今日の聖句は「マタイによる福音書」15章10節~20節 です。
15:10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11口に入るものは人を汚さず、
口から出て来るものが人を汚すのである。」 15:12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々が
お言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 15:13イエスはお答えになった。「わたしの天の父が
お植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 15:14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内を
する盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 15:15するとペトロが、「そのたとえを
説明してください」と言った。 15:16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 15:18しかし、口から出て来るものは、
心から出て来るので、これこそ人を汚す。 15:19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から
出て来るからである。 15:20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
大切にしているCDがあります。二十年以上昔、友人からプレゼントされたもので、
1984年にプリントされた「タブラ・ラサ・/アルヴォ・ペルトの世界」というCDです。
魂を鷲づかみにされるような音に、いつ聴いても何度聴いても言葉を失います。
音楽音痴の私でさえ知っているギドン・クレーメル(ヴァイオリン)キース・ジャレット(ピアノ)
アルフレート・シュニトケ等の演奏による名盤(・・・・だと思います。)
ウォルフガング・ザントナーという人によって書かれたこのCDの解説文
「アルヴォ・ペルトについて」はライナー・マリア・リルケの詩から始まっています。
**************************************************************
あなたはあの聖者たちのことを御存知でしょうか、主よ。
彼らは閉ざされた修道院のなかでさえ、世の笑い声や泣き声が聞こえすぎると感じ
地中深くもぐりこんでしまったのです。
そしてひとりひとりがわずかな光とわずかな空気を穴のなかで享けながら、
自分の年も、顔さえもわすれはて、窓のない家のように生きつづけ、
死んだも同然で、そのために死ぬ必要すらありませんでした・・・・・・
ある円形の部屋のなかで
銀のランプが香油で光を放っており、この部屋で金色の扉と金色の庭をまえにして、
仲間同士でときたま集い合うのでした。
そして不信をぬぐい切れず夢のなかをのぞきこみ、長いひげをかすかにふるわすのでした。
いまでは都会や田舎から巡礼にくる何千というお遍路さんに彼らを拝観させています。
300年もまえから彼らはここに横たわり、その肉体は腐乱さえしていません。
煤けた光のように、黒光り色を放って、ミイラがるいるいと横たわったおり、
そのミイラは布にまかれてそっと安置されています・・・・
そしてその手はかたく組み合わされ、胸の上でやまのように盛り上がっているのです。
(ライナー・マリア・リルケの詩集「時祷集」中「巡礼の書」抜粋)
リルケは、11世紀に造られたキエフの地下僧房と、そこで生活した僧たちに魅せられ、その「時祷集」で
これらの僧たちのために一つの詩碑を建立した。リルケをかくも魅了したのは、ロシア正教の精神だった。
東方教会のこの精神性は、ローマ教会よりもはるかに世俗にかかわること少なく、教理をこねるよりは神を称え、
説教するよりは光明で満たそうとする。そしてその核心は、他人を改宗させようとするよりは、まず自分自身の
心に目を向け、諦念を学ぼうと心がける。
アルヴォ・ペルトの作品は、これまで隠者の音楽、いわばヘシカスト*)の祈りのように、神秘的かつ単純、
啓示的かつ愛に満ちた響きを伝えている。
*)ヘシカスト:14世紀にギリシャのアトス山中に住んでいた修道士たちの広めた神秘主義の信奉者、
静寂主義者ともいう。
エストニア人アルヴォ・ペルトは1935年にパイデに生まれタリンで育った。1976年にピアノのための小品
<アリーナのために>を出版してようやく、彼自身がいうところの”Tintinnabuli Style” を完成させた。
"Tintinnaabulum” とは鐘を意味する中世の言葉である。
ペルトは「この様式ではわたしは沈黙とひとつとになっていられる。わたしが見いだしたのはたったひとつの
響きが美しく奏でられるだけで十分だということである。静けさとも沈黙ともいえる、たったひとつのこの
ひびきは私の心を落ち着かせる。わたしはわずかな音素材、ひとつの声部、またはふたつの声部で作曲する。
わたしはもっとも単純な手段で、3和音で、ある特定の調で曲を構成する。3和音の3つのおとのひびきは、
鈴の音に近い。だからわたしはそれをティンティナブリと名付けたのだ。」と言っている。
************************************ 以上、ウォルフガング・ザントナー氏の解説より
口から出るものは、心から出てくるものでこれこそ人を汚す。
世俗の喧噪、笑い声や泣き声に耐え切れず地中に潜り込んだ僧たち・・・・・・こういう信仰もあるのですね~
それにしても、ナザレのイエスという青年、神の御子イエス・キリストはなんと素晴らしいお方なのでしょう!
私は私なりの信仰しか持ちえませんが、主を信じる信仰を与えられたこと、神、常に我と共に在り、と
信じて賜る平安、感謝です。
人は神なき世、主無き世を生きて行かれるのでしょうか?
