♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■救いの道ぞなえ / 羽鳥頼和

2015年04月18日 | Weblog
2015/4/18放送
 
 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日はバプテスマのヨハネについてお話しします。

 彼はイエス・キリストに先立って働いた預言者でした。彼は荒野で人々に悔い改めに基づくバプテスマのことを語り、そのバプテスマを授けていたのでバプテスマのヨハネと呼ばれました。バプテスマとは洗礼のことで、彼は人々に罪を悔い改めることを勧めていたのです。彼の働きはおよそ700年前、預言者イザヤが神によって預言していたことでした。
 「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」 (新約聖書 ルカ福音書3章4~6節)

 ヨハネの話を聞いた人々は心を動かされ、ヨハネの所に来て言いました。「私たちはどうすればよいでしょう。」(参照ルカ 3章10、12、14節 ) ヨハネは人々の心を探り、心にある暗闇に光を当てたのです。罪を示された人々は神の救いを求めました。ヨハネは人々の心を整え、救いを求める思いを与えたのです。

 そこにイエス・キリストがやってきました。キリストは言いました。「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」 (マルコ1章15節) 

 教会に来ている中学生の Y 君が私の所にやってきて言いました。「自分の心が本当に汚いことが分かった。でもその心にイエス様をお迎えしたいので、お祈りしてください。」  Y 君は聖書のお話を聞き、自分の心が汚れていることを知って、そんな自分の心が嫌になりました。なんとか綺麗な心、良い心になりたいと思いましたが、自分ではできません。そうだ、イエス様なら助けてくれる、そう思ったのです。Y 君にイエス・キリストのメッセージが届いたのです。

 「悔い改めて福音を信じなさい。」 このメッセージはすべての人に語られています。あなたも自分の心を見つめてください。あなたの心に暗闇はないでしょうか。誰にも触れられたくない暗闇はないでしょうか。イエス・キリストは光として私たちの心の闇を追い払ってくださいます。

 明日は日曜日です。自分の心を見つめ、キリストの福音を聴きに、お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.4.18放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■ちょっと分かりにくい用語(41) なだめの供え物/岩井基雄

2015年04月17日 | Weblog
2015/4/17放送
 
 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。先月は「贖い」につい学びましたが、今日ももそれと関わりの深い「なだめの供え物」ということについて学んでみましょう。

 「なだめる」という表現は、「機嫌をとる、怒りを静める」という意味を持っていますね。「神をなだめる」という表現は腑に落ちないという方がいらっしゃいます。愛である神様がなぜ怒るのでしょうか。神様の機嫌をとる必要などあるのでしょうか。確かに聖書には神の怒りが表わされていますが、それは人の罪に対する聖なる怒りです。人を深く愛する神ゆえの悲しみとも言える怒りです。私たちでさえ悪への怒りを持ちますよね。

 聖書にはこう記されています。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 新約聖書 ヨハネ第一の手紙4章10節

 人が犯した罪と過ちに対して聖なる怒りと悲しみを現された神に対し、イエス・キリストがご自分をなだめとして差し出されたというのです。しかしその背後にあるのは神ご自身の愛でした。それは神の怒りに対して、神がそして神の御子がなだめとなられるという愛だったのです。神様の愛はご自身の怒りよりも大きく、私たちに救いの道を開かれたのです。

 実はこの「なだめの供え物」ということばはギリシャ語ではヒラステーリオンということばで、本来は「贖いの蓋」を意味しています。この贖いの蓋は旧約聖書に記されている神の臨在を表す契約の箱の上に置かれた純金で出来た蓋でした。民の罪を赦すためにこの贖いの蓋の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれたのです。しかし神の御子であるイエス・キリストの贖いはただ一度だけで十分でした。キリストがただ一度なだめの供え物となってくださり、あなたのすべての罪が赦され、いのちと救いを受ける道が開かれたのです。

 聖書のことば

 「この方こそ、私たちの罪のための ― ― 私 たちの罪だけでなく、世全体のための―― な だめの供え物です。」 新約聖書 ヨハネ第一の手紙2章2節

 あなたの罪の赦しのためのキリストの愛をあなたも受け取り、いのち溢れる歩みへと進み出しませんか? 

