Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

日曜日は雨の匂い

2006-06-25 22:41:19 | diary
ブランコこぎまくるMちゃん。

**

今日は朝10時からバイオリンアンサンブルのリハ。
チェロ2、ビオラ2、コントラバス1が加わって、なんとか曲の骨格だけはしっかりした。
問題はウワモノのバイオリンたち。
冒涜トリビュートか?
がんばれよ~~>自分

リハ後、両親と合流し、昼ご飯。
マグロ山かけ定食を食す。
ひさしぶりにまともな昼ご飯。
そのあとスタバでラテを飲む。

ウチの家系はラテ好きらしい。
しみじみ、これはうまいよな、とつぶやく父。


両親と別れたのち、なんとなくGAPで服を物色する。
貧乏なのでめったに服は買わないのだが、
セール品のパンツ3600円があったので試着する。
おおっ!ジャストフィット!!

しかし・・・
ここ数年のあいだに、

 ウエストサイズ>股下サイズ

となってしまったことが判明。
以前は

 ウエスト<股下

だったのにぃぃ・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・まあいいか(よくないっ)

**

午後早い時間に帰ってきたんで、Mちゃんをつれて、
小雨のなか自転車で美容院に行く。
かる~くカラーリングをしてもらった。
白髪隠しなのだが。

美容院のとなりのデニーズで夕ご飯を食べ、帰り道公園にちょっと寄ってみる。
Mちゃんとシーソーをやる。
だんぜん俺の方が重い。とことん重い
・・・・まあ当然か

で、鬼のようにブランコこいでストレスを発散するMちゃん。

**

夜、aikoちゃんのCDにあわせてベースを弾く。
縦横無尽のコード進行に舌を巻く。すげえや。
まいった。まいりました。降参です!

aikoちゃんの曲は、「ベース半音ずつ下降」パターンが非常に多い。
また、2ー5をうまく使って、意外なコードに逃げて、しかも最後はうまく完結する、という手もよく使う。
なかなかの作り手だ。あんな顔して。

↓こんな顔


かわい~~

・・・いや、それはともかくですね、
自分もがんばってみなくては。
99%の努力オンリーのなんちゃってミュージシャンたる私としては、
ここは努力のしどころ。

だらだらしてると人生が終わっちゃうぞっ!

***

つうわけで、なんか長かったな今日は。
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ラース・フォン・トリアー「奇跡の海」

2006-06-24 17:30:23 | cinema
奇跡の海 プレミアム・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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1996デンマーク
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミュラー
出演:エミリー・ワトソン、ステラン・スカルスガルド、カトリン・カートリッジ

トリアーにしては後味は悪くなかった。

愛情というのはとってもデリケートなものなのだ。
ちょっとしたバランスや、タイミングや、さじ加減で、
安定したり揺らいだりする。

雨も降れば風も吹くし
晴れの日もあれば嵐の日もある。

なんてせつないんでしょう。

**

人よりちょっとだけ愛情が過剰なベス。
義理の姉にいわせると、「全て与える」ベス。
ベスは油田労働者のヤンと結婚する。
愛情ではちきれんばかりの結婚。
しかしヤンは油田で働きにしばらくは家を留守にしなければならない。
ベスは苦しむ。その喪失に耐えようとする。
彼女は神に祈る。早くヤンを返してください。
願いは聞き届けられるが、しかし、それは事故でヤンが負傷して戻ると言う形で実現する。
自分を責めるベス。なぜあんな願い事をしたのか・・・

全身麻痺となったヤンは、ベスに、他の男と性行為を持てという。
そしてその様子を話してくれ、それが自分の生きる力になるという。
ヤンの命を救うために、ベスはヤンの妄想を実現しようとする。
そしてしだいに意識と行動が乖離して精神の安定を失ってしまう。

ベスはいかにも悪そうな船乗りを相手にしようとしたが、逃げ帰る。
そこにベスを精神病院に入院させようとする医師の手が。
病院に運ばれる途中で逃げ出すベス。
しかし近所の子供たちに「売春婦」とののしられ、
家に帰ってもドアを開けてもらえない。
教会に行くが、ベスの所行が冒涜とされ、長老たちから追放を言い渡される。

ヤンの病状がよくないことをきき、なおも再び船乗りのところへ行くベス。
それがヤンを救う方法だと思うベス。
しかしベスは無惨な姿で船から救出される。
「すべてまちがっていたんだ」とつぶやいて、ベスは死ぬ。

