Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

デニス・ホッパー

2010-05-30 13:04:19 | cinema
デニス・ホッパーが亡くなりました。
2010年5月29日。

サイショに彼を意識したのはやはり「イージー・ライダー」でしたが、
なんかジャック・ニコルソンとピーター・フォンダの方が印象的でした(笑)

「理由なき反抗」「ジャイアンツ」も見ているのだけれどやはり印象になく(笑)

次に意識するのはヴェンダース「アメリカの友人」でしたねー
意外と(というのは先入観と違ってということだけど)渋くて思慮深い人物を演じていたのです。

ところがリンチ「ブルー・ベルベット」では、全然意外でなく(笑)絶対かかわり合いになりたくない危険人物をやっていましたねー
あれは、やはり危険な人物であるウィレム・デフォー(「ワイルドアットハート」)ですらかないそうもない突出した危険度で、サスガだと唸らされました。

「リバース・エッジ」は実は未見なのですがDVDは所有しています。
見なきゃ。
音楽がユルゲン・クニーパーなので、未見なのに音楽だけはなんども聴いています。

あら?こんなところにとおもったのはロメロ「ランド・オブ・ザ・デッド」で、これもホッパーらしい悪いヤツを演じていました。まあ、それらしすぎて面白みには欠ける感じで、いかにもキャスティングもイメージにあったヤツを適当に引っ張って来たなということを感じさせてしまうようなものでしたが!(笑)
まあ主役はゾンビだし。


監督作は全然見ていないのです。「イージー~」を除き。
呪われた監督としての風評をよく聴いていたので見たいなとは思いつつ。
「ラストムービー」はぜひ観たいモンです。
「カラーズ/天使の消えた街」も未見。
「アウト・オブ・ブルー」も未見。


そんなことで、例によって熱心なファンではありませんでしたが、
なんというか、デニスがいるうちはアメリカの映画も大丈夫だろう?みたいな
存在自体に信頼を置いて安心していたような感じです。

デニス以降を探さなければなりません。



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「ルポ 貧困大国アメリカ II」堤 未果

2010-05-26 22:27:08 | book
ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)
堤 未果
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ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)
堤 未果
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ルポ貧困大国アメリカll 

前著に続き、今度はオバマ政権での現状をルポした本作。
オバマによって状況はチェンジしたのか?
今回は特に医療保険制度の問題と、新たに浮上してきた刑務所ビジネスに絞って取り上げられている。

医療制度改革はオバマ公約の目玉の一つであり、その動向が報道されたりもしていたが、内実はこんな感じらしい。
●多くの医療従事者などが求める、単一支払皆保険制度の導入(公的保険への一本化)という選択肢は、改革議論のしょっぱなで排除され、オール民間保険で行くか、民間保険と公的保険の選択制でいくか、という議論にすりかえられてしまった。
●製薬業界は利潤の2%程度の譲歩と引き換えに、政府に薬価設定で交渉する権利を10年間放棄させた。
●完全解決よりもすこしでも改善される道が現実的と、オバマを当初支持したリベラル陣営もオバマの変節を許容した結果、発言力を低下させている。
●利権側はマスコミを動員して、公的保険導入により保険料は上がりサービスは低下する、というネガティヴキャンペーンを繰り広げ、もともと利権構造などを知らない貧困層や中流族をコントロールしている。(アメリカって新聞読まないでTVみる人が大多数って話)

ということで、結果としては保険会社や製薬業界の利権はほぼ守られ、その利権は国民の多数に多額の医療費を負担させ債務を増やし、あるいは医療従事者を過剰労働と効率主義で縛り上げることによって形成される。この構図はほとんど変わることがない。

なんとも絶望的だが、この絶望は一部の富める者が国民を搾取するというモラル的なことのほかに、こうした構造が、若者の未来に対する明るい展望や切り開いていく力を根こそぎ引き抜いてしまうこと、あるいは、例えば人を治療しふたたび社会で活躍できるように尽力するというような医療従事者の使命感や誇りを失わせてしまうことにあるだろう。それらの意識は結局は国や世界の未来形成の原動力である。アメリカは、国の未来の活力に投資する代わりに、それを押しつぶすことによって生じる目先の利益に投資してしまっているのである。

それでも取材を通して著者は希望を見出せないわけではないという。
一つは、リベラル派をはじめとした、問題意識を持っている人たちに起こっている気づき。オバマを当選させることで変化が達成されたと思っていたのは間違いで、オバマを絶えず方向付けていくことが重要だという気づきが広まり、Move Obama!というスローガンを掲げ、党派や世代や業種を越え連帯の動きが見られるという。
またオバマによって政治に目を開かれた若者のなかにも現状を冷徹に受け止めネット環境を活用した全国的な運動を組織しつつあると。

結局こういう市民の動きによってしか変化を実現することはできない。オバマ当選はその動きの一環であったに過ぎず到達点ではなかったのだ。
筆者はこう結ぶ。民主主義は仕組みではなく、人なのだ。
そういうことなのね。

******

刑務所の民営化についても、これまた陰惨なことになっているのだが、第3世界よりも安い労働力の供給源として囚人が扱われていること、囚人数がどんどん増えるような政策がとられていること、メディアが治安への危機感をあおり状況を後押ししていること、と要約して、あとは割愛しよう。



アメリカに知り合いがないでもなく、彼らがいまどう暮らしているか。つらい思いをしていないといいのだが、と常に脳裏で思いながら読んだ。
もっとも全然つらくなかったとしたら、利権をむさぼっている側であることも考えられ微妙・・・
軍に入ると言っていたエイミー、シャイなガールだったドニータ、もう老境にいるであろうウッドブリッジさん。どうしているだろう。。。

**********

ところで日本の健康保険制度もまた相応の危機を抱えているわけで。どうするか?

