Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ヒア&ゼア・こことよそ」ゴダール+ミエヴィル

2007-06-30 17:50:54 | cinema
ヒア&ゼア・こことよそ〈期間限定〉

ハピネット

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ici et ailleurs
1974フランス(74、76説あり)
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィル
編集:アンヌ=マリー・ミエヴィル



とても刺激的でした。
二度観た。


ゴダールは1970年の2月から6月に、パレスチナ革命中央委員会の依頼を受け(というよりなかばゴダールとゴランのジガ・ヴェルトフ集団側から熱心にはたらきかけた企画だったようであるが)ヨルダン・レバノン・パレスチナに赴き、パレスチナ解放戦線の集会、フェダイーンの訓練、密談、教育などの様子をカメラに納める。
そのフィルムは「パレスチナ解放運動の思想と実践の方法」のフィルムとして、「勝利まで」というタイトルのジガ・ヴェルトフ集団名義の作品に結実するはずだった。

が、様々な理由でフィルムは放置される。
撮影直後の70年9月、ヨルダンのフセイン国王は全土に戒厳令を敷きPLOに宣戦布告し(「黒い9月」)、これにともなう内戦で、フィルムの出演者の大半も殺害されてしまう。
72年には有名なミュンヘン事件が起こる。
一方で71年にはゴダール自身が、バイク事故で負傷し2年にわたる治療に入る。また同年にクランクインした「万事快調」が72年に公開されるが不評に終わり、ゴランとの共同作業であったジガ・ヴェルトフ集団も関係を解消する。

フィルムが日の目を見るのは74年のことである。フィルムは、ゴダールと「万事快調」でスチール写真担当だったアンヌ=マリー・ミエヴィルにより編集され74年に「こことよそ」のタイトルで発表される。
フィルムは、当初の構想とは大きく異なり、パレスチナの映像に、フランスの家族の日常、ソビエト革命、ナチス、人民戦線、強制収容所などの映像をモンタージュするとともに、フィルム自体あるいは映画という制度への批評的考察を加えた、重層的で緻密な作品となっている。

****

フィルムが放置されたこととその理由は、本作中で端的に述べられる。それは「編集のしかたがわからなかった」からである。「思想と実践」の表現とはなにか。その探求の痕跡がこの作品であるだろう。

以下思い付くままにメモる。

●ひとつは、歴史的参照の導入。
1917年の映像、ヒトラーの映像、1935年の人民戦線の映像、フルシチョフ/ブレジネフの映像。強制収容所の映像。1968年5月パリの映像。
パレスチナの映像に併置して様々な歴史的映像を召喚してみせる。
そしてそうしたパレスチナ紛争の根底にある歴史的地層への参照を、映画的に実践すること。普通に(時間的に)モンタージュする、画面を半分に仕切って併置する、TVモニターを複数並べて併置する、スライドプロジェクターを3代並べてみる、などなど。
こうした背景への言及なしにパレスチナの映像も「ここ」の映像も「正しい映像」ではありえないということなのだろう。

しかしこの歴史も偏った歴史、ヨーロッパの、どちらかというと西欧の、あるいはフランスの歴史にすぎない。どこまでも「ここ」からのパースペクティヴでしか語り得ないゴダールの立場は、不遜とも誠実ともいえるものだろう。「正しい映像」などないのだ(?)。


●また、あるシークエンスでは、映画のしくみそのものの不可能性に直面してみせる。現実が同時並行的な空間と時間であるのに対し、映画は映像を並べたとおりに順次見るほかない。空間を時間に押し込めてしまう。このことを、5つのテーマの写真をそれぞれもった5人の人物が順番にカメラの前に立ち、滑稽な身振りで入れ替わり撮影されるという、自嘲的な戯画で表す。(笑うとこ)
こんな滑稽な映画に「正しい映像」を期待してよいのか?


●終盤印象的なのは、パレスチナの映像に加えられるゴダールの解説が、ミエヴィルの声でことごとく批判されるくだり。
ゴダールの解説が状況をもっともらしく観念的に描写する声であるのに対し、ミエヴィルのそれは、映像の背景や隠された演出の存在を示すことが重要であると諭す声である。パレスチナの映像を編集する方法を見いだせなかったのは、どのような形態であれ、それが観念の物語になってしまうことに気づいていたからなのだろうか。

****

この映画は「自分の映像」「自分自身の映像」「痕跡を残す映像」の探求、その可能性と不可能性の間に生起した映画として成立している

おかげで難解といえば難解だが、映像と言葉に無心についていくと、いちいち考えさせるアイテム続出で脳味噌完全燃焼状態となり、面白い。
ゴダールの特徴である、「映画史」にみられるような文字や音声による表象の重層化は、すでにこの時点から丹念に探究されていることがわかる。


最後にミエヴィルによるなぞめいた声で唐突にこの映画は終わる「他者とは「ここ」の「よそ」」であると。結局「痕跡を残す映像」は可能だったのか?それとも我々はどこまでいっても他者である「よそ」を発見し続けるばかりなのだろうか。
(なんちってな)

***************************************

電卓で意味ありげに1917+1935とか打ってみせるシーンで、キーにタッチすると銃声が聞こえる。
くだくだと書いちゃったけれど、私は、ほんとにどこまでがまじめなのかさっぱりわからないこういうところが実は好きでゴダールを観ているような気がする。

ナチスの強制収容所の隠語で、疲弊しきったユダヤ人を「ムスリム」と呼んだという逸話は、もうすでにこのフィルムで触れられていた。
のちにいくつかの作品で繰り返しゴダールが取り上げる逸話である。
これは確かにパレスチナの今と繋がっていることかも知れない。


↓ゴダールのジガ・ヴェルトフ時代についてはこの本が面白いのだ。
映画と表象不可能性

産業図書

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量子力学が語る世界像

2007-06-28 12:09:35 | book
量子力学が語る世界像―重なり合う複数の過去と未来

講談社

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ミクロの世界のモノ、たとえば電子、は、粒子でありながら波の性質をもっている。
二つのスリットのあいた板の向こうにスクリーンを置き、こちら側から電子を照射してみる。すると、スクリーンには二つのスリットを通る波の干渉の結果できる「干渉縞」ができる。波の高いところに電子は多く到達し、逆に波の低いところにはほとんど到達しない。

ならば電子は波か?というとそうではない。ひとつひとつの電子は粒子であり、ひとつの電子はどちらかのスリットをとおってスクリーン上のある1点に到達する。
だったらすべての条件を同じにして電子を照射すると、必ず同じ点に到達してもよさそうなもんだが、ミクロの世界ではそうではない、という。

だからといって、でたらめに到達するかというとそうではなく、到達点はある法則で分布する。が、その法則は確率的にしか示せない。

スクリーン上の各点に電子が発見される確率は「波の高さの二乗」に比例する。
(ボルンの確率解釈)
→量子力学の公理
(このように計算すると実験結果とよく一致するので、アプリオリな前提とする)

ところで確率的にしか計算できない電子の位置だが、観測するとある場所に存在するのがわかる。急に粒子のようにふるまう。
この状態を波がその1点に収縮したと考える。(波束の収縮/波動関数の収縮)

確率解釈と波束の収縮を組み合わせた理論の体系は、実験結果によく一致する実用的な体系である。この体系を「コペンハーゲン解釈」とよぶ。

コペンハーゲン解釈によれば、電子は「波としての変化」と「波の収縮」を繰り返すことになる。(波としての変化はシュレディンガー方程式で表される。)
これは古典力学に変わる新しい自然の基本法則である。

1920年代にボーアを中心に成立した。

***

しかし「波の収縮」はなぜ起こるのか?観測されなかった部分はどこへ行ってしまったのか?という疑問には決定的な回答がない。
また、ミクロの世界から成り立っているマクロの世界では、なぜ古典力学が有効なのか?量子力学が自然の基本原理であるならば、宇宙すべてを量子力学的に説明できるはずではないのか?