しかし、ヤンはベスの死を契機に回復へ向かう。
ベスの死を看取った医師は、ベスは「善意」によって死んだと証言する。
教会に埋葬の許可は得たが、長老たちは、ベスは地獄に行くといいながら埋葬する。
けれどベスの遺体はひそかに海に運ばれ、ヤンと最後の別れをする。

再び油田にむかうヤン。
仲間に起こされて寝床から外に出たヤンが聴いたのは・・・・

***

かわいそうなベス。

愛情と善意に満ち満ちているのに、バランスをちょっと欠いた愛。
そしていちばんこわれやすいやさしい者がほころびくずれてしまう。
そしてその真実は外側から観るとなかなか理解されない。
愛にはそんな一面があって、とても胸が痛む一面なのだ。

トリアーは得意のハンドカメラによる感情の流れを追うような編集で、
そんな儚さを見事にとらえていると思う。
ラストの仕掛けは、ベスの死の真実が奇跡に繋がっていたことを訴えて胸にせまる。
これはいい作品だと思った。

エミリー・ワトソンは、冒頭の数カットで、表情だけでベスの優しさともろさをしっかり表現している。
魅力ある俳優さんだ。


あまり触れなかったけれど、義理の姉ドド(カトリン・カートリッジ)もとても重要な役だ。
ベスを暖かい愛情で包み込む。

撮影はヴィム・ヴェンダース組のロビー・ミュラー。
こういう撮影もできるのか~と感心してたら、
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」も彼だった。

そうそう、いくつかの章だてになっているのは、後のドッグヴィルにも通じるところ。
でも章のタイトルに流されるエルトン・ジョンとかデヴィッド・ボウイとかディープ・パープルとかは
ちょっと意味不明だったなあ。
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ジャン=ピエール・ジュネ「エイリアン4」

2006-06-24 01:38:53 | cinema
エイリアン4

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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1997アメリカ
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
出演:シガーニー・ウィーヴァー、ウィノナ・ライダー

エイリアン4作目。
観る方もすっかりエイリアンに慣れたせいか、あまりこわくなかった。

全体に、かなり理屈っぽいつくりだった。
密輸であったり、裏取り引きであったり、
軍の秘密事業であるクローン実験室を焼いてみたり、
ロボットが自己改良版の第二世代だったり、
エイリアンの学習能力とか知性とかを描いてみせたり、
「母性」を得て人間的愛情のあるエイリアンを登場させてみたり
ハッキングで軍の陰謀を知ったロボットがそれを阻止しようとしてみたり・・・・

先入観のせいかもしれないが、そうした雑多ぶりは、あまりアメリカ映画のそれではなく、
やはりヨーロッパの感性なような気がするのだ。
ストレートに怖さを追求するでなく、エンターテインメントに走るでもなく。
細部にこだわり、雑多な現実を描こうとする。

(1から見てきた観客の余裕のもとでの)見どころは、
エイリアンが知的なそぶりをみせ、チームワークさえ見せるところだろう。
繁殖された檻からの脱出は、仲間を犠牲にして種の衝動を追求する、
なんだか蟻とか蜂の生態を思わせて、なんというか野生のたくましさ。

もう一つは、前作からひきつがれる、リプリーの母性とエイリアンの関係である。
一度体内にエイリアンを宿し、クローンとして再びの生を得たときにエイリアンの遺伝子を受け継ぎもした彼女は、
ここではエイリアンの母として、行動を読んだり、愛情を受け入れたり、死を悲しんだりする。
ここまでの深い関わりは「1」では想像もできない。
こんな方向に進むなんて驚きだ。

全体としてはテンポ緩め、前作たちのもつ根源的恐怖という密室感も希薄、
SFXもちょっとチャチ目。
シリーズ内ではちょっと別モノという感は否めない。

ウィノナ・ライダーがういういしくていい。まだまだ脇役といった風情。
監督はこの後、5年の沈黙の後に「アメリ」を撮る。
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おれというやつ

2006-06-21 09:59:00 | diary
去年の今頃はなにしてたかな~
とのんびり昨年6月のブログを見返す。
すると、以下のような記述が・・・

>大事なお友達の誕生日をすっかり忘れていたことに気づく。
>すっかり忘れるということは、ほんとは大事に思ってないんじゃないか?
>と自分の誠実さを疑う。

>よ~く考えると自分は誠実ということにかけてはまったく自身がないことにも気づく。
>なんだかなあ。
>変な奴だなあ自分よ・・・
>お友達よ許せ・・・・・・

あああああぁぁあぁぁぁあぁ~~~~~~っ
しまったぁ!今年も忘れてしまったあ!
ほんとにも~~駄目な奴だよなあ>おれ
お友達よ、許せm(_ _)m

しかしすでにお誕生日から1ヶ月ほど過ぎている。
いまさらメールでもしてみるかぁ?