手元にある新聞記事によると、国民健康保険に限った話だが、全国市町村において国保の財政難が顕著になっているという。
●08年度に市町村が国保の赤字補填のため一般会計から投入した総額は2585億円。
●これに保険料アップ抑制や出産一時金などに当てる分を加えた総額は3668億円になる。
●そもそも国保には国と都道府県からの支援制度により3.9兆円の公費が投じられている

一方で、保険料収入は失業者増加や家計悪化などから減少している。
●08年度の国保保険料の収納率は88.35%。(過去最低)収入額は3.06兆円。

本来保険料と市町村予算及び国等の支援により賄うべき保険であり、不足分は保険料の引き上げで補うのがスジ。しかしこのご時勢での保険料引き上げによる負担増を住民に求めるのはムリ。ということで、高齢化などによる給付増と収入源の両方に引っ張られ、法定外の繰り入れを実施する市町村が多いということだ。
問題点は
●受益者が負担すべき財源を、国保加入者以外を含めたすべての住民に負担させるという不公平感が生じる。
●財政に余裕のない市町村では保険料アップを余儀なくされるため、、市町村により保険料に4倍程度の格差が生じている。

なかなかに危機的な感じだ。財政安定化が急務であるが、今後は伸びる一方であろう給付額に対し、どう財源を確保していくのか。これまでの制度をいじる程度では容易に解決はできないだろう点は、年金などとまったく同じ問題であると思う。
ここで保険を民営化してコストダウン、となるとそのツケはもちろん加入者に帰ってくるわけで貧困大国某国の後追いとなりかねない。
行財政のムダを省く、消費税引き上げなどによる財源の確保、所得再配分に関する新たな枠組みの創生と国民的同意の形成、と、ここはじっくりと大きな視点からの多角的で地道な努力が必要なのだ。


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「ルポ 貧困大国アメリカ」堤 未果

2010-05-19 23:32:48 | book
ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)
堤 未果
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ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)
堤 未果
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先日ランキングのぽちっとするのやってみてください~と
ここで呼びかけましたが、
皆様にやっていただいたせいかどうか、
800番台だったwのが一気に100番台にあがりました。
気にするわけでもありませんが、ちょっと気分が楽になりました(笑)
て、気にしてるんじゃんねww

*****

と能天気な書き出しが実に似合わない今回の本。

「貧困大国アメリカ」堤 未果

このところこの本の重さにずっしりとやられぎみなのだけれど、飲み込まれず大きな視野でとらえるように努力した方がいいんだろうな。と、とりあえず自分を律する。

*****

ひとことで言ってしまうならば、アメリカで特に80年代以降に推し進められた新自由主義政策の結果社会に広がった歪みについて書かれた本である。

何度かの不況やテロ対策、イラク戦争を背景に、政府は軍事予算などを増大させ社会福祉費の削減を進めてきた。
経費削減の手法は、大幅な規制緩和と市場原理の導入。かつて政府が担っていた業務がどんどん民間に委託もしくは民営化され、市場原理による運営がなされる。

その結果どういうことが起こったか。

著者の見方は大きく言ってこんなことだろう。
○民間会社の目的は消費者サービスではなく株主を喜ばすことである。
○民間会社は収益を上げ配当を増やすため業務のサービスの質を下げと人件費を削減する。
○消費者は高負担低サービスの経済システムに取り込まれ困窮し、中間層は崩壊し貧困化し、貧困層はますます追い込まれる。

これは論旨を抽象的に整理してみただけなので、観念的に聴こえるかもしれない。が、実際はこれらについての具体的な事例に取材した例示がたくさんこの本にはあり、特に従来は公的サービスによって担保されると考えられていた領域の民営化による弊害に絞って取り上げられているようである。

***

例えば教育。
大学の民営化による学費高騰と設備・内容レベルの低下、高校に導入された成果主義と競争主義による教員の疲弊などの、直接的なことも十分に深刻だが、それ以上に学費公費負担の削減と学費ローンの民営化が恐ろしいらしい。

貯蓄率の低いアメリカでは現在高等教育を受けるためにほとんどの学生が学資ローンを組むが、その利率はかなりの高率で、在学中・卒業後に昼夜の別なく働いても返済できなくなるケースがあると。しかも返済が滞ると違約金が加算されさらに返済額が大きくなる。たとえ卒業でき学位を取得しても満足な職に就ける可能性はほとんどない状況のなかでは、返済額は膨れる一方、収入はまったく追いつかない。

この仕組みはさらに、ローン会社の独占化(巧妙に複雑な下請け関係を築き一見何社かあるように見えるが・・・)、破産宣告しても学資ローンだけは免責にならない、あるいは他の低金利ローンへの借り換えができないという法制度(!)などにより下支えされ、一度はまったら死ぬまで抜け出せず深刻化する構造になっている。(というか、死後もローンは残るのだとか!)

学生の多くは、本来自身や国家のよき未来への投資であるはずの教育により、一生ローン返済のために働き、それでも返済しきれずに生活水準を落とし、ブラックリストに載りクレジットカードも作れない貧困層に落ちてゆく運命に足を突っ込むのである。

これを自己責任の名の下に個人の責任にしてしまうのもまた、自由主義的社会の思考回路を利用した罠であるだろう。本当なら当事者を取り巻いた社会経済制度に問題はないのか、構造的な問題であるかどうかを見極めてから、それでも自分の責任なのよってことなら言ってもいいのかもしれないが。体のよい搾取隠し、それなら程度のいいほうで、どこかの国では単なるルサンチマンを発散するためのバッシングの道具にしかなっていない。

閑話休題

この学資ローン問題の悲しいところは、学生の親の世代がそれを理解していないことである。親の世代は公的負担により現在と比較にならないほど少ない自己負担学費で大学を卒業し、高収入の職を得た自由主義者であるから、子供のふがいない状況も自助努力の不足と考えてしまう。高等教育を受けるのは当然で、そうすればよき未来が待っているという家庭のなかで、若者は高額のローンでも躊躇なくサインする。そうした中産階級がまさにターゲットとなっているのだ。そして中産階級のステイタスは実は親の代で終わり。The End. その子供は二極化する社会の「下の方」へとどんどん吸い込まれていく。

