおしておくことにします。

たまたま同じ頃に、ほぼ同時代のルノワール「大いなる幻影」(1937)やジンジャー+フレッド「トップ・ハット」(1935)を観ていたので、それらの小気味よいテンポの語り口と比べてしまって、なんともノンビリした映画だなあと思っただけでございます。

と、やたらとテンポのことばかり。
ストーリーというか、プロット的に面白いのは、庶民のなかにいながら妙に化粧や服装がお姫様チックなヒロイン・ポーラが、そのおとぎ話的な愛されキャラな外観とはうらはらに男3人を色香で翻弄し、主人公アルベールと熱い恋に落ちながらも彼の純愛を最後はあっさりと踏みにじるという、なかなか無邪気な悪女振りを発揮するところでしょうねえ。このさりげなくもノワールな存在が、この映画のフランスらしさを担っているとも感じます。(まあフランスらしさって何?てーとわからんですけどさ)
アルベールだって口ではマッチョだけれどじっさいは結構情けないやつで、ポーラの裏切りに対してもなんだか友情を隠れ蓑に、ケツまくっちゃってるんじゃないのかなあ?と、感情移入を許さない。
映画には理想の男女を描くべし、気高いモラルを描くべしというような、いわれのない規則は、単なる思い込みにすぎないんだということを、あっさりあっけらかんと教えてくれる貴重な映画なのでした。

日本でも31年に公開されている。当時の映画産業の盛隆振りを感じるのは間違っているか?



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「悪の神々」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2009-12-19 01:01:18 | cinema
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 3 (出稼ぎ野郎/悪の神々/聖なるパン助に注意)

紀伊國屋書店

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『愛は死より冷酷』の続編という位置づけであるが、それに比べて本作は映画的色気を積極的につぎ込んでいる。映画を作り始めるころにファスビンダーはダグラス・サークのメロドラマに心酔したということだから、そういうことの反映に自覚的になったということだろうか。ちょっとひねりのあるカメラワーク、バーの電話機を前景に背後に人物を写すサスペンスタッチな画面などはそれまでのファスビンダーにはないテイストである。

作風としては、いわゆるフィルムノワールを再発見した世代がつくった映画という感満載である。一部のヌーヴェルヴァーグに似た印象。でもユーモアの欠片も許さないという感じはいかにもファスビンダー。

愛と密告と死というプロットはゴダール『勝手にしやがれ』を思い起こさせる。それを説話の方法として用いているというよりは、行動の記号のように、文脈をはずして、唐突に用いる点でも通じている。教訓はない。もともと社会のつまはじきのようなフランツは犬らしく犬死する。ハンナ・シグラ演じる情婦は愛に疲れ密告する。刑事は犯人を射殺する。人は一定の役割をあたえられて、ただその役を果たすだけ。それだけの同語反復的作法を映画作法とした作品だ。

深夜に一人孤独に見る必要がある映画。

後に『鉛の時代』『ローザ・ルクセンブルク』を監督するマルガレーテ・フォン・トロッタが出演している。(ファスビンダーにはめずらしく)なかなか美しい。

ペーア・ラーベンの音楽は例によってどぎついというか、なぜこの場面でこの音楽?的オドロキがあって楽しめる。ダメなんだか偉大なんだかさっぱりわからない。

『愛は~』でフランツを演じたのはファスビンダー自身だったが、本作では二枚目俳優はリー・ベアが演じている。フランツの情けないキャラクターにはファスビンダーの風貌がふさわしいとも思うが、この小さなフィルムノワールには断然ベアの風貌でないと似合わないのだ。



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やなぎみわWINDSWEPT WOMEN:THE OLD GIRL'S TROUPEなど買いました

2009-12-17 22:10:15 | art
WINDSWEPT WOMEN:老少女劇団
やなぎみわ
青幻舎

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ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展2009日本館公式カタログ
ということですね。
とりあえず買ってしまいました。
中は買うときにパラ見しましたが、
ワタシ好み~~
砂女系~~