(PBA制作「世の光」2015.4.17放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■わたしのはらわたはわななく / 福井 誠

2015年04月16日 | Weblog
2015/4/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「わたしのはらわたはわななく」です。 イザヤ書16章11節から読んでみましょう。

 「 それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。

 イザヤ16章はイスラエルの周辺の国モアブに対する神のことばが記録されています。神は高慢と邪悪さの中に落ち入っていたモアブの国に悔い改めを促しています。しかしモアブは悔い改めることができません。高慢はまさに破滅への罠。人が高慢に落ち入るほど恐ろしいことはないものですね。というのも、人が高慢になると、自分を過大評価し自分の考え方に凝り固まって、他人のことばに素直に耳を傾けることができないからです。結局、高慢の中で滅びに突き進んでしまうことがあります。まさにモアブはそんな国でした。

 しかし神はそのように破滅に進むモアブの国を冷ややかに見ておられるのではなくて、実は深い痛みをもって見ておられるというのです。「 わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。 」 はらわたも内蔵も感情の座です。

 神は、高慢に陥ったモアブが滅びに突き進んでいく様を見て、いい尽くせぬ突き上げような悲しみを味わっているのです。何とかそこから救われて欲しい。自分で気が付いて滅びないで欲しい、と願っておられるのですねえ。神は悪者を裁かれるとは言いますが、神が悪者を滅ぼすのではなくて、悪者が自らの愚かさの中で滅んで行く、と言うのが本当なのですね。人には自分が失敗したと思う時があるものです。高慢になってとんでもない失敗をしてしまったな、と思う時があるのですね。それは気づきです。そんな時に、失敗は失敗、もうなるようにしかならない、と人生を諦めてしまうのではなくて、むしろ人生の失敗に悲しみを抱くあなたの心を自分の心のように感じておられる神様の存在を覚えていただきたいと思います。神様は悔い改め神によりすがる者に必ず答えてくださるお方です。そんな神様を覚えて、いつでも謙虚に人生を歩ませていただきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.4.16放送でのお話より )

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■区別される地 / 板倉邦雄

2015年04月15日 | Weblog
2015/4/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「区別される地」という題でお話ししましょう。

 聖地ということばがあります。エルサレムはキリスト教の聖地。メッカはイスラム教の聖地ですね。聖地とは他の地からは区別された地のことを言います。エジプトの地でイスラエル人が住んでいたゴセンの地は区別される地となりました。

 さて主なる神様はモーセに言われました。

 「王様にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。わたしの国民を去らせてわたしに礼拝させなさい。もし許さないならエジプト中にアブの大群を発生させる。家々はアブだらけになり、地面もアブだらけになるだろう。しかしわたしはわたしの国民の住むゴセンの地を区別して、そこにはアブの大群は入らない。一匹も入れない。こうしてわたしが全地を支配している神であることが分る。お前の国民とわたしの国民とをはっきりとを区別するのだ。』」(出エジプト記8章)

 主なる神様は言われた通りになさったので区別されたゴセンの地にはアブは一匹も入ることはありませんでした。しかし王様の屋敷には、エジプト中のどの家にも、恐ろしいアブの大群が現れました。エジプト全土はアブの大群のために災害を受けたのです。顔や手は腫れあがりました。

 聖書の主なる神様は差別はされませんが区別をされる方であると言うことです。区別する条件はご自分に対して反対するか、ご自分を敬うか、と言う点にあるようですね。ご自分の国民とそうでない国民とを区別するようなのです。このご自分の国民として区別した人々を聖徒と聖書は呼んでいるのです。聖徒とは聖人のことではなく、主なる神様のために区別され神様のために使い走りをする人のことでありましょう。ちなみに聖という漢字の源の意味は、王様の口から出ることばを耳で一つ残らず聞いて従う人のことです。主なる神様はそのように区別された聖徒たちのいる所を聖地としてくださり、様々な災いから保護してくださるのです。

 聖書のことばです。
 「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
」 詩篇121篇1節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2015.4.15放送でのお話より )