**

今日はこれから病院。午後は仕事に行くのだ。
ああめんどくさいなあ。去年はよかったなあ、ぷ~な生活で。
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ラース・フォン・トリアー「マンダレイ」

2006-06-19 15:12:26 | cinema
マンダレイ オフィシャルサイト

2005デンマーク/スウェーデン/オランダ/フランス/ドイツ/アメリカ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
ナレーション: ジョン・ハート
出演: ブライス・ダラス・ハワード、イザック・ド・バンコレ、ダニー・グローヴァー
ウィレム・デフォー、ジェレミー・デイヴィス、ローレン・バコール、クロエ・セヴィニー、ジャン=マルク・バール

観たけど忘れていた。
資金のでどころがかなり複雑そうな映画だ。

前作「ドッグヴィル」よりはだいぶわかりやすい/単純な話だった。

アメリカという国は奴隷制度という強力な差別の歴史をもっているわけで、
その歴史が落としている影は当然のこと、現在の国の有り様や心の有り様の上にのびている。
差別した側にも、差別された側にも、いびつな世界観と人間観がこびりついている。
そのことを執拗にほじくり返すのがこの映画。

「差別」がしっかりと根底に編み込まれている伝統的(=前時代的)生活規範を象徴するのが「ママの本」であり、
「合議制・多数決」による新しい(近代的)生活規範を象徴するのが「グレース」という存在である。

近代的生活規範で前時代的規範を覆し自由社会を作ろうという、グレースの試みは、
しかし、その「伝統のなさ」によって随所でほころびを見せ始め、人の命さえ奪いはじめる。
と同時に、「昔ながらの知恵」と結びついた前時代的生活規範の、実際的有効性が、
事の善悪を超えて力を発揮しはじめる。
最後には、グレースの指標となるものは「ママの本」である。
しかし共同体は、「ママの本」に立ち戻ってしまったグレースを、一時の秩序破壊者と見て迫害しようとする。
どちらにころんでも救いのない自虐性をもった社会構造を、グレースは身を以て表現してしまうのだ。
(ドッグヴィルで懲りたはずなのに・・・)

***

こわかったところ。

・「ママの本」で伐採を無条件に禁じた林は、実は砂嵐から村を守るものだった。
 知恵というのは、しばしば理由なき呪縛として伝えられるのだ。
・ティモシーへの信頼と愛情そして裏切り。
 「誇り高いアフリカ民族の末裔」という人物像も、なんということはない、搾取の歴史の中で表面化し、演じられる虚構にすぎないことが暴かれる。
・合議制と多数決が一人の黒人の命を奪ってしまうこと。「ママの本」での搾取下ではせいぜい鞭打ちで済んでいた懲罰が、合議のなかで死刑にまでエスカレートすること。

いやーしかしやりきれないな~
日本にもあるよなしっかりと。差別の歴史。
どちらに転んでも・・的構造が社会の精神にしっかり編み込まれていると思うとぞっとする。
避けて歩くことさえできない我々は、直視する以外ないのでしょうか。

***

音楽がちょっとマタイ受難曲の1曲目に似たテイスト。

あと、トッド・ブラウニングの作品で「マンダレイへの道」っていうのがあるのがなんか気になる。


マンダレイ デラックス版

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デヴィッド・フィンチャー「エイリアン3」

2006-06-18 16:43:21 | cinema
エイリアン3

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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1992アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:シガーニー・ウィーヴァー、チャールズ・S・ダットン、チャールズ・ダンス

「2」を飛ばして「3」を鑑賞。

下知識なしでみたので、「2」であんなに精一杯守った少女が、
冒頭いともあっさり、しかも悲惨な境遇で死んでしまうことにショックを受けた。
そんなばかな・・・
でも一方で、これが宇宙の現実なのかもしれない、このくらいのやりきれなさの強度がないと「3」をつくる意味がないという気もした。

外界は零下40度の極寒、
地球から遠く離れた惑星に弧絶する刑務所に
リプリーたちの乗る緊急避難船が激突する。
ただひとり生き残るリプリー。(つくづく運のいい人だ)
刑務所内の診察室で眼を覚ますと、そこはならずもの男達だけの閉鎖世界。
男たちの欲望を刺激しながらも回復するリプリー。