という疑問を含めて、量子力学の根本的な意味を解明しようとする研究が続行中である。その中のひとつが「多世界解釈」。

多世界解釈では、波を無数の状態が共存したもの(すなわちある1点が突出した波が無数に重なり合っているもの)と考える。各点での波の高低は、電子がその点に存在する状態の「共存度」である。

○「共存度」がゼロならば、そこに電子がある世界は共存していない。
○「共存度」がゼロでない状態がひとつしかなければ必ずその状態が観測される。

これが多世界解釈における公理。

コペンハーゲン解釈では、観測とは共存している世界のうちからある状態を選び出す(波の収縮)。しかし多世界解釈では、観測者(観測器具や観測条件など観測者のいる世界すべて)をセットで考える。位置Aに電子がある場合と、位置Bにある場合が共存しているとすると、位置Aに電子を観測する場合は観測者が位置Aに電子がある世界に含まれている。位置Aに電子がある世界にいる観測者は当然電子を位置Aに観測する。
この考え方でいくと、「確率解釈」「波の収縮」という、コペンハーゲン解釈におけるあいまいな公理を持ちいる必要がなくなる。というか同等のことを別の観点で説明できるようになる。

これは無数のパラレルワールドという比喩で理解していいのか?

【歴史は干渉する】
二つのスリットの実験で、位置Aに電子が観測されたとすると、Aの共存度はスリット1に電子があった過去とスリット2に電子があった過去が干渉する結果定まる。位置Aに電子がある状態は少なくとも二つの過去があり、言い換えると複数の経路をたどってAにやってきたといえる。
Aの共存度を計算するには複数の過去の状態をすべて含める必要があり、ファインマンの経路積分法がその方法である。

【人間に複数の歴史があるのか?】
電子を人間に、二つのスリットを二つのドアに、置き換えてみよう。ドアの向こう側の位置Aにいる人間は、ドア1、ドア2を通った二つの歴史を持っている?
・・・違うらしい。
人間のいるマクロ世界では同じ位置Aにいるように見えても、ドア1を通ってAにいる状態と、ドア2を通ってAにいる状態とでは、ミクロのレベルで見るとまったく異なった状態なのだ。
つまり二つの歴史は干渉しあわない。まったく無関係。別世界。

○多世界解釈による回答=共存しているが干渉しない

う~ん、でも共存しているんだ・・・


(疲れたのでこのへんで続く)



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健康相談でしたよ

2007-06-27 04:55:41 | ウツ記
昨日は職場の健康管理室?の面談でした。

ここ数日なんとか、朝起きて夜寝る、という生活ができているので、
(といいながらブログのアップが変な時間ですが^^;)
主治医からは
●疑似出勤というか、朝出勤する時刻に家を出て図書館とかに行ってみる。
●外出時間を徐々に長くしてみて様子を見る
と言われていることを話す。

産業医+相談員さん+職場の課長からも、段階的に復帰に向けて、焦らず訓練しましょうと言う話をいただく。
予定では7月18日が職場復帰の日。
あと3週間くらいなんだけど、ちょっと微妙な期間だなあ。

1週間+数日で外出訓練をしてみて、また診察日。
その時点でものすごく調子がよければ復帰はできるかもしれないが、
一進一退だと、残りの1週間+数日で急に上向くことはないもんね。

ま、とりあえず次の診察までのことを考えよ。

***

で、久々に職場に顔を出したらやっぱり疲れたわ。
職場のパソコンを2ヶ月ぶりに立ち上げてみると、ウイルスパターンファイルは古いし、いきなりなにかのインストールが始まるし、蜘蛛の巣状態。
メールボックスをきれいにして、そうそうに職場を引き上げる。

帰り道、新宿の某巨大書店で本を探すが無く。
スタバで小一時間本を読み、パンとうまそうなハムを買って帰る。

家につくとAちゃんが布団にくるまっている。テスト期間なのにこれは風邪か?!
頭が痛いというので、小児用頭痛薬を買いにでかける。
ついでに野菜ジュースとヨーグルトを買う。

***

あ、そうそう!
ビリーズブートキャンプ!導入しました。
というかもう1週間経ったんだけど。

ものすごい汗かくので効果抜群?と思いきや、計測結果にほとんど変化なし^^;
よっぽど体重が減りにくい体質になっちゃったらしいです、私。

くやしいからもう1サイクルやるぞ~
しかもビリーバンドフル装備で!

Billy's Boot Camp



↓Now reading(けっこう面白いっす!)
ゴダール伝

みすず書房

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「青春残酷物語」大島渚

2007-06-26 05:53:33 | cinema
青春残酷物語

松竹

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1960日本
監督・脚本:大島渚
出演:桑野みゆき、川津祐介、久我美子、渡辺文雄


う~ん
観ているうちに、ちゃんと今の、現在の、映画もちゃんと観なければいけないなという焦燥感をおぼえてしまった。

この映画が古いということではなく、生のダイナミズムをリアルタイムでとらえようとする試みであったという点で常に新しいといえて、それならば観る側もそういう試みの系譜にはちゃんとリアルタイムで付いてゆくことが、意味のあることなのだろうと思ったわけで。

そういう映画は口を開けて待っているだけでは入ってこない。自分から触手を伸ばさないとダメ。宇宙戦争byスピルバーグの火星人みたいに。

****

マコトは自分でもわからない衝動から、行きずりのオジサンに声をかけ車に乗せてもらったりするもやもやとした少女。案の定オジさんにホテルに連れ込まれそうになって一悶着。そこへ登場したキヨシ。オジサンをぶんなぐりマコトを助ける。オジさんは金を出して勘弁してもらおうとするが、キヨシは「ふざけるな!」と金を払い落とす。

と、ここまでは非常に清純なのである。が、

翌日二人は渋谷で落ち会い、安保反対デモを眺めてデート。なかば強引にマコトをものにしてしまうキヨシ。二人は急速に引かれ合う。
キヨシのぼろアパートにころがりこむマコト。ふたりは出会った時のオジサンの件を意識的にやる、つまりオジさん狩りをして金を稼いでは憂さを晴らす。オジさんをひっかけては殴る蹴る。バイクに二人乗りで突っ走る。いい気なもんだ。

