Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

sonimariumのライブ音源やら新曲動画UPやら

2013-09-27 01:17:20 | sonimarium通信
こんにちは

わたくしが首謀者であるところのポップスユニット
sonimarium
ですが、
YouTubeにチャンネルを持っておりまして、
ほそぼそと音源をアップしているのです。

いまのところ、アルバム「sonimarium」のマスタリング前の音源と、
先日2013/8/8のライブから4曲上げてまして、
で、最近アルバム未収録の新曲をアップしました。

新旧とりまぜて観て聴いてくださるとうれしいです。


チャンネルはこちら


新曲はこれ



この曲は、わたしが在籍しているZYPRESSENというチェンバーロックバンドの、
1996年に発表されたアルバムに収録されていました。
ZYPRESSENではボーカル無しのインスト曲として録音しましたが、作曲当時はボーカル入りを構想していまして、
このたびとうとう当初の目論みどおり歌入りバージョンを作りました。
不思議な動画もつけてみましたので観てね~



アルバムも絶賛発売中ですん。
CD音質でぜひ聴いてみてください。
YouTubeに上げていない曲も収録しています。
sonimarium
クリエーター情報なし
インディーズ・メーカー



こちらはsonimariumの前身son*imaのアルバムです。
こちらはアマゾンの在庫切れになっちゃってますが、欲しい方はメッセ-ジください。。。
小さな惑星
クリエーター情報なし
MNMN



ということで宣伝でした。

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「我が至上の愛~アストレとセラドン~」エリック・ロメール

2013-09-26 00:16:27 | cinema
アストレとセラドン 我が至上の愛 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


我が至上の愛 ~アストレとセラドン~
LES AMOURS D'ASTREE ET DE CELADON
2007フランス/イタリア/スペイン
監督:エリック・ロメール
原作:オノレ・デュルフェ
脚本:エリック・ロメール
衣装:ピエール=ジャン・ラローク
出演:アンディ・ジレ、ステファニー・クレイヤンクール ほか


舞台は5世紀のフランスで、まだローマ帝国の占領前の領主とドルイド僧がいる時代の純愛もの。

なんだけど、内容はとてもロメールっぽい。舞台が牧歌的で、
愛する心の純真さと素朴さを素直に信じる気になるけれど、
主人公二人の気持ちに至近距離から焦点を合わせるところは、
ロメールの現代劇と変わらない。

ロメールの冒険は、
17世紀の作家が想像した5世紀のフランス、という舞台においても、
そして原作のある題材であっても、そこにはロメール的なものがあるんだよ、
ということなのかな。

21世紀の都会を舞台としたならば、どこかコミカルな色を纏ったものになっただろう二人の純愛と再開は、
豊かな自然と人々の素朴な生活を舞台とすることで、自然なものとして気負いなく描かれる。

このコミカルでなく自然にというところにロメールは面白さを感じたんじゃないかな。(ただの想像)


アストレもセラドンも、自分の思いを表す言葉を詩にして読み、
かつ節をつけて歌いもする。
そのようなことは現代人が題材ではなかなかできないことだろう。
この映画の彼らはとても自然にそれをやる。

お調子者で皮肉屋の友人もまた
即興で余を斜めから見たような歌を歌っておちゃらける。
これもまた自然。

いい時代だねえ。

そういう時代だから、セラドンのかたくなまでにアストレの命令を守るという心も、
最後の女装も
おとぎ話的に見ることができるのだね。
現代的リアリズムで突っ込み始めると全部笑い話になっちゃうからね。



ヴァンサン・カッセルの妹セシル・カッセルが出ている。


@自宅録画
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「リスボン特急」ジャン=ピエール・メルヴィル

2013-09-22 01:52:02 | cinema
リスボン特急 [DVD]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル


リスボン特急UN FLIC
1972フランス
監督:ジャン=ピエール・メルヴィル
脚本:ジャン=ピエール・メルヴィル
撮影:ワルター・ウォティッツ
音楽:ミシェル・コロンビエ
出演:アラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーヴ、リチャード・クレンナ、リカルド・クッチョーラ、マイケル・コンラッド、ジャン・ドザイーほか


なぜか突然メルヴィルの遺作を観る。

冒頭モダンで妙に横に長い集合住宅の横をいわくありげな車がゆっくり進んでくるのだが、
そしてそこに非情なほど強い雨が降って来るのだが、
ここのセンスはゴダールだよなあと思う。
こういうエッセンスをゴダールは抜き取って、換骨奪胎というか、
他のエキスを注入するのだなあ。