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■主の祈り-11 / 大嶋重徳

2015年04月14日 | Weblog
2015/4/14放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。この主の祈りは、「天にまします我らの父よ」と始まります。私たちが祈りを捧げる神様は「父」と呼ばれる神なのです。

 ここで確認しておきたいことは、「父」と言うことばは男性の性別を表すものではありません。何も神様が男性だということを表しているのではないのです。そうではなく、この祈りを教えてくださったイエス・キリストと天地を創造された神様が、父と子、という親密な関係をもっておられるということなのです。私たちが祈りの中で、イエス・キリストの御名によって祈ります、ということばをもって祈り終えるとき、この父なる神様と子なるイエス様の親しい交わりの中に私たちも入れられながらお祈りをしたということになります。時に、地上の家族は崩壊していることがあります。どれほど多くの人が自分の父親に傷つき、家族に失望しているでしょうか。ある人は、「『父なる神よ』と祈ると、自分を痛めつけてきたあの父を思い出して、苦しい。」と言われたことがあります。またある人は、「自分の父親に育てられたことを思うと、自分もまたまともな父親になれるだろうかと不安になって来る。」と話してくださった方もおられます。しかし、私たちは主の祈りを祈り、イエス様と父なる神様との親しい関係の中を過ごしているうちに、父という存在の持っているイメージを回復していくこととなります。神様を父と呼び、この父に子とされたことによって、私達がどれだけ地上の父親に傷つけられたとしても、神様が新しい父のイメージを私たちに与えてくれるのです。父なる神様の前で、リラックスし、祈りの中で父なる神との会話を喜べるようになっていきます。そして自分が父というイメージに傷ついてきた癒しも起こって来るのです。そしていつの日か、自分も父なる神のような父親になりたい、そのような神を信じる夫と結婚をし家庭を築きたいと願う思いも与えられていくのです。そしていつの日か、少しずつ少しずつであっても自分の父親とも和解をする日を持つことができるようになるかもしれないのです。主の祈りは私たちの傷ついた心の癒しと回復を与えてくれる祈りでもあるのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.4.14放送でのお話しより )

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■失敗しても価値は変わらない/関根弘興

2015年04月13日 | Weblog
2015/4/13放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書に登場するペテロはイエス・キリストの弟子の中でもリーダー的な存在でした。しかし彼にとって人生最大の失敗がありました。それはイエス様が捕えられた時、何と「イエスなど知らない!」と三度も否定してしまったんですね。ペテロはこの大失敗で、彼が持っていた自信も誇りもすべてが崩れ去ってしまいました。

 でも聖書はこのペテロの大失敗を通して大切なことを教えようとしています。その一つはですね、失敗してもあなたの価値は変わらない、ということです。

 私たちは失敗を重ねるたびに自分の価値が減少すると考えてしまうことがあります。また失敗した時、自分をただ責めるだけでその失敗から学ぼうとしないことも意外に多いんですね。実は私たちに失敗はつきものです。失敗のない人生なんてどこにもありません。でも失敗するたびに自分を責めまた人からも責められていくと、自信を失ってしまいます。

 聖書はこのことをどのように見ているのでしょう。神様は私たちが失敗しやすい者であることを御存知です。そしてそれを承知の上で私たちを愛してくださっていることをあなたは御存知ですか? 

 少し考えてみてください。イエス様はペテロの裏切りを見て態度を変えられたでしょうか? イエス様のペテロに対する態度はそこから急に冷たくなった、とは聖書のどこにも書いていません。イエス様はそういう方ではないからです。イエス様は私たちが失敗した時、責めるのではなく、赦し癒やし諭してくださるお方です。そしてこれからの生き方を聖書のことばを通し示し、希望を与えてくださる方なんです。

 私たちがどんなに失敗しても、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てない。だからわたしと共に歩んで行こう。」とイエス様は語り続けてくださるんです。イエス様はペテロの弱さも承知の上で、「ペテロよ。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。励ます者になりなさい。」と、将来の生き方を示してくださいました。私たちは失敗した人に向かってなかなかそんなことは言えませんよね。でもイエス様はただことばで語るだけではなくて、私たちがそのように生きていけるように、支え助け力を与えることができるのです。イエス様は、あなたが失敗してもあなたの価値は変わらないのだ、わたしのあなたへの愛は変わらないのだ、と今日も語り続けています。私たちはたとえ失敗しても神様が常に高価で尊い者として見ていてくださることを忘れないことにしましょう。