そこへ、一人の囚人の死亡事故が起きる。巨大な換気扇に巻き込まれたのだ。
しかし現場には金属がやけただれたような跡が・・・
あいつだ・・・

・・で、あとは囚人たちとリプリーによる、エイリアンとの死闘なわけだ。

閉鎖環境と少人数の恐怖。
エイリアン1体で巻き起こされるパニック。
生き残りを賭けた人知の極限。
思うに、「3」は、「1」の持つシンプルかつ根源的な恐怖の再現を志したものなのではなかろうか。

余分な伏線がいっぱい張られては尻つぼみになるのも、
本当はそんな伏線はどうでもよいと監督が心の底で思っていたことの表れなのではなかろうか。

医者とのちょっとしたロマンスも、エイリアンが犬型であることも、所長が現実を直視しない暴君的性格であることも、
ならずもの集団が突然あらわれた女に動揺することも、そうしたいっさいがっさいがなにもかもが中途半端な点は、
きっと制作側と監督との意見のすれちがいから起こることなのだと、冷めた眼で観ることにしよう。

冒頭の葬儀のイメージが、ラストのリプリーの姿と重なるつくりになっているところはなかなかよい出来だと思う。
この映画で一番美しいシーンだ。それが冒頭とラストにあるのが憎いつくり。
リプリーの最期も胸にせまる。
なんというか、ここまでつきあったエイリアンなのだ。
最期の最期まで、しっかり胸に抱いて冥府へつれて行くなんて。

****

エイリアンシリーズの特徴は、
これだけ人が死んでいっているのに、地球はあくまでも遠く、
これらの出来事は彼等の雇い主である「企業」以外、地球で知る者はないという、
「人知れず感」にあると思う。
恐怖がなんとなく「根源的」に思えるのは、この人知れず起きているという感覚に根ざすのではないかと思う。
結局最期もリプリー一人がすべてを持って消えてゆくわけで、この閉塞的な終焉はシリーズの最後にふさわしいものだったのではないかしら。
なので、「4」は未見だけれど、「3」で終わってしまったほうがよかったのではなかろうか。

****

そうそう、
音楽はあ ま り に もベタだったなあ。
特にエイリアンを鉛の海に沈めたところなんか、もう赤面するくらいにハリウッド的。
ええ、いかにもどんでん返しのための布石です~といわんばかりで、面食らう。
もうちょっと無機質な音が未来SFサスペンスには似合うと思うのだ。
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エンキ・ビラル「ゴッド・ディーバ」

2006-06-17 17:22:16 | cinema
ゴッド・ディーバ

ポニーキャニオン

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2004フランス
監督・脚本・原作:エンキ・ビラル
出演:リンダ・アルディ、トーマス・クレッチマン
シャーロット・ランプリング、フレデリック・ピエロ
ヤン・コレット

フランスの漫画?作家エンキ・ビラルによる監督作品
とっても独自な世界像をもった作家だと思う。
その奇想はある意味ブレードランナーもマトリックスもしのぐ
(ってマトリックスは観てないけどさ(笑))
と同時に、悪趣味度もデヴィッド・リンチの「デューン」をしのいでいるかも。

どうやら神のフリをした(いやほんとうに神なのか?)エイリアン、マルス
事故で囚われの身から解放された政治犯ニコボル
マルスは乗り移れる体をもとめて7人くらいをぶち殺したのち、ニコボルに出会う。
ニコボルには乗り移っても大丈夫らしい。
マルスはニコボルの体をかりて、ミュータントの青い髪の女ジルを誘惑し、
神の子を宿そうとする。
(ようするにレイプなのだが。)
で、その時はマルスに支配されちゃうニコボルは、我にかえったときに、
マルスに詰め寄るのだ。このふぁっきんレイプ野郎!って。

ああ、なんだか変なストーリーになってしまう(笑)

ジルは、ジョンという、ジルを地球に送り込んだ人物からクスリをもらっている。
そのクスリは、ミュータントとしての過去の記憶を消し去り、
人間の女として生きてゆくために処方されたものらしい。
ジルはクスリを飲み続ける。
一方でニコボルとの関係を深めてゆき、人間の女としてのアイデンティティを形作ってゆく。

・・・のかと思いきや、最後ではジルの「治療」が完結するとともに、全ての記憶がさらになって、
誰の子ともしれない子を産む。
1年後、エッフェル塔の上で二コボルはジルに出会う。
初対面のように振る舞う二人の間に、浮かぶゆりかごで揺れる青い髪の子供がいる。

