新約聖書は「ルカによる福音書」を読み始めました。
今日の聖句はルカ伝の3章1節から3節です。
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、
その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でサガリアの子ヨハネに降った。
そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
上の地図は「聖書 新共同訳」の後ろに載っているものです。
ガリラヤ、イトラヤ、トラコン、アビレネはパレスチナ地方のどこだったのかが知りたくて眺めてみました。
ネットで “イエスの時代のパレスチナ” と検索したら、分かりやすい解説が出ていて、当時のガリラヤや
ナザレの様子が少しイメージできました。
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イエスの生きた当時、パレスチナはローマの統治下にありました。 イドマヤ出身のヘロデ王(在位紀元前37年 - 紀元前4年) は、
ローマから王の称号と大幅な自治権を得て、長い間この地域一帯を治めていました。
ヘロデが死んでから、三人の息子が領主 として後を継ぎます。
ユダヤと呼ばれていた地方は、南からイドマヤ、エルサレムのあるユダヤ、その北のサマリアからなっており、 ヘロデの息子の
アルケラオスが統治しますが、治世に失敗し、ユダヤの住民がローマに直訴した結果、 それが受けいれられてアルケラオスは追放されます。
同時にユダヤ地方は紀元6年ローマの属州となり、直接統治のためローマから 総督が派遣されていました。
一番北のガリラヤ地方は、 ヨルダン川東部のペレアとともにヘロデ王の息子のヘロデ・アンティパス(在位、紀元前4年-紀元39年)が
領主として治めていました。 ヘロデ・アンティパスの長い治世は、小さな騒乱はありましたが、比較的平穏な時代でした。
また彼の治世はイエスの生涯と時代も地域もほぼ重なります。
イエスの育ったガリラヤ地方はユダヤ地方のユダヤ人の中では、長い歴史の中から培われて自分たちが正統的なユダヤ人だという
意識が強かったせいで、 それぞれの地域を蔑視して次のように見ていたようです。
イドマヤは異邦人の住む土地と思われていたし、サマリアは異民族と 多く交じり合ったことから、サマリアの地には足を踏み入れない、
またサマリア人とは付き合わないという不文律があったようです。
ガリラヤ人は、気性は純朴であったが激しやすい気質をもっていたので、常に騒動を起こす奴らとも見られていたようです。
またユダヤ教の生活規範の面では細かい決まりを守ることに頓着しなかったので、粗野で教養がないとされていたし、 言葉に独特の訛りがあり、
ガリラヤ方言のアラム語を喋っていたことも蔑視の的になっていたようです。
すべてにおいてガリラヤ地方とガリラヤ人は、田舎あるいは田舎者と見られていました。
イエスもガリラヤ訛りで喋っていたのでしょう。
ガリラヤ地方を地図で見ると、およそ四十キロメートル四方の枠内に納まってしまいます。
健脚の人なら平地では一日で通り 過ぎることのできる、相当に狭い地域です。
イエスの育ったナザレも、歩けば家々が見え、往来には時に行き交う人もあり、人々が働いたり生活している姿が見えたことでしょう。
もう少し歩けば、丘陵地のなかに次の村が見えて来ることでしょう。
このガリラヤの南部にあるナザレという村がイエスの故郷です。
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美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
明日は10月の第一主日で聖餐式があります。
主イエスの体を表すパンと血潮を表す葡萄酒を味わって、救いの御業に感謝します。
礼拝は午前10時半から始まります。
台風の影響が心配ですが、教会の兄弟姉妹が無事に礼拝に出席できますように!
今日の聖句はルカ伝の3章1節から3節です。
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、
その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でサガリアの子ヨハネに降った。
そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
上の地図は「聖書 新共同訳」の後ろに載っているものです。
ガリラヤ、イトラヤ、トラコン、アビレネはパレスチナ地方のどこだったのかが知りたくて眺めてみました。
ネットで “イエスの時代のパレスチナ” と検索したら、分かりやすい解説が出ていて、当時のガリラヤや
ナザレの様子が少しイメージできました。
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イエスの生きた当時、パレスチナはローマの統治下にありました。 イドマヤ出身のヘロデ王(在位紀元前37年 - 紀元前4年) は、
ローマから王の称号と大幅な自治権を得て、長い間この地域一帯を治めていました。
ヘロデが死んでから、三人の息子が領主 として後を継ぎます。
ユダヤと呼ばれていた地方は、南からイドマヤ、エルサレムのあるユダヤ、その北のサマリアからなっており、 ヘロデの息子の
アルケラオスが統治しますが、治世に失敗し、ユダヤの住民がローマに直訴した結果、 それが受けいれられてアルケラオスは追放されます。
同時にユダヤ地方は紀元6年ローマの属州となり、直接統治のためローマから 総督が派遣されていました。
一番北のガリラヤ地方は、 ヨルダン川東部のペレアとともにヘロデ王の息子のヘロデ・アンティパス(在位、紀元前4年-紀元39年)が
領主として治めていました。 ヘロデ・アンティパスの長い治世は、小さな騒乱はありましたが、比較的平穏な時代でした。
また彼の治世はイエスの生涯と時代も地域もほぼ重なります。
イエスの育ったガリラヤ地方はユダヤ地方のユダヤ人の中では、長い歴史の中から培われて自分たちが正統的なユダヤ人だという
意識が強かったせいで、 それぞれの地域を蔑視して次のように見ていたようです。
イドマヤは異邦人の住む土地と思われていたし、サマリアは異民族と 多く交じり合ったことから、サマリアの地には足を踏み入れない、
またサマリア人とは付き合わないという不文律があったようです。
ガリラヤ人は、気性は純朴であったが激しやすい気質をもっていたので、常に騒動を起こす奴らとも見られていたようです。
またユダヤ教の生活規範の面では細かい決まりを守ることに頓着しなかったので、粗野で教養がないとされていたし、 言葉に独特の訛りがあり、
ガリラヤ方言のアラム語を喋っていたことも蔑視の的になっていたようです。
すべてにおいてガリラヤ地方とガリラヤ人は、田舎あるいは田舎者と見られていました。
イエスもガリラヤ訛りで喋っていたのでしょう。
ガリラヤ地方を地図で見ると、およそ四十キロメートル四方の枠内に納まってしまいます。
健脚の人なら平地では一日で通り 過ぎることのできる、相当に狭い地域です。
イエスの育ったナザレも、歩けば家々が見え、往来には時に行き交う人もあり、人々が働いたり生活している姿が見えたことでしょう。
もう少し歩けば、丘陵地のなかに次の村が見えて来ることでしょう。
このガリラヤの南部にあるナザレという村がイエスの故郷です。
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明日は10月の第一主日で聖餐式があります。
主イエスの体を表すパンと血潮を表す葡萄酒を味わって、救いの御業に感謝します。
礼拝は午前10時半から始まります。
台風の影響が心配ですが、教会の兄弟姉妹が無事に礼拝に出席できますように!
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