車に乗っている4人組の向かう先は
海辺と思われるそこにふさわしくないほど来客がある銀行で、
おのずと彼らの目的が知れるのだが、
そこまでずっとセリフ無しで観客にわからせるのがすばらしい。

全編、というか特に見せ場ではセリフがなくなるという映画で、
全体クールな印象はそういうところからくるだろう。

4人組がどうしてその目的の元に集まったのか、
彼らは何者なのか?
そういったことにはほとんど触れられない。
でもだいたいわかってくる。
こいつが首謀者で
こいつはもと堅気でほんとは小心者で、と。

すばらしい。


一方彼らを追うことになる警察の人間であるアラン・ドロン。
彼の造形がとても変な感じがする。
有能そうで冷酷で職務熱心な雰囲気を出しているが、
本当に有能なのかこいつは?www
しょっちゅうどこかから電話がかかってきて、わかった、また電話するって言うだけだし、
密告屋に頼って、ちょっと状況が変わると密告屋にあたりちらすし
一味のひとりが自殺するのを止めるでもなく
最後だってろくに見定めもしないで撃ち殺しちゃうし
女には甘いしw

ほぼ雰囲気だけの貢献である。
おかげでラストではあえて電話を取らないが
その悲哀があまり伝わらないじゃないか!w

まあとはいえ、冒頭から刑事の抱く感情は(だっけ?)疑いとあざけりだけだ
としつこく言っているので、まあそれ以外の感情はぐぐっと内面に押さえ込んでいるんだと思えば
悲哀が伝わらないというか、悲哀を察しろよというくらいでよいのかも知れないね。


彼と、首謀者とその女が最初にそろうシーンは、
よく考えられているとともに、めちゃめちゃアラン・ドロンがキザで!
すばらしくキザで!
ステキである。
くわえ煙草でピアノ弾いたら煙くてだめでしょ!

この3人は随所で顔の演技の見せ場があるのもよい。
無言で目配せや表情で何事かを語り合うのがよい。
こういう余裕のある映画はなかなか最近は見ないと思う。


仕掛け的に大見せ場であるリスボン行き特急での
これまたいっさいセリフのない20分ほどは、
まあ仕方がないにしろ模型感丸出しでw
あそこを本物でやるとなると製作費が何十倍にもなっただろうけど
まあちょっと残念な感じはあるね。

でもそのシークエンスは実際の彼らの行動を
愚鈍なくらいに時系列に捉えているので、
変にテンポアップしてもりあげたりせず、
それが独特の緊張感をもたらしていると思う。


あとはですね、
カトリーヌはほぼカメオ出演的な扱いですね。
あまり中味には関わってこない。


エンディングの曲が古き良き70年代フレンチシャンソンなので
映画とは別に涙腺が緩むのだった。
イザベル・オーブレという人が歌っているそうな。
歌詞をシャルル・アズナブールがやっているとクレジットでは読める。


@自宅録画
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「クリュセの魚」東浩紀

2013-09-20 14:07:52 | book
クリュセの魚 (NOVAコレクション)
クリエーター情報なし
河出書房新社


「クリュセの魚」東浩紀
読みました。

人類がテラフォーミングを始めて数世紀が過ぎた23世紀の火星を主な舞台として、パクスター風のスケール感とイーガン的な仕掛けをうまく絡めながら、主人公彰人と麻理沙の恋愛、父親としての彰人の思いを描く未来SF小説。
SF的なネタに加えて、ネット社会の進化(明暗)や火星を含む地球や月を巡る政治経済の形態を予見して見せたりと、なかなか含蓄深い。

ワタシのSF小説読書歴は主にディック、イーガン、バクスター、チャンに偏っていて大層なことは言えないのかもしれないが、それらの作品に比肩してさほど見劣りのしない秀作だと感心したですよ。

特に面白かったのは、波動関数の収縮による「現実」の選択を、収縮の機能を持たない外宇宙存在をもってくることで地球の人類のもつ機能として際立たせておいて、選択を繰り返してありえた世界を切り捨てていく存在としての人間が生きるということはどういうことか、と、われわれの存在のもつ意味や意義のようなものにつなげていくところだろう。
ワームホールをコントロールする技術を持ち、多世界をそのまま生きる(ということ自体はワタシの想像を超えてしまうのだが)外宇宙の存在からすると、時間をさかのぼり人生をやり直すことは普通に考えられる選択なのだが、そうでないわれわれが持つ生きることの意味は、作中にある「繰り返さない力」という言葉に表れている。
彰人が父親として「責任をとる」ということの力と意思の源がこの人間の存在のあり方に根ざしているというところが、この小説のもっとも面白いところだと思う。