後ほどじっくり眺めますのだ。


やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ
東京都写真美術館,国立国際美術館
淡交社

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こちらも前に購入していました。
まだ中をみていません。



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「倫敦から来た男」タル・ベーラ

2009-12-16 02:21:59 | cinema
倫敦から来た男
2007ハンガリー/ドイツ/フランス
監督:タル・ベーラ
脚本:クラスナホルカイ・ラースロー、タル・ベーラ
出演:ミロスラヴ・クロボット、ティルダ・スウィントン、ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ、レーナールト・イシュトヴァーン ほか


不覚にも前半うとうと寝ちまって左右の人のほうに傾いたりして迷惑をかけたと思う。いびきもちょっとかいたかもしれん。
これはワタシの体調のせいなのだが、原因の一部をこの映画に帰する誘惑を禁じえず。つまらないということではなく(ワタシの場合つまらない映画というのはほとんど存在しないのだ)、この映画の全編を支配する異様なまでの時間遅延感覚が、どっぷりとワタシを飲み込んでしまったという気分でもあり、そのスローモーション的な時の流れに自分の体内時間間隔を合わせていくうちに、どうしようもなく睡眠モードに切り替わってしまったのではないだろうか?


*****【以下ネタバレでございます】


なにしろ冒頭、船舶の胴体をずっとなめるカットなのだが、そのカメラの移動速度は尋常ではないくらいに遅い。ここまで遅いともはや感心する以外にない。そして、「・・・・まだ終わらんのかいっ?ww」的笑いすら生じる。じりじりと緊迫して待たされ、もう切り替わるだろう?というころになってもまだ変わらず、じりじり・・と・・。4コママンガ的に言うと、最初の3コマがおんなじ絵で4コマ目で変わるかと思ったら、やっぱり変わってませんでした的な・・・(よくわからん)

終盤で特に印象的なのは、ある事件が起こる場面なのだが、その事件の間カメラは家のそとに置き去りにされ、ひたすら向こう側で事が起こっているはずの扉をじっと愚鈍に写し続ける。これにはかなりびっくりしたのだが、肝心なものを見せないで想像させるという「手法」の域を超えてしまっている。カメラに与えられているのは神の目どころか部外者の目である。これはある意味リアリズム的には正しくて、主人公を客体として観ている視点からは、主人公以外目にするはずのない情景は見えないということなのだ。


******【ネタバレ解除でございます】*********



そうか、この映画の面白いところは、完全にリアリズムによる映像なのに、すごく異様な感じがするというところだろう。平たく言うと、人を食ったふてぶてしい映画ということだww。つつましく真摯に表現を貫いた結果獲得してしまうふてぶてしさというのはワタシは大好きであるので、この映画はかなり好きな部類に入るであろう。

普通の映画を普通に享受するのが普通だと思っている普通の人々には、普通にはっきりとおすすめできないと言っておくが、そういう普通の感覚を打ち砕く体験となるだろう点では、むしろものすごくおススメするのである。(と性格の悪さを露呈させる)。

******

音声もまた変である。これも異様なテンポを形成している一つの要素だ。変な原因は見ていればわかると思うし、エンドクレジットでも明らかになる。
あの語り口はワタシはゴダール『アルファヴィル』のアルファ60を思い出したな。

それと音楽ももちろんのこと、悪く言えば単調で退屈だけれど、かっこよく言うならばヨーロピアンなミニマル。いつ終わるとも知れないシンプルな旋律と和音の繰り返し、しかも結構ボリュームでかいし、これもまた催眠効果あふれるアイテムである。サントラが欲しい。

寝た分もう一度観なければ・・・・

*******

そうそう。イメフォの会員証再発行にチャレンジしてみましたが、HP等で書いてある通り「再発行は致しません」でした。しかたなく再度入会金を払い会員になる。このあいだ延長手続きをしたばっかりなので、結局3000円で更新したようなもんである。くやしい。なんかもっとシステマチックにならんもんかねえ?顧客管理のパッケージとかありそうだけど?


