図書館で借りていた本をだいたい読み終えて、ようやくだいぶ前に購入していて読むのを楽しみにしていた村上春樹翻訳の『グレート・ギャッツビー』にとりかかった。
『グレート・ギャッツビー』は野崎孝の訳のものを一度読んでいる。好きな作家である村上春樹にもっとも強い影響をあたえたこの小説の素晴らしさが残念なことに僕は今ひとつよくわからなくて、何度か挫折したあとでようやく無理矢理一度だけ読了したのだ。そんな『グレート・ギャッツビー』も村上春樹の手にかかればと思って読みはじめたわけだけれども・・・
やはりいまひとつよくわからない。
最初の数頁は何度か挫折しただけあって、わからないなりにかなり記憶に残っているのだけれども、含蓄がありすぎるのか、時代背景が違うからなのか、それとも人の心の機微に僕が鈍感だからなのか、きっとすごく意味のある文章なんだろうなぁとは思うのだけれども、村上春樹訳でもいまひとつ僕には理解できないのが結構悔しかった。とは言え、このいまひとつ理解できない最初の文章が、すべてを読み終えたあとに、空気が澄んだときの遠くの景色のようにくっきりと浮かびあがってくるということも考えられるので、今回は挫折せず最後まで読んでみようとは思っているのだけれども。
ところで、この『グレート・ギャッツビー』のように最初の数頁だけは、という本が僕には何冊かある。当然その多くが挫折した本である。志高く、少し背伸びをして読もうと思ったもののまったく歯がたたない。あるいはさっぱりその面白さがわからない。そういった本は、すでにしっかりとした評価のついているものが多いので、畜生!と悔しがって何度も挑戦するのだけれども、そのたびに最初の数頁で終わる。そういった悲哀に満ちた本が何冊か僕の部屋にはある。
無限の時間があるわけではないのだから、自分が心から素直にその素晴らしさや面白さを感じられる本だけを読めばいいような気がするのだけれども、そういった挫折した本たちに、上ることができなかった坂や峠のようになんとなくすっきりしない気持ちが残ってしまうのも事実だったりするのだ。そんなわけで、そういった本たちの今後はなかなか難しい。最初の数頁だけで一生終わるのか、それともいつの日か最後の頁までしっかり読まれることになるのか。
まぁ何はともあれ、とりあえず今は村上春樹訳の『グレート・ギャッツビー』である。今回こそは楽しく読めるといいのだが、とりあえず今はまだ最初の数頁・・・
『グレート・ギャッツビー』は野崎孝の訳のものを一度読んでいる。好きな作家である村上春樹にもっとも強い影響をあたえたこの小説の素晴らしさが残念なことに僕は今ひとつよくわからなくて、何度か挫折したあとでようやく無理矢理一度だけ読了したのだ。そんな『グレート・ギャッツビー』も村上春樹の手にかかればと思って読みはじめたわけだけれども・・・
やはりいまひとつよくわからない。
最初の数頁は何度か挫折しただけあって、わからないなりにかなり記憶に残っているのだけれども、含蓄がありすぎるのか、時代背景が違うからなのか、それとも人の心の機微に僕が鈍感だからなのか、きっとすごく意味のある文章なんだろうなぁとは思うのだけれども、村上春樹訳でもいまひとつ僕には理解できないのが結構悔しかった。とは言え、このいまひとつ理解できない最初の文章が、すべてを読み終えたあとに、空気が澄んだときの遠くの景色のようにくっきりと浮かびあがってくるということも考えられるので、今回は挫折せず最後まで読んでみようとは思っているのだけれども。
ところで、この『グレート・ギャッツビー』のように最初の数頁だけは、という本が僕には何冊かある。当然その多くが挫折した本である。志高く、少し背伸びをして読もうと思ったもののまったく歯がたたない。あるいはさっぱりその面白さがわからない。そういった本は、すでにしっかりとした評価のついているものが多いので、畜生!と悔しがって何度も挑戦するのだけれども、そのたびに最初の数頁で終わる。そういった悲哀に満ちた本が何冊か僕の部屋にはある。