が、そうこうするうちにいろいろと暗いことも起きるわけで、二人の間には次第々々に閉塞感が濃縮されてゆくのだ。

そして・・・

****

マコトのような生き方。
欲望を解放してやりたいように生きる。
そういう生き方をする若者の生をつきつめると、それは必然的に反社会的な存在になってゆく。
若さとはけして平穏や快楽ではなく、怒りである。怒りはいろいろな形となって生に傷を残す。

1960年の十代の傷がこれだ。

目的がなく、刹那の感情にゆられ、大勢に取り込まれることを嫌い、一皮剥けば暴力の衝動がむき出しになる。上の世代とは違うんだ、自分は自分の思うように生きる、自分を殺すようなことはしないといいながら、その行動は自暴自棄に見える。愛情を知らず、連帯を知らず、孤独。
そういう空気をよくとらえていると思う。

マコトの姉と父を登場させることで、マコトの生きる空気が自然に際立っている。うまい構成だ。
姉が若いころは、自分を押さえて社会運動に参画することで世の中を変える、そういうスタイルに怒りを塗りこめた青春だった。マコトの自分を殺さない自由な行動に羨望と畏怖を感じる姉。彼女は「日本の夜と霧」の登場人物の世代なのだ。
父もまた、戦後の価値観の急速な変化を体現する人物。新しい民主主義の理想に生きるが、すでにそれはマコトの世代では幻想にすぎないことを知っており、マコトを導くに足る指標を提示することが出来ないでいる。

そして迎えるラスト。
う~む、映画としてはあの終わりしかないだろうとは思うが・・・

マコトやキヨシのような空気を生きて、それでもなんとか折り合いを付けて生き残ってしまった人間の方が大多数なわけで、私的には、彼等がどのように自分を曲げざるを得なくなったか、どうやって不様に生き残ったかという地味~なテーマのほうが興味があるカモ知れない。

***

予告編で「日本のヌーヴェルヴァーグ!」と銘打っていた。
ヌーヴェルヴァーグの呼称は57年フランスが発祥といわれているが、シャブロルやトリュフォー、ゴダールの代表作が話題を呼ぶのは59年頃。
すでに日本でヌーヴェルヴァーグという言葉が集客に寄与するものとなっていたわけで、ヌーヴェルヴァーグがすごいのか、日本の映画の観客の嗅覚がすごいのか、よくわからんけど、同時発生的ムーヴメントの躍動感にちょっとおどろく。

とはいえ、ゴダールやトリュフォーの初期作品とくらべると、これをヌーヴェルヴァーグといってしまっていいのか?と思わなくもない。
話の運び方も、演技の仕方も、編集の仕方も、カット割りも、かなり古典的な手法の範疇に止まっているし。厳粛に物語と心理の語りに徹したつくりだったと思う。強いていうなら実際のデモ隊をとらえたという点でシネマヴェリテ的なのかも知れないが・・

どちらかというと実相寺の60年代作品のほうがよっぽどヌーヴェルヴァーグ・・というか私の好みだなあ。

***

でもまあ、
冒頭に俯瞰でマコトがアップアップするところをとらえる視点とか
病院でリンゴをかじるキヨシの照明をおさえたアップとか
バイクで蛇行する夜の道とか
ところどころハッとするシーンもなくはなく。

しかし大島渚、60年に「太陽の墓場」「日本の夜と霧」「青春残酷物語」の3作品を撮っている。早撮りなのかマルチタスクなのか。


好き度:


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ペンローズ・量子力学・ウェブ進化論・映画史・山田宏一

2007-06-24 01:23:51 | book
最近読んだ本について。

ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて

筑摩書房

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もちろんグレッグ・イーガンからの流れで手に取った本。
人間の意識は量子的プロセスなのではないかという(というとすごい語弊があるんだろうけど)考え方は非常に刺激的で、ようするにわくわくするのです。

で、その考えの急先鋒にペンローズという人がいるわけだけど、この本、肝心のペンローズによる論文部分はさっぱりわからん。チンプンカンプン。まいった。
本書は訳者による解説、ペンローズへのインタビュー、他人の論文などからなる寄せ集め構成なので、解説の部分をとりあえず楽しむ。



ペンローズはアルゴリズムの集積で意識や精神活動を完全にシミュレートできる、という「強い人工知能」派に対して否定的である。この考え方に対してはゲーデルの不確定性定理に基づいた論理的な批判が展開される。
ゲーデルの証明したことは、数学理論においては真だけれど証明不可能な命題が存在するということであり、これは計算不可能性といいかえてもよく、要は世の中にはコンピュータでも計算できないことがあるということなのだ。

ところが人間の意識は、真だけれど証明できない命題を「真である」と知ることができる。意識は計算の積み重ね以上のこと、非計算的プロセスに関わっているのである。
ペンローズがいうには、ゲーデルが証明したことは「私たちは常に新しいタイプの理屈を探し続けなければならず、ある一定の固定したルールの集合に頼ることはできない」ということなのだ、とか。

じゃあ意識は非物質的プロセスなのか?というとペンローズはそうは考えない。意識もあくまで自然科学的プロセスであり物質的基礎をもち、数学的に記述可能なものなのだと考える。(決定論的)

となると意識はどういうプロセスなのか?ペンローズはそこに量子力学が関わっていると考える。

○意識は非計算的プロセスである
○量子力学の波動関数の収縮のプロセスには計算不可能なプロセスが含まれている可能性があり、現在非計算的プロセスを含む理論は量子力学オンリー。
○ならば計算不可能なプロセスが関わる意識には量子力学が関わっていなければならない。(決定論的かつ非計算的)

ということらしい。

ということのほかにも、意識には量子的振る舞いを示す特質があって、たとえば非局所性。脳においてはその活動は非局所的、つまり部分が機能しているのではなく、全体で総体のプロセスを処理しているようなところがある。らしい。脳の一部が損なわれて機能不全に陥っても、しばらく訓練すると脳の他の部位が損なわれた部位の機能を肩代わりするようになる、という話を聞いたことがあるな。
CDの記録面もそういう構造であるらしく、面の一部に傷がついても全体として再生が可能だったりするのはそういう非局所的記録方法だからだそうです。

話がそれたが、じゃあ脳ではなにがおきているのか?超ミクロの世界での量子力学的現象が脳細胞というマクロな世界のプロセスにどう関わっているのか?
ということについては、突如具体的に、細胞内のマイクロチューブルという組織が量子的プロセスを司っている可能性がある、と言う話なのだ。
で、そのことについての論文が収録されているのだがチンプン。

ペンローズは物理学者なので、こういう生物学的なことに口を出したことで非常に旗色が悪いらしい。
ニューロンの活動はあくまでマクロなレベルのプロセスなのだから古典物理学レベルですべて記述可能である、という根本的な反論もある。

ただ、ペンローズ自身も量子力学によって意識が完全に説明できると考えているようではないようだ。量子力学自体がいまだ不完全な理論であるという認識にある。なにしろ波動関数の収縮自体が、ひとつの前提にすぎないわけだから。
意識が解明されるには、相対性理論や量子力学の発生と同様な根底的なパラダイム変換を待たないといけないだろう、ということらしい。




ニュートン力学を最初に理解した人は誰か?というなぞなぞがあるそうだ。答えはアインシュタイン。彼の業績はニュートン力学の限界を明確にしたということでもあり、理論の限界をはじめてすみずみまで理解した人こそ、その理論を最初に理解したということになる。