いや~さっぱりすっきりしないストーリーではありますが、
主要な登場人物以外はCGだったり、都市の交通網がアナクロなのか最先端技術なのかわからなかったり、
ニコボルの登場が血まみれだったり、ジルの視野がとっても幻想的だったり、
ジンベイザメの皮を剥いたような怪物はでてくるわ、首だけ鷲のホルスの喉のところがセリフに合わせて動くわ、
なんといいますか、ディテールがものすごく独特なグロテスクに貫かれているわけです。

いろいろと世の中の感想を調べてみると、とんでもない失敗作!とかけちょんけちょんな感想が目立つのですが、
これは、ある意味自然な感想かもしれません。
とくにSF超大作を期待した場合には、そのストーリーのわからなさ、ディテールの気色悪さ、特撮やCGの平板さにがっかりするでしょう。

でも私は、この奇想を貫くヨオロッパ人の映画をしっかり支持します。

え~と、おそらくはフランスのバンド・デシネ事情をある程度知っているとより楽しめるのでしょう。
「バットマン」をアメコミを知る眼で観るのと同じように。
(という私は、両方ともに疎いのでありますが・・・)

調べてみると、このゴッド・ディーバもバンド・デシネをベースにしたものらしく、
原作者は監督自身。
映画に出てきたワン・シーンの画像もありました。


というわけで、青い髪のジルのか弱さと美しさと食生活にみとれながら、
104分をあっというまに観続けることができました。

エンキ・ビラルの作品は邦訳版がありますね。
ああ、ニコボルじゃなくてニコポルだったみたい。
ニコポル三部作〈1〉不死者のカーニバル

河出書房新社

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ニコポル三部作〈2〉罠の女

河出書房新社

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ニコポル三部作〈3〉冷たい赤道

河出書房新社

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あと、近未来のニューヨークを舞台にしているんだけれど、
そこには異常に権力を発達させた大企業が警察以上に暴虐の限りをつくしていて、
しかもその企業が医療関連企業だというところが、なかなかぞっとさせる設定でよい。
遺伝子工学やらナノテクノロジーだのをふりかざし、
不法侵入ミュータントの捕獲を行っている企業。
う~ん、気味が悪い。

ジルを救う女医はシャーロット・ランプリングだったのね。気づかなかった。年とったね。
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運動会ナド

2006-06-16 05:46:17 | diary
もう先週のことだけれど、
土曜日にAちゃんの学校で初運動会だった。
最近では奇跡的に晴れ間ののぞいた空。
誰の行いがよかったんだろう。

Aちゃんが今年から通いはじめた学校は、話題の小中一貫校。
つまり、全部で9学年が同じ校舎にいるわけ。
そうすると、おのずと運動会も、長い!
そのうえ、子供の出番は少ない!
う~ん、面白くないぞ。

しかもやってくる保護者の数も当然9学年分・・・多い!
なので保護者席は校庭の見える2階テラスのみ。
うえから見下ろす運動会ではいまいち迫力に欠けるなあ・・・
と思いながら、保護者たちは2階のフェンスに鈴なりになってビデオやカメラを校庭に向ける。
変な運動会。

団体競技も組体操も創作ダンスもなく、ひたすら
1000m走!800m走!男子リレー!と走るのみ!
ひたすら走る!
変な運動会。

来年はもうちょっとみんなで作る華のある運動会にしてもらいたい。

といいながらも、自分が子供のころは運動会なんて面倒なだけだったしな~
まあ子供的にはどんなのでもいいんだろうな別に・・

結局うちのAちゃんの出番は午前中に2競技だけ。
それが終わったらさっさと引き上げましたよ。

テラスによりかかってみていたら左腕上腕だけが日に焼けちゃったし(^^;)

しかし疲れるよな~休日行事。
Aちゃん本人は月曜代休。
家族はみんな仕事と学校。
いいなあAちゃん。

**

運動会のあとは横浜でバイオリンアンサンブルのレッスンに。
いや~これが最後の練習とは思えないすさみぶり。
ここまで冒涜的だと、気分も晴れやか(?)
しかも本番は礼服に蝶ネクタイなんだそうです!
輪をかけてすごい演奏会になりそうです。
モーツアルトさんもさぞやお笑いのことでしょう。
当日は穴を用意しておいて、演奏が終わったら穴に飛び込みたいです。