***

○彰人と年上の麻理沙との恋とその運命は、普通に(?)せつなく泣けるし、最後近く、父親として責任をとるという意思のもとワームホールをくぐった彰人が、演算上に再構築された麻理沙との会話の終わりに、やはりいっしょにいたいと思いを吐き出すところもぐっとくる。

○23世紀におけるネットのあり方についての見通しも面白いし、テロ事件後に麻理沙のイメージがどう消費されるかというところはリアルにさもありなんと思ったりする。(ということは未来のネットというか今の延長にある世界としてのネットの姿なんだろう)

○ワームホールの発見により火星と地球が物理的に近くなったことで、火星の再分割が行われ、高度に電子化された経済社会が崩壊しふたたび貨幣経済が盛り返したりとか、そのへんの社会の変化の考察もさすがである。

○終盤、拡張チューリングマシン的に再構築された人格である麻理沙の長い独白はすばらしい。これがSF的想像力というものである。ちょっとレム的なところもある。こういう節があることがこの作品の質を支えている。

○あとは、そうだな、娘の栖花の振る舞いが可愛いったらないですw(うちにも娘がいるんでね)
 そういうちょっとラノベ的な要素でアピールしているのもよい。
 (まあラノベほぼ読んだことないんで、これは想像だ)

***

ネットがどう進展していくかの考察は、同じく東氏による『クォンタム・ファミリーズ』のほうでさらに突っ込まれているのだが、ここでは同氏『一般意思2.0』で構想されたテクノロジーによる合議なき意思の可視化という明るい展望を裏切るように、暗い可能性を示唆していることに唖然とする。一般意思2.0の可能性と同根でネットがテクノロジーによる自律の果てに信頼性を失う可能性があるという考察が、同じ著者から発せられるところに感動する。

クォンタム・ファミリーズはいま読んでるところなので、読み終わったらまたメモっておこう。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社
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「リトル・ブッダ」ベルナルド・ベルトルッチ

2013-09-19 01:08:24 | cinema
リトル・ブッダ 《IVC 25th ベストバリューコレクション》 [DVD]
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)



リトル・ブッダLITTLE BUDDHA
1993イギリス/フランス
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
製作:ジェレミー・トーマス
原案:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:マーク・ペプロー、ルディ・ワーリッツァー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:坂本龍一
出演:アレックス・ヴィーゼンダンガー、キアヌ・リーヴス、ブリジット・フォンダ、クリス・アイザック


「ラスト・エンペラー」ばりの大河ドラマを想像していたが、少し違った。

チベット仏教の高僧の生まれ変わりを探す僧たち、候補と目された3人の子供たち、
そのうちのひとりアメリカンのジェシーの家族。本当の生まれ変わりは誰なのか?
という話と、ブッダというかシッダールタが解脱するまでの物語が交錯する。

のだが、どうも実際の主軸はジェシーの父の控えめな心のありようにあったのではなかろうか。
彼は最初は輪廻転生など全く信じることはできなかったし、最後まで信じることはないのだが、
それでも親友の事故死をきっかけに、息子と共にブータンへ赴き、仏教の輪廻転生の思想に、
無常の現生を生きる希望あるいは慰めをわずかに見出すことになる。
そこには西洋の人(というか非仏教者)からの視線がある。

一方のシッダールタの物語は、チベット僧がジェシーに与えた絵本の内容が語られる形で進行する。
それはいかにも異国的な(でも結構リアルなのかも)おとぎ話風に進められ、大仰なドラマにはならないが、
背景となる仏教世界の源泉を伝える。

そのような大きな物語を背景としつつ、現代人のひとりであるシアトルのジェシーの家族の心持ちの、
ささやかな変化を描いているという点で、これはやはりベルトルッチらしい作品だなあと思う。



シアトルでは青を、ブータンとシッダールタの世界は赤を基調とした画面としたのが印象的。
最初はどうにも混ざりあわない感じの両世界は、シアトルで「ダルマセンター」に行ったりして少しずつ混ざり始め、
青の世界の住人であるジェシー親子がブータンに行くことで両者ははっきり混合する。
単純なのかもしれないがいい効果が出てたと思う。