量子力学についてはいまだその限界をすべて明確にした人はいない。私たちは量子力学を超えて、それを含む新しい包括的理論体系を手に入れて初めて量子力学をすべて理解したといえる。

それは超ひも理論かもしれないし、ペンローズのツイスターかもしれないし、全然別のものかもしれない。万物理論の登場はいつだろう。(その発見のニュースを生きているうちに聞きたいもんだ。)


☆理系の人へ:この文章を読んでも笑わないこと。
 ど文系の頭脳ではここまでが精一杯なんですから・・☆

***

ありゃりゃ。
読んだ本をいくつかレビューしようと思ったら1冊でこんなに長くなってしもた。
(というわけで続く)

そうそう
この本で
●2回転しないと元の状態にもどらないという「スピノール」の性質について体感的に実験できた。
●「対角線論法」というのを知った。これで「自然数より実数の方が数が多い」ことを証明できるそうな。

そいから、私の苦手なソダーバーグ監督作品に「ペンローズの悩み」というのがあるそうですが、↑のペンローズとは全然関係ないみたいです・・・


↓次回予告
量子力学が語る世界像―重なり合う複数の過去と未来

講談社

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ペンローズの本(すげ~難しそう)
皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

みすず書房

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心の影〈1〉意識をめぐる未知の科学を探る

みすず書房

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心の影〈2〉意識をめぐる未知の科学を探る

みすず書房

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心は量子で語れるか―21世紀物理の進むべき道をさぐる

講談社

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わくわく度:


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二件採取

2007-06-22 00:20:22 | ひこうき雲



いきのいいひこうき雲がとれました。
この季節にはめずらしい空の色です。

とってすぐに消えてしまいましたが。



ちょっとした実験↓




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「小さな兵隊」ジャン=リュック・ゴダール

2007-06-20 01:29:45 | cinema
小さな兵隊 デジタル・リマスター版

ハピネット・ピクチャーズ

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LE PETIT SOLDAT
1960フランス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:モーリス・ルルー
出演:アンナ・カリーナ、ミシェル・シュボール、アンリ=ジャック・ユエ


ゴダール長編2作目は、タッチとしてはロッセリーニやファスビンダーに近いシリアス感のある、地味な、でもある面のゴダールらしさをたっぷり持った作品でした。

***

舞台はジュネーヴ。
フランスの諜報組織に属する男ブリュノは、友人に紹介されたロシア娘ヴェロニカに恋をする。
ブリュノは組織から敵組織FLNのスイス人の暗殺を命じられる。一度は拒絶するが弱みを握られ銃撃を試みる。しかしうまくいかず。尾行中にFLNに目を付けられ拉致されてしまう。
ブリュノとヴェロニカの運命やいかに・・・??

***

端々に差し挟まれるおびただしい引用はすでにゴダールそのもの。小説や詩、絵画などなど。アンナ・カリーナがふと手にする書物が毛沢東のものだったりするところもゴダール印。

「情報戦は思想を血へと駆り立てる」とか「写真が真実なら映画は1秒間に24回の真実だ」とかそれらしい命題がどばーっと並べ立てられるのもゴダール印。
でも後に、たとえば「正しい映像があるのではない。ただ複数の映像があるのだ。」とかいうようなことを言っているので、この作品の段階ではゴダール命題もまだ初々しいということか。

列車移動での客席で向かい合って座る男女の間に窓の風景、とか、車が生き物のように走り回る姿とか、ジュネーヴの港を車からさーっと流して撮るところなど、これまたゴダール的快楽もすでにみられる。

時事問題への接近とそれに愛の物語を併置するスタイルなどもやはりゴダール的。

ゴダールは最初からゴダールだったのだ。
「勝手にしやがれ」が表ゴダールの始まりとすると「小さな兵隊」は裏ゴダールの始まりか。後に文字どおり表裏一体になってゆく作品群の始まりを観た思いでありました。

***

拷問シーンの妙なリアルさは「無防備都市」に通じる冷徹さで、他のゴダール作品にはあまりみられないタッチかもしれない。
拷問の手口はどこで学んだのか?やはり映画からだろうか?
手口の一つは後に「気狂いピエロ」でも繰り返される。

拷問に際したときの心理を珍しく生々しく描いている。来るべき苦痛への恐怖。自分はそれに耐えられるか。何に対して忠誠心を持つのか。口を割るのと死ぬのはどちらが楽か。
このシーンが戦争批判であるという理由で公開が3年遅れたということである。アルジェリア紛争のさなかのフランス。

銃撃の失敗をいきなりラウ-ル・クタールの口癖の引用で説明するところなんかは笑えるが、カメラで狙うことと銃で狙うことのアナロジーを意識的に喚起しているのかなと思うとちょっと深い。(というかありきたりかな?)



アンナ・カリーナは、後の他の作品に比べるとまだその魅力を解き放っていないが、ときおり見せるちょっとした表情にその萌芽がみられてきゅんとなる。
ヴェロニカに恋をしたブリュノはそのまんまゴダール自身の姿なんじゃないか?と邪推する。
が、まだ後の彼女の輝きはここでは想像できない。


好き度:

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「SUPER 8」エミール・クストリッツァ

2007-06-19 02:08:31 | cinema
SUPER 8〈初回限定パッケージ仕様〉

ジェネオン エンタテインメント

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2001イタリア/ドイツ
監督:エミール・クストリッツァ
出演:ノー・スモーキング・オーケストラ、エミール・クストリッツァ、ジョー・ストラマー


滅法面白かったす!

ちょっと「ブエナビスタソシアルクラブ」なんかを思い出したけど(全然違うけどね)あんな上品じゃない。
もっともっと猥雑でパワフルで繊細でたくましい。
クストリッツァのあのパワーの源ってこれだったのね!と妙に納得だわ。

クストリッツァがギターで参加しているNo Smorking Orchestraというバンドのライブツアー映像を中心に、8mmっぽいホームムービー、車で移動するバンドのメンバーインタビュー、メンバーがひとりひとり怪しげにポーズを決めて大判の写真を撮影するシーン、列車内で大騒ぎをしながらの移動、楽器を練習する姿、などなど、バンドのいろいろな姿を縦横無尽にコラージュした作品。

いっときもじっとしてないというか、こいつら常にはしゃいでいて冗談や小突き合いが止まらない。
やっている曲も、様々な音楽の影響をうけた、ダイナミックミクスチャーロックという感じでいかがわしいこと。編成からしてごった煮だ。
(ドラム、パーカッション、ベース、ギター2、サックス、バイオリン、キーボード、チューバ、アコーディオン、ヴォーカル)

なんだい?この旧ユーゴオヤジたちは!