さらに背筋が寒くなるのは、この状況を軍がリクルートに巧妙に利用しているということ。9.11を契機に公的機関や民間会社の保有する個人情報を国家が集めることが合法化されている(無制限ではないにしろ)ことを背景に、軍はローン返済に困っている学生の情報を得て、ピンポイントでリクルータを送り込むという。いきなり本人のケータイに電話が来るんだと!
で、こうささやく。入隊すれば残った学費を軍が肩代わりするぞ。職がない一方返済額が膨れ上がっていく状況にある学生にはもはや選択の余地はない。
そのうえさらに、リクルータの提示条件もいざ入隊すると実は虚偽だったりすることもある。学費肩代わりにも実は上減額があり結局ローンはなくならない、とか、実は肩代わりは前納金の納入が条件だったり(そんな金はないので結局返済はできない)、イラク戦争は終結していて危険な地域への派遣はないという話だったのが、さっさと前線に送られたり・・

アメリカ合衆国は徴兵制を廃止しているが、もはや徴兵制は必要ではない。経済的徴兵制により若者はちょっと働きかければ自発的に悪条件で軍に入隊するのである。

**********

という息苦しい話が、ほかにも医療、年金、災害対策、軍隊!などの分野にわたってこれでもかと書かれているのがこの本。

「「小さい政府」「民間活力の導入」「競争原理」で、国民の負担する経費は削減され、サービスは向上する」、というのが新自由主義的改革のうたい文句である。口当たりのいい、一見理にかなったことのように思ってしまうのだが、ものごとには何事も暗い面がある。実際にはその理想とはかけ離れた事態が出来しているわけだ。

日本においても実際小泉改革路線で一旦はその方向に歩み出し、すぐに製造業派遣の問題などが明らかになったわけだけど、こういう制度の改正・導入にはよほど注意してかからなければいけないのだなと、あらためて認識するイチ有権者なのであった。

思えば過去、アメリカの圧力での一連の規制緩和などには、こういうブラックな市場原理主義の世界的拡大という側面があったのだなあ・・と、のんびり回顧している場合ではない。

日本では改革したとたんにリーマンショックとかで景気が悪くなり、制度のマズイ点が一気に議論になったわけだが、冷たく眺めてしまえばこれはまだ傷の浅いうちに立ち止まる機会を与えられたのだともいえるだろう。

自民党政権の末期wには「安心社会実現会議」てのが設けられ、新自由主義的路線を反省し、活力はあるけれどセイフティネットのしっかりした社会を目指すという提言がなされたのは、きっと誰も記憶に新しくないだろうけれど(苦笑)、その地味な反省については、今後の政権もぜひ振り返って受け継いでもらわないと困るかも。
(会議の意見集約素案では「社会的公正と自由市場経済を統合した日本型の自由市場経済」を目指す」とある、と手元のメモにはあるな)

**********

ググってたら、この本に「異議あり」と言っているページがあったので、無断リンクしてみる。http://newsweekjapan.jp/reizei/2009/06/post-15.php

読んでみると「異議」の主旨は、
○アメリカの制度にもいいところがあるのにそれに触れていないのはもったいない
○貧困を問題だといいながら、当事者への愛情や連帯の気持ちが伝わってこない
てことのようである。
○アメリカのリベラルと日本の左翼との相性の悪さを解き明かすヒントが得られない。

まあ、わからんでもないが、異議を唱えるならもっと核心の部分でやってもらいたいという気もする。ここがこのように事実と反する、とかさ。

制度が構造的に暗部を拡大生産しているのだという指摘に対して、いや、こんないい面もある、と言って見たところで、その構造悪が帳消しになるわけでは全然ない。

当事者に愛情を注いで連帯の発想を持ってもいいのだけれど、それがないからと言って社会経済構造の分析結果の価値がなくなるわけではない。そういう冷たい観察者の言葉にだって学ぶべきことはいくらでもあるはずだ。

相性が悪い云々については、もはやこの本の責任ではないしな。

内容的なことについての批判や反論はないので、いったいなんのための「異議」なのか理解に苦しむなあ。(というか、新自由主義の手先なの?とか思ってしまうが・・)


確かに本書では、資本家と投資家の富裕層が(黒幕的に)悪意ある存在であると断じすぎていたり、結論先にありき的に論を急いでいる感じもないことはないが、少なくとも挙げられている事例や分析は一面の事実であることは確かだろう?

だとすれば、この本の価値はまったく下がることはないし、多くの人が読んで、今後の自国の行く末を考える材料とすることは大いに「異議」ならぬ「意義」があることなのだ。

****

この本を読むべき!と発信し続けていたお友達もりくみさんに感謝。




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「オーケストラ!」ラデュ・ミヘイレアニュ

2010-05-19 00:04:12 | cinema
オーケストラ!LE CONCERT
2009フランス
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
原案:エクトル・カベロ・レイエス、ティエリー・デグランディ
脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ、アラン=ミシェル・ブラン、マシュー・ロビンス
出演:アレクセイ・グシュコフ、メラニー・ロラン、フランソワ・ベルレアン、ミュウ=ミュウ、ドミトリー・ナザロフ

監督はルーマニアの生まれ。80年にチャウシェスク圧政から逃れフランスに移住。マルコ・フェレーリの助監督などを経て長編を撮るように。日本では『約束の旅路』(2005・同年セザール賞で脚本賞)が知られる。
てことです。
ワタシはお初にお目にかかります。