 (PBA制作「世の光」2015.4.13放送でのお話しより)

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■キリストとともによみがえらされ / 羽鳥頼和

2015年04月11日 | Weblog
2015/4/11放送
 
 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。先週から今日までイースター・スペシャルをお送りしてきました。今日はその最後のメッセージです。今日はキリストのよみがえりが私たちにとって素晴らしいことであることをお話ししたいと思います。特に生きていても空しいと感じる人に、キリストのよみがえりは本当に救いであることをお伝えしたいと思います。

 旧約聖書伝道者の書の6章は人生の空しさを語っています。ある人は巨万の富と名誉があり、欲しいものは何でも手に入れることができたのに健康に恵まれていなかった、そのために早死にしてしまい、全財産は他の人の手に渡ってしまった、何とむなしいことだろう。またある人はたくさんの子どもに恵まれ長寿であったのに、貧しかったので子どもたちはその人のために葬儀をあげることができなかった、これもまた空しい。どんなに長生きしても幸せでなければ生きているのに何の価値があるだろう。私たちの人生は楽あれば苦あり、そしてその苦しみのために私たちは絶望してしまうのです。そして人生は空しい、と思うのです。そんな私たちのために神は救いを与えてくださいました。
 
 新約聖書エペソ人への手紙2章4節から6節には、イエス・キリストによって与えられる神の救いがこのように教えられています。
  「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」 よみがえられたキリストと共に私たちはよみがえらされたのです。そしてよみがえられたキリストがおられる天国に私たちも共にいる、と言うのです。これは素晴らしいことです。空しいこの世にあっても、新しく永遠のいのちが与えられているのです。そしてこれからずっといつも天国にいるように安全で安心な神の守りの中に希望を持って歩むことができるのです。

 明日は日曜日です。キリスをよみがえらせてくださった神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.4.11放送でのお話より )
 
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■主の復活の確かな希望 -あなたのための復活-  / 岩井基雄

2015年04月10日 | Weblog
2015/4/10放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。ルー・ウォリスという人がキリストの復活を否定する本を書こうとしました。しかし研究を進める中で彼は、復活はどうしても否定できない事実であることを確信し、1冊の小説を書きます。その小説こそ映画化もされた有名な『ベン・ハー』でした。

 キリストの復活は事実だったのでしょうか、四つの視点から考えてみましょう。

 第一に、空の墓です。ローマ兵による厳重な警備がされていた墓からイエス・キリストの遺体はなくなりました。もし盗んだのが弟子たちならば、彼らは墓の警備兵を倒し、遺体を隠し、イエスを復活をねつ造したことになります。しかしこの後弟子たちは全員イエスの復活を伝えて殉教して行きます。自分たちが作った嘘のために全員が死ねるでしょうか。

 第二に、目撃者の存在です。新約聖書には、イエスが復活後、弟子たちを始めとして500人以上の人に同時に現れたことが記録されています。その目撃者たちがまだ大勢生存している中で聖書は記され読まれていったのです。

 第三に、弟子たちの変化です。最初は主の復活を信じることができず隠れていた弟子たちが、後には命がけでこのイエス・キリストの復活を宣べ伝えて殉教して行きます。あの臆病だった弟子たちの劇的な変化をどう説明することができるでしょうか。
 第四に、礼拝する日の変化です。安息日の土曜日の神への礼拝をユダヤ人たちは固く守っていました。しかし同じユダヤ人である主の弟子たちはキリストの復活を記念として週の初めの日の日曜日に礼拝するようになったのです。ユダヤ人たちが礼拝する日を変えるというのは、誰もが納得のできる理由や事実がなければありえないのです。イエス・キリストの復活は事実なのです。

 聖書はこう語ります。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」  新約聖書 ローマ人への手紙4章25節

 イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかられ、あなたが義と認められ本当の希望といのちを持つためによみがえらたのです。あなたもそれを受け入れて真の希望といのちに生かされて行きませんか?