さて、寝るか。
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リドリー・スコット「エイリアン」

2006-06-11 00:39:15 | cinema
エイリアン ディレクターズ・カット アルティメット・エディション

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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1979アメリカ
監督:リドリー・スコット
出演:トム・スケリット、シガーニー・ウィーヴァー、ジョン・ハート
ヤフェット・コットー、ハリー・ディーン・スタントン、ヴェロニカ・カートライト
イアン・ホルム

思えば落ち着いて観たことがなかったので、
腰を据えて鑑賞。

いいなあこれ。
ほとんど姿なき恐怖。
宇宙船の中になぜだか雨が降っていたり、
うすよごれた船内に服がだらんとかかっていたり、
猫も名演技で参加。
静寂とノイズと、時折盛り上がるいささか古風なジェリー・ゴールドスミスの音楽。
79年かあ。もう古典だな。

実は××××××だったアッシュは、いかにも異質で、反抗的。
その正体が暴かれた後にごぼごぼ声で語る生命についての恐るべき認識。
これも完全他者=エイリアンという、SFにおける普遍的なテーマを臭わせている。
理性も感情も良心も無縁な、生存だけを目的とした生命にであったとき、
人間はどう行動するのか。
いや、そうなったらそんなことを考えている場合じゃないんじゃないのか?
という、映画界からの一つの回答であるかも。

そういうテーマは実は小説向きなのだろう。
それどころじゃないぞっていう差迫り感は、なかなか小説では無理だと思う。
小説は小説の行き方というものがあって、映画は映画の道を行くんだな。
そんなことを、最近SFばっかし読んでいる自分は思ったのだった。

とはいいながら、冒頭、無人で薄暗い船内で、システムだけが目覚め、
ディスプレイをちらつかせ、そして乗組員をゆっくりと起こしにかかる、
このシークエンスはまさにレムの「砂漠の惑星」を思わせる。
おお、小説もなかなかやるじゃないですか。

しかしな~人間て無力だよなあいざとなると。
弱いし。
リプリーはなんとかとっさの知恵を絞って助かるわけだけど、
爆破装置のオン/オフでばたばたしたり、猫を助けに行ったり、
頭よすぎたり、運が良すぎたりしないあたふた加減がいい感じだった。
まあ結局はとっさの判断力があって、かつすごくラッキーなわけだけど・・・

でも彼女は、続編でまたあいつに出会うわけで、そう考えると
ひとりの人間の運命として総体ではかなりアンラッキーかな。

というわけで、さすが第1作の貫禄を味わった次第で・・

**

そうそう、スタニスラフ・レム「砂漠の惑星」復刊ですね。
皆さん買いましょう。(ここで^^;)
砂漠の惑星

早川書房

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サミュエル・R・ディレイニー「ノヴァ」

2006-06-09 00:26:26 | book
ノヴァ

早川書房

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ディレイ二ー67年の長編「ノヴァ」
これはSFというより、なんというかファンタジーぽい。
というか、あまり読んだことがないスペースオペラ的というべきなのかもしれない。
(読んだことがないのでよくわからないのだが)

筋立ては実に単純
どんでん返しもなければ、クライマックスもあるといえばあるかなというくらい。

しかし、どうやらこの小説は、数限りないシンボルがちりばめられた、暗喩に満ちたものらしい。
とくに古代のヨーロッパに根ざす聖杯伝説からのメタファーに貫かれているそうな。
・・でも、聖杯伝説もアーサー王も円卓の騎士も、あまりなじみのないわたしには、どうもそれだけでは楽しくないのだよ。
むしろ、登場人物をめぐる性的なほのめかし、近親相姦的愛情あり、同性愛的交友ありのほうが、話としてはピンと来る。
ああ、なんというか、日本の片隅で無学に育ってしまった者には、心底楽しめない小説なような気がするのでした。

でも、登場人物のひとりが、どうやらこの小説の執筆者なんじゃないか、という設定はおもしろかったな。
作中で、「俺は小説を書きたい」といって、宇宙を巡りながら、小説のアイディアをレコーダーに吹き込んで歩く。
その独白はこの小説自体の構想を表現したものと考えることができる。
つまり、著者による注釈が物語のなかに織り込まれているわけですね。

そのくせ最後のページで、「おれは小説が書けない気がする」とか言い出して、う~ん、この小説自体がそいつの書いたものかそうでないのかすら、はっきりしなくなる。

こういう変な構造は好きだな。これを60年代のSFという分野でやったのはすごいことなのかもしれない。

著者の構想が差し挟まれるというのは、同じくディレイニーの、これまた同じく67年の長編「アインシュタイン交点」とも共通する特徴で、そっちでは、もっと明確に著者の日記として挟まれている。
そういう観点で整理してみると、両者の共通点がちゃんと見えてくるかもしれない。