倫敦から来た男--【シムノン本格小説選】
ジョルジュ・シムノン
河出書房新社

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「出稼ぎ野郎」ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

2009-12-15 00:25:06 | cinema
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 3 (出稼ぎ野郎/悪の神々/聖なるパン助に注意)

紀伊國屋書店

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出稼ぎ野郎KATZELMACHER
1969西ドイツ
監督・脚本:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
出演:ハンナ・シグラ、リリト・ウンゲラー、エルガ・ゾルバス、ドリス・マテス、イルム・ヘルマン、ルドルフ・ヴァルデマル・ブレム、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 他



『愛は死より冷酷』に次ぐファスビンダー長編第2作。前作と共通して映画的語法を避けるように、固定カメラとほとんど動きのない人物による会話による短いシーンをつなぎ合わせて作られている。背景もほとんどが動きも奥行きもない室内や壁であり、徹底して映画的快楽を排除する強い意思が感じられる。

ストイックな形式に呼応して、内容もまた陰鬱である。陰鬱を影で表すというよりは、陰鬱を無機質な日の光のなかにぽんとおいてさらしものにする。無造作で無機質な人間の醜さは、観るほうもなんともやりきれない。ある意味カタルシスに転じることもある負のエネルギーすら映画に許さない徹底した荒野が、最初期のファスビンダー映画の特質である。

前半はミュンヘン(だったと思う)で貧しく展望もなくくらす若者たちの、つまらない日常が延々続く。それなりに男女はペアになっているんだが、しょっちゅうケンカしたりセックスしたりしている。働き口のないヒモ状態の男が、女にさんざんいやみを言われていたり、仲間内のある女が男どもから金を取って寝ているらしいとか、精神的マッチョな男が女を邪険にして愛想尽かされたりしている。これを全然ドラマチックでなくただ主に会話によって表すのだからつらい人にはつらいだろう。

後半にはひとりのギリシャ人出稼ぎ労働者がふらりと現れ、倦怠感の充満した若者集団は一気に浮き足立つ。これもギリシャ人がかき回しているというよりは、集団のほうが勝手にかき回っているのだ。ギリシャ人の下宿先となった家の女に対しては、下のほうが目的なんだろとか難癖を付け始めたり、ギリシャ人が仲間内の女を公園で押し倒して犯したとかいう話がいつのまにかでっち上がったりする。言葉がわからないのをいいことに、面前で侮辱するようなことを言ってはからかうし。ついには「あいつは悪人だ。気に入らねえぜ。」てなことになって、ボコボコにしてしまう。

鬱屈した小社会によそ者が現れたときにはこんなに醜いことになるんだという話。だからなんだよということでもあるわけだけど、どんなに先進国とか言っておおくくりで博愛主義的民主主義を標榜していても、社会的ミクロなところでは常に偏った無秩序な集団は形成されているわけで、こういう草の根村八分根性はいつまでたっても人の心に巣食うのだという、やりきれない現実を突きつけるということなんだろうな~。

ファスビンダーはこういう、よそ者やマイノリティと社会という関係をひたすらとり続けた。それも、悪を糾弾するというような高所に立った姿勢ではなく、撮る側もまたその蒙昧にまみれながらである。後に戯曲 『塵(ゴミ)、都会、そして死』(1974)で反ユダヤ的との論争を引き起こすように、自分自身も偏見や蒙昧に対して安全な位置に立とうとしない。この無防備な姿勢によって作る側も見る側もすべての立場を危うくしてしまうのがファスビンダーにおける問題性であり、ある面では彼の短命の理由でもあったかもしれない。

*********

初期ファスビンダー作品のオールキャスト登場という感じ。長くファスビンダーのミューズとなるハンナ・シグラもまた、その他の人物との対比によって聖性を得ている相対的なミューズであるのだと実感する。それほどに人物たちはみな華がない、というか容姿に難アリ的な俳優ばかりである(笑)。それもギリシャ人を演じるファスビンダー自身を筆頭にして!