前作『約束~』もそうだったようだが、本作『オーケストラ!』でもユダヤ人に関わる問題が題材となっている。

ワタシは知らなかったのだが、ソ連時代、ブレジネフ政権下でユダヤ人排斥が行われたそうで、この映画はその渦中にあったユダヤ人音楽家たちの、その29年後の出来事である。
「ホロコースト後」に、あるいはスターリン批判後に、なおユダヤ人の公職追放などが行われたというのもちょっとしたショックであるが、考えてみればわかるように、特にヨーロッパ~中東世界でのそのへんの話は一筋縄で理解できないし、今に始まった話でもなければいつ終わるというモノでもないだろう。

そういう重たい題材を背景にしつつも、この作品はコミカルで人情味にあふれた軽さを持っている。何につけても深くはっきり掘り下げられることはなく、ほのめかされる程度に描かれるこの映画では、苦しい困難や運命をどっしり提示しないかわりに、悲痛な願いをこめた未来への希望もまた描かれない。こんなんでいいのかな?とふと思わなくもないのだが、時代をそうやって軽くとらえておくというノリもある面では必要なことで、そういう観点でとりあえず認めておくとしよう。

そういう意味で、一番不満を集めそうな点=結局最後にどうなったのかがはっきり描かれない、というところも、逆にワタシには面白く思えたな。音楽家たちが地位を回復したとか、若い世代は希望を持っているとか、そういう「結末」を回避したところに、「事を軽く見る」スタンスを選択した者なりの誠実な一貫性を感じるからだ。「結末」を提示できるほどに大胆不敵な者など本当はそうそういるはずはないのだし、1958年に生まれたルーマニア人の監督にそれが可能だとは決して思ってはいけない。(「結末」が許される映画作家なんて、今はざっと見回した中ではワイダくらいしか思いつかん。)

さて、ということで、結末はいろいろ想像しなきゃいけない。聡明なアンヌ=マリーはおそらくギレーヌの置手紙の段階である程度のことが理解できたのだろう。チャイコフスキーを完奏したことはアンドレイの物語の結末でもあり、アンヌ=マリーの物語のひとつの終わりでもある。どうやら世界を演奏旅行したらしい?彼らの未来はしかしまったく明るくない。よくてもとの鞘に、清掃員に闇市に救急車運転手にポルノビデオの音入れ係に戻るだけ。ギレーヌはアンヌ=マリーのもとに戻りあらためて真実を語り涙のうちにアンヌ=マリーと抱擁するだろう。キャビアは売れず韓国産SIMフリー携帯が飛ぶように売れるロシアの経済は?なお共産党復権に賭けるイヴァン(だったかな?)の忠誠心は?そして、世界のユダヤ人たちは・・・

*********

チャイコフスキーの演奏はクレジットによるとブダペストのオケのもののようだけど、なかなかにダイナミック。あの音がなければ感動はもうちょっと薄いものになっただろう。

これはルーマニア出身監督によるロシア人の物語を描いたフランス映画である。このところのフランスの映画への貢献はこのような越境的なものであるのはなんだかうれしいと思う。CANAL+などの資本の懐の広さなのか。クストリッツァなどのヨーロッパ勢や、トラン・アン・ユンやツァイ・ミンリャンなどのアジア勢まで。

********

twitter上の仮想行政区粒谷区に属するオケ「粒谷区立管弦楽団サジタリウス」のメンバーでやった「オーケストラ!」鑑賞オフに参加して観たのでした。
しかしその日、不覚にも、というかいつものように前半眠りこけてしまったので^^;その翌週、一人で再鑑賞したのでした。銀座シネスイッチは外まで行列ができる盛況ぶりでした。


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「パリ五段活用 時間の迷宮都市を歩く」鹿島 茂

2010-05-13 00:59:26 | book
パリ五段活用 時間の迷宮都市を歩く (中公文庫)
鹿島 茂
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「パリ五段活用 時間の迷宮都市を歩く」鹿島茂

パリ・フランス本第3弾。
章毎に動詞でくくりパリのあれこれを例によって洞察・描写する。
目次はこんなかんじ

第1章 食べる・飲む
パリの朝は美味しい
味覚が世界を動かしたーマリ・アントワネットの逸話をめぐって
フランスパンの発明
フランス人は美食家か?
ヨーロッパのひとびとと酒

第2章 かぐ
匂いの不意打ち
王妃と香水
香水の都の誕生ーパリと匂いの近代
嗅覚と社会的想像力

第3章 歩く
シュルレエルな夢ーパサージュ
無用性の価値を愛することーパレ・ロワイヤル
花火、エフェメラの光芒ーシャン・ド・マルス

第4章 しのぶ
消えたパリの速達便
彩色本の魅力
集団の意識と広告
モードと肉体

第5章 見る
リューマチが生んだ光の都
海辺のリゾートの誕生

第6章 買う
万博と消費願望
デパート文化
データベースとしてのデパート
イマジネールな消費
ヴェルサイユ宮殿の神話

第7章 くらべる
二つのオリエンタリズムー万博にみるフランスとイギリス
FIFAの系譜を読む
集団の夢の行方ーニューヨーク

ふう。

香水がパリで発達した経緯についてはこの本が詳しい。前にも触れたが、単純にパリが悪臭の都だったからだという風説ほど事は簡単ではないのだという話。王室変遷史やペスト流行と衛生観念の発生や変化と東洋貿易を絡めて、なぜパリが香水の都となったかを説明するのは見事。

もうひとつ面白いのは、ロンドンとパリ万博での事物の扱い方や採光を重視した建築の発生を具体的に踏まえ、それを百貨店の発生と大衆消費文化の興隆につなげていく第6章。すぐに思い浮かぶプランタンやラファイエットのあの豪奢なガラスの建築は、ああ、そういうことだったのか~と頭の中でつながっていく快感だ。パリに行ったときにデパートはボン・マルシェしか行かなかったが、他も行っておくべきだったな~

あとは、マリ・アントワネットのセリフとして有名なあの「ケーキを食べればいいじゃない」ってのは、普通に惹起されるような贅沢ボケの世間知らずの発言ではなかったのかも知れない、というのも面白かったな。なるほど~白パンのほうが砂糖菓子より手が届かなかったのかもしれないとはね。
これは、白パンの庶民化がフランス革命に結びついたという考察につながっていってまた面白い。

