ゆうゆうの教会便り

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「確かな目標をめざして」

2013-10-20 22:27:24 | 説教
今日は「神学校日礼拝」ということで、東京神学大学大学院2年生の山田詩郎神学生が礼拝説教をしてくださいました。
テキストは サムエル記上17:41~50 フィリピの信徒への手紙3:12~216 
タイトルは「確かな目標をめざして」でした。


私たちは自分の最期の時、後に残る人に何を伝えたいでしょうか?

「フィリピの信徒への手紙」は自らの死を意識したパウロがフィリピの信徒宛てに「最後にどうしても伝えたいこと」を書き送った手紙です。
どうしても伝えたいこと、パウロはそれを「為すべきことはただ一つ、目標を定めて走れ」だ、といっています。

私たちは忙しい毎日でなすべきことがたくさんあったり、目標が分からなかったり、その目標が正しいものかが分からなかったりすることが
ありますが、パウロは個々の目標を超えたただ一つの究極の目標を教えています。
為すべき目標が一つであれば、私たちの暮らしはシンプルで生きやすくなります。

このころ、フィリピ教会の中には、ただキリストを信じるだけでは駄目だと、律法に忠実にたくさんの目標を掲げる人や、
信者を完全な者と不完全な者に分ける人がいました。
自分の行いや自分の完成に目標があるのはおかしいことですが、現在の私たちも同じ過ちを犯しがちです。
ともすれば他者と自分を比べたり、良い行いに頼ろうとして、目に見えるものに目標を置いてしまい勝ちです。
そうであっては、自分の行いで神に認められるという思いや、完全な者にならねばという目標(縛り)から解き放されるための
イエスの十字架の救いの意味はなくなります。

パウロは立派な使徒であるのに、自分はそれをまだ得ていないと繰り返し言っています。
しかしここで、パウロのような人がしかも最期の時が近づいてもなお完全でないということに絶望することはありません。
何故なら、私たちはイエス・キリストに捉えられているという恵みに与っているからです。
私たちは自分がキリストを知り、捕らえていると思い勝ちですが、受洗の際の自らの決断にしても主の選びの内にあるものです。

そして、キリストが私たちを捉えていると言う場合、それは手のひらと手のひらを合わせた状態ではなく私たちの手首を
主がしっかり握った状態なのです。 たとえ私たちが手を放しても主は捕まえていて下さいます。

行いによって自分を大きく見せようとしたり、または自分を過小評価して謙虚にふるまうことは、どちらも行いにこだわっていることであり、
そのどちらも不安定なことですが、主イエスが私たちを捉えていて下さる、この確かさはイエスの側にあります。

過去の罪や栄光に囚われて主に従わないとしたらそれは本末転倒ですし、
また、今何を自分が持っているかということや自分の行いのスピードを問うことも間違っています。

私たちは、何を目標としているか、何を第一としているかが問われているのです。
「神の御国」こそが私たちの目標です。
私たちが方向を見失っても、暗闇の中の光のようにイエスは捕らえていてくださるので、私たちは目標に向かうことができます。
神の御国ではすべての人に賞が与えられます。 それは悩み、憂いの無い御国に迎えられるという賞です。

忙しい毎日でも究極の目標がわかっていれば平安が与えられます。
「フィリピの信徒への手紙」は「喜びの手紙」と言われますが、主に捉えられている喜びに満ちた手紙ということです。

それでは、私たちは毎日をどのように過ごしたらよいのでしょう。
主イエスに従い、神から与えられている召しに答えるという生き方をすることです。
神を愛し隣人を愛すること、神の祝福を周囲に伝える生き方をすることです。
死を前にして(その死はいつ私たちに訪れるか分からないものです)後に残る人々に伝えることはただ一つ
「確かな目標を目指して走りなさい」ということなのです。

                              (以上、文責はゆうゆうにあります。)




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