美男美女を選ばずにはいられない映画というジャンルにおいてこれはまったく異例としかいいようがないが、なれると結構病みつきになるものだ(笑)。(実は非美男美女映画の系譜というのを考えてみたいと思っている。)
特にヒモ男をののしってばかりのイルム・ヘルマンがワタシはお気に入りである。他にも何作かでその美しくない存在感を発揮している彼女であるが、この作品では髪が長くさも手伝って見た目は意外に見られるのだが、内面はまったくいつもの醜悪さをほとばしらせている点でなんら見劣り?はしない。助演女優賞だろう。

「ボコボコ」にする、はドイツ語では「ボンボン」にする、となるらしく、ドイツ語の台詞にあいまに「ぼんぼん!」て言うのが妙に可笑しかった。

**********

70年代、80年代にはニュージャーマンシネマの筆頭としてヴェンダースなどよりもずっと有名だったファスビンダーだが、最近はすっかり認知度が低いようなのが残念である。とはいえ、DVDBOXが5巻まで出ているし、ときおり特集上映などがないでもなく、まだ希望は持てるのかもしれない。関連で忘れ得ないダニエル・シュミットとともに、もっと知られていい作家だと思うのだが。。




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「モン・パリ」ジャック・ドゥミ

2009-12-13 02:05:03 | cinema
モン・パリ [DVD]

Happinet(SB)(D)

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モン・パリL'EVENEMENT LE PLUS IMPORTANT DEPUIS QUE L'HOMME A MARCHE SUR LA LUNE
1973フランス/イタリア
監督・脚本:ジャック・ドゥミ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、マルチェロ・マストロヤンニ 他


こ・こんな話だったのか~~っ^^;的オドロキ。タイトルはいったなんなんだ?というと、劇中でミレーユ・マチューがあまり本筋とは関係なく歌う歌のタイトルと思われ。それを脈絡なくタイトルにしちゃったのはどうやら日本でのことらしく。意味わかんないす。やるな!日本人!!

で、どんな話かを書いてしまうと冒頭のオドロキを体験できないので書きません(笑)まあ、あちこちに書いてあるけれどもさ。
このへんてこな設定をマルチェロ・マストロヤンニがニコリともせずに演じているのが妙におかしい。大真面目である。奥さんのカトリーヌはじめ周囲の男性女性たちもありえない事態を普通に受け入れてしまうのもいいし、とうとうマスコミや企業まで出てくるに至ってはもう笑うしかない。

たぶんにフェミニズム的観点を含んだ一種のSFであり、ケーススタディでもあるだろう。もしこうだったら、あれはこうなるはずだということで芋づる式に話が拡大していく系。マルチェロがとうとう車に乗れなくなるとか細かいネタが面白い。(それもマルチェロが真顔で・・・)

フェミニズム的な論点の提示としては方法も内容もいささか時代を感じないではないし、今ではもっと深まったアプローチを考えないと通用しないだろう。けれども歴史から学ぶのは大事なので・・と、そういう観点で観るのかなこの映画は。

ラストでマルチェロの件をこき下ろす新聞を読んだ仲間が、それをぽいと道端に捨てて何事もなかったように男連中で飲みに行くというところが、なんだか感動したな。

****

いま出ているDVDで『シェルブール~』『ロシュフォール~』の流れで『モン・パリ』に行きつくと妙にコケルかもww

カトリーヌはここでは気が強く元気で愛情あふれる奥さんを演じていて、そういう役もぴったりだと感心する。マルチェロの名優ぶりはもう言うまでもない。あの腹は自前なのか??