ということで、ここでもまた一般的な風説をどんどんひっくりがえしてしまう鹿島節を堪能できるのでした。


それにしても、鹿島氏はなんだってこんなにフランスに入れ込むのか?が一番解明されざる謎である(笑)。で、それをまた自分はなんだって面白がって読むのかも、結局よくわからない。やれやれ。


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「のだめカンタービレ 最終楽章 後編」川村泰祐

2010-05-11 01:56:37 | cinema
のだめカンタービレ 最終楽章 後編
2010日本
総監督:武内英樹
監督:川村泰祐
原作:二ノ宮知子
脚本:衛藤凛
出演:上野樹里、玉木宏

最近お金がないのと、粒オケの練習しないといけないのと、夜クラシック聴くのにはまっているのと、ツイッターにはまっているのとで、映画を全然みていない&ここに書くのがおろそかになっている。いかんいかん。

その結果なのか、いつも記事のしたのほうにくっつけてるランキングボタン。これは映画ブログランキングで登録してるんだけど、ランクが面白いように急降下していて笑うしかない。わはははは。

試しにこちらをご訪問いただいた方がみなポチポチとしていただけたらどうなるだろうか?というのをやってみませんか?ちょっとひと手間、ぽちっとやっていただけないでしょうか?(笑)

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↑ぽちぽちと。


********

で、のだめの後編を観てまいりました。ずいぶん前に^^;
公開日前にTVで前編の特別編集版を観てしまったために、頭の中で前編後編がごっちゃになってもうわやわやなのです。

後編はどちらかというと今度はのだめの番、という感じで、彼女のコンヴァトでの苦闘とか、千秋がどんどん成長していくのに対する自分のあり方への不安とか焦りとか、そういうことが主軸に置かれてる。

なので、音楽映画としてはちょっと地味な感じがしないでもなかった。指揮者コンクールでの3指揮者競演(千秋にジャンにカタイラねw)や豊富なオケ曲の披露、マルレオケの迷演から再建へのドラマなど、前編はやはり見た目にも音的にも派手だったよな。

それに対して後編は、なにしろオクレール先生の方針でのだめはコンクールにも出られないし、ひたすら膨大な課題を鬱々と弾いたり、千秋が別居して落ち込んだり、孫ルイに千秋との共演さき越されてこれまたがっくりしたりと、なにやらダウナー気味。

いちおうのハイライトであるミルヒーとのコンチェルトだって、もしかしたらのだめにとってはよくなかったのかもしれない的含みを持たせてるしね。

思うに、これはのだめが成長するか挫折するかの岐路にある瞬間の物語であって、それはそれでいいんだけれど、このさきのだめがどう成長していくかがすごく興味がある。原作も含めて、そこまで続いて欲しかったなと思わずにはいられん。

まあただ、この後の成長をずっと追っていっても物語の肌触りとしてはこれまでの焼き直しになってしまうのかもしれない。一旦舞台をパリに移すことでそのマンネリ感を乗り切ってきたこの物語、さらに先というのはどうやったらいいのか想像ができないな。
いったんはここで中断的ハッピーエンドをもたらして、このあとどうなるんだろうという想像の楽しみを永遠に残すってのもいいかもしれない。

*****

パリ観光的な楽しさも今回はあまりなかったと思う。
それこそポンデザールくらい?

映画館での楽しみとしてはオケの重低音があるけれど、オケ自体の出番も少ないのでちょっと欲求不満。

よかったのはヤドヴィが出てきてくれたことですかね(笑)吹き替えを蒼井優がやってました。でも彼女たちの音楽の楽しみ方はなんだか素朴すぎる気もする。

のだめや清良や孫ルイの弾きっぷりはなかなか迫真で感心したのだが、彼らの中で一番演奏してる感が上手なのは黒木くんだと密かに思っている。



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「パリ時間旅行」鹿島 茂

2010-05-07 23:32:19 | book
パリ時間旅行 (中公文庫)
鹿島 茂
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「パリ時間旅行」鹿島茂

これもつい友きぃさんにお借りした本。

パリの現在に残る「パリらしさ」を入口に、主に19世紀のパリの出来事にさかのぼりその源流をありありと思い浮かべる。という手法はどうやら著者のお得意の切り口でもあるようだ。

目次はこんな感じ。
1 パリの時間旅行者
  (パリの時間隧道(パサージュ)、ボードレールの時代への旅、ベル・エポックの残響)
2 パリの匂い、パリの光
  (香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法、清潔の心性史、パリの闇を開く光、ほか)
3 セピア色のパリ・フランス
  (マルヴィルのパリ、フランスのスポーツ)

特に面白かったのは、香水の話。いにしえのパリは汚物や排水は路上にぶちまけるのが普通で悪臭に満ちていた、とか、カトリックの風習根強いフランスでは入浴という習慣がなかったというのは知られた話だ。が、そこで体臭をごまかすために香水が発達した、という耳当たりのよい風説は、どっこい、ちゃんと検証してみると違うんだよ、ということで、当時の病理についての理解変遷や清潔観念の発生などの社会的な背景であるとか、王室にハンガリーから王妃を迎えたことにより香りをまとう文化が入ってきたという文化交流史などを踏まえ、本当はどのようにしてパリが香水文化の中心になっていったかを生き生きと跡付けてみせる。そのお手並みは見事なもんである。

