髪結いの亭主 デジタル・リマスター版 [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
エスピーオー |
ユーロスペースでデジタル上映していた。
なんだかどうでもいい映画を観たくて
これはドウデモイイ映画なんじゃないかと前から思っていた本作を選んだというわけ(笑)
しかも例によって終盤ぐうぐうと寝てしまい、
いびきもかいてたと思う
ほんとに迷惑な客だm(__)m
なので帰りにツタヤにてDVDを借り、終盤を観たというていたらく。
そして、この映画の最も味わい深い部分をすっぽり寝過ごしていたことを知り
唖然としているのだった。
あぜん。
****
デジタル上映なのでどんなもんかなと思っていたけれど、
全体のトーンを明るくやわらかく仕上げてあって
特に画質は気にならなかったのだけど、
どうだろう。
フィルムと比較してみなければわからないな。
冒頭ターンテーブルのアップからとても優しい色調でぐっと引き込まれる。
全編を調子づけるアラブ歌謡と自己流の踊りのルーツが
さりげなく示される。
こういうピースの選び方と関係の持たせ方は
とてもよい。
伏線を回収するという構造的な上手さというよりは、
少年期のエロスが床屋と結びついたり
海辺のエネルギーや少年ならではの未来への希望が
さらにそこに結びついたりと、
作品の個性的なテクスチャーを作り上げる意志と感性なのだ。
そのピースと織り綾の繊細さがよかったな。
****
ふるさとの記憶が海というところも
ワタシ的にはグッとくるのだよねー
あの大きな空間、風、砂、水の動き、そういうものが
なにやら楽天的なオブセッションをおとなになるに至っても保持させる
おおらかな資質をアントワーヌに持たせたのだろう
とか思う。
もちろん「最初の」床屋の女主人が
アントワーヌのオブセッションを形成したわけだけど、
そこにしっかり死の刻印も押したところがすごいよね。
死の姿にもまたエロスを見るアントワーヌ。
割れたガラスの上を歩いて床屋椅子に向かうとき
足先がアップになってガラスを踏みしだく音が大きく鳴る。
それは、ああ、わかってるよねー何かを、とうなずかずにはいられないシーンだ。
終焉を
愛情の先の終焉をどのような形でか
アントワーヌはマチルドに伝えたのではないだろうか
彼はとても浮世離れしていて
純粋にマチルドを愛する存在として彼女の前に現れ、彼女を魅了する。
そのお互いの純真が純真であり得たのは
アントワーヌのおおらかなオブセッションのためなのだ。
純真が儚いということのメッセ-ジは
いろいろな「客」が伝えてくれる。
突然飛び込んできて妻に平手打ちを食らう男。
彼は夫婦生活の終焉の姿を伝えるメッセンジャーだった。
万物の原型について寸劇を披露する二人組も
ぼろぶどぅーる!の詩を披瀝する男も
愛の終焉について語る者だ。
マチルドが床屋を譲り受けた元床屋が
終盤に施設での生活を語るのも
唐突に見えるけれどもやはり人間の終わりを示したもの。
マチルドは純真が純真であることを知り
それが終わるのを恐れたのだが、
その純真はアントワーヌによりもたらされたもので、
それが本物なのだということがマチルドにはわかったのだ。
あの雷雨。
冒頭にも遠い雷鳴を背景にするシーンがあった。
あの遠い雷鳴の持っていた幸福感があるために、
終盤の出来事もどこか悲しくしかし幸福な
夢の中のことのように起こるのだ。
残された亭主
クロスワードパズルをやり
慣れない洗髪をやり
自己流でアラブ歌謡を踊ってみせる。
なにも変わらない。不在の他は。
きっと自分でもそうするだろう
変わらない生活をするだろう。
亭主は床屋の女房を二度失い、
あとはパズルと踊り。
シンプルな人生のままでいること
宙づりのままでいること
ここで映画は終わるが、
アントワーヌはシンプルに生きているのだろう。
ずっと。
*****
あ、そうだ、
マイケル・ナイマンの音楽は、
ナイマン節の利いたおなじみな感じであるが、
ちょっと映画には濃厚すぎるような印象を持った。
これはまあ昔けっこうナイマンの音楽にはまったので、
音楽がどうしても立って聴こえてきてしまうというのもあるのかもしれない。
が、その濃厚さや執拗さのある音楽が
これでもかと立ち上がることで
一層映画のフォース(笑)を高めていったあの
グリーナウェイ作品におけるような
恐るべきコラボを思うと
なんとなくもったいない感じがするのだよね。
人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。