年をとろうが、祖国が壊滅しようが、おかまいなしに脈々と情念の膨張するアイデンティティを引き受けつづけ疾走するオヤジたち。
すげえ!
かっこいいとかかっこわるいとかの次元じゃない。
実はこういう存在が世界をころがしているんだ。(と思いたい)

途中ジョー・ストラマーが出てくる。彼は言う。
「イギリスなんてみんな同じだ。ギター、ドラム、ベース、みんな同じ。
とてもかなわない。こういう音楽が必要なんだ。過去と未来を繋ぐ音楽だ
(だいたいこんな感じの発言ってことで)
いやそのとおり。いいこというね。


****【ちょっとネタバレ!!!!!】*****


で、映画としても面白い仕上がりだと思うんだ。
ホームムービーで子供の頃の荒い映像なんかをうまく差し挟んで。
雪の中遊ぶ子供たちとか、関係ないけどなんかぐっと来るシーンをバンドの演奏にぶつけてみたり、と思うといきなり車内でインタビューを受けるメンバーが音楽観や遍歴を語ってみたり、イメージが重層的で、みんなが入れ替わり主役になる。
もちろん表立ってドラマなんかないんだけどね。
でもドラマチック。

ベーシストいきなり肩脱臼して引っ込んじゃうし(笑)

ラスト近くの「ウンザウンザタイム」のプロモも大笑い。すごい飛ばしてる~
列車の移動はこのプロモ撮影のシーンだったのね。トンネル通る度に人が消えてくからって次のトンネルが近付いたら列車の後ろの方へ逃げまどうって、そりゃすごく無力だよ~笑える~

ラストシーンもしびれたね。
あのひん曲がった橋をなんでもないようにふわーっと映して、船に揺られてアコーディオンを奏でる。
「人生悪くないもんだと自分に言い聞かせるために。」
すごいよな。あの橋をバックにそんなこと言えるんだから。

***

しかしな~「ちょいワル」とか「オヤジバンドブーム」なんていっている日本のオヤジたちは、なんつ~かちいせえよな。ちまちましちゃってね。
くやしかったらクストリッツァを見ろ!ってな。(>自分もね)

しかしこんなパワフルな音楽やって、あんなパワフルな映画を作っちゃう奴って、どう言うヤツだ??あまり友だちにはなりたくないかもしれん(笑)

「アンダーグラウンド」でブラスでやっていた曲もバンドアレンジで登場する。
もりあがる~

ドラマーはクストリッツァの息子!!親子バンドだ!
子供の頃おもちゃドラムセットを叩くフィルムはあれはやっぱりクストリッツァ家のホームムービー?


↓CDも買いだっ!!
ウンザ・ウンザ・タイム

ユニバーサル インターナショナル

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「日本の夜と霧」大島渚

2007-06-17 21:14:56 | cinema
日本の夜と霧

松竹

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1960日本
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
出演:桑野みゆき、津川雅彦、小山明子、渡辺文雄、芥川比呂志

同年の「太陽の墓場」とはうってかわって、室内的、演劇的な肌触り。
東京での最大の騒乱の一つであったろう60年安保闘争をほぼリアルタイムで、しかし「映像の記録性」などには背を向けるように、実際の映像などは一切挟まず、あくまで芝居的に芝居的に突き進む。

60年の学生はほんとにこんな言葉をしゃべっていたのだろうか。驚異的にブッキッシュな言葉が次から次へと登場人物の口からほとばしる。スクリーン(というか画面)にまず立ちはだかるのは、どんな映像でもなく、まずこの言葉たちがかもし出す総体としての言説の大きな壁だ。

大島+石堂が狙ったのはこれなのか?

60年のヴィヴィッドな部分を支配していたフーコー的意味での言説を固まりとして、映画的にあらわにすること。
だとしたらこの映画はものすごく先を走っている。(というのは穿ち過ぎ?)

**

もっとも自然に観るならば、60年にいたるマルクス主義的闘争の現場を、「党」や「執行部」や「ソ連」の方針転換にあっさりと翻弄され、武力闘争がある日突如融和的闘争へと、銃からフォークダンスへと変わってしまう現場を批判的に振り返り、それぞれの立場の人間を結婚披露パーティーを舞台にぶつけてみるという群像劇なのだと。

そしてそこで機能していた過剰なまでの言葉には、力強さの裏に虚を秘めていたのだと告発すること。(エンディングの言葉の洪水フェードアウトが象徴的)

それはそれで時代の持っていたダイナミズムを色濃く残して面白い。
それが言葉で言説を形成する時代だったとすれば、今はその時代を過ぎ、言説は無形で奥に潜み無自覚だということだろうか。

***

披露宴での激論を驚異の長回しノーカットで撮りきるのは迫力・・と言うか・・・セリフをとちらないようにしないと!という俳優たちの緊張が画面からにじんでぬっとり滴り落ちるようである。
その緊張の甲斐なくセリフがカミカミなのも(笑)なんだかかえってリアルだったりして。

あとボーナストラックの予告編は、実に大げさ~。時代がかっていて、さも世紀の大傑作という売り文句。予告編にみる言説の推移なんていうテーマで研究してみるのも面白かろうな、などと思うのでありました。


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「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」トミー・リー・ジョーンズ

2007-06-16 17:32:24 | cinema
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 スペシャル・エディション

角川エンタテインメント

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2005アメリカ/フランス
監督:トミー・リー・ジョーンズ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
音楽:マルコ・ベルトラミ
出演:トミー・リー・ジョーンズ、バリー・ペッパー、ジャニュアリー・ジョーンズ、フリオ・セサール・セディージョ、レヴォン・ヘルム


解決を避ける映画。そのことによって目に見えないなにかを大事に描こうとする、

表現には生硬なところがたくさんあって、たとえばもっともっと風景は魅力的につかえるはずだとか、空の色が貧弱すぎるとか、近付いてくる車に無駄に光が反射している無頓着とかそういうものが気にはなるけれど、そういうことを多めに見てしまうと結構面白かったと思う。

****

一つは年嵩のアメリカカウボーイと不法入国・就労者であるメキシコ人メルキアデスとの静かな友情の物語。
もう一つは、内面的に堕落した若者の犯した罪と、贖罪への受難の物語。

主軸はこれなんだけど、これに、本当の愛を知らないことを知った(多分)若い妻の再出発とか、老年夫婦の愛の冷めつつもそうそうはほぐれない絆とか、田舎の女の生き方とか、保安官のモラルのかけらもない心根とか、国境を命がけで越えるメキシコ人の生活とか、いろいろとからんでいる。

それぞれに深く突っ込むことがないので、表面的といえばそうなんだけど、この映画の場合、描かないことでむしろ見る人に想像する余地を与えていて豊かになる。そのことに成功している。
狙ってやったのかどうかは測りかねるところはあるにしても。

メルキアデスの故郷を求める旅も、結局はゴールを探り当てる物語ではなくて、友情と贖罪のそれぞれ儀式としての物語になってゆく。メルキアデスの言っていた村も家族も存在したのかどうかわからない。けれど、そうしたゴールに至らなくとも儀式は成立して、生きている人間はそれぞれに何事かを達成する。そういうところにひとつ屈折があって、そのために、この話は観る者がふと自分に引き付けて感じ取ってしまうような力をもっているのだと思う。

***

前半は時系列が入り組んでいることもあってややだれ気味だけれど、途中メキシコへの珍道中以降ぐっと引き込んでくる。
道中は横暴な主人と哀れな使用人の様相でコミカルですらあり、それがへんな重さを引きずらない全体のトーンをキメテいるのだろう。

メルキアデスが液晶TVの画面に憑かれたように見入るのが印象的。
彼はそこになにをみたのか?これも謎。

倒壊寸前のメキシコ酒場で聴くショパンは味わいをとおりこしてグロテスクな果実を味わうようなアブナイ魅力がありました。

メキシコの薬草遣いが鼻を折られたあの女性ってのも笑える。
しかえしくらって同じく鼻を折られた男とならんでトウモロコシを剥くのは笑ったな。

全体を埋葬の回数で章立てするのはなかなかのアイディア。
タイトルだけで惹かれますね。
脚本は「アモーレス・ペレス」「21g」「バベル」とイニャリトゥ組のギジェルモさん。バベル公開後イニャリトゥと喧嘩したってきいたけど?

