Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「アデルの恋の物語」フランソワ・トリュフォー

2014-10-26 03:28:27 | cinema
アデルの恋の物語 [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン


デジタル上映でしたがスクリーン鑑賞。

1860年代、アメリカ南北戦争の時代を舞台に、
ヴィクトル・ユーゴーの娘アデルの、実らぬ恋の顛末を描いた映画。

冒頭にここに描かれるのは事実であると高らかに宣言されるのに驚く。
伝記的な題材であり、Wikipediaによればフランセス・ヴァーノア・ギールの
『アデル・ユーゴーの日記』を底本にしているというので、
事実であるのは間違いないのだろうが、
トリュフォーやグリュオー、シフマンの企図したものは、やはりトリュフォー的な、
ひとりの女性の心理の極限の物語であろうことは..
まあ観る前からわかるよね(笑)

そこにはフィクションとノンフィクションとの間に本質的な差異はないだろう。
33歳でハリファクスに向かったというアデルの役に
当時18歳の(19歳かな?)イザベルを当てたトリュフォーだってそのことはわかっている。

その上でのノンフィクション宣言を物語の冒頭に観ることの意外さ。
そこにはノンフィクションはフィクションを凌ぐと素朴に思う観客へのひねくれたサービスがあるのか、
あるいはひねり出すフィクションを軽く現実の題材が凌駕してしまうことへの、
作家たちの素朴な驚きが込められているのか…


…などということはほとんど考えずにですね、
古典的な美を湛える顔立ちで手紙の文章を口走るイザベルのアップに見惚れて幸せなのでした。

それは完璧に美しいというのではなくて何処かゆがんだところのある顔立ちでありまして、
実にこの映画の目指すところをしっかりと体現しちゃっている顔なのです。

美しく品があるんだけど、
どこか近寄りがたく何かを秘めている。
アデルは思いが一途であり過ぎてそれでも相手に心通じることができなくて
だんだん行動があやしくなるんだけど、
そのバランスの崩壊がはじめから予感としてわれわれに迫って来るようなたたずまいでした。

ワタシ的には、イザベル・アジャーニは、
ジャンヌ・モローやファニー・アルダンとくらべても
とてもトリュフォーの感じによく合っていると思いました。
が、どんな問題があったのか、その後トリュフォー作品には出演していない。
かな?

トリュフォーの古典もののなかでも結構好きかも^^



音楽はモーリス・ジョベールの器楽曲を使用。
これがまた変拍子が随所に効いていていいんだわ。

あとお約束の部屋番号が出てきたけど
あれはちょっとモダンな感じがして浮いていて笑ってしまったw



@角川シネマ有楽町
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「まつろわぬ民」風煉ダンス公演観てきました。

2014-10-19 01:41:02 | art
風煉ダンス「まつろわぬ民」

ダンスの公演ではありません。
劇団です。

とりいそぎ今日!19日が最終公演。
でもチケット完売と言ってたか・・・

面白かったので皆にオススメしたかったですが
おすすめするまでもなくチケットは売れるんですね~


この劇団、脚本の林氏と演出の笠原氏は
ワタシの古い友人でありまして
その縁でこうして出来るかぎり公演には出かけるのであります。

が、今回はとくに
ひいき目無しでよかったと思います。

しょうもないくだらない笑い(褒め言葉)と
シビアな現実の問題とが
層をなして押し寄せるような作りが彼らの持ち味でありますが、
今回はその作風は生きつつも、
特に現実の諸問題にがっつり切り込んでいこう
切り込んで負けたっていい
負けても負けても突入せずしてどおする的な気概をひしひしと感じて、
観ているほうもこれは自分の物語なんだと
考えずにはおられない
そんな芝居でした。


現実の半分だけを見て
なかったことにされること・もの・ひと
それでいいのかという思いを
日本の少数民族とか辺境の文化とかそういうものの歴史的なことを色濃く踏まえたモチーフで構成して、
それをなお現在の問題へ地続きのものとして繋げていくところが
彼ららしい発想でありまして、
まさに回帰すべきはこういう側面へであって
決して美しい国とか強い国とかそういうところではないはずなんですよ。