そもそも悪臭に満ちた町で、貴賎問わず皆が体臭をぷんぷんさせているのが普通な中で、誰に対して悪臭をごまかしたりしなければならないのか。また、風呂に入らない文化はどこにでもあるが、香水が発達したところはまず他にない。言われて見ればそうである。
それに、香水の作られたはじめは、悪臭を隠すというよりはむしろ麝香のような動物的な香りにより強い体臭をアピールするためのものだったとか。
その後ペストの流行などを背景に、悪臭が死の気をもたらすという新しい(しかし実は正しくないw)医学的な考えが浸透し、ようやく悪臭の元であるからだの汚れを落とすという衛生的観念が生まれた。そこに外国のお妃さまが香りをまとっているのを貴族はじめ国民が真似るようになり、さらには蒸留技術の革新により植物系の香りの抽出定着が可能になり、といくつかの要因が重なり合って、ようやく清潔な体にさわやかな花の香りという香水文化の基盤が出来上がる。

なるほどね~

こういう、風説を疑ってみるという著者の態度がワタシは好きだ。

このほか、時間旅行というタイトルどおり、入念な研究成果をもとに19世紀のパリの暮らしを、街路に聴こえる音を切り口に描写してみたり、パリの街路灯がなぜ今のスタイルであるのか、室内灯はなぜあんなに薄暗いのかを考えてみたり。
ちょっと毛色の違うところで、モーツアルト親子が行った欧州ツアーの様子を、レオポルドの日記や当時の交通事情、馬車や汽船の構造などを踏まえつつ再現してみせるなど、これまた興味深い章もあり。決して定説では満足しないこの学者魂がなんともほほえましい。


鹿島さんの書くことは、他の著作でもくりかえし同じテーマを扱っていたりもしているので重複感はあるのだけれど、軽く触れる程度の章もあれば、しっかり深く突っ込んでいる章もあるようだ。なので鹿島さんの著作はどれも読んでみたいというところだ。


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「<ポストモダン>とは何だったのか」本上まもる

2010-05-06 23:23:29 | book
“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007 (PHP新書)
本上 まもる
PHP研究所

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<ポストモダン>とは何だったのか1983-2007 本上まもる



話を単純にするために、最近のネット環境の成長を背景にした音楽を巡る幅広いプレゼンテーションに限って考えてみる。

話題を集める作品(プロアマ問わず)について、最近の人々がすぐに「神」とか(ネ申ですかw)言うのにはいつも違和感があって、まあ単なる現代の常套句にすぎないのよね~とはわかっているのだけれど、そうそう神なんか現れはしないのになにをありがたがっているのだろうと字面どおりに受け取って憤慨したりする古い世代なのです。ネット上では。

彼らだって本気で神レベルを目撃していると思ってはいないのだろうけれど、でもやはり相応のインパクトを受けていることの表明であるのだろう。その神の業をこちらのか細いネットリテラシの範囲で眺めてみるに、おおまかに次の二つの方向があると思うのだ。
ひとつは、プロの職人技に限りなく接近し、商品として流通している作品にひけをとらないものの出現。
そしてもう一つは、逆にそうした既成の像を打ち破り、得体の知れない存在感を放つものの出現。

両者に対する神の称号の内実はもちろん異なっていて、文脈によって評価の度合いが異なるのはもちろんのことである。で、本当の神はいうまでもなく後者の姿をとるわけで、そういったものにも称号が与えられるのは、まあ一般論的には希望を持てることではある。
(前者について考えるのも楽しいのだが、ここからは後者について。)

ここでうまいぐあいに期せずして神の文字を冠したバンド「神聖かまってちゃん」が話題なのだが、(彼らが神とあがめられているかどうかは実は知らない)、YouTubeなどを駆使した手法や、ゲリラ的活動の過激さ(というか面白さ)を背景にしつつ、ボーカルの中性的で逝っちゃってる感は面白い、ということになるのだろう。

しかし、ワタシにはこれがちっとも面白くないのだ。手法の目新しさは面白いと思うけれどもそれはどちらかというとネットの面白さなんだ。の子さんの存在感は認めるけれども、なんだろな、激しく既視な感じがするんだな。存在感も、素人が既存のメディアに頼らず名を上げていく過程も、我々は既に知っている。

結論的に断じてしまうと、それらは我々は既に80年代のアンダーグラウンドもしくはオルタナティヴのシーンで体験済みなのだ。あの時代、我々は一斉に、与えられたものではなく自分たちのものを、与えられたルールではなくそれぞれのやり方で、作り発信した。そのとき我々が切り開いた地平とは、そういうことが可能なんだという覚醒であり、それは当時の音楽シーンでは画期的なことだったのだ。

いま道具立てはネットに変わったが、人間たちのやっていることは基本80年代に開かれたフィールドの上での変奏のままなのだ。



ということをここで実感したワタシ的には、こう思わざるを得ない。
今なにかを「神」とあがめる前に、80年代を総括しておいたほうがいいのではないのか?
あの時代の出来事を知ったうえで、なお神と呼ぶべきものが今の時代にあるのか?
と。

新しくなければいけないと言うつもりはない。ただ既知のものを新しいと勘違いしてしまうことのかっこ悪さを恥じるのだ。
なので、これからは、音楽に限らず、自分なりに80年代を捉えなおすことに努めてみたいと思う。そのことで今を見る感覚を磨けるように思うのだ。

(追記的メモ:
もちろん80年代が自分のよき時代だったということが大きく影響している。あの時代はこんなにすごかったんだと位置づけて栄光に酔いたいというごく個人的な弱い動機が自分にはある。
それに80年代もまた、過去の出来事を参照しつつ形成されたことも踏まえなければならない。特に60年代以前の出来事。寺山修二、フルクサス、ユーロロック、シュルレアリスム、ダダ、第二次世界大戦、江戸川乱歩、未来派、全体主義、共産主義、ロシアアヴァンギャルド、etc.etc.)