でも再読するかなあ??
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ぷちODでへろへろ

2006-06-07 20:23:55 | ウツ記
昨夜のこと

妻は出張で不在。
仕事が終わった時点でへろへろだったが、さらに夕食の準備をして、
洗濯もして、へえろへえろに・・・

で、食後のパキシルを飲もうとおもむろにくすりを取り出し、
無意識的にごっくん、ぐびぐび。

と、あれれ、これパキシルじゃない・・・
しまった~昼のむアモキサンじゃないですかこれ・・・
ああ、規定の倍飲んでしまった・・・・・どーなる?私?

で、今朝、起きるには起きたが、体の芯がずし~~~んと重く・・・
立ち上がるとくらくら世界が舞う・・
くらくら~ふらふら~~~

し・仕事・行きたくね~~~
しかし、今日は午後から重要な会議があったんだあ

しかたなく午後から出社に。
這うように出勤し、さらに電車で出張、3時間近く、打ち合わせと施設案内をした。
もう死ぬかと思った。

こんなちょびっとのクスリ増量でこんなになっちまうなんて、
いや~たいしたクスリだわ(違うか)
3倍量だったら選択の余地なくダウン・・・
本気のODだったらどんなことになるのかな・・・?

しかし疲れた一日だった。

**

関係ないけれど、キーボード奏者+ソウルシンガー?の
ビリー・プレストンが逝去
ご冥福を・・・
コメント (4)
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スティーヴン・スピルバーグ「マイノリティ・リポート」

2006-06-06 06:24:39 | cinema
マイノリティ・リポート (2枚組 プレミアム)

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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2002アメリカ
監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:フィリップ・K・ディック
特撮:ILM
出演:トム・クルーズ、コリン・ファレル、サマンサ・モートン、マックス・フォン・シドー


期待しないでみたせいか、大変面白かった。

冒頭、プレコグの見る未来の映像の悪夢感にぐぐっと引き込まれる。
いきなりこれはさすがドリームワークスの仕事だと感心する。
で、続いて登場する犯罪防止システムのCM画像に、またにやりとさせられる。
いや、これ、ディックっぽいぞ~!

そうそう、思った以上にディックの世界感がでていたのには満足。
3人のプレコグが浸かっている水槽はあまりにも神懸かり的で違う感じだけど、
街中の広告が、通る人の網膜をスキャンして、個人名で語りかけてくるところとか、
随所で網膜スキャンが行われていて徹底的な管理が施される悪夢的社会像はディックらしいところ。
捜査で網膜スキャンを行うスパイダーなんていう小道具は、これまたディックらしいガジェット。

瞳/眼へのこだわりも面白い。
網膜スキャン自体が瞳にまつわることだし、追っ手を逃れるためにアンダートンが行うのは眼球の入れ替え。
と同時に、真実に近付くために使うのは、とっておいたアンダートンの元目玉。
目玉へのこだわりは、「ブレードランナー」にもあったので、既視感。
偶然か意図したことか・・・・?

プレコグのみる未来、アンダートンが未来に犯すであろう殺人の映像の使い方もいい。
何度もその場面をあらかじめ見せておくことで、実際にその犯行が行われる場面にむけて、
いったい本当はどうなるの??という緊迫感を高めている。
これは、最後の種明かしとなる、もう一つの犯罪についても同じ効果が用いられている。
見せて、見せて、それでいて本当のところは見えていないという手法はなかなかのものだ。

あと、プレコグの女性と逃亡するシーン。
プレコグの能力を遺憾なく発揮して、傘だの風船売りだのの偶然ぽい要素を組み合わせての逃亡劇は、
いや、さすが、お見事!って感じ。

キッドナッピングをからめているのも、物語的には冗漫かもしれないけれど、
時事問題へのアピールが得意なスピルバーグらしいところだと思う。


でも・・まてよ?
肝心のマイノリティのレポートはどうしたんだっけ?
そんなものはなかった・・とかいう扱いになってたような気が・・・
小説とはだいぶ筋立てが違っていて、面白さのツボは原作とはだいぶ違うな。

未来を予知して、犯罪が起きる前に犯罪者を逮捕するというパラドキシカルな目眩感。
完璧と見えるシステムのほころびにとらえられる閉塞感。
自ら誇りとしていたシステムの欠陥を証明するために、少数報告を探し求めるという小理屈感。
そういう、本当にディックらしいところはあっさりと切り捨てられていたのかも。

でも、ほどよいディック感がちりばめられたサスペンスで、
私は満足したです。
コメント (2)
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やばやば

2006-06-05 20:32:53 | movelog
これやばいですわたし

気をつけねば・・・・
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ミーティング?