色調などが70年代っぽくて好みです。


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「ロシュフォールの恋人たち」ジャック・ドゥミ

2009-12-12 04:52:25 | cinema
ロシュフォールの恋人たち デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]

Happinet(SB)(D)

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ロシュフォールの恋人たちLES DEMOISELLES DE ROCHEFORT
1966フランス
監督・脚本:ジャック・ドゥミ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:フランソワーズ・ドルレアック、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ダニエル・ダリュー、ジャック・ペラン、ミシェル・ピコリ、グローヴァー・デイル


「シェルブールの雨傘」とはうってかわって、明るい日差しに満ちたラブストーリー。ジョージ・チャキリスやジーン・ケリーといった本場?ハリウッドのミュージカルスターを招いての典型的なミュージカル形式を持った作品。芝居あり歌アリ踊りアリ。しかし音楽は正真正銘のミシェル節。ジャズの香りをふんだんにはらんだ、しかしメロディやコードはとてもヨーロッパ。ちょっとやそっとじゃ歌いこなせないような難曲がつぎつぎと繰り出されるあたりは圧巻だし、フランソワーズ・ドルレアック演じるお姉さん作曲家の作るピアノコンチェルトなぞはまさにヨーロッパのよき伝統を経たロマン派のもの。この辺で個性を発揮するあたりがかっこいいですね。

美女姉妹ふたりの希望に満ちた生活と若い恋もとても魅力的なんだけれど、印象に残るのは姉妹の母親の忘れられない恋の物語。ミシェル・ピコリ(若い!けどおじさんw)演じるダム氏の出現で姉妹と母の恋は急展開。ダム氏がまた紳士で気持ちがいいねえ。
この恋の行方はどれも最後までは描かれないんだけど、皆まで言うな、的なセンスがまた渋いねえ。大団円的ハッピーエンドではなく、ハッピーになったはずの皆の行く末を思いながら、祭りが終わって熱気がゆっくり引いていく田舎町のほんのりとした寂しさのなかで映画が終わる。いいですね~これ。

とにかくまったく邪気のない幸福な映画である。こんな手放しの表現が可能であった映画という世界はやっぱり好きだし、そんなの嘘くせえよと言わないわけにはいかない今の時代でだって、どこかで否定しきれないものを感じてしまう自分がいるよ。淀川さんならべた褒めでサイナラだろうか?(水野さんなら「いや~映画って(略)」)

**********

姉妹を演じたフランソワーズ・ドルレアックとカトリーヌ・ドヌーヴは、実際に実の姉妹で、そのせいか演技もばっちりシンクロというわけではないが自然な息の合い方をしている。どっちかというとお姉さんのドルレアックのほうに花を持たせてあるようだけど、好み的にはやっぱりカトリーヌである。(なにを言ってる?)
フランソワーズはこのあと事故で他界してしまうのが悲しい。

二人のママがやっている広場のカフェは、ガラス張りで気持ちがよさそうであるが、暑そうでもある。フロアのまんなかが不自然に空いていていかにもここで誰か踊るよねって感じ。そのカフェに入れ替わり立ち代り人がやってきてコーヒーやビール頼んだりするんだけれど、みんな飲まないでおしゃべりして帰ってくんだよね~wもったいない。

カトリーヌとくっつく画家は兵役中の若者で、ここでも兵役を避けては通れないフランスの若者事情が『シェルブールの雨傘』に続いて登場する。『シェルブール~』では兵役さえなかったら・・というくらい重要なモチーフ。



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「ぼくら、20世紀の子供たち」ヴィターリ・カネフスキー

2009-12-10 23:03:32 | cinema
ぼくら、20世紀の子供たちNOUS, LES ENFANTS DU XXEME SIECLE
1993ロシア/フランス
監督:ヴィターリ・カネフスキー
脚本:ヴィターリ・カネフスキー・ヴァルヴァラ・クラシルコワ

旧体制崩壊後のロシア・サンクト・ペテルブルグのストリートチルドレンの生活を描いたもので、これはドキュメンタリの手法による『ひとりで生きる』後の子供たちの物語といってよいだろう。ひとりで生きることになった子供たちのよるべなき暮らしの無頼と虚しさがひりひりと伝わってくる。
彼らはまだあどけなさの残る風体であっても、精神はそろって大人びており、警官をやり込めたことを自慢する口ぶりや、撮影者を警戒する目つきは大人のものである。ハイティーンと思しき少年たちに至ってはいっぱしの組織のボスの風格を持っていて近寄りがたい。彼らは現代を「20世紀の秋」と形容してみせる。悪い時代であり、これからさらに過ごしにくい時代となるという冷徹な見通しだろうか。