ちょうど三島由紀夫『豊穣の海』を読み終えたところなので、
共通して輪廻転生をテーマとしていることに興味を覚える。
すこし仏教を勉強してみたくなったなあ。

****

シッダールタがキアヌって無理では?と思ったが、平気でした。
むしろ西域らしい顔立ちでした。

ブリジット・フォンダはピーターの娘ということですが、整った顔立ちだな~~

ラマ僧から紀元前インドの人からみんなそろって英語を話すのがまあ違和感あるけどねw

坂本龍一の音楽はときどき臭い感じで実にサカモトらしい。
シッダールタに魔神マーラが遣わす闇の軍隊のシーンなんかは恥ずかしいくらいの作られ過ぎた音楽でw




短めで。



@自宅録画
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「8 1/2」フェデリコ・フェリーニ

2013-09-14 00:47:48 | cinema
8 1/2 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
角川書店


8 1/2 普及版 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


8 1/2 OTTO E MEZZO
1963イタリア
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネッロ・ロンディ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、クラウディア・カルディナーレ 他


こういう映画は大好き・・・
・・なはずなんだけど、どうも今ひとつ乗れなかった。
家でのんびり録画で観てたので、この映画に必要な集中力に欠けていたのかもしれない。
とにかく脈絡が希薄で現実と幻想と記憶がごちゃごちゃになるので、
必死で着いていくか、思い切り夢幻に浸るか、徹底的に細部を楽しむか
そういう鑑賞態度こそが望まれるだろう。
ということを、だらだら見終えた結果認識した^^;

映画監督が映画制作を迎えて、あれこれ逡巡したり
いろいろな出来事によって阻害されたり
もしくは訳の分からない出来事にまきこまれて目的に達し得ないどころか何が目的だったかわからなくなる。
そういう映画は他にもいくつかあるわけで、
映画(制作)についての映画っていうちょっとメタっぽい発想の先駆けのひとつなのだろうし、
おそらくは後続の映画たちに影響を与えているのだろう。

(↑このあたりをちゃんと調べて書けば面白い文章になりそうだけど、めんどくさいのでやらないorz)


あとはそうね、どうしてこう老人ばかりが出て来るのか、
そのあたりも面白いところだと思うのよね。
自分の両親の記憶やら、難癖つける老俳優やら、枢機卿やら。
湯治客だから老人だらけだし。

女性については、いろいろな類型が出てくるのが面白い。
ひとりとしてなまなましい普通の人はいない。
どこか何かを演じている人って感じででてくる。
これも面白い。


と、着眼点だけメモって終わったりする。

もう一度観ようかなあやっぱり。。。



@自宅録画
ということで、着眼点
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『第2の秋』勅使川原三郎9/6公演

2013-09-07 16:50:58 | dance
勅使川原三郎のダンス公演『第2の秋』いってきました。
ポーランドの作家ブルーノ・シュルツの作品から喚起されたダンスということで、『春、一夜にして』に続くもののようですが、そちらは見逃しています。
ちょうど今、勅使川原三郎のスタジオであるKARASAPPARATUSで旧作の公演記録映像を公開しているのでそちらも行けたらいいなあ。
【追記】st/STさんの指摘ですが、もう1作ありました。→コメント欄参照


ということで『第2の秋』、シュルツの持っている強い郷愁と孤独感を伴う幻想的な肌触りをよく表した感動的な作品でありました。

共演者である佐東利穂子が長くしなやかな肢体を活かして柔らかく繊細な部分を受け持つかのようであるのに対し、勅使川原三郎は往年の、激しく痙攣し不如意に折れ曲がる関節の動きから、非情な現実とそれに喚起される幻想を体現しているようで、二人のソロ、ソロからデュエットへの移行、デュエット、そしてまたソロへという交錯の中で、か弱さと激しさ、軟と硬がそれぞれの振幅で空間を揺らし共鳴しあるいはうなりを生じるというダイナミックな舞台でした。

音楽(と音響)も、控えめながらギクシャクしたノイズと、静謐かつ流れのあるピアノによるバッハとを中心に交錯的に構成され、二人の対比とはまた別の層で軟と硬との交流を作っていたと思います。

また、舞台の前方に張られた薄いスクリーン(場面により巻き上げられる)には、森や雲の映像が投影され、スクリーンの奥で踊る二人が映像の向こう側に透けて見えるという演出が、非常に効果的で素晴らしかった。
郷愁や幻想を具体的に形にするとはこういうことだなと感心。

久しぶりに本格的な舞台を観て、勅使川原三郎の魅力と実力を堪能した。

***

個人的には勅使川原三郎の病的な痙攣ダンスを堪能できてウレシス。
80年代に初めて観て度肝を抜かれたあの動きは健在で、まあ変わらないってことかもしれないが、あの動きが醸し出す世界の独特なことは他にはないものだなあ。
シュルツのこれまた独特で病的な人形へのオブセッションとも呼応してこの公演には大変相応しいものだった。