あとこれは「さすらいのカウボーイ」「アメリカ家族の風景」のような、ポスト西部劇・西部劇の一つに数えてもいいのではないかと思う。

***

さて、レヴォン・ヘルム
彼を目当てに観たのです。

盲目のラジオ男を好演していました。
本筋とはあまりかかわらない、スポット的エピソードでの出演でした。
出来不出来に関わらず、彼の存在だけで胸が熱くなるのです。

叩き上げ、筋金入りのミュージシャンである彼が、うらぶれた老人役で映画出演の機会が増え、その姿をこうして観ることができる・・・それはとても不思議な気分。
それはたぶん私のセンチメンタルなんでしょうね。


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バッハ・コレギウム・ジャパン第77回定期演奏会

2007-06-14 09:26:40 | music
バッハ・コレギウム・ジャパン

定期会員になるほど金持ちではないが、年に1~2回くらいは行きたいと思うBCJライブ。
バッハのライプツィヒ時代1725年のカンタータを4つ、聴いて来ました@東京オペラシティコンサートホール2007.6.13wed。

前から2列目というポジションだったので、いつになく楽器の細やかな表情がとどいてきて面白かった。
バロックバイオリンなどの弦楽器や木管楽器の、古楽器としての音量バランスや声量がよく伝わってきて臨場感抜群。
特にティンパニの「本物の革」というぼってりした低域の響きに、遠い金管の朴訥としながらもきらびやかな「吹き」の感覚がかぶさってくると、ああ、こんなに生理に訴える音楽なのね、との実感しきり。

****

さて1曲目137番「主を讃えよ、大いなる力に満ち栄光に輝く王を」
ってまあすごいタイトルだよな。
これは面白いスタイルのカンタータで、元ネタのコラールの歌詞を加筆も削除もせず使うという制約があったらしく、なのでレチタティーヴォはなく、冒頭合唱とアリアと最終コラールだけ。アリアはアルト、バス+ソプラノ、テノールの3曲。バイオリンの技巧的オブリガードby若松夏美さんも華麗。曲調も「主を讃えよ」なので金管が活躍する派手めなものだし、これは入門編としても聴きやすいなと思う。

まあ、自分的にはもっと地味~な内的法悦みたいな曲調が好きなんだけど。


2曲目164「汝ら、キリストのものと自称する者たちよ」
これは好きめのしっとりした曲調。いきなりテノールのアリアではじまる。
聴きどころはアルトのアリア。フラウト・トラヴェルソの二重唱がいいですね~
フラウト・トラヴェルソのソロはだいたいどの曲でも魂抜かれちゃうんだけど、この日の演奏はまたBCJ二人娘という雰囲気も手伝ってほとんど眠気に誘われてしまうほどの幸福感すやすやぐ~~・・・・
テノールのレチタティーヴォでは「あなたの愛の光によって・・」というところで弦がぱぁ~~っと光の壁を作るなど、なかなか芸が細かくしかも自然で感動的。

3曲目168「申し開きをなせ!とは雷鳴のごとき言葉」
これもすごいタイトルだ。しかも内容がなんか商人向けって感じ。
神に与えられた財産を無頓着に浪費しちゃだめよ、という内容?
テノールのアリアなんかいきなり歌詞が「元金と利子~」だもんね(笑)
曲が妙に魅力的なのもミスマッチ感がおかしい。
ここでもまたレチタティーヴォで「山よ落ちかかれ!」とさけぶとオーボエが、んたたたた、んたたたた、と落ちかかるスペクタクルを味わえる。

で、4曲目「主なる神は太陽にして盾なり」
う~ん、太陽で盾。なぜ太陽と盾なのか?
これまたアルトのアリアでのフラウトトラヴェルソのオブリがいい。どこで息継ぎしてるのかまったく謎なパッセージを優雅に吹きこなすテクはビックリ。
中間にやや規模の大きいコラール楽章があり、合唱の面々が非常に表情豊かに、かつ楽しそうに歌っているのが印象的。バッハのカンタータではソリストも合唱の時はパートの一員として歌うんだけど、アルトのロビン・ブレイズさんなんか皆にまじって生き生きとしていて、いいなあこれ。
で、「主なる神・・」なので神の栄光を象徴する金管はコルノ。これまた難しそうな楽器を難しそうに吹いていて、やっぱりムズカシイのか、音が結構ひっくりかえっていた。でもこれは古楽器ではよくあることというか、金管の微妙な音程ズレなんかはそれはそれで味わいでもあるし、大概の演奏は楽器の構造からすれば驚くべき精度で音程をキメテいるわけで、むしろ吹いているということ自体名人芸?ひっくりかえったら賛辞を送ったっていいくらいだ。(というのは言い過ぎか^^;)

あとは、全体的にコンティヌオの人々はもう息が完璧にあっていて、これはすごいなと。音が溶け合っちゃって、なんだろう、ケーキのスポンジ部分って感じですかね。


というわけで、この感想からもわかるとおり、私はかなり楽器寄りな聴き方をしてるんだなあと再認識。合唱は言うことないということもあるし、座り位置の関係で合唱が楽器の人たちに隠れてしまって届きにくかったというのもあるかな。


あと、冒頭にオルガンを二曲弾いてくれたのをわすれていました。
ブクステフーデとバッハ。会場がでかいのでオルガンはやっぱり音が濁りがちで、声部がはっきり聞き分けられないとついていけなくなっちゃう自分としては、もうちょっと小さいとこで聴きたいなという感想。

****

BCJのバッハカンタータを聴きはじめて10年くらいが経った(!)
で、最初は、完璧だあ!と思っていたこのグループだけれど、最近ちょっと、テンポの速い楽章が一本調子ぎみだなあ・・という感想を持ちはじめている。
なんというか、疾走感一本槍!!という感じで。もうちょっとテンポを抑えるかして、速いパッセージもしっかり聴かせるような演奏があってもいいかなあ・・・などと思う。
特にライプツィヒ時代なんかは、曲のスタイルが固まってきて似たような曲が多くなっているので、ますます曲の色合いが単調な気がしちゃうんだけど。

どうかなあ?


うわ、すごく長くなっちまったぜ!!