ちゃんと考えてそういうことを伝えてくる
しかも理屈や理路整然としたかたちではなくて
どこかで割り切れない複雑な思いをちゃんとはらんだ形で
えーと要するに演劇というスタイルならではの伝え方を作っていく
そういうことにちゃんと成功している。

成功した結果、ワタシは涙腺決壊を必然としながらも
どこかでそれを必死に耐える。耐えて見届けなければならないんだ
という理屈では説明できない鑑賞?態度で観ることになりました。
鑑賞って感じとはほど遠いけどね。


もうべた褒め。


主役?なのかな?の白崎映美さんは上々颱風の方なんですね。

白崎さん演じるスエの相手役サンベは
おそらくは初出演?の安部田さん
かれは素の演技が恐ろしく自然で面白かったんだけど、
なにより肉体がw
よく鍛えた筋肉に割れた腹筋
いやー演劇は肉体だね!とw

あとワタシはひそかにみぞぐちあすみさんのファンなんである。
今回はテレビリポーターの役割を見事にそれらしくやってのけて感動である。

佐々木潤子さんも今回ファンになりました
あの歌はすばらしい。演劇の歌ですよ。
演劇やる人の歌はいいよね。

つうことで
感想がとっちらかっているんだけど、
魂よ荒ぶれ!
血よたぎれ!
俺たちはまつろわぬ民よ!(涙腺決壊寸前)



20141017@調布市せんがわ劇場
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「ニンフォマニアック」ラース・フォン・トリアー

2014-10-17 13:57:50 | cinema


トリアー。
久しぶりに映画館にいく機会があったときにトリアー行くかね?って気もするが、行ったんですな。

で、行って初めて「vol.1」て付いてるのを知ったんでした。

つうことで前半観ました。

ところどころ例によって寝てしまったので、
大雑把なことしかわからんのですが、ぎじょぐじょにタダれる映画を想像してましたがそうではなく、
わりと真摯に、色情狂てのはどういうものなのか、
その生い立ちはどんなものか、どういう思考回路なのか、
その生活にはどんなことが起こるのか、
そういうことを淡々と物語る映画でありました。

主人公は女性なのですが、
幼少の頃のちょっとした性戯やら、
ティーンエイジのころの悪友(同好の志だね)とのゲームやら、
ことがセックスに関することである以外は他愛もないよくある悪戯の感覚。

彼女も四六時中セックスのことを考えているわけではないんで、
父親がしてくれた木の話の思い出とか(なんの木だったかな?)
その父の闘病の姿とかの回想も。

その木の逸話だって、
葉が落ちて黒い芽が残るのを奴には指がある」って他の木たちに揶揄されるのであるから、
どこか性的な含みも感じなくはなく、
それゆえに彼女の記憶に深く染み付いているのかもしれないが。

印象的なのは、
彼女にとってセックスは単発の事柄ではなくて、
ずっと続いている総体としての性体験なのだというあたりで、
(あろうことかw)それをバッハのポリフォニーに例えたりする。

ある男「F」との体験は低音パートであるのに対し、
別の男「G」は中声部であり、みたいな。
トータルで一つの音楽を形作るみたいな。

ほおお。

このときに引き合いに出されるのは
バッハのオルゲルビュヒラインからBWV639。そう、あの曲。

映画の人はこの曲が好きだよね。
この映画でももれなくアンドレイ・タルコフスキーへの謝辞をクレジットしていたトリアーなら
なおさらの選曲でしょう。

この曲はいわゆる(劇中パレストリーナを先駆者として
引き合いに出したような)ポリフォニーとは違うものだとは思うけど
そこはご愛嬌か。

ちなみに男「F」が…というところでなりひぴく
オルガンのペダルのオスティナートは
他ならぬfの音である。

(じゃあ「G」のときはg音かというと
そうじゃないんだけどねww)

つうことで、vol.1は淡々と終わっちゃうので、
この形で公開していいのか?大丈夫なのか?と心配であるものの、
vol.2は観ますよねえ。やはり。

車が炎上したりするらしいし。

この文脈でどうやって車が燃えるのかしらんん?