バッハはワタシは曲を知りすぎていて、ちょっとシュルツ的世界とは違うものを感じてしまうのだった。
平均律第1巻からは変ホ短調フーガ、同じくプレリュード、ロ短調プレリュード、第2巻からは変ロ短調フーガと、短調(それも変な調)からの選曲で、その点では好みなんだけど。

あとはバルトークと思われる激しい激しいバイオリンとピアノの演奏(あれはなんの曲なのか?調べよう)、ノイズに乗せてヴァージン・プリューンズの声のコラージュなど。

ヴァージン・プリューンズなどは耳にするのは30年ぶりくらいなので、ノイズなのにものすごい既視感があって最初はどうしたことかと困惑したぜ。

照明や舞台もよく。床に光の輪を作ったり縦横に光の道を作ったりと、凝っていた。



公演は9/6.7.8東京芸術劇場プレイハウスにて。


@東京芸術劇場プレイハウス9/6
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「シテール島への船出」テオ・アンゲロプロス

2013-09-07 02:53:18 | cinema
シテール島への船出 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


うーん、、と唸らざるを得ない。と同じ書き出し。

ヨーロッパの高年のある種の偏屈と近寄りがたさにはちゃんと理由があるのだという話。

ヨーロッパには限らないのかもしれないが、
20世紀のある時代を生きた人の心には、
1人の人間が抱えるには大きく深すぎる澱が残っていることは想像に難くなく、
それがギリシャの田舎の出来事であってもこうして作品として描かれると
他人事ではない共感のようなものを紡ぎ得る普遍性を持つというのは
そういう世界的な変動の時代を背負った表現だからなんだろうと思う。

ひとりひとりに大きな物語があって
その物語の要素はどこまでも個人的な具体的な細部である。
細部を積み上げてこそ大きな物語に近づける。
そういう、映画が大得意とするところの表現方法が、この映画の普遍性を作っている。

口笛による会話、荒れた土地、ひなびた家の内部、朽ちた納屋
港の古びた建物、床の水たまり、雨、カフェで歌い出す人々
燃える納屋
雨の中行われる港の祭

あらゆるものが普遍性の器であるだろう。

***

といいつつも、これらの映像にはまったくワタシの日常とのつながりを感じさせるものはないのも確かであって、
いわば異邦人的な楽しみ、異国情緒に感じ入るような視線もないわけではないのだ。
正直に言って、そういう異世界に浸ることによって日常を逃れようという思いが、ワタシの映画鑑賞の癖には如実に現れていて、まあ要するに邦画はあまり観ないということなんだけども(苦笑)

ただ、そういう異国の出来事だなという絵空事を乗り越えてこちらに迫ってくるナニモノかを期待して観ているのも確かで、逃避しつつも迫りくる真実には触れたいというところでしょうか。

そして本作のような十分咀嚼されて作られたものが好みというのは、なんだろうねえ、個人の内面で想起するものに関心があるということなんだろうねきっと。

と自分を分析してみるなど。

****

ところでこの映画にも不思議な技が使われている。
映画監督らしい主人公?というか息子は
大勢の老人を一人一人オーディションする現場にいるのだが、
そのあとカフェで見かけたラベンダー売りの老人に目を奪われる。
と、あとで港で下船してくる父親役にその老人がおさまっており
オーディションで繰り返しつぶやかれたセリフを晴れ晴れと語ってみせる。

虚構と現実が行き来する(いや、映画内の虚構と映画内での現実か)このような手法は
ほかにもみられたが(というか他にもあったと思うケド忘れちゃった)
この映画が持つうっすらとしたファンタジーの要素を構造的に支えているのだと思う。
こういうどこか虚構なんだよというスタンスがアンゲロプロスの作品には常にあるように思える。
それは、そのことによって作品を相対化するというよりはむしろ、
人物の心の真実の部分にぐっと近づくために必要な構造なんだと思われる。
あのファンタジーの要素があって初めて、最後の「船出」が、ありえないことなのに救済と終焉と始まりがないまぜになった彼らの心持ちを強く伝えてくるのだと思うからだ。

そうだよね?


@自宅BD


【追記】
『永遠と一日』と本作に共通して出て来たのが、雨の中黄色い合羽を着て自転車に乗る人なんだけど。
画面をスーッと横切ったり、隅にそっと写っていたり。
あれはなんなんだ?郵便配達とか?
ギリシャではよく居るのかな。
これぞ異国情緒。
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