J・S・バッハ:カンタータ全集 第1巻
鈴木雅明(指揮)バッハ・コレギウム・ジャパン, コンチェルト・パラティーノ, 寺門 亮(コンサートマスター)


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J.S. バッハ:カンタータ全集 Vol.34 [Import]



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↑この辺を聴き比べると同じ作曲家か?という感じ




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「アワーミュージック」ジャン=リュック・ゴダール(再観)

2007-06-13 09:10:45 | cinema
アワーミュージック

アミューズソフトエンタテインメント

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劇場で観たものをDVDで再観。
ゴダールの今現在の最新作である(正確には「映画史特別編」てのが最新らしいが)この作品。観終わって、なおまた観たいと思うのはなぜ?
とても理屈っぽいのに、美しくて悲しい映画なのです。


ダンテの「神曲」を意識した3部構成のうち、真ん中の「煉獄編」の舞台はサラエヴォ。
サラエヴォは、記憶に新しい前世紀末の惨劇の舞台であるとともに、「映画史」を観たものには鮮烈に記憶に残るが、全世紀初頭、第一次世界大戦の契機となったサラエヴォ事件の起きたところである。
と同時に、その後の主にチトー時代に、多民族多宗教国家としては異例な異文化共存社会の中心都市としてコスモポリタン的繁栄を見た都市でもある。
ゴダールにとって、20世紀とはサラエヴォにサンドイッチされた世紀なのであるに違いない。

だからなのか、ゴダールは21世紀初頭の今、わざわざサラエヴォにいって、禅問答をし、ホークスの切り返しショットに難癖をつけ、強制収容所でのユダヤ人の写真を見せ、中東問題に拘泥し、少女に個人の生と死と神の超越を語らせ、所ならぬネイティヴアメリカンを登場させてみる。
ゴダールが中東の映像を得ようともがいたジガ・ヴェルトフ集団時代の後、スイスレマン湖畔に引きこもって以来、自分のテリトリーを出て「現場」に赴いた映像はこれが初めてなのではなかろうか?

**

とはいえそれはやはり遅れて到着した現場である。
ゴダールの持つ強迫観念の一つに、映画は強制収容所の映像を残さなかったために決定的に罪深いというものがある。その贖罪を果たさんとするかのようにパリ・ヴェトナム・パレスチナそしてサラエヴォの映像を残そうとした60年代後半以降のゴダールだが、結局ヴェトナムへの入国は実現せず、パレスチナは未完、そしてサラエヴォには間に合わなかった。

遅れてしまう映画。

冒頭の「地獄篇」は、映画が何に遅れてしまったかを外に指し示す映像なのかもしれない。
次の「煉獄篇」では現世のサラエヴォに、遅れてしまった事象の証人が集まる。ユダヤ人、パレスチナ人、インディアン、ジャーナリスト、生きている者、死んだ者。
そしてそれぞれ再生=贖罪の道はどこかを探る。

証人のうち、映画代表を務めるのはゴダール自身。インディアンも、パレスチナ詩人のダーウィッシュも、皆何がしかの答えを持っているのに、ゴダールだけが、映画の贖罪の道を尋ねられ、長い絶句で答える。非常に印象的だ。

そのゴダールに映像(DVD)を託して死の淵に臨むオルガにもやはり映像は間にあわない。それどころか、オルガの死の時にはゴダールはさっさと自宅に戻り植木をいじっていて、彼女の死を伝える電話でも怪訝そうである(「誰だっけ?」)。

結局映画にできたのは、緑豊かな湖畔を裸足で歩むオルガの天国の姿をカタルシスのうちに撮ってフィルムの最後に「天国篇」を置くことだけなのだ。

映画に贖罪の道はないと言うのか?もしくはこの美しい天国の映像が答えなのか?

***

ゴダールが「映画監督ゴダール」としてスクリーンに登場することも稀なことではないのか?
例えば「右側に気をつけろ」で「白痴」のゴダールとして自身を登場させるようなことはしばしばあったが。
遅れてしまう映画を撮り続けたゴダールの映画に、まさに「遅れてしまう映画監督ゴダール」が登場し、「遅れ」を演じてみせる。この自己批判とも自己憐憫とも自己嘲笑ともとれる構造がなんとも痛々しく、滑稽でもある。

どこかで誰かが書いていたが、あの自宅の庭で電話に出ようとする時に小屋のひさしに頭をぶつけそうになるゴダール。あれは演出なのか偶然なのか。
いずれにしろあの絶妙に滑稽な姿を残したゴダールは、やはり批判にも憐憫にも嘲笑にも寄り付かない孤高の映像表現者なのだと、大げさに思う。


メモにしちゃ長かったな。

******

劇場公開版では「ムスリム」という字幕だったが、DVDでは「貶められたユダヤ人」という表記に変わっていた。これはどちらか一方では苦しくて、できたら両方表示したいところだよなあ。

浅いフォーカスのレンズでぼけぼけの風景をとり、遠くから誰かが歩いてくる。ようやく焦点の合う距離まで近寄ると、それがオルガだったりする。
のような、印象的な映像も多し。

天国の門番?のかたわらにあったのはなぜか松下電器の70年代のラジオ名機「クーガ」だったりする。




前回の記事


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「ゴダール伝」は買いか??

2007-06-11 21:27:06 | cinema
ゴダール伝

みすず書房

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ゴダールの評伝が出た。
ゴダールと評伝?
あまりに似合わない~

ゴダールは映画人であって、思想家で歴史家だけれど思想も歴史も映画的な方法で表象する道を模索した人であって、かつ、そんなことを言うと、そんなもの模索してないぞ、とか言いかねない人でもある(と想像する)

そのゴダールについて、資料をひもとき、時系列にあるいは体系的に出自や影響関係をまとめて整理する、、なんて、、やっぱり似合わない~~

なにしろたぶん当の本人がきっと乗り気にならないだろう。

それに、そりゃあゴダールの業績は映画史的事件であるだろうけれど、その道程をふりかえって教訓をえるような類いの偉人とはちょっと違う気もしないかい?
なんか永遠に悪ガキ的な。。



なんていろいろ考えちゃうんだけれど、にも関わらずしっかりこの評伝は成立してしまって、邦訳までされたのだ。なんだかそのことに驚きを感じずにいられないし、むしろ逆に本当に非ゴダール的なのか?とおのずと内容にも興味が出ようというもの・・・

なんかゴダール的でないよなあ/ぶつぶつ/といいながらレジに向った私です。


さあみなさんも買いましょう。すごく高いです。みすずだし。


追記:訳者の堀氏は1976年生まれのこれぞ精鋭。
   いや、能力のある人はすごいわ。


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「無理心中日本の夏」大島渚

2007-06-10 23:53:39 | cinema
無理心中 日本の夏

松竹

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1967日本
監督:大島渚
脚本:田村孟、大島渚、佐々木守
音楽:林光
出演:桜井啓子、佐藤慶、殿山泰司、戸浦六宏、田村正和、小松方正


不思議な話。
「太陽の墓場」にあったようなギラギラした庶民性は薄れ、シュルレアリスム風な感覚をほのかに臭わせる。

***

ねじの一本抜けたフーテン娘ネジ子は、男探しの放浪の途中で、高速道路に描かれた人形(ひとがた)に覆いかぶさり横たわる男に出会う。男は人形にはまり込むということになにか特別な思いがある。
ネジ子とともに干涸びた海岸に人形を描き、またもやそこに横たわる。
するとどこからともなく戦闘服すがたの男が数人、その人形のある部分を掘り返す。と、なにやら大きな箱が・・・

箱の中が武器と知った男はネジ子とともに戦闘服たちについてゆく。
着いたさきは廃墟の一室。そこには、みさかいなく人を刺し殺す刃物男、拳銃をふところにしのばせるあやしいオヤジ、テレビを持ち込んだテレビ男、などなど、怪しげな連中が。
そこへ武器を盗もうと忍び込んだ高校生はライフルフェチ。

なんだいこの展開は?と思っていると、テレビで白昼ライフル通り魔のニュースが。人形男はこの通り魔に会いにいこう。会って殺されようと思う。

結局みんなでわらわらと、警察の包囲網を突破し通り魔の潜んでいる一角に潜入。通り魔と仲良くなってしまう。(なんでだ?)で警官隊と銃撃戦。
さてどうなってしまうのか?????