ユマ・サーマンの怖そうな奥さんが印象的。

後半はシャルロットも活躍するのかな?


@新宿武蔵野館
コメント (2)
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「プランク・ダイヴ」グレッグ・イーガン短編集

2014-10-09 20:35:30 | book
プランク・ダイヴ (ハヤカワ文庫SF)
クリエーター情報なし
早川書房


演算として生きる意識としての人間、
それが当たり前となったときの人間世界のあり方、
そしてそこでの倫理とは。
そうしたイーガン的主題を核とした作品を集めた短編集を読みました。

現代の科学的な成果を踏まえつつ
未来へ演繹した世界を描く、
SFの王道にして最先端の感触。
でもここでのイーガンは、
設定やアイディアで最先端を切り開くという勢いよりも、
切り開いた地平を所与のものとして、
そこでの世界観とモラルのありようを追求しているようだ。

それは、あり得る世界への好奇心と想像力を
思いっきり刺激してくれるとともに、
我々が今現在いる世界の諸概念や倫理が
決して普遍的で不変のものではないということを
思い知らせてくれる。

ある面でまさに現代を生きる人に向けられたメッセージに満ちた良書である。
イーガンの邦訳短編集の中でもワタシは一番これが面白いと思う。

いや、でも『順列都市』や『ディアスポラ』などを読んだ後だから
そう思うのかな?


『クリスタルの夜』
電脳世界に生きる意識ある「生物」を、
珍しく?その外側の視点でとらえて、
外側におけるモラルの変動の物語として展開してみせる、
この短編集の入口にふさわしい短編。

発達した人工知能があるとき、
その運命、生殺与奪が「創造者」の恣意に委ねられることについての是非。
ある目標を設定して始められる進化について、
想定外の方向に進化する知能を軌道修正のために
「滅ぼす」ことは是か。
タイトルが示唆するものは明らかであろう。

『エキストラ』
1990年初出ということでやや古め。
臓器移植用クローンを巡り、
その可能性を病的に突き詰めて行く主人公の陥った運命とは。

意識を演算に還元してコンピュータ上で生きることで
永遠の時間を得る世界を前提とした作品を多く書いているイーガンだが、
そもそも意識とはどこにあるのかという問題は
なおミステリアスなものなのだ。

モラルの境界をさまよう主人公の因果応報的な物語。
彼がクローンを持ち得る数少ない富豪であるという設定も、
「黎明期」な感じだ。

『暗黒整数』
これが一番好きかも。
短編集『ひとりっ子』所収の『ルミナス』の続編なので、
そちらを読んでからの方が断然楽しめる。

現実世界の秩序がその物理法則を基盤としているならば、
それは数学的な原理を基礎としているだろう。
しかし、我々が持っているものとは異なる体系の数学が存在するとしたら、
それを基盤とした平行宇宙的な異世界が存在してもいいだろう。

そうしたユニークなアイディアを展開した『ルミナス』だったが、
本作ではその二つの世界の境界がついに破れる物語である。
思索的な設定が、
スリリングな攻防劇に発展するのが面白くてたまらん。

目には見えないが存在する異世界を、
いわゆる暗黒物質に引っ掛けてみたタイトルセンスにも痺れる。
それもセンスだけでなくて
作品の仕掛けに密接に絡んだものなんだよね。

『グローリー』
少し趣向が変わり、イーガン的宇宙、
すなわち、ロジックとしての生を手に入れることで、
何千年という時間を過ごすことが可能になり、
一方でテクノロジーの進化で様々なマシンに自己を「インストール」可能となった世界での宇宙での、
異文明との出会いを通じた文明論。

主人公の宇宙では、
時間と空間が事実上障壁とならないことを背景に、
異文化との係争の意味を失い融合的に存在する広範な宇宙文明が成立している。

そこから数年の光速の旅の末に出会うのは、
まだ宇宙への進出を果たしていない発展途上の文明。
それぞれの文明を支える思想とモラルとは?