*****************

と、ここまでが前置きで(笑・やれやれ)

音楽についてはいろいろ調べて整理したいとは思いつつも、実は個人的にずっとひっかかっていたのは、それじゃなくあれですよ。
80年代といえばニューアカじゃないですか。当時えらくかっこいいことに見えたし表層的には行動や言動に影響を受けたもんであるが、しかし実はよくわかってなかったんだよね~
だいたいのひとはそうであったろうけれど。
なわけで、この際いまさらながらニューアカってなんだったのかを整理しておきたいなあと。(いや、整理=理解と言うこと自体ニューアカ的知とは違うアプローチなのかもしれないけどさ)

で、ここは一番、例の「構造と力」を読んでみようじゃないの。と思ったのだけれど、ちょっと荷が重い感もあり(すでに及び腰)なにげなくいろいろググっていたところ、なんとそのものズバリなタイトルの本があるじゃないですか(笑)「<ポストモダン>とは何だったのか」。

目次的にもぴったり感。83年の状況を振り返り、ニューアカの基礎となったフランス現代思想を概観し、浅田-柄谷-東と日本におけるポストモダン言説を跡付け、その後である現在の状況とそこにおけるポストモダンの意味を問い直す。
ああ、やっぱり同じように総括の必要な人がいたんだなw

さっそく購入し読んでみると、やはりそう簡単には整理総括できない問題で、(まあ当たり前だけれど)決してこれ一冊ですべてをわかった気になるようなものではない。ラカンやドゥルーズ+ガタリの思想だって結局それほど簡潔にまとめられてはいないし、浅田たちの業績もなんだかわかったようなわからんような・・・

それでもこの筆者は基本的にはポストモダンの問題系をしっかり把握しているらしいことが感じられるし、それを踏まえた現状況の描写と断罪の手つきは、バランス感覚に優れ、時流に迎合したり過度にドグマ化したりない。後半のこの著者の断罪とメッセージのなかにこそ、ポストモダンとはなんだったのかというまとめがあると思ってよい。

なつかしいスキゾ・パラノの二項と、その後の動物化した人間像の議論を踏まえて、著者はあえて図式的に現代における人間の4類型を示してみせる。(「暴力的に」要約する、と著者はよく述べる。)

現代に顕著となった「動物」としての人間は、人格形成の基礎過程とみなされたオイディプスコンプレックス的転移を経ていないかも知れず、物質的豊かさを背景に欲望は即座に充足され、ネットの発達に助けられながら個々に形成される妄想的価値体系の中を充足的に生きる。
80年代に提起されたスキゾの問題軸が、モラトリアムを助長する思想として表層的に流通し消費されそして批判されたことや、その後サブカルチャーが市民権を得ていく状況のなかで、そうした動物的なあり方が一部で新しく先進的なことのように扱われたこともある。

しかし、「動物」としての人間は結局自らを規定する価値や真理を体系的にとらえることなどできず、もちろんそうした価値をとらえて相対化することもできない。都合のよい価値を都度刹那的に受け入れて欲望のおもむくままに生きるほかない。これを退行と位置づけ、今我々に必要とされているのは、83年に提起された問題系を再度捉えなおし評価すること、すなわち過去の流行としてではなく思想的な意味でのスキゾ的人間像を捉えなおすことなのだ。未来の人間に希望があるとすると、そこへの道はいまもなおポストモダンの問題系にあるのだ。そのように著者は主張する。

ワタシは基本的にその観点には賛成である。


動物的人間の形成を反映した世相として(とは明言していないが)著者はいろいろな事例を挙げるが、印象的だったのはまず、社会の心理学化という話。「癒し」の言説がこのところ隆盛だが、このことが、社会制度の矛盾もしくは不備により生じている人格的精神的な変調さえも、個人的な「心の問題」としてとらえるとこにつながっている。高次の制度を見極めそれを変革していくという視点がそこには欠如していて、口当たりのよい癒しの言葉のみが個人の責任で解決すべきとことしてささやきかけられる。本来は心療内科以前に社会制度の改善によって打開されるべきことは、そちらから手をつけるべきなのだと。
また、心の問題があるとしてその解決は心地よい癒しなどとは本来無縁で、精神分析の過程で明らかなようにしばしば患者の思いもよらない、むしろ本当の意味で不愉快な事柄に直面することによってなされるものだとも。

それから、カルト。動物が大勢の社会においては、超越的な価値を求める者(オイディプスコンプレックスによって父権的なものに規範を求める者)が向かうべき道はほとんどなく、数少ない行き先はカルト集団くらいだという話。かつては例えば政治運動に没入したであろう人間の向かう先。学府であってももはや真理の追究の場ではない(「構造と力」の最初の章を参照のこと)。そのカルトもまた95年以降は相対化され、行き場はさらに先鋭化しているといえよう。

一方でカルトもしくはオカルト的世界観は、孤立した価値体系をそれぞれに生きているはずの個人たちが希求する仮初の一体感を与える場でもある。それは規範に基づいて一貫して追求された価値(父権的)への没入ではなく、心地よく受け入れやすく都合のいい言説(母性的)への依存である。



ちょっと長いが、本書結論の中から引用して終わろう。

「「癒し」と「オタク」と「オカルト」、これらはいずれも成熟した近代の矛盾に対するきわめて安易な処方箋であった。一方、母なるものに対抗しうるほとんど唯一の可能性が、この三つを除去したあとに残る「八三年の思想」の核心部分であった。それは西洋哲学史の総体を引き受けたうえで、批判的に乗り越え、近代の理念の徹底のうちに近代の限界を乗り越えようとするものであった。われわれは八三年の段階で到達したこの地平を再度確認し、九〇年代以降の安易な退行=母なるものへの回帰を拒まねばならない。「はじめにEXCESがあった」。EXCES=過剰こそ母なる予定調和を破る「力」であった。」

もちろん結論として80年代はよかったとか世代論におちつくことを指しているのではない。文中にあるように総体を引き受け批判的に乗り越えていくことが必要なのだ、と申し添えておく。
単純に知識本として読むといまひとつまとまっていないようでもあるが、ニューアカの問題としたところは何かを感覚的につかむにはとてもよい本だったと思う。