***

人形(ひとがた)に入っていこうとする男は、自分が殺される時、相手の人見に自分が映り、そのとき自分のなすべきことがわかるんだ、みたいな、ちょっとハイデガーみたいなことを考えてる。
何度も銃口の前に立ってみるが、誰も殺してはくれず、瞳に真実が映ったか?といえば「ぼんやりしている」とかいうし。

ネジ子はネジ子で、彼女の戦いは満足のいく男探しなのだ。そのためならアブナイ殺人集団もすこしも怖くない。そいつらの何人かと関係をもつけれど、満足しない。

この満足しない日本の若者にあてがうべきものは何か??とおそらく脚本家は考えた。
アメリカではブラックパワー旋風吹き荒れるこの夏。
日本の夏にはなにを対置しよう・・・・
・・・・
その答えが通り魔+ライフルフェチ→無理心中なのだ??

無目的な銃撃戦のさなかに身を投じ、銃弾飛び交う下交じり合い「無理心中だ」とつぶやく男。ようやく「最高ね」とささやくネジ子。
すでに70年万博にむけて三波春夫の歌声がながれていた日本。
表向きの高揚の影で、心性の底はここまで根を失いやさぐれていたのか?
私の歩きはじめた地点はこんなところだったのか?


それでもまだ「最高」を求める心が残っていたと評すべきなのかしら。
そんな地点から出発して、じゃあ今はどうなったのか?というと・・・
例によって複雑化/深化しているんだろうなあ・・・なにしろ今や通り魔、めずらしくないし

***

ひとりだけ毛色の違うライフルフェチを田村正和が怪演。

前年に大島は「白昼の通り魔」を撮っている。通り魔になにがしかの「現代性」を感じ取っていただろう。

同じ年に「日本春歌考」「忍者武芸帳」を撮っている。多作である。



好き度:ちょっとハテナ


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「ワン・プラス・ワン」ジャン=リュック・ゴダール

2007-06-09 12:01:47 | cinema
ワン・プラス・ワン

ポニーキャニオン

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1968イギリス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズ、チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマン、アンヌ・ヴィアゼムスキー

レンタルショップの音楽DVDコーナーにあった。
盲点だったな。

ザ・ローリング・ストーンズのリハーサル風景と、ブラックパワーの政治的アジテーションとが並行、いや平行?に描かれ、当然のことながらどちらにも決着なりドラマなりは起こらず、ぷっつり尻切れで終わる。
これを観たプロデューササイドは、公開時にはエンディングにストーンズの「完成した」バージョンの演奏を付け加え、タイトルを「悪魔を憐れむ歌」に変更した。
それを知ったゴダールは試写だか映画祭だかの場で観客に向って罵詈雑言を発したとも、いや、自宅に引き蘢ってしまったとも伝えられる、いわくつきの作品。

いま出ているDVDは、そのゴダール版とプロデューサ版の両方が収録されているという、親切というかなんというか版。

で、観てみたら、確かに噂通りの(てことは予想通りの)モノでしたね。

***

収録されている(すごく退屈な)メイキング?フィルムでゴダールは、「音楽と政治と言う異質なものを併置してみたかったんだ」と脳天気なことを言っているが、ほんとにそんな素朴なもんだろうか??

音楽ほど政治的なものはないといってもいいだろうし、逆に政治にはつねに音楽が加担してきたわけで、ゴダールがそのことに気が付かないはずはない・・・とひいき目にみてみるがどんなもんでしょ。

黒人のアジテーションで、「おれたちは白人の言葉を知ったが、白人はおれたちの言葉を知らない、だから対話やコミュニケーションは成立しないんだ」というくだりがある。
一方のストーンズは白人でイギリス人だが黒人ブルース色を色濃く取り込んだロックバンドなわけで、両者は結局大きなグローバリゼーションの過程でいつしか互いの言語を学び、互いを吸収し合い、支配や抑圧の物語の裏である面では歩み寄ってすらいるのかもしれない。


ならば最も異質なのは実はゴダールという存在ではないのか?
異質、差異、衝突という発想こそが実はあばかれるべき物語であり、それを持ち込もうとする存在こそ、もっともいかがわしいのかもしれない。

「ワンプラスワン・プラスワン」

この第3項こそが、状況に関わりなく、誰からも学ぶことなく無造作に理不尽に存在している。
ストーンズのスタジオに無意味にたたずむ女
随所に写り混む撮影クルー
唐突に開始される銃撃戦
最後に突き抜けるのは、第1項でも第2項でもなく、その両者の衝突でも止揚でもなく、この第3項の異質さなのだ。

後に撮られる「こことよそ」に対するならば、この映画は「よそとよそ」として構想されたものだ。そして結果、「よそ」と「よそ」の併置のなかでどうしようもなく吹き出してくる「ここ」の無意識をフィルムに納めてしまったのだとはいえないか?

(などと偉そうにいうが「ヒア&ゼア」未見です)

**

ともかく、あのラストシーンの美しさはすごい。
こんな映画のラストがあんなシーンだなんて。
すごい。
ゴダールがどのように突出する作家であるのかを感じるには、この映画のラストシーンを観るとよいのかもしれない。

***

ストーンズについては全然知らないので、今回新鮮にいろいろ感じた。

ブライアン・ジョーンズの寂しい存在のしかたにはちょっと胸がいたむ。
彼の弾くアコースティックギターの音はフィルムでは聞き取れない。
後の彼の運命を思えばなおさら悲しい姿。

一方で印象的だったのはビル・ワイマンのこれまた情けない立ち位置。ああ、こういう力関係だったのね。ベースは結局キースが弾いてるじゃん。

で、チャーリーは従属的ではあるけれど、持ち前のテクニックで実は縁の下の力持ち的に尊重されている。(ように見えたよ)

***

そうそう、ゴダールはこの映画最初はビートルズで撮ろうと思っていたらしい。ビートルズが解散騒動でそれどころでなく、じゃあかわりにストーンズ。
でもゴダールはストーンズって誰?状態だったとか(笑)

もしビートルズだったら、映画「Let It Be」のルーフトップシーンを抜いたものにブラックパワーが挟み込まれたような映画になっていたのかなあ。


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