(PBA制作「世の光」2015.4.10放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
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■キリストはいつも生きていて/福井 誠

2015年04月09日 | Weblog
2015/4/9放送



 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「キリストはいつも生きていて」です。ヘブル人への手紙 7章24節、25節から読んでみましょう。
 「 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 先週、ヘブル人への手紙(9章)からお話したように、イエス・キリストの十字架は私たちに罪の赦しを与えるものでした。罪は水に流すものではなく血の犠牲によって赦される、これが聖書の基本的な考え方です。その思想的な背景のもとに、イエスの十字架の犠牲がまさに全人類の罪の赦しのための尊い犠牲であった。ただ一度限りの永遠の犠牲であった、と語られるのです。そして更に聖書は重要なことを語ります。罪の赦しの偉大なわざを成し遂げられたイエスはその後復活された、ということです。

 大切なのは、復活されてどうしたのか、ということですねえ。復活の意味は、イエスがまことに神の子であったことを証明するものである、といろいろと説明されもしますが、もっと実際的な意味は、キリストは今も生きていて、いつも生きていて、私たちのために働いておられる、ということでしょう。つまりイエスは私たちの罪の赦しのために大きな犠牲を払ってくださっただけではなく、今なお私たちの罪の赦しのアフターケアをなさっておられるということですね。私たちは罪赦された恵みを覚えて新しい人生を歩もうとするものですが、やはり救われた罪人です。なかなか罪なきまっすぐな人生を歩むということは難しいことなのです。けれども繰り返し失敗し、バックスライドすらしてしまう私たちのために、イエス様は神の右の座にあって神様に執り成しを続けておられます。私たちの弱さを神に語り、十字架の恵みの確かさを語り続けてくださって祭司の務めを忠実に果たしてくださっている、と言うのです。このようなイエスの働きが今なおあるとすれば、私たちは安心して神に従う歩みを続けられることにもなります。復活し、今なお私たちのために執り成してくださっているイエス様を信じて神に従う新しい人生を積極的に歩み続けたいものですね。

(PBA制作「世の光」2015.4.9放送でのお話より )

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■義とされるために / 板倉邦雄

2015年04月08日 | Weblog
2015/4/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「義とされるために」という題でお話ししましょう。始めに聖書をお読みします。
 「(イエス・キリスト)は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」 ローマ人への手紙4章25節 口語訳聖書

 先週の受難週では、このことばの前半をお話ししました。今日は後半の部分をお話ししましょう。

 主はよみがえらされたのである。主イエスキリストは十字架の死に渡されました。死に渡したのは父なる神様でしたね。しかし今度は同じ父なる神様が、死んで陰府(よみ)という死者のいる所へ送られたイエス・キリストを陰府から帰らせなさったというのです。

 キリスト教の古代の信仰告白と言われる使徒信条の一節にも、主イエスキリストの死者からの復活の出来事を告白しています。キリスト教にとってイエス・キリストの十字架の死と復活は重要な歴史的な出来事だったのです。それは私たちが義とされるためにとても重要なことでした。イエス・キリストの十字架の死は私たちの罪過の償いのためでしたね。私たちの身代わりとなって罪の刑罰を受けてくださいました。罪の支払う報酬は死である、と決まっているからです。ですから主イエスキリストは十字架で死んで葬られ、死者の行く陰府にまできっちりと行かれました。そして私達がただキリストを信じる信仰によって神の前に義と認められるために、父なる神様は主イエス・キリストをよみがえらされたのです。

 漢字の「義」という文字を分解しますと、「我」の上に「羊」がかぶさっていますね。神の小羊であるイエス・キリストが私たちの上にかぶさってくださる、罪深い私たちを覆ってくださるのです。ですからキリストを信じるすべての人々を自分と一緒に死よりよみがえらせてくださるのです。

 聖書のことばです。
 「もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
     第一コリント人への手紙15章16節から17節  口語訳聖書

 (PBA制作「世の光」2015.4.8放送でのお話より )

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