もっと歳若い孤児や非行少年少女を収容する施設もまた厳しい現実を反映している。盗みや傷害を順に告白していく子供たちの列。中にはまだ2~3歳の子供もいる。冒頭の新生児の並ぶ映像とダブってなんともお先真っ暗な場面だ。

『動くな、死ね、甦れ!』『ひとりで生きる』の二人のその後もカメラは捕らえている。その後も女優として活動するディナーラに対し、パーヴェルは鑑別所にいた。この二人の再会はしかし、この映画の中では希望のあるシーンである。二人は『動くな~』の撮影を懐かしみ、ふたたび映画に関わることを夢見ている。

現実と、なおも存在する希望とをひたすら追い続けるこの作品は、視線は冷静であるが子供たちに語りかける監督たちの声は、対象との意思疎通を図ろうという熱い気持ちが感じられる。ほぼこの作品を最後に映画界から姿を消しているというカネフスキーであるが、いまだこの先の映像を撮るときが来ていないと感じているのだろうか。この作品で感じられる思い入れからは、そのような監督の思いが感じられるような気がしてならない。

11月からのカネフスキー上映は後半夜間上映に移ってからも立ち見が出る盛況ぶりだったそうで、1月にはアンコール上映があるそうである。ぜひもう一度観たい。


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「あなたは私の婿になる」アン・フレッチャー

2009-12-10 04:01:27 | cinema
あなたは私の婿になるTHE PROPOSAL
2009アメリカ
監督:アン・フレッチャー
脚本:ピーター・チアレッリ
出演:サンドラ・ブロック、ライアン・レイノルズ他


こじんまりとしたウェルメイドのラブコメは実は嫌いではなく。そういう映画で育ってきたとも言えるのであるが、時間と資源の限られる中そういう先の見える作品を選ぶことは自ずと少なくなり。TVで受身で気軽に見ることのできる環境も今は昔であるし、そういう作品で心温まったりがっかりしたりという体験が減ってきているのは残念なことです。メディアが多様化しかつ選択的となっているのはいい面も多いが、予期せぬ出会いが減っているという面もあるのかもしれない。

で、この作品はたまたま人に誘われて観ることになったのだが、そういう自分的牧歌的時代を思わせるランダムな映画との出会い方であり、その結果として、当たり障りのない、この上なく温和な作品を見出すこととなった。

スーパーキャリアウーマンが部下のややうだつのあがらない若い男と、ひょんなことから偽装結婚をすることとなるが、男の故郷アラスカに行く羽目になり、アラスカ的家族愛にほだされて心を開き、ついには偽装が偽装でなくなる、というような、プロットだけを話すとなんだいそれは?的なことになる。曲折の末の愛の成就という、何千回と繰り返されたであろうメロドラマ的伝統の系譜に位置する作品であり、往年のハリウッドを懐かしく思い出しもするだろう。

けれどもここでの主題は、愛の成就だけでなく、家族の復権にもある点が興味を惹いた。ビジネスをタフに行きぬいているマーガレットはプラグマティックな個人主義者としてアーバンな世界を代表しているのだが、一方でアンドリューの家族は、古い伝統を守り地域社会的でついでに資産家である。ここで活躍するのはアンドリューのお祖母ちゃんだ。広い心でマーガレットを受け入れるが、それはまた伝統的社会に同化せよとの圧力でもある。マーガレットは最初は居心地悪く反発するが、しだいに祖母の愛情に嘘がないことに動かされていき、自分が仕組んだ偽装に後ろめたさを覚える。
納屋での結婚式において一旦その欺瞞を解消することになるのだが、これは関係の終わりではなく、むしろ家族的なものとの和解である。この和解を下地にしてシアワセなラストへあとは一直線である。