無限の時間があるわけではないのだから、自分が心から素直にその素晴らしさや面白さを感じられる本だけを読めばいいような気がするのだけれども、そういった挫折した本たちに、上ることができなかった坂や峠のようになんとなくすっきりしない気持ちが残ってしまうのも事実だったりするのだ。そんなわけで、そういった本たちの今後はなかなか難しい。最初の数頁だけで一生終わるのか、それともいつの日か最後の頁までしっかり読まれることになるのか。
まぁ何はともあれ、とりあえず今は村上春樹訳の『グレート・ギャッツビー』である。今回こそは楽しく読めるといいのだが、とりあえず今はまだ最初の数頁・・・
yuzitoさんには迷惑かもしれませんが(笑)
村上さんの本は好きでよく読んでいるので、昔この本を読んでみようとしたのですが、やっぱり読めなくて。
村上さんの訳なら読めるかと、ぼくも図書館に予約中(待ち60人くらい)なんですが、そうですか、やっぱり読み進まないことも予想されますね。
合わないものは合わないんだからいいんだと思いつつ、それでもやっぱり評価の高い本を自分が挫折してしまうのがちょっと悔しいんですよね。好きな人が好きな物語とかね。
でも、ちょっと時期が変わったり、タイミングともいうものでしょうかね、昔読めなかったものが、突如として読めて、かつ面白いって思うこともありますよね。
本との出逢いもまぁシチュエーションやタイミング、体調とかも関係しますしね。
でも、今回のエントリーを読んで、予約したけど、やっぱり読めないかもって、ちょっと思っちゃいました。どうなんだろう。
迷惑なんてとんでもありません。お仲間がいてとても嬉しいです。
村上春樹は好きでも『グレート・ギャッツビー』の良さはいまいち良くわからないといった人は少なくないようですね。たまたま今日呑んだ友人もまったく同じ感想を抱き、やはり最初の数頁で挫折したひとりでしたし、他にも何人か同じような人間が僕の周りにはいます。
ただやはり好きな作家である村上春樹にあれだけの影響をあたえた小説なのだから、できたらその良さを理解したいという気持ちはどうしてもあるんですよね。今回最後まで読んで、以前と違った感想を持てるといいのですが。こんさんのおっしゃるように時間がたって、昔理解できなかったものが理解できるようになるということも少なくないので。
ところで、そんなことを言っておきながら、ギャッツビー読むのもう少し先になってしまいそうです。図書館に予約を入れていて楽しみにしていた本が、間の悪いことに届いてしまったので。というわけで、その予約がたくさん入っていてなるべく早く返したほうが良い群ようこの『かもめ食堂』を先に読んでから、ギャッツビーにはあらためてとりかかることになりそうです。というわけで、今回もまた最初の数頁のみ・・・
さて、発作的に注文したのはTommasiniのSintesiだったのですが、メッキラグ付き鉄という華麗な加齢臭漂う親父テイストのフレームに引きずられ、合うパーツがなかなかありません。納品は少なくとも3,4ヶ月後ですが、カーボンって訳にも行かないし、となると数年前のカンパとかのデッドストックを今から探しておかなきゃ。あるいは、サンプレとかユーレーの世界?これは手に負えません。
それにもはや資金繰りが....。代理店はこのフレームを肴に酒が飲めると謳ってますが、当分フレームをオカズに飯を食う事にしても財布が苦しい。あー。yuzitoさんも気を付けて。注文1分、後始末1年。
本の墓場・・・。僕もかなりの冊数が埃をかぶって安眠しているかもしれない。でもって、なかには最初の数頁どころか1頁も読んでいないものもあったりして。なんでそんな本を買っちゃうんだろう?
発作的に発注してしまったフレームはTommasiniだったんですね。どんなフレームかわからなかったので検索して調べてみたのですが、これだと確かにカーボンは合わないかもしれませんね。でも、1年間こつこつパーツを集めていく楽しみができて良かったじゃないですか。美しい工作が施されたフレームを眺めながら、少しずつ集めたパーツを片手に酒を呑むなんて最高の贅沢ですよ。いいなぁ~(笑)
しかし注文1分、後始末1年には笑いました。僕の部屋には実は以前オークションで落札したクロモリフレームが放置されたままになっています。落札1分、放置そろそろ1年です。このフレーム、どうしよ~