*************

著者は83年時点ではまだ10代前半であり80年代をティーンエイジャーとして過ごしたわけで、なかなかに早熟な人のようだ。世代的な面白さとしては、本書に「坂本龍一」で項を設けていることだ。坂本は確かに知的な面のあるミュージシャンではあったが、どういうわけかあの時代、浅田とともにニューアカのなかのさらにマテリアリズム的な側面の芸術的象徴のような存在になった。YMOや彼のソロを聞きながらスキゾキッズというキーワードを心に宿しながら、ワタシたちは日々を暮らしたのである。

その坂本もいまではディープなエコロジストとして、ほとんど宗教的な迫力さえ帯びていて、中沢新一~細野晴臣的世界に接近しているようである(笑)。
30年はやはり長い年月なのだ。

それから、東浩紀がそんなにすごい人だとは思っていなかった。オタク文化評論家程度に思っていた。「存在論的、郵便的」も読んでみよう。



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「ソラニン」 三木孝浩

2010-05-03 01:46:31 | cinema
ソラニン
2010日本
監督:三木孝浩
原作:浅野いにお
脚本:高橋泉
音楽:ent、ASIAN KUNG-FU GENERATION
出演:宮崎あおい、高良健吾、桐谷健太、近藤洋一、伊藤歩、ARATA、永山絢斗、岩田さゆり、美保純、財津和夫



基本センチメンタルな人間なんですけど
映画の日だし、宮崎あおいちゃんの姿を大画面でみてやるか的気分
「ソラニン」を観に行ったのです。渋谷のシネクイントに。

そしたらもう冒頭河川敷からなんか涙腺がゆるみ
中盤からはワンカットごとに、どー、と涙が流れ
終盤は号泣になるところを必死にがまんしてたというていたらく。

さすがにひとりで観に来ている中高年メタボとしては
嗚咽号泣うえっうえっ!という事態だけは避けなければならん
左右に座る推定ワタシマイナス20歳な若者たちにしめしがつかん!と
全身筋肉を緊張させて嗚咽だけは避けることができたのだが、
観終わった後文字通りムネが苦しく全身ぐったり状態に。
こんな疲れた映画は近年ないね



バンドやってて、時の経過とともに現実に向き合っていかざるを得ないときの
あのぼんやりとした無力感というか居場所なし感ていうのは
もはやどこにでもある普遍的な物語でもあり
自分にとっては20年前にとうに過ぎ去ったドラマでもあるのだが、
この映画がなんの解決も導かないのと同様に
その20年前のドラマにしたって実はまったく解決などしておらず
号泣の原因はその蛍火のように残り続けている無力感にあるのだなと思ったりする。
それがノスタルジックな既視感によって涙腺刺激要素が増幅されているとはいえ、
若者には不思議に思えるかも知れないが、
バンドオヤジでさえもいまだひっかかりのある話なのである。


が、一方では若い時期の強烈なドラマ直面を、すでにこちとらは乗り越えてしまったのであって、
いわば生き延びたあとの物語をこそワタシは生きているのである。

蛍火の無力感は、裏返せばイコール情熱とも置き換えられるのであって、
生き延びた後の世界のありようの中でも、それなりに形を変えて情熱を形にしていくことだって実は可能なのだということが、今ならばわかる。

ソラニンのリアルタイムな者たちよ。
ここはなんとか生き延びて、その後の生を蛍火に導かれて生きよ。
炎の大きさではない、炎を契機として開かれる深淵を知りながら生きることが出来るのが重要だ。
大丈夫だ。
それを形にする手だてはなお存在し、その手段も多様化し変化しているではないか。
生きる道はこれから開かれるのだ。

***

燃え尽きかけた青春を、最期にはなばなしく燃え上がらせてカタルシスを得る的な
ありがちなドラマではなくて、ここでは仮に音楽に身も心も吸い上げられた者が経験する、
一種の脱構築、世界の枠組みからどうしようもなく逸脱してしまうこと、その厳しさをとらえている。
それが『ソラニン』の優れたところであり、浅野いにおの力量であって、その核心ををしっかり映画でもつかんでいるのがすばらしい。

アイドルの「アーティストデビュー」のためのバックバンドになってデビューへの足がかりを作っていくのが例えば、構造の外に逃れつつも外側にある別の構造に組み込まれるという形の脱構築だとするならば、
種田や芽衣子たちの感じていることは、本当の脱構築?どこまでも構造にとらえられまいとするなにか内なる衝動なのだ。
それは前者に対して言えば、はるかに過酷で堪え難いポジション(というか非ポジション性)なのであり、
その過酷で堪え難いさまをこそ浅野と映画は知っているのだ。

そこに愛と暴力と死と怠惰があるのももちろん偶然や飾りではないわけだな。

****

しかし、宮崎あおい(て、ただしい崎の字がないんだけど~ことえり~)ちゃんは、実にかわいいね。
ちょっとあざとい感じもしないでもないが許す。
あんなのが近くにいたら種田じゃなくても人生狂う。犯罪的ですらある。

ただし彼女がビール?飲むところはどうしたってウメッシュな感じがしてしまうのが難点だw



サンボマスターの彼(加藤=近藤洋一)は、ほんとは俳優じゃねえのか?というくらいにすばらしい動きをしていた。
ありえない。

「ルーキーズ」にもでてたドラムの彼(ビリー=桐谷健太)だって、あんだけドラム叩けるんかよ、すげえな!

種田の高良くんのギターだってすごいし。
若い連中の才能ってすごいんだな。

あおいちゃんもあんだけ短期間にギターあれだけマスターできればすごいよな。
ついったーでソラニンのアカウントがつぶやいていたところによると
彼らのライブシーンなどでの汗は、もう本物の汗だっていうしさ。
そういう映画ならではの身体性を見事に与えているところもいいよな。


とにかく号泣よ号泣。嗚咽号泣滂沱。
泣きゃあいいってもんじゃないけど、このワタシを号泣決壊寸前にまでもっていきやがった映画の記念として、買う予定のなかったパンフを帰りに買いました。

終わり。




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