『ワンの絨毯』
これもまた面白いアイディア。
でも巨大分子からなるポリマーがチューリングマシンの機能を持つという
肝心のところの理屈がワタシにはよくわからないんだよね~
なんとなくわかる程度で。

まあでもそれをそういうものだと思って読めば、
これも多岐に渡るテーマを詰め込んだイーガンらしい物語。

永遠の生が可能になった時代に
我々は惑星間渡航により未知の生命を見つけにいくことがどんな物議をかもすか、
とか、
異星の生命を発見したとして
そこにどう関わっていくべきなのかというモラルの問題とか。

印象的なのが、人間以外の「意識」が宇宙にあるとすると、
いわゆる人間原理の誤りが実証されるよね?というところ。
多分イーガンは人間原理はつまらないと思ってるんだろうな。

長編『ディアスポラ』に改変の上組み込まれた短編。

『プランク・ダイヴ』
イーガン史上最強のハード短編。
正直なところほとんど理解不能。
ブラックホールに超発達テクノロジーとともに
人がダイヴすると何を発見するか?

それを豊かに想像することはできるとはいえ、
実際に?それを発見した人が生き延びることはない。
そのロマンを読み取って美しいラストを味わう以外何もできず。

ワタシはこのプロスペロの属する文化の中の人間だった。
物理学者だけが
この短編の真の美しさを知っているのだろう。。

ブラックホール内部で起きることを知るというのは、
ある面では死を体験するということと似ているのかも。
体験してみないと何が起きるのかわからず、
しかしわかったときにはそれを外部に伝える術がない。

『伝播』
美しい。
次の世紀の変わり目で成し遂げられる異星系惑星への「種子」の移植。
しかしその数十年後、
さらなる技術の進歩の中で
その偉業も色褪せ意味合いを失いつつある。

が、その偉業の関係者に
突然惑星への「訪問」の機会が訪れる。。

あるオートマティックなプロジェクトは、
目的達成後に再度プロジェクトを繰り返すことができる。
それによって種子は広く長く伝播していくことができる。
そのようなアイディアと、
そのことがもたらす影響への責任とを絡めて、
荒涼とした惑星の風景を背景に世捨て人的な老人たちに語らせる。




ということで、
『ひとりっ子』所収「ルミナス」を読んでから
本書を読むのがオススメ。
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ストラヴィンスキー「春の祭典」 (1913年初版) レ・シエクル

2014-10-03 23:21:02 | music
ストラヴィンスキー : バレエ音楽 「春の祭典」 (1913年初版) | 「ペトルーシュカ」 (1911年初版) (Stravinsky : Le Sacre Du Printemps | Petrouchka / Les Siecles | Francois-Xavier Roth) [輸入盤・日本語解説付]
レ・シエクル,フランソワ=グザヴィエ・ロト
Musicales Actes Sud / King International



Stravinsky:Le Sacre Du Printemps | Petrouchka
/ Les Siecles | Francois-Xavier Roth

『春の祭典』ですが、「1913年初版」。
1913年初演時のスコアを再構成した版ということで、
それをピリオド楽器でのライブ演奏だそうです。

ピリオドものに弱いワタシはすぐに飛びつきましてん。

聴き慣れた音とは随所に違う響きがあり、とても面白い!
ゴージャスな響きに慣れていると物足りなく感じるのかもしれないけど、
ガットな弦楽器が抑えめの音量に収まることで、
素朴な木管と金管が相対的によく響き、
細部までよく聴こえる演奏になっている。

細かく疾走する弦とか
突然全景に出る金管とか
木管の空気の層とか
よく感じられて面白いです。

新しい魅力が引き出されたという感じです。
100年前の響き。


ペトルーシュカの1911版も併録。


火の鳥もありますね
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」 他 (Les Siecles Live - L'oiseau De Feu - Stravinsky/Grieg/Glazounov/Sinding/Arensky, Les Orientales) [輸入盤・日本語解説書付]
フランソワ=グザヴィエ・ロト,レ・シエクル
Musicales ctes Sud / King International
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