カール・Th・ドライヤー コレクション 奇跡 (御言葉) [DVD]紀伊國屋書店このアイテムの詳細を見る |
奇跡(御言葉)ORDET
1954デンマーク
監督・脚本:カール・Th・ドライヤー
原作:カイ・ムンク
音楽:ポール・シアベック
出演:ヘンリク・マルベア、エミール・ハス・クリステンセン、ビアギッテ・フェザースピル、プレベン・レアドーフ・リュエ、カイ・クリスティアンセン ほか
ほとんど冒涜的ともいえるこの映画は、おどろくほどにシンプルで、無垢でむき出しの問題を提起する。これをぽんと投げ込まれたヨーロッパは、この映画のあまりの無防備さに言葉もなかったのではなかろうか、と勝手に想像する。
敬虔であるがそれぞれの宗派の優位性を信じて反目しあう農場主と仕立て屋。
優しい心を持つが信仰を持てないと自覚する農場主の長男ミッケル。
知的で包容力のある長男の嫁インガー。
神学を学んだが、自分がナザレのイエスであると妄言するようになった次男ヨハンネス。
仕立て屋の娘と恋に落ちる三男。
祖父にもヨハンネスにも等しく心をよせるインガーの幼い娘。
科学の代表たる医師。
信仰の権威たる牧師。
役者がそろっている。
もちろん信仰とはなにか?という話になるだろう。
息子と娘が結ばれることに理不尽な拒絶を示し、改心に必要ならば相手に試練が与えられることをも望んでしまう(そしてそのとおりとなる)家長たちを通じて、信仰の陥る目的矛盾に言及される。(彼らが概して紳士的であり、できれば相互に相手を尊重したいと思っているであろうことも重要である)
また、信仰を持ちながら無信仰の夫を理解し、信仰はないけれども心に神がいるというインガーのあり方、または夫ミッケルの家族の信心についていけないと思いつつも愛情と理解を失わない姿には、信仰への別の関わり方が示される。
医師はそれほど存在感は発揮しないが、現世的な自信に満ちた風貌で、さりげなく患者の回復は信仰のおかげか治療のおかげか?と問うてみせる。
そしてそのなかにヨハンネスと幼い娘は、まったく素朴な疑問を持って飛び込んでくる。
神の子イエスを信じるのに、神の子ヨハンネスを信じないのはなぜか。
キリストの復活を信じるのにインガーのよみがえりは信じないのか。
こうして幾重にも信仰を巡る人のあり方の諸相が織り込まれ、信仰の諸問題が相対化される。
最後には最もありえそうにないこと、しかし皆が信じていることで映画は幕を下ろす。それは一見素朴で純真な信仰の勝利のようにも見えるのだが、おそらくはそうではないだろう。聖性の顕現たる奇跡はしかし実際に起きてしまうならばその聖性を失うはずだからだ。信仰に非現実的なものが組み込まれるのは、信仰の根底にある聖性を維持するためであるならば、この結末は信仰の相対化の極めつけの瞬間であって、ほとんど決別の身振りと言ってよく、しかもそれは信仰の伝えるところから素朴に導かれたことの成就によるものである点で、信仰の内部崩壊といえるからである。
と断定的に扇情的に書いてみたがどうだろう。
映画中に、ヨハンネスの変調のきっかけはキェルケゴールを読んだこと、との台詞があるのもあってそう思うのだが、「信仰後」の実存を生きざるを得ない時代のはじまりを描いた寓話なのではないかと思ったのである。
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戯曲に基づく脚本によるもの。
室内を中心にした演劇的な所作が中心であるが、カメラワークはかなり計算され、パンを多用した動きのある映像になっている。
屋外の映像も効果的にはさまれる。ヨハンネスがさまよい出る丘を登る人の姿が繰り返し同アングルで現れることなど印象的。
ヨハンネスの恍惚感が丘での発話シーンで強く印象付けられるのも。
屋内では壁にかけられた肖像画が背景になることが多く、家の伝統や過去の重みというものを想像させる。
ひんぱんに出る家主がふかす大きなパイプ、コーヒーセット、など。
陣痛シーンや葬儀場面でのシンメトリー構図は、おそらくいろいろなところにその反映を見ることができるのだろう。(ワタシのアタマにすぐさま浮かんだのはグリーナウェイ「ZOO」)
この構図が説話的なクライマックスに置かれている点も計算を感じる。
やたらと人が扉を出入りすることも気になるし。
あと長男夫婦がラブラブなことも。
(彼らのキスはもはや現代的なカップルのそれだが、それを農場主の敬虔な精神と対比すると世代間に100年くらいの差があるように感じる。そういう歴史劇だと思ってみるのもいいかも?)
ヨハンネスが残す置手紙が、彼のサインであるとともに文言がヨハネ福音書からの引用であることを示している、という技がかっこいい。(というか、ヨハンネスの教養を感じさせるところなのだろうけど)
あと、音楽がいいねえ。
2010.7.24 DVDで鑑賞
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