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
FacebookやTwitterもご覧ください。

雑草生い茂る静かな静かな公園の午後です。
15:10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11口に入るものは人を汚さず、
口から出て来るものが人を汚すのである。」 15:12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々が
お言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。 15:13イエスはお答えになった。「わたしの天の父が
お植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 15:14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内を
する盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 15:15するとペトロが、「そのたとえを
説明してください」と言った。 15:16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 15:18しかし、口から出て来るものは、
心から出て来るので、これこそ人を汚す。 15:19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から
出て来るからである。 15:20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
大切にしているCDがあります。二十年以上昔、友人からプレゼントされたもので、
1984年にプリントされた「タブラ・ラサ・/アルヴォ・ペルトの世界」というCDです。
魂を鷲づかみにされるような音に、いつ聴いても何度聴いても言葉を失います。
音楽音痴の私でさえ知っているギドン・クレーメル(ヴァイオリン)キース・ジャレット(ピアノ)
アルフレート・シュニトケ等の演奏による名盤(・・・・だと思います。)
ウォルフガング・ザントナーという人によって書かれたこのCDの解説文
「アルヴォ・ペルトについて」はライナー・マリア・リルケの詩から始まっています。
**************************************************************
あなたはあの聖者たちのことを御存知でしょうか、主よ。
彼らは閉ざされた修道院のなかでさえ、世の笑い声や泣き声が聞こえすぎると感じ
地中深くもぐりこんでしまったのです。
そしてひとりひとりがわずかな光とわずかな空気を穴のなかで享けながら、
自分の年も、顔さえもわすれはて、窓のない家のように生きつづけ、
死んだも同然で、そのために死ぬ必要すらありませんでした・・・・・・
ある円形の部屋のなかで
銀のランプが香油で光を放っており、この部屋で金色の扉と金色の庭をまえにして、
仲間同士でときたま集い合うのでした。
そして不信をぬぐい切れず夢のなかをのぞきこみ、長いひげをかすかにふるわすのでした。
いまでは都会や田舎から巡礼にくる何千というお遍路さんに彼らを拝観させています。
300年もまえから彼らはここに横たわり、その肉体は腐乱さえしていません。
煤けた光のように、黒光り色を放って、ミイラがるいるいと横たわったおり、
そのミイラは布にまかれてそっと安置されています・・・・
そしてその手はかたく組み合わされ、胸の上でやまのように盛り上がっているのです。
(ライナー・マリア・リルケの詩集「時祷集」中「巡礼の書」抜粋)
リルケは、11世紀に造られたキエフの地下僧房と、そこで生活した僧たちに魅せられ、その「時祷集」で
これらの僧たちのために一つの詩碑を建立した。リルケをかくも魅了したのは、ロシア正教の精神だった。
東方教会のこの精神性は、ローマ教会よりもはるかに世俗にかかわること少なく、教理をこねるよりは神を称え、
説教するよりは光明で満たそうとする。そしてその核心は、他人を改宗させようとするよりは、まず自分自身の
心に目を向け、諦念を学ぼうと心がける。
アルヴォ・ペルトの作品は、これまで隠者の音楽、いわばヘシカスト*)の祈りのように、神秘的かつ単純、
啓示的かつ愛に満ちた響きを伝えている。
*)ヘシカスト:14世紀にギリシャのアトス山中に住んでいた修道士たちの広めた神秘主義の信奉者、
静寂主義者ともいう。
エストニア人アルヴォ・ペルトは1935年にパイデに生まれタリンで育った。1976年にピアノのための小品
<アリーナのために>を出版してようやく、彼自身がいうところの”Tintinnabuli Style” を完成させた。
"Tintinnaabulum” とは鐘を意味する中世の言葉である。
ペルトは「この様式ではわたしは沈黙とひとつとになっていられる。わたしが見いだしたのはたったひとつの
響きが美しく奏でられるだけで十分だということである。静けさとも沈黙ともいえる、たったひとつのこの
ひびきは私の心を落ち着かせる。わたしはわずかな音素材、ひとつの声部、またはふたつの声部で作曲する。
わたしはもっとも単純な手段で、3和音で、ある特定の調で曲を構成する。3和音の3つのおとのひびきは、
鈴の音に近い。だからわたしはそれをティンティナブリと名付けたのだ。」と言っている。
************************************ 以上、ウォルフガング・ザントナー氏の解説より
口から出るものは、心から出てくるものでこれこそ人を汚す。
世俗の喧噪、笑い声や泣き声に耐え切れず地中に潜り込んだ僧たち・・・・・・こういう信仰もあるのですね~
それにしても、ナザレのイエスという青年、神の御子イエス・キリストはなんと素晴らしいお方なのでしょう!
私は私なりの信仰しか持ちえませんが、主を信じる信仰を与えられたこと、神、常に我と共に在り、と
信じて賜る平安、感謝です。
人は神なき世、主無き世を生きて行かれるのでしょうか?
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雑草生い茂る静かな静かな公園の午後です。
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