2006-06-03 21:19:30 | movelog

白くまアリス
レコーディングしようということでミーティング

ミーティング?
すごい腹一杯食ってしまった
眠い!

どうやったらCDができるの?
ああ考えるのがめんどくさい
あ~ど~でも良くなってきた
おれってほんとに音楽したいのか?
こういう倦怠感ってよくない・・体が蝕まれる・・・

帰ってスタバしたい
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ラース・フォン・トリアー「ヨーロッパ」

2006-06-02 13:08:58 | cinema
ヨーロッパ プレミアム・エディション

紀伊國屋書店

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1991デンマーク/フランス/ドイツ/スウェーデン
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
ナレーション:マックス・フォン・シドー
出演:ジャン=マルク・バール、エディ・コンスタンティーヌ、バルバラ・スコヴァ

どうも気になって観てしまうトリアー
観る人をワナに陥れて、そこから逃れられないように仕組む、
そんな映画づくりがどうも癪にさわるんだけれど、
なぜだかドつぼ感の濃密さが私を呼ぶのです。

掟破りなのは、主人公の視線を観客の視線なのだとバラしてしまうこと。
それから、物語の運びを、マジックのような、催眠術のようなナレーションで先にバラしてしまうこと。
映画としてのリアリズムも反リアリズムも、どちらからも距離をとって、
いかにもうさん臭い時間をつくりだすこと。
このうさん臭さが独特の臭さ。

**

理想主義的な動機から、終戦直後、
よりによって戦勝国アメリカから、敗戦国ドイツに移り住む若者。
しかしそこは混沌と怨念の渦巻くあのヨーロッパ。
若者は寝台列車の乗務員の仕事を得るが、乗務する列車こそ、ドイツの縮図だった。

(「縮図」が得意な監督だなあ。)

進む列車を中心に物語は展開するが、エピソードは列車の窓の外に、幻想のように広がっている。
回想なのか幻想なのかわからないつくりになっているのが面白い。

叔父と出会い、鉄道会社への就職を世話された青年。なぜか社長一家の夕食に招待され、親交を深める。
社長の娘と恋いに落ち、結婚する。
しかし敗戦を背景に連合国と関係の深い社長には、残党ナチシンパから脅迫状が届いている。

ドイツ社会の復興への意志と連合国との癒着に挟まれ、社長は自ら・・・・
そして脅迫状を送ったのは実は・・・・・・・

こうした社会情勢のやりきれない物語が、列車の外で繰り広げられる一方、車内にはひたすら乗務を続ける当の若者。

彼はしらずしらずナチシンパに利用され、乗っている列車の爆破を強要される。
爆破をするか、それを阻止すべく密告をするか。
悩む彼にさらに窮地に追い込むように、抜き打ち昇進検査が入る。

極限の精神状態のなか、いったんは爆破をしかけながら、寸前で阻止。
しかし検査官は次々に課題を投げてくるし、乗客はクレームを付ける。
妻は組織に連れ去られ、別れを告げる。

「ヨーロッパにきてから、みんなが俺を苦しめる!」

切れた彼はとうとう・・・・・・

***

暴力的に崩壊したヨーロッパという共同体。
それに統一性を求めて同一化しようとする若者。
しかしその幻想に反して次第にほころびや矛盾を突きつけてくる共同体。
愛でさえ欺瞞や矛盾と無縁でない世界。

それを浮き彫りにしようというトリアーの意図はよくわかる。
でも、最後に(幻想)共同体をばらばらにしてすべてちゃらにしてしまうというのは、どうもよくわからない。
近作の「ドッグヴィル」にも通じるけれど、暴力に暴力で対峙してしかも一種カタルシスのようなものすら与えてしまう結末は、どうにも理解を超えている。

結末とは、どこまでも続く悪夢をとりあえず強制終了させる手段にすぎないということだろうか。
だとしたら、作り手はどこまでも救いのないビジョンを抱えて、どこまでも映画=悪夢を紡いでいく他ないのだろう。

この絶望感の独特な姿に、嫌悪と興味を抱く私なのだった。

続く
(いや続かないっす)
コメント (6)
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