アンドリューと父親との確執もまた同様のテーマの変奏である。ここには、親子は断絶を克服して自らの道を選ぶべし、嫁は嫁入り先の伝統を尊重すべしという、単純な、50年代復古的な、それゆえ現代的なメッセージが含まれている。

『2012』とこの作品とだけで語ってしまうのもなんであるが、家族復権はもしかすると現代アメリカ社会でのポピュラーな、あるいはタイムリーなテーマなのであるかもしれない。観た中ではこれらの作品にさらに『千年の祈り』を加えることができるかもしれない。

****

いっちばん受けたのは、アラスカでネットできるお店に行ったら、コイン式モデムでしかもダイヤルアップだったところですかね。それに対するマーガレットの反応がおかしいのよね。なつかしくもあり。




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「戦場でワルツを」アリ・フォルマン

2009-12-08 20:50:53 | cinema
戦場でワルツをVALS IM BASHIR
2008イスラエル/フランス/ドイツ/アメリカ
監督・脚本:アリ・フォルマン
アニメーション監督:ヨニ・グッドマン
音楽:マックス・リヒター


アニメ大国的観点からするとやや荒いつくりに思えるアニメーションであるけれども、アニメは絵柄がリアルであるかどうかではなくテーマや世界像にマッチしているかどうかが重要なのもまたいうまでもなく。
冒頭から夢の世界を描いてみせるこのアニメーションは、夢と限りなく同系である記憶の探訪の道を行くこの映画によくマッチしたほどよくギクシャクした質感を提示してくる。

中東問題という大括りの傷を見据えつつもテーマは極めて個人的な、特定の日の大虐殺の記憶、抑圧された記憶をたどり掘り起こすということのみに限られる。語られ伝えられるという象限の裏に、戦争は人にとってどのようなものを残してゆくのか。無数の語られない傷が人間の意識化に蓄積されていることに思いを馳せる。

繰り返し再現される夢や記憶、フラッシュバックを映像として提示することで、我々もその境界線上を生きる。現実感/非現実感の間を行き来する主人公の感覚をアニメーションはよく伝えてくれる。再現されるたびにビジョンは脈絡を得て、その意味を変えてゆく。そして最後には現実と地続きの映像として収斂した記憶像が示される。それが成功しているかどうかは意見が分かれそうであるが、監督の実体験に基づく作品の終わりとしてあのスタイルしかありえなかったのだろうと想像する。

戦闘場面などは戦争映画などで目にする激戦とは程遠く、言葉は悪いが地味である。しかし一瞬ごとの恐怖は恐ろしく深い。組織化された暴力においてはいくらでも大義名分が立つだろうが、それを個に突き詰めていけばどこまでも生の意志に反した愚行でしかない。大義名分において個人主義が危険な理由はそれであり、この映画はその危険を侵している。

****

そういう映画をイスラエルが製作し、しかも各地の映画祭に出品しているというのは、なにか意外な気がする。ある種の対外的柔和対策なのかと思わなくもない。イスラエル兵士だって人間的な葛藤を持ち、虐殺ばかりしているわけではないというアピールであるとか?
先ごろ話題となったエルサレム賞においてもそうであったが、民間では意外と多様な考え方を公にできる国家なのかもしれない。
ヘブライ語の耳慣れない響きも新鮮だったが、あの国の感覚をいまひとつ理解していないワタシである。

陰惨な場面にバッハーグールド風の音楽を付けるなど、若干陳腐な表現も気にはなり。『スローターハウス5』を思い出したりして。

音楽は今風のビートサウンドの部分はともかく、静かなノイズを使ったトラックなどはなかなかよく。サントラを探しているが今のところなく。マックス・リヒターってあのリヒターと同姓同名じゃん。

「豆コロッケ」で一儲けした仲間が出てくるが、豆コロッケとはファラフェルのことですね。発音は「ファラフェル」と言っていたが字幕は「コロッケ」となっていた。->パリ記参照。

声もアリ・フォルマンがやっているそうですね。


【追記】
サントラ普通にありました^^;
Waltz with Bashir

EMD Int'l

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